第8話 オバインの水に浮く失敗作
旧市場裏の水路は、商店街の表通りから見ると、ただの細い隙間にしか見えなかった。
魚屋の横を抜け、古道具屋の裏手へ回り、干された雨合羽の下をくぐる。そこからさらに、錆びた自転車が二台立てかけられた通路を抜けた先に、腰ほどの高さの金網がある。金網の向こう側で、水は暗い石壁に挟まれ、ゆっくりと町の低い方へ流れていた。
昼前だというのに、そこだけ夕方のように薄暗い。古い建物の庇が重なり、空は細い帯になっている。雨は降っていないのに、石畳には湿り気が残っていた。水路の底からは、泥と鉄の混ざった匂いが上がってくる。
レトリスは赤ペンを耳に挟み、クリップボードを胸の前で構えた。
「旧市場裏水路、午前十一時十二分。天気は曇り。水位は平常時より、少し高め。足元は滑りやすい。柵の根元に錆びあり。子どもが覗き込むには危険」
言いながら、彼女は金網の支柱を指で押した。支柱は、きし、と鈍い音を立てた。
「交換対象ですね」
アリシャーが無言でしゃがみ、支柱の根元に巻き尺を当てた。彼は測った数値を小さな手帳に書き、次に石畳の傾きを確認する。派手な言葉は一つもない。だが、彼の手元で増えていく数字は、誰かの足首を守るための小さな杭のようだった。
その横で、オバインは町工場のロゴが入った銀色の箱を、大事そうに抱えていた。
箱には、黒い油性ペンで大きく書かれている。
水路探索用小型艇サブマリン一号。
その下に、別の筆跡で追記があった。
※人は乗れません。
さらにその下に、もっと太い字で書かれている。
※サポナーラも乗れません。
サポナーラは箱を見下ろし、胸を押さえた。
「私の可能性が、箱の段階で否定されています」
「可能性ではなく、重量の話だ」
「詩的な理由にしてください。『あなたは陸に咲く花だから』とか」
「あなたは水路に沈むと救助が面倒だから」
「アリシャーさんまで現実で殴ってきた」
オリーンは喫茶ペアカップの前掛けをしたまま、焼き菓子の入った紙袋を抱えて笑っている。ヒルドバーグから「見てきなさい。ただし走るな」と送り出されたらしい。走るなと言われた人間が、なぜ焼き菓子を持つと走らずにいられるのかは、誰にも分からなかった。
「サブマリン一号、出発前のお祝いをしますか」
「まだ水に入れてない」
「では、出発前に壊れていないお祝い」
「その祝われ方は縁起が悪い」
オバインは箱を地面に置き、膝をついた。留め金を外す指は落ち着いていたが、耳の後ろに汗がにじんでいる。軽口を叩いている時ほど、彼は細かいところに神経を使う。ガニーロはそれを知っているらしく、工具袋から小さな布を取り出し、箱の下に敷いた。
「ここ、石の角が出てる。底を傷つける」
「助かる」
オバインは短く礼を言った。
箱の中から出てきたのは、両手で抱えられるほどの小さな機械だった。銀色の筒に透明なカバーが付き、左右に小さな羽根がある。前方には豆粒ほどのライトとカメラ。後ろには細いケーブルが伸び、黒い操作盤につながっていた。
見た目だけなら、子どもの玩具にも見える。
ただ、透明カバーの内側には何度も磨いた跡があり、羽根の根元には手作業で削った小さな傷が残っていた。笑われる前から、何度も失敗してきた機械の顔だった。
エメットは目を輝かせた。
「これ、本当に水の中を進むんですか」
「進む。予定では」
「予定以外では」
「祈る」
レトリスの赤ペンが、クリップボードの上でぴたりと止まった。
「祈りは安全管理項目に入りません」
「では、努力」
「努力も水密検査の代わりにはなりません」
「厳しい」
「水はもっと厳しいです」
ガニーロが小さくうなずいた。
「先に通電確認。ケーブルに傷はない。操作盤の電池も満充電。水路に入れる前に、バケツで浮力を見る」
彼は持参していた折りたたみ式の水桶を広げた。青鞄電子堂の文字が、側面に薄く入っている。どう見ても普段は修理したラジオの防水確認に使っている道具だった。
レトリスはその文字を見て、ほんの少し眉を動かした。
「あなた、こういうものまで持ち歩いているんですか」
「今日は水路確認だから」
「普通は役所の職員がバケツを持つべきでしたね」
