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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第53話 食わず嫌い卒業式

 台風のあと、現町の空は、洗いすぎた白い皿のように明るかった。


 川沿いの柵にはまだ泥の線が残り、商店街の低い通りでは、店主たちが長靴のまま床を磨いている。濡れた段ボールの匂いと、喫茶ペアカップから流れてくる焼きパンの匂いが、午前の風の中で混ざっていた。


 新しいハザードマップは、商店街の入口と役所の掲示板と学校の廊下に貼られた。危険な場所を赤く塗っただけではない。休める店、手すりのある坂、車椅子が回れる角、雨宿りできる軒先、夜でも灯りが届く場所が、細かい字で書き込まれている。


 ブルグリンデは毎朝、掲示板のガラスを拭いた。拭き終わるたび、通りかかった人に「ここは読んでください」と指で示す。前なら言葉を選びすぎて、危険という字を小さくしたかもしれない。今は、読みにくいと言われると、その場で紙を大きく刷り直す。


 ガニーロは、青鞄電子堂の前で手回しライトの箱を並べていた。避難の時に使ったものを点検し、壊れたものは修理済みの箱へ、まだ危ないものは赤い札の箱へ入れる。予定表は今日も細かい。けれど、その端にレトリスの字で、ひとこと足されていた。


 『昼、喫茶ペアカップ。逃げないこと』


 ガニーロはそれを見て、少しだけ首を傾けた。


 「逃げる予定はありませんが」


 店の前を通ったエメットが、工具箱を抱えたまま振り返った。


 「ガニーロさん、そう言う人ほど、予定表の空白に修理を入れます」


 「厳しいですね」


 「レトリスさんに教わりました」


 「良い先生を持ちましたね」


 「はい。怖いけど、良い先生です」


 その言い方があまりにまっすぐだったので、ガニーロは笑い、工具箱の取っ手を確かめてやった。


 昼前、喫茶ペアカップの扉には白い紙が貼られていた。


 『本日、食わず嫌い卒業式。関係者以外も関係者です』


 紙の下には、オリーンの丸い字で、さらに小さく書き足されている。


 『卒業生 レトリス様』


 レトリスはその貼り紙の前で、しばらく動かなかった。


 紺色の雨傘を持つ手が、ほんの少しだけ震える。怒りではない。怒るための言葉を探しているうちに、あまりにも堂々と名前を書かれた自分を見て、どこから注意すればいいのかわからなくなっていた。


 「……オリーン」


 店内から、椅子を引く音と、何かが落ちる音がした。


 「はいっ、いらっしゃいませ卒業生!」


 「私は卒業しません」


 「では、入学からやり直しますか?」


 「そこまで戻すな」


 ガニーロはレトリスの後ろで、そっと貼り紙の端を押さえた。風でめくれた紙の裏には、さらに『雨天決行』と書かれている。


 「雨は降っていませんね」


 「余計なことを言わないで」


 「すみません」


 レトリスは睨んだが、その目には前ほど鋭い棘がなかった。睨む形だけが昔からの癖のように残り、すぐに伏せられる。


 店に入ると、喫茶ペアカップの中央席に白い布がかかっていた。布の上には、青魚サンドが一皿。半分に切られていない、まるごとの一皿だった。


 ヒルドバーグはカウンターの奥で湯を沸かしている。今日は店主らしい黒いエプロンではなく、少し色の薄いエプロンをしていた。袖口に小さな刺繍がある。青いカップと白いカップが並んだ模様だった。


 サポナーラは入口脇に立ち、妙に真面目な顔で紙を持っていた。


 「ただいまより、レトリスさんの食わず嫌い卒業式を始めます」


 「始めなくていい」


 「第一部、開会の転倒」


 「転ぶな」


 言い終わる前に、サポナーラは床に置いた小さな踏み台につまずきかけた。オリーンが横から支え、アリシャーが無言で踏み台を三十センチ横へ移動させる。


 「転倒予定位置を変更しました」


 「予定に入れないでください」


 レトリスの声に、店内の皆が笑った。


 ブルグリンデは窓際の席に座り、きれいに折ったハンカチを膝の上に置いている。来賓祝辞を任されたと自分で言い出したらしく、紙を三枚も用意していた。けれど、レトリスと目が合うと、紙を一枚だけ残して二枚を鞄へ戻した。


