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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第7話 この話には続きがあって、言えない

 午後一時の旧市場裏は、午前の会議室よりずっと正直だった。


 地図の上では、そこは「商店街北側歩行者通路」とだけ書かれている。けれど実際に立つと、古い鮮魚店の庇は斜めにたわみ、雨どいは継ぎ目から外れかけ、足元の石畳は一枚ごとに沈み方が違っていた。魚の匂いはもう残っていないのに、錆びたシャッターの下からは、十年前の雨がまだ乾ききっていないような冷たさがにじんでいる。


 レトリスは現行のハザードマップを片手に、ガニーロの手書き地図をもう片方の手で押さえた。


 「ここ、あなたの地図では赤丸が三つあります。理由は」


 ガニーロは、青鞄電子堂のロゴが入った肩掛け工具袋から細い巻き尺を出した。メジャーの先を側溝の縁に引っかけ、腰をかがめる。


 「ひとつ目は、側溝のふたが二枚だけ違うんだ。雨で浮く。二年前の六月、配達の人がここで足を取られた」


 「記録は」


 「本人から聞いた。配達先の印鑑をもらう前に靴が片方流れて、領収書を靴下で押さえたって」


 「なぜ細部まで覚えているんですか」


 「靴下の柄が、黄色いひよこだった」


 サポナーラが首をさすった。


 「黄色いひよこは強いですね。私なら一生忘れられない」


 「あなたは首の絵を百枚描かれる予定があるので、忘れてもらっても困ります」


 「午後になっても尊厳が回復していない」


 オリーンが、持ってきた紙袋から小さなメロンパンを取り出し、サポナーラの手に押し込んだ。


 「尊厳って、甘いものを入れると少し戻るよ」


 「本当に戻るんですか」


 「戻った顔をして」


 「はい、戻りました」


 サポナーラはメロンパンを両手で持ち、できるだけ立派な顔をした。レトリスは見なかったことにして、赤ペンで側溝に印を入れた。


 「二つ目は」


 「この庇。雨量が多いと、水が一点に落ちる。歩道の真ん中に細い川ができる」


 ガニーロは庇の端を指した。そこには、透明な水の筋が何度も通った跡が黒く残っている。今日の空は明るいが、レトリスには、その跡が雨の形を先取りしているように見えた。


 「三つ目」


 「夜になると、この電灯だけ点滅する。点く、消える、点く、諦める、を五回くらい繰り返す」


 「電灯は諦めません。故障です」


 「修理を頼んだけど、所有者がわからなくて止まってる。だから、応急で反射板をつけたい」


 ガニーロは工具袋から小さな銀色の板を出した。すでに角が丸く削られ、裏には両面テープが貼ってある。頼まれる前から用意していた手つきだった。


 レトリスは、その板ではなく、彼の工具袋の中を見た。


 巻き尺、結束バンド、絶縁テープ、折りたたみ傘、もう一本の折りたたみ傘。傘は同じ黒ではない。片方は黒、もう片方は、濃い青だった。持ち手に、古い布の切れ端が結ばれている。


 青。


 蒼い鞄の色に、少し似ていた。


 「……あなた、いつも傘を二本持っていますね」


 ガニーロの手が止まった。


 オリーンがメロンパンの袋を閉じる音まで、やけに大きく聞こえた。


 「商店街の人がよく忘れるから」


 「誰が、いつ、どこで忘れるかも分からないのに?」


 「雨は、忘れた人から先に濡らすから」


 返事としては、うまく逃げている。けれど、レトリスは逃がす気になれなかった。


 午前中、彼が出した手書き地図。古い市場裏、港へ抜ける坂、喫茶ペアカップ前の段差、役所裏の暗い階段。そこには、十年かけなければ集まらないほどの細かな情報が詰まっていた。毎朝通っただけでは分からない。雨の日に歩き、夜に立ち止まり、誰かの転び方を聞き、誰かの帰り道を見送らなければ書けない地図だった。


