第54話 世界で一番嫌いな人の本当の意味
青鞄電子堂の店先には、台風で剥がれかけた青い看板が戻っていた。
新しく塗り直したわけではない。傷のあるところはそのまま残り、雨で少し歪んだ縁も、オバインが出発前に打ち込んだ小さな金具で留められている。看板の鞄は、遠目に見ると前よりいくらか不格好だった。けれど、近くを通る子どもたちは、その金具の数を数えてから店の戸を叩く。
「六個だ」
「昨日は五個って言ってた」
「増えたんじゃなくて、昨日おまえが見落としたんだよ」
エメットが店の奥から顔を出し、子どもたちへ得意そうに言った。手には小さな避難灯の部品を持っている。背が少し伸びたように見えるのは、肩に力を入れて立っているからかもしれなかった。
ガニーロは作業台の前で、古い紙箱を開けていた。
中には、白い布で包まれたものが一つ。
その横に、透明な袋へ入れた細い紙が数枚。
レトリスは入口のところで立ち止まった。蒼い鞄の肩紐を握る手に、少しだけ力が入る。
「呼び出すほどの用件ですか」
「呼び出したのではなく、渡したいものがありまして」
「役所の防災担当は、勝手に店へ呼ばれるほど暇ではありません」
「承知しています。では、偶然通りかかったことにしてください」
「店の前に『レトリスさんへ』と貼り紙を出しておいて、偶然ですか」
ガニーロは戸の外へ目を向けた。
ガラス戸には、確かに小さな紙が貼られている。
『レトリスさんへ。お時間があれば、五分ください。お時間がなければ、三分ください』
レトリスはそれを剥がし、無言でガニーロの作業台に置いた。
「三分で」
「努力します」
「成功してください」
「難しいですね」
同じやり取りをして、二人はほぼ同時に黙った。
店の奥で、エメットと子どもたちが部品を数える声がする。サポナーラが表で雨合羽の畳み方を教えているらしく、ときどき「これは袖ではなく未来への筒だ」と妙な声が響いた。オリーンがそのたびに笑い、ヒルドバーグが「未来を濡らすな」と低く返す。
現町の午後は、騒がしい。
水害の跡が消えたわけではない。避難所の床板には、まだ新しい補修の色が残っている。商店街の低い壁には、浸水した高さを示す細い線が引かれた。けれど、その線の横には、子どもが描いた小さな矢印が増えている。ここまで水が来た、だから次はここから逃げる。怖さを隠すのではなく、次の一歩を置くための印だった。
ガニーロは、白い布の包みをほどいた。
出てきたのは、金継ぎで直された青いカップだった。
レトリスの蒼い鞄の中にある白い片割れと、同じ模様のもの。青いカップの縁には、細い金色の筋が走っている。割れたことを隠してはいない。むしろ、その筋があるから、前より手を伸ばしたくなる。
「十年前に渡すはずだったものです」
ガニーロは両手でカップを持った。
「遅くなりました」
レトリスはすぐに受け取らなかった。
作業台の上に置かれた細い紙の一枚が、かすかに揺れている。蒼い鞄の基板は、今日は鳴っていない。止めると決めてから、ガニーロは余計な印字をしないよう、接続を外していた。それでも紙を見るだけで、胸の奥に薄い音が戻る。
あなたを想う時間。
世界で一番嫌いな人。
笑えないほど大げさで、笑わないと立っていられないほど不器用な言葉。
レトリスはカップではなく、ガニーロの手を見た。指先には細かな傷がある。はんだごての跡、錆びた扉を押した時の擦り傷、避難灯の金具で切った小さな線。十年前の水害の日、幼いエメットを背負った手も、きっと同じように何かを掴んでいた。
「……私は」
声が、そこで止まった。
批判なら、すぐに出る。危険な配線。曖昧な説明。緩い避難計画。湿った段ボールを通路に置く魚屋。張り紙の日本語がふざけている青鞄電子堂。
けれど、カップを前にした今、言葉はなかなか形にならなかった。
ガニーロは急かさない。
その沈黙が、昔は少し腹立たしかった。何を考えているのかわからなくて、ひとり置いていかれた気がした。今は、待っているのだとわかる。言えない時は言えるまで待つ。それが彼の癖で、時々、遅すぎるほど不器用なやり方だった。