 「短くします」


 「助かります」


 「食べる前に長く話されると、パンが乾きますから」


 ヒルドバーグが湯気の向こうから言うと、ブルグリンデは背筋を伸ばしてうなずいた。


 ロシルドゥアは無理のない参加表を作ってきた。店の壁に貼られた紙には、名前を書く欄と、途中で帰る時刻を書く欄と、疲れたら座る席の欄がある。


 オリーンはそれを見て、満面の笑みで言った。


 「途中退席も祝います!」


 「祝わなくていい」


 レトリスはそう返しながらも、紙の端に自分の名前を書いた。帰る時刻の欄には何も書かない。代わりに、疲れたら座る席の欄に『窓際』と書き込む。


 ヒルドバーグがその字をちらりと見て、何も言わず、窓際の椅子に膝掛けを置いた。


 ガニーロは中央席の向かいに座らされた。本人は壁際に退避しようとしたが、オリーンに椅子の背を両手で押され、サポナーラに「主賓の隣席を逃げる罪は重い」と言われ、結局そこに収まった。


 レトリスが座ると、皿の上の青魚サンドが、まっすぐ二人の間に置かれた。


 焼き目のついたパン。薄く塗られた辛子入りのソース。酢で締めた青魚に、刻んだ玉ねぎと青じそ。前なら匂いだけで顔をそむけた。けれど今は、苦手な匂いの中に、雨の日の喫茶店や、避難所で食べた温かいものや、何も言わず半分残しておかれた昼食の記憶が混じる。


 嫌いと言い続けるには、少し情報が増えすぎていた。


 ブルグリンデが咳払いをした。


 「卒業生、レトリスさん。あなたは長らく、青魚サンドを食べていないのに嫌いと言い張っていました」


 「来賓祝辞で事実を殴らないでください」


 「しかし、現町の食文化に対し、ついに正面から向き合う姿勢を示しました」


 「そこまで大きな話ではありません」


 「大きな話です。食べてもいないものを嫌うのは、人にも、町にも、地図にも起こります」


 レトリスは、反論しようとして止まった。


 ブルグリンデは紙を見ないで続けた。


 「私も、修正ハザードマップを食わず嫌いしていました。読まれたら町が嫌われると思った。でも、読まれたから助かった人がいました。知らないまま守ろうとするのは、時々、とても危ない」


 店内が静かになった。


 サポナーラが慌てて拍手しようとしたが、ヒルドバーグが湯飲みを置く音で制した。今は茶化さない方がいい、とその音だけで伝わった。


 レトリスは青魚サンドを見つめた。


 「……私は」


 言葉は、すぐには出てこなかった。


 ガニーロは何も聞かない。皿の向こうで、ただ姿勢を正して待っている。その待ち方が、少し腹立たしかった。十年前も、もっと早く言ってくれればよかったのに。そう思う自分がまだいる。