 十年前、来なかった人。


 十年間、町を見続けていた人。


 その二つが、同じ顔で隣に立っている。


 「ガニーロ」


 名前で呼ぶと、彼は一瞬だけ目を上げた。


 「あなたは、なぜ十年も町を調べていたんですか」


 サポナーラがメロンパンを口へ運びかけたまま固まった。オリーンは紙袋を抱きしめる。少し離れた場所で排水口をのぞいていたアリシャーまで、膝を伸ばしてこちらを見た。


 旧市場裏の風が、古いポスターの端をめくった。


 「店をやってると、修理のついでに色々聞くから」


 「それだけで、ここまで書けません」


 「歩くのが好きなんだ」


 「あなたは歩く前に予定表を書く人でしょう。目的のない散歩を十年分も積みません」


 ガニーロは、反射板を手の中で回した。銀色の面が光を拾い、レトリスの手元をちらりと照らす。


 「レトリス」


 「はい」


 「この話には続きがあって……」


 彼はそこまで言って、口を閉じた。


 いつもの、逃げるための沈黙ではなかった。言葉が喉の奥まで来ているのに、そこから先へ出したら何かが崩れると分かっている顔だった。


 「続きは」


 「まだ、言えない」


 「どうして」


 「言ったら、君が別のことで自分を責めるかもしれない」


 レトリスは、手の中の赤ペンを強く握った。


 「それは、私が判断します」


 「うん」


 「あなたが隠すかどうかを決める話ではありません」


 「うん」


 「うん、ではありません」


 「そうだね」


 「そうだね、でもありません」


 オリーンが、声を出さずにサポナーラの袖を引いた。サポナーラは小声で「これは、ひよこ靴下より忘れられない日ですね」と言い、レトリスに睨まれて背筋を伸ばした。


 ガニーロは、ゆっくりと息を吐いた。


 「十年前のあの日、俺は約束の場所へ向かっていた」


 レトリスの胸の奥で、濡れた紙を握りつぶすような音がした。


 「……来なかった」


 「うん」


 「私は待っていました」


 「うん」


 「雨が強くなって、母に引っ張られて、それでも何度も振り返って」


 「うん」


 「それでも、あなたは来なかった」


 言葉を並べるほど、十年前のにおいが戻ってくる。濡れた靴下。母の手の強さ。喫茶ペアカップの窓に打ちつける雨。胸の中でずっと温めていた怒りは、乾いた石のように硬いはずだった。なのに今は、指で触れれば崩れそうな泥の塊みたいになっている。


 ガニーロは、反射板を工具袋に戻した。代わりに、濃い青の折りたたみ傘を取り出す。


 開かない。渡さない。ただ、両手で持っている。


 「途中までは、行った」


 「途中?」


 「旧市場から、川沿いへ曲がるところまで」


 「そこからなら、喫茶店まですぐです」


 「そう。すぐだった」


 ガニーロの視線は、レトリスではなく、足元の側溝に落ちていた。


 「でも、水の音がした」


 遠くで、車が一台通った。水しぶきもない乾いた道なのに、レトリスは身を固くした。


 「誰か、いたんですか」


 ガニーロは答えなかった。


 「誰かを助けたんですか」


 答えない。


 「だから来られなかった?」


 青い傘の持ち手を握る指が、わずかに白くなった。


 レトリスは、怒ればいいのか、息をすればいいのか分からなくなった。もしそうなら、十年間の怒りは何だったのか。待っていた自分の痛みはどこへ置けばいいのか。助けたのなら、なぜ言わなかったのか。言ってくれればよかったのに。いや、十年前の自分は、それを聞いて許せただろうか。