「役所が持つなら、底が広い方がいい。風で倒れにくい」
さらりと返されて、レトリスは次の言葉を失った。批判しようとしていたのではない。ただ、彼がいつも先回りしていることに、腹が立つような、助かるような気がした。
オリーンが紙袋を開き、焼き菓子を一つ持ち上げた。
「では、底が広いバケツ記念に」
「何でも祝わないでください」
「レトリスさんの赤ペンが今日も鋭い記念」
「それはもっと祝わなくていいです」
サポナーラが焼き菓子へ手を伸ばす。ヒルドバーグから預かったらしいオリーンは、手の甲を軽く叩いた。
「水路に近づく人は、手を拭いてからです」
「喫茶店の規律が水路まで侵攻してきた」
「泥のついた手で焼き菓子を触ったら、ヒルドバーグさんが無言でタオルを投げます」
「それは防災用品ではなく制裁用品です」
笑い声が、薄暗い通路に少しだけ明るさを足した。
ガニーロは水桶に水路の水を汲み、サブマリン一号をそっと浮かべた。
浮いた。
全員が、なぜか拍手しかけて止まった。
「浮くだけで拍手される機械、少し羨ましいですね」
サポナーラがつぶやく。
「あなたが水に浮いたら、まず救助を呼びます」
「そこは拍手からお願いします」
オバインは操作盤のスイッチを入れた。サブマリン一号の前方ライトが白く光る。エメットが身を乗り出し、レトリスが即座に襟首をつかんだ。
「近づきすぎです」
「見えます」
「見える距離と落ちない距離は違います」
「はい」
エメットは素直に一歩下がった。それでも視線は機械に張りついている。
オバインが右のレバーを倒した。
サブマリン一号は、元気よく後退した。
水桶の縁に尻をぶつけ、こつん、と情けない音を立てる。
沈黙が落ちた。
「……今のは」
レトリスが言うと、オバインは操作盤から目をそらさず答えた。
「後退性能の確認だ」
「右へ進めようとしていました」
「後退性能が先に自己主張した」
「機械に責任を押しつけないでください」
ガニーロは操作盤の配線を覗き込んだ。
「左右のモーター、線が逆かも」
「昨夜、二時に直した」
「二時は、直す時間じゃなくて寝る時間」
「父にも言われた」
「お父さんは正しい」
オバインは唇を曲げたが、反論はしなかった。ガニーロが工具袋から小さなドライバーを出す。ネジを外し、線を確認し、端子を入れ替える。その手つきは速いのに雑ではない。エメットはその横で、息を止めるように見ていた。
「線の色、メモしておくといい」
ガニーロが言うと、エメットは慌ててポケットから小さなノートを出した。
「赤が右、黒が左」
「今回は、赤が左に入ってた」
「じゃあ、赤が左にいたら後退」
「覚え方が独特だな」
サポナーラがうなずいた。
「私も覚えました。赤が左にいたら人生が後退」
「あなたの人生まで配線しません」
再び水桶に浮かべる。今度は、右のレバーで右へ、左のレバーで左へ進んだ。小さな羽根が水を押し、透明カバーの中に小さな泡がつく。
レトリスは記録欄に書いた。
サブマリン一号、浮力確認済み。左右操作、修正後に正常。夜間作業による配線誤りあり。
書いてから、横に小さく足す。
睡眠不足は危険要因。
オバインが覗き込んだ。
「そこまで書くのか」
「水路は寝不足を許してくれません」
「君は水路を人格者みたいに扱うな」
「水路は人の言い訳を聞きませんから、人より厳しいです」
それは冗談の形をしていたが、誰もすぐには笑わなかった。十年前の雨も、誰の言い訳も聞かなかった。待っていた人がいたことも、助けを呼んだ子どもがいたことも、町の地図が古かったことも、水には関係がなかった。
ガニーロが水桶からサブマリン一号を持ち上げ、柔らかい布で水滴を拭いた。
「本番に入れよう」
金網の一部は、点検用に開くようになっていた。アリシャーが役所から借りた鍵で錠を外す。錠前は固く、二度回しても動かなかった。三度目に、低い音を立ててやっと開いた。
「この錠前も交換ですね」
レトリスが言う。
「交換。鍵穴に泥が入りやすい位置」
アリシャーが短く答えた。
ガニーロは金網を押さえ、オバインがサブマリン一号を水面へ下ろした。水路の水は、桶の中よりずっと暗い。ライトが点くと、白い線が水中に伸びた。濁りの中で、小さな泡が舞う。