 けれど同時に、言えなかった言葉の重さを、今はもう少しだけ知っている。


 「私は、青魚サンドが嫌いでした」


 オリーンが小さく息を吸った。サポナーラが紙を持つ手に力を入れる。エメットはカウンターの端で、なぜかはんだごてを握るようにスプーンを握っていた。


 「食べたことがなかったから、嫌いでした。匂いが強いから。町の人が当然みたいに勧めるから。好きになれと言われている気がしたから」


 レトリスは少しだけ顔を上げた。


 「でも、食べたら、思っていたより美味しかった」


 店内で拍手が起きかけた。


 「まだ話している」


 レトリスの一言で、拍手は全員の手の中へ戻った。


 「好きかどうかは、まだわかりません。今日の分を食べてから決めます。明日も食べたいかは、明日決めます。それでいいと思います」


 ヒルドバーグが、湯を注ぎながらうなずいた。


 「いい答えだ」


 「卒業証書、読みますか?」


 オリーンがきらきらした目で紙を持ち上げる。


 「読みません」


 「では、歌いますか?」


 「歌いません」


 「踊りますか?」


 「あなたを喫茶店の外に出しますよ」


 オリーンは両手で紙を抱え、嬉しそうに一歩下がった。


 「卒業生が元気です!」


 笑いが戻った。


 ガニーロはナイフを手に取り、青魚サンドを半分に切ろうとした。いつものように、彼は自然に二つに分けようとしたのだ。十年前から身についている、相手の分を先に考える手つきだった。