 頭の中で、答えのない言葉がぶつかる。


 その時、蒼い鞄が鳴った。


 ピ、という小さな電子音。


 全員の肩が同時に跳ねた。


 「まさか」


 レトリスは慌てて鞄を抱え込んだ。午前から基板は静かだった。役所を出る前、電池を外したはずだ。少なくとも、外したつもりだった。


 「レトリスさん、その鞄、電池を抜いても根性で動くんですか」


 「根性で電子部品は動きません」


 「でも今、根性の音がしました」


 オリーンが半歩近づいた。


 「紙、出てる」


 「見ないでください」


 「見ないように見てる」


 「それは見ています」


 鞄の内側から、細い紙が一枚、舌を出すように伸びていた。レトリスはそれを押し戻そうとしたが、紙は小さな駆動音とともにさらに出てくる。


 ガニーロが片手を伸ばした。


 「無理に引くと破れる。押さえて」


 「触らないでください」


 「じゃあ、上の縁だけ。印字面に触らない」


 「指示しないでください」


 「破れる」


 「……上の縁だけです」


 二人の指が、紙の端を挟んだ。


 鞄の中で、古い基板がかすかに唸る。電子工作と呼ぶには不揃いで、玩具と呼ぶには重すぎる音だった。紙に黒い文字が浮かび上がっていく。


 ――言えない男は、傘を二本持つ。


 沈黙。


 それから、オリーンが息を吸った。


 「いい」


 「よくありません」


 「すごくいい」


 「よくありません」


 「朗読していい?」


 「だめです」


 サポナーラが、メロンパンを片手に震えた。


 「言えない男は、傘を二本持つ。これは売れます。防災標語として、駅前に貼れます」


 「貼りません」


 「雨の日の町内放送にも向いています」


 「流しません」


 「では、青鞄電子堂の看板に」


 「燃やします」


 「看板を?」


 「あなたの発想をです」


 アリシャーが紙をのぞき込み、淡々と言った。


 「この文は、先ほどの会話と鞄内の記録語句を組み合わせた可能性があります。『言えない』『男』『傘』『二本』はいま出ました」


 「冷静に分析しないでください」


 「分析しないと、超常現象扱いになります」


 「それは困ります」


 「では、分析します」


 「それも困ります」


 レトリスは紙を奪うように持ち、自分の胸元に隠した。顔が熱い。怒りでも恥ずかしさでもない。二つが同じ鍋で煮立っているような熱だった。


 ガニーロは、青い傘をまだ手に持っていた。


 「その傘は」


 レトリスが聞くと、彼はほんの少しだけ視線を揺らした。


 「昔、余った布を巻いた」


 「誰のために」


 「濡れた人のために」


 「誰でも?」


 「……雨は、名前を聞かないから」


 また逃げた。


 レトリスは、そう思った。けれど今度は、完全に腹が立つだけでは終わらなかった。


 ガニーロは、嘘をつく時に声を大きくしない。余計な冗談も足さない。ただ、言葉の角を落として、誰のものにも見える形にする。そうやって、彼は十年間、誰にも見つからない場所へ何かを置き続けてきたのだ。