操作盤の画面に映ったのは、水路の石壁だった。古い苔が張りつき、ところどころにビニール片が引っかかっている。水底には小石と泥が積もり、錆びた空き缶が半分だけ埋まっていた。
「右へ三十センチ」
アリシャーが言う。
「三十センチを機械に優しく言ってくれ」
オバインがレバーを動かす。サブマリン一号は慎重に右へ寄った。
「前進、ゆっくり」
ガニーロがケーブルを手繰りながら言った。
水路の奥へ、白いライトが進む。画面の端に、丸い排水口が映った。旧市場の地下から出る小さな管らしい。水はそこからも細く流れ込んでいた。
エメットが声を上げた。
「何かあります」
画面の奥、石壁の下に、平たい板のようなものが見えた。泥に半分埋まり、文字は読めない。オバインがライトを少し上向きにする。白い光が、濁った水の中で揺れた。
レトリスは画面に顔を近づけた。
「標識……?」
アリシャーが目を細める。
「矢印がある。古い避難誘導板かもしれない」
その瞬間、サブマリン一号の画面がぐるりと回った。
水が大きく揺れる。白いライトが石壁、泥、空き缶、暗闇を順に映し、最後に何もない方向へ向いた。
「何をしましたか」
レトリスの声が低くなる。
「何もしていない」
オバインの声が少し上ずった。
「何もしていない時に勝手に回る機械は危険です」
「流れだ。思ったより吸われる」
水路の奥で、サブマリン一号が排水口の流れに寄せられていた。細いケーブルが斜めに張る。ガニーロがすぐに膝をつき、ケーブルを両手で握った。
「引っ張りすぎると羽根が折れる。少し戻して」
「戻す」
オバインがレバーを倒す。今度は後退するはずの機械が、なぜか斜め前へ進んだ。
「それは戻っていません」
「分かってる」
「分かっていて進ませるのは、さらに危険です」
「水の流れが勝ってるんだ」
サポナーラが金網にしがみついた。
「サブマリン一号、諦めるな。君には陸に咲く花の私がついている」
「ついてこないでください。落ちます」
レトリスがサポナーラの襟をつかんで後ろへ引いた。
ガニーロはケーブルを手繰る指の力を調整している。強く引けば機体がひっくり返る。弱すぎれば排水口へ吸い込まれる。顔は穏やかに見えたが、手の甲には筋が浮いていた。
エメットが一歩前へ出た。
「ケーブル、支えます」
「足元」
ガニーロが短く言う。
エメットはすぐに足を止め、石畳の乾いた部分を選んでしゃがんだ。ガニーロの手元より一メートル後ろで、ケーブルを軽く支える。引っ張らない。ただ、地面に擦れないように持ち上げる。
レトリスはその動きを見て、赤ペンを握る手に力を込めた。
ついていくだけではない。
見て、真似て、必要な分だけ支える。
画面の中で、サブマリン一号がゆっくり向きを変えた。オバインがレバーを細かく動かす。ガニーロがケーブルを少し緩める。エメットが後ろで支える。アリシャーが水面の流れを見ながら、低く指示を出す。
「今、左。十センチ。止める。そこで後退」
機械は一度、震えた。
それから、排水口から離れた。
オリーンが小さく息を吐いた。
「戻ってきました」
「まだだ」
オバインは画面から目を離さない。
サブマリン一号は、水路の中央まで戻ると、泥に埋まった標識の前で止まった。前方ライトが、板の端を照らす。そこには、薄くかすれた青い矢印と、読みにくい文字があった。
旧地下避難施設 西入口
レトリスの喉が、音もなく動いた。
現行のハザードマップでは、旧地下避難施設「サブマリン」は、商店街会館の裏手にある正面入口しか記載されていない。西入口など、資料には出てこなかった。
「西入口……」
アリシャーが手帳を開いた。
「古い図面に、塞がれた点検口があった。位置が合うかもしれない」
「塞がれたのは、いつですか」
レトリスが問う。
「水害後の可能性がある。記録を確認する」
ガニーロは画面を見つめたままだった。光の中で揺れる青い矢印。水に削られ、泥に隠れ、それでも消えきらなかった案内。
レトリスは彼の横顔を見た。
十年前、この町には、地図に載っていない入口があったのかもしれない。
誰かが知っていたのか。
誰かが知らずに通り過ぎたのか。