レトリスは蒼い鞄を開けた。
内側のポケットから、白いカップを取り出す。布で何度も包んでいたため、表面には傷が少ない。けれど底のほうには、水染みの薄い跡が残っている。
青と白。
二つを作業台に並べると、窓から入った光が、同じ場所で丸く揺れた。
「これを見せたら、言わなければならない気がして、ずっと嫌でした」
「はい」
「言ったら、十年前の私が、ただ待っていただけではなくなるでしょう」
ガニーロはうなずかない。ただ、聞いていた。
「怒っている私のほうが、簡単でした。約束を破った人がいて、待っていた私がいる。そういう形なら、説明しやすかった。誰にでも言えたし、自分にも言えました」
レトリスは白いカップの縁を指でなぞった。
「でも、あなたは助けに行っていた。エメットを背負っていた。あなたが来なかったから私は傷ついたのに、あなたが行かなければ、別の誰かが傷ついていた」
店の外で、子どもが笑った。
その声が、雨上がりの舗道を跳ねる。
「そう知ってから、私は何に怒ればいいのかわからなくなりました」
「怒っていいと思います」
ガニーロの声は、低かった。
「待たせたことは、消えません」
「消えないものばかりですね」
「はい」
「金継ぎだって、線は残ります」
「はい」
「ハザードマップにも、水が来た線を残しました」
「残しました」
「私の言葉にも、残っています」
レトリスは息を吸った。
何度も口にしてきた言葉。会議室で。商店街で。青鞄電子堂の前で。喫茶ペアカップの窓際で。怒るために使ってきた。壁を作るために使ってきた。忘れないために、遠ざけるために、そして、二度と急にいなくならないでほしいと祈るために使ってきた。
「世界で一番嫌いな人」
ガニーロが、ほんの少しだけ肩をこわばらせた。
レトリスは続けた。
「昔、私はそのあとに、こう書きました」
蒼い鞄のポケットから、もう一枚の紙を出す。基板が復元した、薄くて頼りない印字。幼い字の断片と、録音から拾われた声が、どうにか一つの文になっている。
レトリスは紙を見ずに言った。
「だって、いなくなったら世界で一番困るから」
店の奥の音が、少し遠くなった。
避難灯の部品が転がる音も、サポナーラの妙な講座も、オリーンの笑い声も、すべて戸の外に置かれたみたいだった。
ガニーロは目を伏せた。
笑わなかった。
謝りもしなかった。
そのかわり、作業台の上に置いた青いカップを、ゆっくりレトリスのほうへ押した。
「十年遅れです」
「知っています」
「今さらです」
「本当に今さらです」
「受け取らなくてもいいです」
「それを先に言うところが、腹立たしいです」
レトリスは青いカップを持ち上げた。
金色の筋が、指にひんやり触れる。割れた跡は段差になっていない。丁寧に直されている。ヒルドバーグの手元を思い出した。濡れた靴にタオルを投げるような人が、割れたものを捨てずに、時間をかけて直していた。
「受け取ります」
ガニーロの息が、少しだけほどけた。
「ただし」
「はい」
「このカップで、私の許しを買ったと思わないでください」
「思いません」
「このカップで、十年前が全部きれいに片づいたと思わないでください」
「思いません」
「このカップで、今後、私の青魚サンドを勝手に半分にしていいと思わないでください」
「それは、特に思いません」
レトリスは少しだけ笑いそうになり、唇を結んだ。
結んでも、たぶん隠しきれていない。
ガニーロは白いカップを見た。
「では、こちらは」
「私が持っています」
「そうですか」
「必要な時は、喫茶ペアカップで使います」
「はい」
「一緒に飲むかどうかは、その時の私が決めます」
「わかりました」
「今は」
レトリスは一度、戸の外を見た。
午後の光の中、エメットが子どもたちを連れて新しいハザードマップの前へ向かっている。ロシルドゥアがその後ろから歩き、早歩きになりすぎた子の肩にそっと手を置いた。ブルグリンデは商店街の入口で、掲示板の端をまっすぐに直している。サポナーラの雨合羽は、なぜか片袖だけ裏返っていた。
