第52話 オバインの出発前夜
町工場の奥で、古い扇風機が低い音を立てて回っていた。羽根にこびりついた細かな埃が、乾ききらない油の匂いをかき混ぜている。外では、台風の後片づけを終えた商店街の看板が、まだところどころ曲がったまま夕風を受けていた。
オバインは作業台の前で、サブマリンの腹を開けていた。
小型探索機の外装には、濁った水の跡が薄く残っている。水没しかけた地下通路を進み、老犬と飼い主を見つけた時についた傷も、完全には消えていない。丸いライトの縁には、石にぶつけた小さな欠けがあった。
彼はその欠けを親指で撫で、工具箱から細い筆を取った。
塗料の缶を開ける。
ふたの内側に残った銀色が、夕方の光を拾って少しだけ光った。
「おまえ、けっこう無茶したよな」
誰もいない作業場で、オバインはサブマリンに向かって言った。
返事はない。
その代わり、床に置いてある段ボール箱の中で、書類の束がかさりと鳴った。
町外の精密機器会社から届いた封筒。入社日の案内。必要書類。寮の説明。初日の持ち物。どれも白い紙で、どれも現町の泥の匂いがしなかった。
オバインは塗料を筆先に含ませ、サブマリンの傷にそっと塗った。
塗ったそばから、傷の線は少しだけ目立たなくなる。だが完全には消えない。
彼はそれでいいと思った。
消えないほうが、どこを通ってきたか覚えていられる。
作業場の入口で、ぎい、と引き戸が鳴った。
「まだ明かりがついていると思ったら」
ガニーロが紙袋を片手に立っていた。
「閉店後の工場に入る時は、もう少し泥棒っぽく来いよ」
「泥棒は焼き菓子を持ってきません」
「じゃあ善良すぎる不審者」
「その表現は、ロシルドゥアさんに聞かれたら訂正されます」
ガニーロは作業台の隅に紙袋を置いた。中から、喫茶ペアカップの焼き菓子が顔を出す。台風後の片づけを終えたヒルドバーグが、閉店前に焼いたものだった。
オバインは筆を置き、椅子の背にもたれた。
「差し入れ?」
「はい。明日、出ると聞いたので」
「誰から」
「オリーンさんです」
「口が軽いな、あの人」
「祝う準備をしていました」
「まだ出発前夜だぞ」
「前夜も祝えるそうです」
オバインは顔をしかめた。けれど、紙袋から漂う甘い匂いに負けて、一つ取り出した。
表面に小さな青い砂糖粒がついている。
「なんだこれ」
「サブマリン型のつもりらしいです」
「丸いじゃん」
「丸いサブマリンです」
「雑だな」
「でも、オバインさんの名前を書き忘れないよう、袋の裏に三回書いてありました」
オバインは紙袋を裏返した。
たしかに、油性ペンで大きく「オバインへ」と書かれている。さらにその下に「出発前夜用」「明日の朝用」「さびしくなったら用」と、三つの矢印が引かれていた。
彼は笑ってしまった。
笑うと、胸の奥に引っかかっていたものが少し揺れた。
「さびしくなったら用って、なんだよ」
「本人に聞いたら、『説明すると照れるから食べてください』とのことでした」
「説明してるようなもんだろ」
焼き菓子をかじると、香ばしさのあとにほんの少し塩気が来た。甘すぎない味だった。
オバインはサブマリンを見た。
「これ、置いていくつもりだった」
ガニーロは椅子を一つ引き寄せ、腰を下ろした。
「サブマリンをですか」
「ああ。現町で作ったし、現町で役に立った。だったら、こっちに残したほうがいいかなって」
「持っていくべきだと思います」
ガニーロの返事は早かった。
オバインは焼き菓子を持ったまま、彼を見る。
「遠慮とかしないのかよ」
「しません」
「俺がいなくなった後、また地下通路を見る時どうするんだ」
「別の機体を作ります」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。でも、作れます。エメット君も手伝えます。アリシャーさんの図面もあります。サポナーラさんは失敗例を増やしてくれます」
「最後のやつ、手伝いに入れていいのか」
「入れます。失敗の記録は大事です」
オバインは肩をすくめた。
ガニーロは、作業台の上に置かれたサブマリンを見つめた。
「その機体は、オバインさんが町の外へ持っていく技術です。現町に残すより、外で使って、外の水路や地下道や工場でまた傷を増やして、いつか戻ってきて見せてください」
「戻ってこいってことか」
「戻ってこなくてもいいです」
オバインの目が少しだけ細くなった。
ガニーロは言葉を続ける。
「でも、つながっていてください。図面でも、部品でも、失敗報告でもいいので」
「失敗報告を待つなよ」
「待ってはいません。ただ、来たら読みます」
