表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/45

第9話 ペアカップの片割れ

 喫茶「ペアカップ」の扉を開けると、雨の匂いより先に、焼き菓子の匂いが顔へ来た。


 午後の現町は、ガニーロの膝が言った通りに細い雨を落としていた。役所で古い図面を探す前に、濡れた資料を乾かす。オリーンがそう言い張ったため、水路調査の一行は商店街の角にある喫茶店へ吸い込まれた。


 店の窓には、雨粒が小さな筋を作っている。外の通りを行く人の傘は、青、灰色、透明、くたびれた黒。店内では、壁一面の棚に並んだ二つ一組のカップが、薄い照明を受けて静かに光っていた。背の高い棚も、窓辺の小棚も、柱に打ちつけられた古い板も、どこかに必ず二つのカップを載せている。


 片方だけのカップはない。


 そう思った瞬間、レトリスは自分の蒼い鞄へ手を置いた。


 鞄の奥で、包み布がかすかに動く。欠けた小さなカップの縁が、布越しに指へ当たった。


 「はい、サブマリン一号生還の焼き菓子です」


 オリーンが銀の盆を胸の高さに掲げ、晴れやかな声を出した。


 「生還っていうか、水路から引きずり出しただけだ」


 オバインが工具箱を足元に置きながら言う。


 「箱の中でまだ鳴いていますよ。ほら、ちりちりって」


 「水が残ってるんだよ。鳴き声じゃない」


 「機械にも帰宅後の一言くらいあります」


 「ない」


 オバインが言い切った途端、工具箱の中から、ちり、と小さな音がした。


 サポナーラが目を見開く。


 「聞きましたか。『次は防水を頼む』と言っています」


 「お前が顔面で水を受けたせいで、内部に余計な泥が入った可能性はある」


 「私の顔面が水路の一部として計算されている」


 「黙ってタオル使いな」


 カウンターの奥から、ヒルドバーグが白いタオルを投げた。タオルは空中で一度ふくらみ、サポナーラの胸にぴたりと落ちる。


 彼は両手で受け止め、なぜか深く頭を下げた。


 「命の布、ありがとうございます」


 「顔を拭く布だよ。大げさに名づけるんじゃない」


 ヒルドバーグはそう言いながら、湯気の立つポットをテーブルへ運ぶ。自分の分の湯飲みに先に茶を注ぎ、ひと口飲んでから、皆のカップへ順に注いでいった。


 その動作を見ると、店の空気が少し落ち着く。


 レトリスは窓際の席に座り、クリップボードを横へ置いた。書類は濡れていない。けれど、湿った風を吸って紙の端がわずかに反っている。彼女は赤ペンを外し、地図の隅へ、さきほど見つかった西入口の印を小さく入れた。


 「その赤い丸、今日見つけた場所ですか」


 エメットが向かいの席から身を乗り出す。


 「まだ入口と決まったわけではありません。古い標識が見つかっただけです。現地確認、図面確認、管理記録の照合が必要です」


 「三つも」


 「三つで済めば早い方です」


 エメットは少しだけ肩をすくめたが、すぐにレトリスの赤ペンの先を見る。彼の視線は、叱られる前の子どものものではなく、何をどう確かめればよいのかを探すものになっていた。


 ガニーロは壁際の棚の前で足を止めていた。


 濡れた傘を入口の傘立てに入れ、工具袋を肩から下ろしたまま、棚の上段を見ている。そこには、青い線と白い線が交互に入った古いカップが二つ並んでいた。どちらも大人の手には少し小さい。子どもの頃、両手で包むための大きさに見えた。


 そのうち片方は、金色の細い線で継がれている。


 雨の音が、窓の外で少し強くなった。


 「ガニーロさん?」


 オリーンが盆を持ったまま呼ぶ。


 ガニーロは返事をしなかった。


 レトリスは赤ペンを止めた。


 彼の顔から、いつもの穏やかな色が抜けている。強く驚いたわけではない。声を上げるわけでもない。ただ、棚の前で呼吸を浅くし、古いカップの縁を見つめていた。


 レトリスの指が、蒼い鞄の留め具へ伸びた。


 留め具は、ガニーロが直したばかりだ。以前より静かに開く。かちり、と小さく鳴った音に、テーブルの全員が振り向いた。


 「どうしました」


 アリシャーが低い声で尋ねる。


 「確認します」


 レトリスは短く答え、鞄の内側から紺色の包み布を取り出した。


 その布は、古いハンカチだった。角に、幼い字で小さく名前が縫い取られている。何度も洗われ、雨を吸い、乾き、また畳まれてきた布だ。彼女はテーブルの上を片づけ、そこへ包みを置いた。