 刃がパンに触れる直前、レトリスの手が伸びた。


 「待って」


 ガニーロは止まった。


 レトリスは皿を自分の方へ引いた。


 「今日は、私が注文したんです」


 「はい」


 「私が食べるかどうか決めます」


 「はい」


 「あなたが勝手に半分にしないでください」


 ガニーロは少し考え、ナイフを置いた。


 「わかりました」


 その素直さも、少し腹立たしい。


 レトリスは青魚サンドを両手で持ち上げた。大きい。思っていたより重い。ひと口目の位置を決めるだけで、妙に緊張した。


 かじる。


 パンの表面がさくりと鳴り、青じその香りが鼻に抜けた。魚の酸味と玉ねぎの辛味が、舌の上で少し遅れて広がる。


 やはり、匂いは強い。


 けれど、嫌ではなかった。


 レトリスは黙ってもうひと口食べた。


 オリーンが両手を胸の前で握る。サポナーラは涙ぐんだ顔で紙を見ている。アリシャーは時計を確認し、「一口目から二口目までの時間が短い」と、誰にともなく記録した。


 「記録しないで」


 「今後の説明資料に使えます」


 「使えません」


 レトリスは三口目を食べた。


 皿の上の青魚サンドは、まだ半分以上残っている。


 彼女はガニーロを見た。


 ガニーロは、自分の前に置かれた空の皿を見つめている。手は膝の上。黙って待っている。その姿に、また少しだけ胸が痛んだ。


 待つことは、何もしないことではない。


 レトリスは、それを台風の夜に知った。避難所で住民名簿を確認し、誰がどこにいるかを一つずつ探した。待つ側にも、できることがある。待つ間に壊れないための手順もある。


 十年前の自分には、それがなかった。


 だから、ただ待って、ただ傷ついた。


 今は違う。


 レトリスは青魚サンドを皿に戻し、ナイフを取った。真ん中ではなく、少し大きめに自分の側を残して切る。


 ガニーロの皿に、小さい方をのせた。


 店内が一瞬で静まり返る。


 ガニーロは、その小さい半分を見た。


 「これは」


 「分けただけです」


 「ありがとうございます」


 「勘違いしないでください」


 「はい」


 「世界で一番嫌いな人と半分こするほど、私は大人じゃない」


 レトリスはそう言って、皿を押し戻した。


 つまり、半分ではなかった。


 ほんの少しだけ分けたのだ。


 ガニーロは、笑わなかった。


 ただ、小さい青魚サンドを両手で持ち、大事そうにひと口食べた。


 「美味しいですね」


 「知っています」


 「卒業ですね」


 「まだ仮卒業です」


 「では、卒業見込みですか」


 「あなたは言葉を増やさないで」


 オリーンが我慢しきれず、テーブルの横へ卒業証書を差し出した。


 そこには、こう書かれていた。


 『あなたは、食べてもいないものを嫌う段階を、少しだけ通り過ぎました。今後も、嫌いと言う前に、ひと口ぶん考えることをここに祝います』


 レトリスはしばらく証書を見た。


 「……文章が長い」


 「短くしますか?」


 「いえ」


 彼女は紙を受け取った。


 「これは、もらいます」


 オリーンの顔がぱっと明るくなった。


 その時、カウンターの上に置かれていた蒼い鞄から、小さく電子音が鳴った。


 全員の視線が、ほぼ同時にそちらへ向く。


 「止めたはずでは」


 アリシャーが眉を寄せる。


 「電源は抜いてあります」


 ガニーロが立ち上がりかけたが、レトリスが手で制した。


 「待って」


 蒼い鞄の内側から、細い紙が少しだけ出てきた。故障というには穏やかで、暴走というには遠慮がちな動きだった。


 レトリスは紙を引き抜く。


 印字は薄い。けれど、読める。


 『嫌いをひと口かじったら、まだ名前のない味がした。次に会う時まで、残しておいて』


 誰も、すぐには声を出さなかった。


 サポナーラが鼻をすすり、オリーンが両手で口を押さえ、ヒルドバーグが湯飲みを二つ、テーブルへ置いた。


 レトリスは紙を折りたたんだ。


 「……これは、公開しません」


 「はい」


 ガニーロは静かにうなずいた。


 「読みましたよね」


 「読めてしまいました」


 「忘れてください」


 「努力します」


 「努力ではなく、成功してください」


 「難しいですね」


 レトリスは睨んだ。


 ガニーロは、ほんの少しだけ笑った。


 その笑顔を見ても、胸はもう、昔のように尖らなかった。許したわけではない。すべてが片づいたわけでもない。けれど、嫌いという言葉だけで隠すには、あまりにもたくさんの時間が増えていた。


 青魚サンドは、まだ皿に残っている。


 レトリスは自分の分をもうひと口食べた。


 ガニーロは小さい方を、ゆっくり食べる。


 外では、子どもたちが新しいハザードマップの前で、手すりのある坂を指差していた。エメットがその横に立ち、得意げに避難灯の説明をしている。オバインから届いたばかりの短い手紙は、青鞄電子堂の机の上に置かれているという。


 現町は、少しずつ動き出していた。


 喫茶ペアカップの窓際で、レトリスは卒業証書を鞄にしまった。蒼い鞄の中には、ペアカップの片割れ、古い鍵、薄く印字された紙、そして今日の証書が入る。


 重さは増えた。


 けれど、持てない重さではなかった。


 ヒルドバーグが二人の前に、青いカップと白いカップを置いた。


 「卒業祝いだ。飲んでいきな」


 レトリスは白いカップを見た。


 ガニーロは青いカップを見た。


 まだ、急ぐ必要はない。


 熱い飲み物は、急いで飲むと舌をやけどする。


 レトリスはカップを両手で包み、少しだけ息を吹きかけた。


 「ガニーロ」


 「はい」


 「次に青魚サンドを食べる時は」


 「はい」


 「勝手に半分にしたら、怒ります」


 「では、どうしますか」


 レトリスは、窓の外の明るさを見た。


 雨上がりの現町に、濡れた看板が光っている。


 「私が、決めます」


 ガニーロはうなずいた。


 「わかりました」


 その返事は、約束に似ていた。


 卒業式は、派手な拍手では終わらなかった。


 青魚サンドの皿が空になり、湯飲みの底に少しだけ茶が残り、オリーンが証書の控えを大事そうにしまい、サポナーラが転倒予定の踏み台を片づけた時、レトリスはようやく立ち上がった。


 蒼い鞄を肩にかける。


 以前より、少しだけ軽く感じた。


 店を出る前、彼女は振り返らずに言った。


 「ごちそうさまでした」


 ヒルドバーグが笑う。


 「またおいで」


 レトリスは短くうなずいた。


 そして、誰にも聞こえないくらいの声で、つけ足した。


 「……たぶん、また食べます」


 その声を、ガニーロだけが聞いていた。


 けれど彼は、何も言わなかった。


 ただ、店の外へ出るレトリスの少し後ろを、同じ歩幅で歩き出した。



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