第55話 この話には続きがあって
台風のあと、現町には洗いたての布のような朝が来た。
商店街の石畳には、まだ水の匂いが残っている。けれど泥は掃き出され、看板の隅についた小枝も取り除かれ、喫茶ペアカップの窓には新しい貼り紙が一枚増えていた。
――本日、青鞄電子堂出張作業台あり。手回し避難灯と、迷子にならない鞄を作ります。お茶はこぼさないこと。
最後の一文だけ、ヒルドバーグの字だった。
朝の十時になる前から、青鞄電子堂の前には子どもたちが集まっていた。小学生の背丈に合わせた長机が三つ。はんだごてを使わない組み立て用の部品箱。色の違う反射テープ。小さな電池ケース。雨の日でも見つけやすい笛。鞄の持ち手に結ぶ、青い布の輪。
ガニーロは、いつもの予定表を壁に貼った。
一、部品の名前を覚える。
二、光る仕組みを見る。
三、鳴らす前に周りを見る。
四、困ったら手を上げる。
五、完成したら誰かの鞄も見てあげる。
レトリスはその五番を見て、赤いペンを取り出した。
「ガニーロ」
「はい」
「最後の項目、やさしさで押し切ろうとしています。子どもが全員、誰かの鞄を見て回ったら、帰る時間が遅れます」
「では、時間を決めましょう」
ガニーロがすぐに紙を貼り替える。
五、完成したら、隣の人の鞄を一つだけ確認する。
レトリスは少しだけうなずいた。
「一つだけなら、許します」
「ありがとうございます」
「許したのは項目です。あなたではありません」
「承知しました」
そのやり取りを聞いていた子どもたちが、くすくす笑う。エメットは作業台の前に立ち、胸の前で小さく手を叩いた。
「じゃあ、最初に、部品をなくさない方法からやります。僕は前に、ねじを三つなくしました」
「三つも?」
年下の子が目を丸くする。
「二つは机の下。ひとつはサポナーラさんの靴の中」
「俺の靴は収納箱じゃない!」
店の外で荷物運びをしていたサポナーラが叫び、子どもたちの笑い声が朝の通りに転がった。
オリーンは喫茶ペアカップから、焼きたての小さなパンを運んできた。皿を置くたび、「完成前祝い」「ねじを落とさなかった祝い」「説明を最後まで聞いた祝い」と名前をつける。レトリスが三回目で注意しようとしたが、子どもたちが背筋を伸ばして説明を聞き始めたので、口を閉じた。
ヒルドバーグは店先の丸椅子に座り、自分の湯飲みに先に茶を注いでいた。隣ではロシルドゥアが、参加する子どもの名前と迎えに来る大人の名前を照らし合わせている。欄外には、疲れた子が休む場所、足の悪い祖母が迎えに来る場合の待機席、雨が降ったときに使う屋根つきの道順まで書き込まれていた。
アリシャーは、作業台の脚の高さを測っている。
「そこまで測らなくてもいいんじゃない?」
オバインが言うと、アリシャーは無言で椅子に座り、机の角に膝をぶつけた。
「痛い」
「……説得力の出し方が地味に強いな」
オバインは笑いながら、自分の鞄から小型探索機サブマリンの改良版を出した。水の中へ入れるための機体ではなく、今日は机の下に潜って落とした部品を探すための小さな車輪つきだった。
「出発前の置き土産その一。ねじ探索サブマリン」
「潜っていません」
レトリスが即座に言う。
「名前は気持ちだから」
「気持ちで水路に入れないでください」
「今日は机の下だけにします」
オバインは両手を上げ、子どもたちへ片目をつぶった。町の外へ行く日は、もう決まっている。けれどその顔は、以前より軽かった。現町に残すものと、持って出るものを、自分で選んだからだった。
ブルグリンデは商店街の入口に立ち、新しいハザードマップを貼る位置を直していた。以前なら、観光客の目につきにくい横の柱を選んだだろう。今は正面の掲示板に貼り、上から透明な雨よけをかぶせている。
「危険区域の赤が目立ちすぎませんか」
若い店主が心配そうに言う。
ブルグリンデは地図の端を押さえたまま、首を横に振った。
「目立たない赤は、赤にした意味がありません。ここの店へ来た人が、雨の日にどちらへ逃げればいいか、先に知っておくほうがいいんです」
言い切ってから、彼女は少し照れたように雑巾を畳んだ。
ガニーロはその姿を見て、何か言いかけた。だがレトリスが横から紙袋を差し出す。
「言う前に、これを配ってください」
「何ですか」
「反射テープです。言葉より先に手を動かしてください」
「はい」
ガニーロは笑って紙袋を受け取った。
作業が始まると、青鞄電子堂の中は小さな音で満ちた。ぱちん、と電池ケースが閉まる音。反射テープを切るはさみの音。エメットが「線は無理に曲げないで」と教える声。オリーンが「完成しかけ祝い」を小声で言い、レトリスに睨まれて「完成しかけ確認」に言い直す声。