 誰も焼き菓子に手を伸ばさない。


 オリーンだけが、盆を置く場所を探して、そっと隣の椅子へ移した。


 レトリスは包みを開いた。


 青と白の線が入った、小さなカップが現れる。取っ手の下に、浅い欠けがある。底には、水染みのような薄い跡が残っていた。棚の上のカップと向かい合わせに置けば、同じ日の光で焼かれたものだと分かる。


 店内の音が、一段遠くなった。


 サポナーラが息を吸う。


 「ペアですか」


 その声は、いつもの売り文句のようには跳ねなかった。


 レトリスは棚のカップを見た。


 「ヒルドバーグさん」


 「何だい」


 「あの棚の奥のカップを、見せてもらえますか」


 ヒルドバーグはすぐには動かなかった。湯飲みを両手で包み、茶の表面を見る。湯気が彼女の顔の前をゆっくり上がった。


 それから、彼女は湯飲みを置いた。


 「上の段は高いよ。オリーン、脚立」


 「はい」


 オリーンが奥から木の脚立を持ってくる。ヒルドバーグは自分で上がろうとしたが、ガニーロが一歩動いた。


 「俺が」


 「手が震えている男に、棚の上のカップは任せないよ」


 ヒルドバーグは彼を横目で見ただけで、脚立の一段目に足を置いた。


 ガニーロは言い返さなかった。指先を握り込んで、壁際へ下がる。


 レトリスは、その指先を見ていた。


 何かを落としそうな手ではない。何かを落としてしまった日の手を思い出しているような手だった。


 ヒルドバーグは棚の上から、金継ぎされたカップを取り出した。埃はかぶっていない。よく磨かれている。日常で使われていないだけで、忘れられていたわけではなかった。


 彼女はそれを、レトリスのカップの向かいへ置く。


 二つのカップは、十年分の距離を挟んで向かい合った。


 片方は欠けたまま。


 片方は割れた跡を金色の線で抱えている。


 模様は、つながった。


 青い線が、片方の縁からもう片方の縁へ流れ込む。白い線はその下を追い、まるで雨上がりの細い道のように、途切れた場所でまた始まっていた。


 「……同じものです」


 レトリスは、赤ペンで印をつける時のように、はっきりと言った。


 ガニーロは息を吐いた。


 それは安堵の息ではなかった。


 胸の奥に沈めていたものが、いきなり水面へ浮いた時のような、細く苦しい息だった。


 「ガニーロ」


 レトリスは彼の名を呼んだ。


 十年前の呼び方ではない。会議で名前を確認する時の声でもない。責める前に、相手をこちらへ向かせる声だった。


 ガニーロは棚から視線を外し、レトリスを見た。


 「このカップを、あなたは知っていますね」


 「……知ってる」


 「私が持っている片方も」


 「知ってる」


 「十年前、喫茶ペアカップで交換するはずだった」


 オリーンが小さく息を止めた。エメットが膝の上で両手を握る。アリシャーは何も言わず、テーブルの端に置かれた地図を少しだけ引いた。カップが誰かの肘に当たらないようにするためだった。


 サポナーラは口を開きかけ、ヒルドバーグに見られて閉じた。


 雨の音だけが続く。


 レトリスは、ガニーロから目をそらさなかった。


 「私は待っていました。母に連れられて避難するまで、ずっと。あなたは来なかった」


 ガニーロの喉が動く。


 「ごめん」


 その一言は、あまりにも短かった。


 レトリスの眉がかすかに寄る。


 「理由を聞いています」


 「ごめん」


 「謝罪の言葉は聞きました。理由を聞いています」


 ガニーロは両手を下ろしたまま、動かなかった。


 レトリスの声が少しだけ低くなる。


 「あなたは、昔からそうです。困っている人にはすぐ手を伸ばす。店の配線は危ないのに、他人のラジオは閉店後まで直す。雨が降る前から傘を二本持つ。けれど、自分が何をしたのか、なぜ黙っていたのかは言わない」