現町は、騒がしい。
そして、少しだけ頼もしい。
「今は、飲みます」
ガニーロは目を上げた。
「はい」
「喫茶ペアカップで。ここの作業台ではなく」
「それがいいと思います」
「あなたのおごりで」
「はい」
「高いものを頼みます」
「承知しました」
そうして二人は、青鞄電子堂の戸を閉めた。
歩幅は、並んでいた。
十年前は、同じ場所へ向かう途中で別れた。片方は待ち、片方は助けに行き、どちらも濡れて、どちらも言葉を失った。今は、同じ店へ向かっている。喫茶ペアカップは商店街の角で、いつものように湯気を窓に曇らせていた。
ヒルドバーグは二人を見るなり、何も聞かずに奥の席を指した。
オリーンは口を開きかけたが、ヒルドバーグにお盆で軽く止められた。
「今日は、黙って淹れる日だ」
「えっ、でも、これは祝うべき空気では」
「黙って淹れる祝い方もある」
オリーンは両手で口を押さえたまま、何度もうなずいた。押さえているのに、目だけで充分うるさい。
レトリスとガニーロは、窓際の席に向かい合って座った。
青いカップはレトリスの前へ。
白いカップはガニーロの前へ。
「逆ではありませんか」
ガニーロが言う。
「今日は、逆でいいです」
「理由を聞いても」
「三分を超えます」
「では、聞きません」
ヒルドバーグが温かい飲み物を注ぐ。湯気が細く上がり、金継ぎの筋を柔らかく曇らせた。雨の日の記憶に似た白さだったが、今は濡れた匂いではなく、茶葉と焼き菓子の匂いがする。
レトリスは青いカップを両手で包んだ。
ガニーロは白いカップを持つ。
恋人という言葉は、まだ置かなかった。急いでそこへ名前をつけると、別の何かを踏みつけそうだった。十年分の空白、救われた命、待っていた時間、怒り続けた理由、笑いながら直してきた町。どれも、一口で飲み干せるものではない。
レトリスは湯気の向こうで、ガニーロを見た。
「世界で一番嫌いな人」
「はい」
「意味を知ったからといって、調子に乗らないでください」
「乗りません」
「私はまだ、怒ります」
「はい」
「危ない配線があれば怒ります」
「直します」
「曖昧な張り紙を出したら怒ります」
「直します」
「一人で水の近くへ行ったら」
ガニーロは白いカップを置いた。
「行きません」
返事が早かった。
レトリスはその早さに、少しだけ救われた。
「……よろしい」
外の掲示板の前で、子どもたちが笑っている。エメットの声がする。避難灯は、まだ昼間だから光っていない。けれど、あるとわかっているだけで、夕方が来るのを少し怖がらずに済む。
レトリスは青いカップに口をつけた。
熱かった。
舌をやけどしないよう、すぐ離す。
ガニーロも同じように、白いカップから少しだけ飲んだ。
同じテーブルで、同じ熱さに黙る。
それだけのことが、十年前からずっと遠かった。
ヒルドバーグが奥で小さく笑った。オリーンはまだ口を押さえている。サポナーラが外から店を覗き、何か言おうとして、ブルグリンデに襟首を掴まれて連れていかれた。
レトリスは窓に映る自分を見た。
蒼い鞄は足元にある。中には、古い鍵と薄い紙と、食わず嫌い卒業証書。白いカップは今、向かいにある。青いカップは手の中にある。
持つものが入れ替わっても、なくなったわけではない。
渡したものも、戻ってきたものも、ここにある。
「ガニーロ」
「はい」
「この話は」
言いかけて、レトリスは自分で止まった。
ガニーロが少しだけ目を丸くする。
その顔を見て、レトリスはゆっくり息を吐いた。
「いえ。今日は、ここまでです」
「続きは」
「あります」
レトリスは青いカップを置き、窓の外の商店街を見た。
雨で傷ついた看板、掲示板の新しい地図、手すりのある坂、喫茶店へ向かう人の影。どれも現町の今だった。
「ただし、あなたが勝手に先へ進まないなら」
ガニーロはまっすぐにうなずいた。
「一緒に進みます」
レトリスは、その言葉をすぐには受け取らなかった。
急がなくていい。
温かい飲み物は、少しずつ飲むものだ。
青いカップの金色の線が、午後の光の中で静かに光っていた。