誰かが、そこへ向かえずに別の場所へ走ったのか。
ガニーロはふいに口を開いた。
「水の音が」
レトリスは赤ペンを止めた。
「何ですか」
「この水路の音、覚えがある。十年前、もっと大きかった。壁に当たって、反対から返ってくるみたいな音だった」
彼はそこで黙った。
レトリスは、昨日の未確認事項を思い出した。
三、ガニーロが十年前に聞いた水の音。
続きの一行目を聞く。
「その時、あなたはどこにいたんですか」
ガニーロの手の中で、濡れたケーブルが少し滑った。彼は握り直し、視線を水面に戻す。
「旧市場の方へ向かってた。喫茶店へ行く道が、もう水で塞がっていて」
「それで」
サブマリン一号のライトが、水中の標識を照らし続けている。
「この話には続きがあって……」
レトリスは息を止めた。
だが、ガニーロの言葉は、そこでまた切れた。
水路の奥から、ぼこ、と大きな泡が上がった。流れが急に変わり、サブマリン一号が再び横へ持っていかれる。
「引き上げる」
オバインが叫ぶ。
ガニーロがケーブルを引き、エメットが後ろで支える。アリシャーが金網の開いた位置を押さえ、サポナーラが今度こそ余計な応援を飲み込んだ。オリーンは焼き菓子の袋を片腕に抱え、空いた手で濡れた布を差し出す。
サブマリン一号は、水面から引き上げられた瞬間、盛大に水を吐いた。
その水が、真正面にいたサポナーラの顔へ飛んだ。
「私が西入口です」
誰も意味を理解できなかったが、オリーンだけが笑いすぎて紙袋を抱え直した。
レトリスは咳払いをした。
「サポナーラさん、顔を拭いてください。記録に残す前に」
「今のも記録に残りますか」
「残しません」
「では、残してください。後世のために」
「後世は、もっと役に立つ記録を望んでいます」
ガニーロはサブマリン一号の透明カバーを開け、内部に水が入っていないか確認した。
「大丈夫。浸水してない」
オバインは肩で息をしながら、機体を受け取った。ふざけた言葉を探すように口を開いたが、出てこなかった。代わりに、濡れた機体を両手で包むように持った。
「標識は撮れてるか」
ガニーロが操作盤の録画を確認する。
「撮れてる。文字も読める」
オバインはようやく、短く笑った。
「なら、失敗作じゃないな」
サポナーラが顔を拭きながら首を振る。
「いいえ、失敗作です。なぜなら私が濡れた」
「それは成功の余波だ」
「成功には、もっと乾いた余波があるべきです」
エメットが、サブマリン一号を見つめていた。
「水に吸われても、戻ってきましたね」
ガニーロは彼の方を見た。
「一人じゃ戻れなかった」
エメットは少し考え、うなずいた。
「ケーブル、持っててよかったです」
「助かった」
その一言で、エメットの頬が少し赤くなった。彼は慌ててノートを開き、線の色の話の下に何かを書き足す。
レトリスは、彼のノートを覗かなかった。
代わりに、自分の記録欄へ書く。
旧市場裏水路の奥に、旧地下避難施設西入口を示す標識あり。現行地図に記載なし。水流強まる箇所あり。点検用機械は複数人で扱うこと。子どもが覗き込む高さの柵、早急に補修。
そして、欄の下へもう一つ書いた。
十年前の水音と関係する可能性。
ガニーロはその文字を見た。
「そこまで書く?」
「書きます」
「まだ、分かってない」
「分からないことに、分からないと書くんです」
昨日、自分で思ったことを口にすると、胸の奥が少しだけ熱くなった。彼の続きを聞くのは怖い。聞かなければ、怒っていられる場所が残る。聞けば、十年分の怒りが形を変えてしまうかもしれない。
それでも、地図に載っていない入口を見つけた日に、心の地図だけ古いままにしておくわけにはいかなかった。
オリーンが焼き菓子を一つ、レトリスへ差し出した。
「西入口発見のお祝いです」
「それは、まだ調査前です」
「では、西入口らしきもの発見のお祝い」
「ずいぶん正確になりましたね」
「ヒルドバーグさんに、嬉しい時ほど言葉を雑にするなと言われました」
レトリスは少し迷い、焼き菓子を受け取った。指先に、バターの匂いが移る。
サポナーラがすかさず手を出す。
「私にも、顔面放水記念を」
「手を拭いてからです」
「今日、私は水に選ばれた男ですよ」