 「……ごめん」


 「三回目です」


 サポナーラが思わず指を三本立てた。オリーンがその手を下げさせる。


 レトリスの鞄が、テーブルの横で小さく鳴った。


 ち、ちり。


 全員の視線が、蒼い鞄へ集まる。


 「今はやめて」


 レトリスが低く言った。


 鞄は聞かなかった。


 留め具の奥、未完成の基板が、小さな紙を押し出し始める。紙はゆっくり吐き出され、テーブルの脚に触れて止まった。オリーンが拾おうとして、レトリスに睨まれ、両手を上げる。


 「読みません。読みませんが、床に落ちています」


 レトリスは自分で紙を拾った。


 紙には、薄い印字でこう出ていた。


 『割れたカップは、先に泣いた方が負けではない』


 サポナーラが鼻をすすった。


 「深い」


 「深くありません」


 レトリスは即答した。


 次の行が、少し遅れて印字される。


 『嫌いな人を待つ時間は、砂糖なしの紅茶より苦い』


 「それは、わりと分かります」


 オリーンが小声で言う。


 「分からなくていいです」


 レトリスは紙を折りたたもうとした。けれど、最後の行が見えてしまう。


 『でも、割れた跡を金でつないだ人は、捨てなかった』


 そこで、基板は沈黙した。


 レトリスは紙を握ったまま、ヒルドバーグを見た。


 「このカップを、いつから持っていたんですか」


 ヒルドバーグは湯飲みを持ち上げた。茶を飲むふりをして、一拍置く。


 「水害のあとだよ」


 「誰が持ってきたんですか」


 ガニーロの肩が、かすかに動いた。


 ヒルドバーグはその動きを見た。見たうえで、レトリスの正面に立つ。


 「雨の日に、ここへ来た子がいた」


 「誰ですか」


 「靴の中まで泥だらけで、片手に割れたカップを握っていた。手のひらを切っていてね。私はまず手を洗わせた」


 「名前を聞いています」


 「名前より、先に消毒だよ」


 レトリスの目が細くなる。


 ヒルドバーグは湯飲みを置いた。


 「いま言えるのは、そこまでだね」


 「どうしてですか」


 「私の口から渡す話じゃない」


 その言葉は、店の中に重く落ちた。


 ガニーロは何も言わない。


 レトリスは、握った紙をゆっくり開いた。『捨てなかった』という文字の上に、親指の跡がついている。


 「また、言えないんですね」


 ガニーロはまばたきをした。


 「レトリス」


 「呼ばないでください。いま呼ばれると、昔の私が返事をしそうで困ります」


 その一言で、ガニーロの顔がさらに青くなった。


 オリーンが焼き菓子の盆を持ち上げかけ、置く。場を明るくしようとして、今は皿の音さえ大きすぎると気づいたらしい。


 エメットはテーブルの下で、靴のつま先をそろえた。彼は何も知らない。知らないのに、ガニーロの横顔を何度も見る。その視線は、修理を教えてくれる人が壊れた時、どこを支えればいいのか分からない子どものものだった。


 アリシャーが静かに口を開く。


 「古い図面は、役所の地下書庫にあるはずです。午後の確認を遅らせるなら、私が先に行きます」


 レトリスは彼を見た。


 仕事の話へ戻るための橋を、彼は差し出していた。逃げ道ではない。踏めば、今ここで感情を破裂させずに済む足場だった。


 「予定通り行います」


 レトリスは答えた。


 声は乱れていない。


 ただ、指先はまだ紙を握っていた。


 「このカップは」


 ヒルドバーグが、金継ぎされた方をそっと両手で包んだ。


 「ここに置いておくよ。片方も、無理に持っていく必要はない」


 「私のです」


 「知ってる」


 「十年間、持っていました」


 「知ってるよ」


 「それでも、ここに置けと?」


 ヒルドバーグは首を横に振った。


 「置けとは言っていない。置いてもいい、と言っている」


 レトリスはカップを見る。


 欠けたままの片方。継がれた片方。


 十年前、二つは同じ棚ではなく、同じテーブルに置かれるはずだった。交換するために。約束を形にするために。子どもだった自分は、その約束を信じて、蒼い鞄へ片方を入れた。