「それが待ってるってことだろ」
ふたりの間で、扇風機の音がまわる。
工場の壁には、古い工具が並んでいた。錆びたスパナ。持ち手の黒ずんだドライバー。何度も直した跡のある金づち。町工場の跡取りとしてオバインが小さい頃から見てきた道具だった。
彼は、いつかこの壁の前で、自分の未来はこの町の中に閉じ込められるのだと思ったことがある。
父の背中。工場の音。毎日同じように流れる商店街。
それらが嫌いだったわけではない。
ただ、自分の手でまだ見たことのない機械を作ってみたかった。海の向こうではなくても、川向こうの工場でも、もっと遠い研究室でも、現町では見たことのない部品に触れてみたかった。
その願いを口にすると、町を捨てるみたいに聞こえそうで、ずっと言えなかった。
「レトリスにも同じこと言われた」
オバインは焼き菓子の欠片を指で払った。
「未来を選ぶことと町を捨てることは違うってさ」
「レトリスさんらしいです」
「その後に『ただし、逃げ道を塞ぐような出発なら減点です』って言われた」
「もっとレトリスさんらしいです」
「減点の単位、なんなんだろうな」
「紙束二往復分では」
「重いな」
「町を載せていますから」
オバインは声を出して笑った。
その時、工場の入口が再び開いた。
「やっぱりここにいた!」
オリーンの声が、作業場に明るく飛び込んできた。後ろからエメット、サポナーラ、アリシャー、ロシルドゥア、レトリスが続く。ヒルドバーグは少し遅れて、湯気の立つポットを持って入ってきた。
オバインは椅子から半分立ち上がった。
「おい、何人で来てんだ」
「出発前夜用の焼き菓子が、ちゃんと出発前夜に食べられているか確認です」
「監査かよ」
「祝福です」
オリーンは胸を張った。
「祝福にしては人数が多い」
「人数が多い祝福です」
レトリスが、濡れていない傘をきちんと畳んで壁際に置いた。
「騒ぎに来たのではありません。確認事項があります」
「前夜に役所の確認か」
「はい」
「まじめか」
「当然です」
彼女は鞄から薄い封筒を出した。
「サブマリン二号機作成に関する部品表です。あなたが町外へ行った後も、現町で最低限の点検ができるように、必要部品、代替部品、購入先、注意点をまとめてください」
「今から?」
「今からではありません。明日の電車内で書けます」
「旅情がない」
「旅情より保守性です」
サポナーラが手を上げた。
「俺、失敗例なら書けるぞ。防水パッキンを逆に入れると、見た目だけ頼もしい水没箱になる」
「頼もしくないですね」
ロシルドゥアが即座に言った。
エメットはサブマリンに近づき、傷を塗ったばかりの部分を覗いた。
「持っていくんですか」
その声には、少しだけ不安が混じっていた。
オバインは、わざと軽い調子で答える。
「持っていく。こいつは、俺が外で迷子にならないための機械だからな」
「水路用なのに?」
「人生にも水路みたいな場所があるんだよ。濁ってて、狭くて、曲がり角だらけで、たまに老犬が映る」
「老犬は毎回いません」
アリシャーが静かに言った。
「例えだよ」
「例えでも、地形条件は正確に」
「おまえも旅情を返せ」
皆が笑う。
その笑いの中で、エメットだけはサブマリンを見続けていた。
「二号機、僕も作っていいですか」
作業場が、ふっと静かになった。
エメットは、すぐに言い直さなかった。
以前なら、誰かの後ろについて歩く言葉を選んだかもしれない。ガニーロが作るなら手伝う。オバインが教えるなら見る。レトリスが必要だと言うならやる。
けれど今、彼は自分の足で一歩前に出るように、言葉を置いた。
「一号機がいなくても、次を作れるようになりたいです」
オバインは筆を手に取った。
そして、サブマリンの腹の裏側に、小さく文字を書いた。
「現町一号」
続けて、少し間を空けてから、もう一行。
「二号はエメット」
「え」
「先に予約しとく。名前を雑につけられる前にな」
オリーンが両手を上げる。
「わたし、『帰ってきたぬめぬめ号』にしようと思っていたのに!」
「阻止成功」
「惜しい名前でした」
サポナーラがうなずき、レトリスが即座に首を横に振った。
「惜しくありません。避難機材として不適切です」
「では、『現町二号』ですね」
エメットが言うと、オバインは筆を振った。
「いや、作るやつが決めろ。俺が決めるのは予約だけだ」
「予約って、名前じゃないんですか」
「おまえが逃げずに作る予約」
エメットは少し困った顔をした。
それから、小さくうなずいた。
「じゃあ、作ります」
「失敗するぞ」
「はい」
「水漏れするぞ」
「直します」
「部品をなくすぞ」