 地図。傘。反射板。危ない段差の記録。


 そして、約束の場所へ行けなかった理由。


 「あなたは、私に嫌われていると思っているんでしょう」


 「思っているというか、毎回言われる」


 「嫌われて当然だと思って、黙っていれば楽ですか」


 ガニーロは、すぐに答えなかった。


 旧市場裏の風が、青い傘の布を揺らす。閉じた傘の先が、石畳に小さく触れた。


 「楽ではない」


 「なら言えばいい」


 「言うと、君の十年を否定する気がする」


 レトリスは息を止めた。


 「君が待っていたことも、怒っていたことも、嫌いって言い続けたことも、全部、理由がある。俺が来なかったのは本当だから」


 「でも、途中までは来た」


 「うん」


 「水の音がした」


 「うん」


 「誰かがいた」


 ガニーロは口を開きかけた。


 その瞬間、旧市場裏の向こうから、自転車のベルが短く鳴った。


 「おーい! そこ、まだ生きてるか!」


 オバインの声だった。


 工場用の作業着のまま、自転車で坂を下ってくる。前かごには、丸い透明カバーのついた妙な機械が詰め込まれていた。銀色の胴体に、青いペンキで雑に名前が書かれている。


 サブマリン。


 レトリスは、思わず眉を寄せた。


 「なにを運んでいるんですか」


 「水路を見るやつ! いや、正確には、見ようとしているやつ!」


 「今、見られないんですね」


 「正直に言うと、右と左をたまに間違える!」


 サポナーラがメロンパンを飲み込み、目を輝かせた。


 「仲間ですね」


 「機械と一緒にしないでください」


 「右と左をたまに間違えるところが」


 「やめてください。尊厳がまた水没します」


 オバインは自転車を止めると、機械を抱えて降りた。その勢いで前輪が小さく跳ね、サブマリンの透明カバーがぽこんと音を立てる。


 「旧市場裏の水路、奥に空洞があるかもしれないんだろ。アリシャーから聞いた。こいつで見られる」


 アリシャーが眼鏡を押し上げた。


 「私は、雨水の逃げ道が図面と違う可能性があると言いました。空洞と断定していません」


 「つまり、見た方が早い」


 「雑ですが、否定はしません」


 レトリスは、胸元に隠した紙を折りたたんだ。


 今は、問い詰める時間ではない。危険箇所の確認が先だ。分かっている。役所の防災担当としては、それが正しい。


 けれど、彼女の中で、十年前の雨が少しだけ流れ方を変えていた。


 ガニーロは来なかった。


 それは本当。


 でも、来ようとしていた。


 それも、たぶん本当。


 そこに、まだ言えない誰かの声がある。


 レトリスは、青い傘を見た。


 「その傘」


 「うん」


 「今日は、あなたが持っていてください」


 「え」


 「渡されても困ります。今は、あなたが持っている理由を聞き終えていません」


 ガニーロは、少しだけ目を丸くした。それから、傘を工具袋の脇に差し直した。


 「分かった」


 「それから」


 「うん」


 「次に『この話には続きがあって』と言う時は、続きの一行目まで言ってください」


 オリーンが小さく拍手した。


 「一行目制度、いいね」


 サポナーラが胸を張った。


 「私も使います。この話には続きがあって、一行目は、尊厳とはメロンパンである」


 「却下です」


 「一行目制度が始まった瞬間に終わった」


 ガニーロの口元が、少しだけゆるんだ。


 レトリスはそれを見て、すぐに視線をそらした。


 笑わせたかったわけではない。許したわけでもない。十年分の空白に、いきなり橋が架かるわけがない。


 ただ、橋を架ける前に、川の幅を測らなければならない。


 ガニーロの手書き地図には、その測り方がびっしり書かれている。


 レトリスは現行のハザードマップを開き、赤ペンを持ち直した。


 「では、旧市場裏の水路確認に入ります。オバインさん、そのサブマリンは安全ですか」


 オバインは、透明カバーの上を撫でた。


 「安全にしたい気持ちはある」


 「気持ちでは水路を進めません」


 「改良の余地が、広大にある」


 「広大な余地を今ここに持ち込まないでください」


 サブマリンの胴体から、突然、短い電子音が鳴った。レトリスは反射的に蒼い鞄を押さえたが、今度は鞄ではない。


 オバインの機械が、地面の上で震えている。


 サポナーラが後ずさった。


 「水に入る前から溺れてませんか」


 「これは起動音だ」


 「助けを求める音に聞こえます」


 「機械への偏見だ」


 レトリスは深く息を吸った。


 旧市場裏。水路。サブマリン。青い傘。言えない男。傘を二本持つ理由。


 今日の確認事項は、地図一枚に収まりそうにない。


 それでも彼女は、赤ペンで新しい欄を作った。


 未確認事項。


 一、旧市場裏水路の空洞。


 二、サブマリンの左右判断。


 三、ガニーロが十年前に聞いた水の音。


 書いてから、三つ目だけ線を引いて消そうとした。けれど、赤ペンの先は紙の上で止まった。


 消さない。


 危ない場所に、危ないと書く。


 分からないことに、分からないと書く。


 心の中へ水が入ってくるような話でも、地図から外してはいけない。


 レトリスは、三つ目の横に小さく書き足した。


 ――続きの一行目を聞く。


 蒼い鞄の中で、基板はもう鳴らなかった。


 代わりに、工具袋の脇の青い傘が、風に揺れて、ほんの少しだけ布を鳴らした。



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