子どもたちの鞄に、小さな灯りが一つずつついていく。
赤、黄、白、青。
明るさはそれぞれ違う。まっすぐ光るものもあれば、少し斜めに照らすものもある。けれど暗い廊下で誰かの位置を知らせるには、十分だった。
最後の一人がスイッチを入れたとき、店の奥で小さな電子音が鳴った。
レトリスの蒼い鞄だった。
全員の視線が、足元の鞄へ集まる。
レトリスは反射的に鞄を抱えた。
「もう印字機能は停止したはずです」
「はい。停止しました」
ガニーロは工具箱を置き、鞄の留め具を見る。
蒼い鞄は、紙を吐き出さなかった。
かわりに、持ち手に取り付けた試作の小さな灯りが、ふっと点いた。
ほんの豆粒ほどの光だった。けれど朝の店内でも、青い布の輪の奥で、確かにそこにあるとわかる。
エメットが息をのんだ。
「これ、最初の一個ですか」
ガニーロはうなずいた。
「迷子にならない鞄の、最初の灯りです」
レトリスは蒼い鞄を見下ろした。
十年前、完成しなかったもの。
母が鍵を入れ、幼い自分がメモを入れ、ガニーロが基板を作り、雨の日に止まってしまったもの。
それが今、紙ではなく光を出している。
レトリスは指先で、持ち手の青い布に触れた。
「小さいですね」
「はい」
「町中の鞄を光らせるには、数が足りません」
「はい」
「説明書も必要です。高齢者向け、子ども向け、雨の日用、停電時用。鞄につける位置も統一しないと、探す側が迷います」
「作ります」
「一人で?」
ガニーロは、そこで口を閉じた。
店の中の仲間たちが、そろってこちらを見ている。オバインは腕を組み、サポナーラは工具を握り、オリーンは祝いの皿を持ったまま動きを止め、エメットは作業台の向こうでまっすぐ立っていた。
ガニーロはゆっくり首を横に振った。
「一人では作りません」
レトリスは、ようやく満足したように蒼い鞄を肩にかけた。
「よろしい」
そして、作業台の隅に置いていた新しい設計図を広げた。
紙の中央には、青い鞄の形が描かれている。横には、避難灯、反射テープ、笛、連絡先カード、薬を入れる小袋、休憩所までの簡単な地図、雨の日に濡れにくいポケットの位置。子どもが見てもわかるように、線は太く、字は大きい。
ガニーロがその図を見て、目を細めた。
「いつ作ったんですか」
「あなたが青魚サンドを半分に切るのに三分かけていた時です」
「そんなにかけましたか」
「かけました。具の配分を気にしすぎです」
オリーンが小さく吹き出し、ヒルドバーグが湯飲みを置いた。
レトリスは設計図の端を押さえ、ガニーロを見た。
「この話には続きがあって……」
ガニーロは、静かに続きを待った。
以前のように先回りしない。言い訳もしない。工具へ手を伸ばす前に、レトリスの顔を見る。
それだけで、十年分の雨が少し遠くなった。
「次は、町中の鞄を光らせます」
ガニーロは笑った。
すぐに「はい」と言わなかった。
まず、店の中にいる一人一人を見た。エメット、オバイン、オリーン、ヒルドバーグ、サポナーラ、ブルグリンデ、アリシャー、ロシルドゥア。誰の手も、もう余っていないようで、まだ何かを持てる形をしている。
それから、ガニーロはレトリスに向き直った。
「一緒に作りましょう」
蒼い鞄の小さな灯りが、もう一度またたいた。
現町の商店街の外では、新しいハザードマップの前で、通りがかった人が足を止めている。坂道の手すりが朝日に光り、喫茶店の窓には湯気が曇り、子どもたちの鞄には作ったばかりの灯りが揺れていた。
過去の雨は消えない。
割れた線も、待った時間も、言えなかった言葉も、なかったことにはならない。
けれど、そこへ金色の筋を入れることはできる。
暗い道で誰かが迷わないよう、小さな光をひとつ増やすことはできる。
レトリスは蒼い鞄を抱え直し、作業台の上に設計図を広げた。
「では、一番嫌いな人」
「はい」
「まずは、私の鞄から直してください。町中に広げる前に、試作品の持ち主が転んだら困ります」
「転ばないようにします」
「私ではなく、鞄をです」
「両方見ます」
レトリスは一瞬だけ言葉に詰まり、それから、赤いペンで設計図の右上に日付を書いた。
今日の日付。
現町で、次の灯りを作り始めた日。
ガニーロが工具を取り、エメットが部品箱を開け、オリーンがまた何かを祝おうとしてレトリスに止められる。サポナーラは「今度こそ落とさない」とねじを握り、オバインのねじ探索サブマリンが机の下で早くも迷子になった。
笑い声が上がる。
青鞄電子堂の看板が、朝の風で小さく揺れた。
その下で、蒼い鞄の最初の灯りは、まだ頼りない明るさのまま、けれど消えずに光っていた。