「水に選ばれた手を拭いてください」
笑い声がまた水路の上へ広がった。
薄暗い水の下では、古い青い矢印が、まだ泥に半分埋もれている。今は引き上げられない。近づくには準備が足りない。役所の記録も、古い図面も、現場の安全確認も必要だった。
だが、見つかった。
地図の空白に、入口が一つ浮かび上がった。
オバインはサブマリン一号を箱へ戻す前に、透明カバーを指で軽く叩いた。
「次は、吸われても焦らないように改良する。羽根の角度も変える。ライトももう少し強くする」
「睡眠時間も増やしてください」
レトリスが言うと、オバインは苦い顔をした。
「それは難改良だ」
「最優先です」
ガニーロが布を畳みながら笑った。
「町工場の跡取りが、水路で寝不足を発表した日として残るな」
「残すな」
「レトリスさん、記録に」
サポナーラが言いかける。
「残しません」
レトリスは即答した。
けれど、その日の記録の隅に、小さく書き足した。
水に浮く失敗作、標識を見つける。
書いてから、失敗作の三文字に線を引こうとして、やめた。
失敗したから、配線の誤りが分かった。吸われかけたから、流れの強さが分かった。水を吐いたから、サポナーラの顔は濡れたが、全員が笑った。
失敗作という言葉は、捨てるものの名前ではないのかもしれない。
レトリスは赤ペンを閉じた。
「今日の確認はここまでです。午後、役所で古い図面を探します。アリシャーさん、西入口の候補を照合してください。オバインさんは機体の点検。ガニーロさんは録画の保存。エメットさんは、今日触ったケーブルを帰ったら手洗い」
「はい」
エメットが元気よく返事をする。
「サポナーラさんは」
サポナーラが期待に満ちた顔で背筋を伸ばした。
「顔を洗ってください」
「私の役割、清潔」
「とても大事です」
オリーンが紙袋を掲げた。
「では、清潔になったら焼き菓子です」
サポナーラは誰よりも速く、近くの水道へ向かって歩き出した。走ろうとして、濡れた石畳で靴を滑らせかけ、レトリスに睨まれて歩幅を小さくする。
ガニーロはその背中を見送り、ふと水路へ視線を戻した。
レトリスも同じ方向を見た。
水は何も語らない。けれど、そこには確かに、十年前から残っていたものがある。泥に隠れ、地図から消え、誰かの記憶の中で水音だけになっていたものが、今日、小さな機械のライトに照らされた。
ガニーロの唇が、かすかに動いた。
「西入口……」
レトリスは、聞こえないふりをしなかった。
「覚えがあるんですね」
彼はすぐには答えなかった。工具袋を肩にかけ、青い傘を一本取り出して、レトリスの方へ差し出す。
空はまだ曇っているだけで、雨は降っていない。
「午後、降る」
「天気予報ですか」
「膝が少し痛い時は、だいたい降る」
「古いラジオより曖昧ですね」
「でも当たる」
レトリスは傘を受け取らなかった。受け取れば、また彼が二本持っている理由に近づいてしまう気がした。
ガニーロも押しつけない。傘を閉じたまま、自分の腕にかけた。
その間に、オバインが銀色の箱を持ち上げる。箱の中で、サブマリン一号が小さく鳴った。水滴がまだどこかに残っているのだろう。
ちり、と鳴った音は、レトリスの蒼い鞄の留め具に似ていた。
彼女は鞄を押さえ、金網の向こうの暗い水路をもう一度見た。
地図にない入口。
水に浮く失敗作。
言いかけて止まった続き。
今日の現町は、昨日より少しだけ、隠していたものを見せた。
レトリスはクリップボードを閉じ、役所へ戻る道へ足を向けた。
後ろで、オリーンの明るい声がする。
「サブマリン一号、生還のお祝いは喫茶ペアカップで行います」
「だから、勝手に祝うな」
オバインの声が返る。
「顔面放水記念も合同開催ですか」
サポナーラが言う。
「それは別皿です」
オリーンが即答する。
レトリスは、少しだけ口元を緩めた。
水路から上がった湿った風が、赤ペンの先を冷やしていく。
彼女は心の中で、まだ見ぬ西入口の場所に赤い印をつけた。
危ない場所に、危ないと書く。
分からないことに、分からないと書く。
そして、見つかったものには、見つかったと書く。
たとえそれが、誰かの十年前の沈黙へつながっていたとしても。