 そして、雨が来た。


 母の手に引かれて、足首まで水につかりながら坂を上がった。濡れた靴下の冷たさ。背中で揺れる鞄。何度も振り返った商店街の角。見えなかった青い傘。


 レトリスは目を伏せた。


 思い出は、いつも水音から始まる。


 けれど今日は、カップの縁がテーブルに触れる音も混ざった。


 「置いていきません」


 彼女は自分のカップを包み布へ戻した。


 ヒルドバーグは何も言わなかった。


 ガニーロは一歩だけ前へ出た。


 「割れた方は」


 「あなたのものですか」


 レトリスが鋭く返す。


 ガニーロは言葉を止めた。


 「答えられないなら、触らないでください」


 彼の手が、途中で止まる。


 オリーンが目を伏せた。サポナーラはタオルで顔を拭いているふりをして、目元まで覆っている。オバインは工具箱を膝で押さえ、箱の中のサブマリンがまた鳴らないようにじっとしていた。


 ヒルドバーグだけが、カップを棚へ戻さなかった。


 金継ぎの片方を、テーブルの中央に置いたままにする。誰の手も届く場所で、誰もすぐには触れない場所だった。


 「焼き菓子、冷めるよ」


 しばらくして、ヒルドバーグが言った。


 その声で、止まっていた空気が少し動く。


 オリーンが急いで皿を配る。


 「ええと、こちらがくるみ、こちらが杏、こちらが……」


 「顔面放水記念の味ですか」


 サポナーラが無理に明るく言う。


 「それは塩味です」


 「涙と水路の味」


 「食欲が消えます」


 レトリスは短く言った。


 サポナーラはすぐ口を閉じ、くるみの焼き菓子を両手で受け取った。


 少しだけ、誰かが息を吐いた。


 レトリスは焼き菓子には手をつけず、鞄の留め具を閉めた。かちり、と音がする。今度は基板が鳴らない。


 ガニーロは向かい側の椅子へ座った。距離は近い。けれど、十年ぶんの言葉が二人の間に置かれている。その真ん中に、金継ぎのカップがある。


 「午後の図面確認」


 レトリスが言った。


 「西入口の古い名称が分かれば、ハザードマップの空白を一つ埋められます。アリシャーさんは地下書庫。オバインさんはサブマリンの録画データを保存。エメットさんは青鞄電子堂で手を洗ってから、今日の配線図を写してください。サポナーラさんは濡れた靴下を替えること」


 「私の足まで管理されている」


 「水路の泥を店内へ持ち込まないためです」


 「はい」


 サポナーラは素直に返事をした。


 レトリスは最後に、ガニーロを見た。


 「ガニーロさん」


 「はい」


 「あなたは」


 言いかけて、彼女は一度だけ息を整えた。


 「そのカップを見て、思い出したことがあるなら、忘れないでください。いま言わないなら、せめて忘れないでください」


 ガニーロは、テーブルの上のカップへ視線を落とす。


 金色の線が、窓の雨を受けて細く光っていた。


 「忘れたことはない」


 彼は小さく答えた。


 レトリスの口元が動く。


 笑ったのではない。怒ったのでもない。何かを言おうとして、言葉を選び、選んだ言葉がどれも尖りすぎていて、結局飲み込んだような動きだった。


 「そうですか」


 彼女はそれだけ言って、クリップボードを手に取った。


 店を出る時、雨は弱くなっていた。


 入口の傘立てには、ガニーロの青い傘が二本並んでいる。一本はよく使われ、骨の端が少し曲がっている。もう一本は、持ち手のところに古い傷があった。


 レトリスは自分の傘を開く。


 ガニーロは二本のうち、傷のある方を取ろうとして、やめた。曲がった方を手にする。


 その小さな迷いを、レトリスは見てしまった。


 見ないふりはできなかった。


 けれど、聞かなかった。


 喫茶「ペアカップ」の窓の向こうで、ヒルドバーグが金継ぎのカップを棚へ戻している。戻す前に、彼女はカウンターの引き出しを少しだけ開けた。中には、古い紙片が見えた。水染みのついた札。端に、子どもの字ではない筆跡で、日付らしきものが書かれている。


 ヒルドバーグはその札を指で押さえ、引き出しを閉めた。


 レトリスには読めなかった。


 ただ、読めなかったことだけが、胸に残った。


 雨上がりの商店街は、石畳の隙間に水をためている。歩くたび、小さく光が揺れた。


 西入口。


 割れたカップ。


 言えない理由。


 現町の地図には、まだ空白がある。


 人の胸の中にも、同じように、赤ペンで囲めない空白がある。


 レトリスは蒼い鞄を抱え直し、役所へ向かって歩き出した。


 鞄の奥で、欠けたカップは鳴らない。


 けれど、鳴らないものほど、重い。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