「探します」
「サポナーラが変な助言をするぞ」
「それは、必要なら断ります」
「いい答えだ」
「ひどいな!」
サポナーラが抗議する横で、ヒルドバーグが紙コップに温かい茶を注いだ。
「別れの席で騒ぐ元気があるなら、明日の朝も起きられるね」
「それが一番の難関だな」
オバインが言うと、レトリスが懐から小さな紙を出した。
「時刻表です。朝六時三十二分、現町駅発。五時五十分に工場前集合。遅れた場合、サポナーラさんが迎えに行きます」
「なんで俺なんだ」
「大声だからです」
「納得しづらい理由で納得できる」
オバインは時刻表を受け取り、作業台に置いた。
白い紙の上に、青いペンで小さな印がついている。現町駅から、隣の市、さらにその先へ続く線。
それは新しいハザードマップの線とは違った。避難するための線ではない。
けれど、これもまた、迷わないための線だった。
ロシルドゥアが、工場の片隅に置かれた段ボール箱を見た。
「荷物、これだけですか」
「ああ。工具と服と書類。あとはサブマリン」
「食べ物は」
「駅で買う」
「だめです。朝は混みます。焼き菓子は三つに分けてあります。出発前、電車内、さびしくなった時用」
「それ、さっき聞いた」
「聞いたなら守れます」
ヒルドバーグが、さらに紙袋を一つ出した。
「これは、戻ってくる時用」
オバインは受け取らなかった。
両手を膝の上に置き、しばらくその紙袋を見た。
「戻るって決めて出るのは、なんか違う気がする」
工場に静けさが落ちた。
ヒルドバーグは紙袋を引っ込めない。
「戻らなくても、食べればいいよ」
「名前が戻ってくる時用だろ」
「心が戻ってくる時もある」
オバインは目をそらした。
扇風機の風で、時刻表の端が少しめくれる。
レトリスが指で押さえた。
ガニーロは何も言わず、サブマリンのライトを小さく点けた。
薄い光が、作業台の上に線を作る。
濁った水の中では頼りないほどの光。けれど、暗闇の中で進むには十分な光。
オバインはようやく、ヒルドバーグの紙袋を受け取った。
「じゃあ、これは心が戻ってきた時用な」
「うん」
「食う日がなかったら」
「賞味期限内に食べな」
「急に現実的だな」
「食べ物だからね」
皆がまた笑った。
笑い終えた後、オバインはサブマリンの腹を閉じた。ねじを一本ずつ締める。強すぎず、弱すぎず。水の中で外れないように。次に開ける人が困らないように。
最後のねじを締めた時、彼は小さく息を吐いた。
工場の壁に並ぶ古い工具が、夕闇の中で静かに光っている。
「俺さ」
彼は作業台を見たまま言った。
「この町を出るって言ったら、誰かに止められると思ってた」
誰も、すぐには返事をしなかった。
「止められたら、ちょっと安心したかもしれない。俺は必要なんだって思えるから」
オバインは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「でも、誰も止めないんだな」
ガニーロが、ゆっくり顔を上げた。
「止める必要がないからです」
「冷たいな」
「違います。オバインさんが必要だから、外へ行ってもらうんです」
オバインは彼を見る。
ガニーロの声は、いつものように大きくない。だが、工具箱の底に残った重いねじのように、そこに落ちた。
「現町で生まれた技術が、現町の中だけで終わらないほうがいいです。外で覚えたことが、いつか誰かを助けるかもしれない。ここへ戻るか戻らないかではなく、オバインさんが作るものの行き先が増えることが大事です」
アリシャーが、静かにうなずいた。
「外の排水設備を見たら、寸法を送ってください。比較します」
「旅先の土産が寸法かよ」
「正確な土産です」
ロシルドゥアが手帳を開く。
「困った時の連絡先は一覧にしてあります。体調が悪い時、書類で困った時、寂しい時で分けました」
「寂しい時まで表にするな」
「見やすいほうが使いやすいです」
サポナーラが胸を叩く。
「俺には、失敗した時に連絡しろ。俺より派手なら褒める」
「褒める基準がおかしい」
オリーンは紙袋をさらに一つ出した。
「これは成功した時用!」
「どんだけ焼いたんだよ」
「ヒルドバーグさんが」
「人の手柄で胸張るな」
「でも名前はわたしが書きました」
「そこは手柄かもしれない」
レトリスは最後に、薄い青の封筒を差し出した。
オバインは受け取り、中を見ようとして止まった。
「何これ」
「迷子にならない鞄の設計図の写しです」
工場の空気が少し変わった。
「まだ完成していません。けれど、あなたなら別の形にできるかもしれない。水路用ではなく、工場用でも、通学用でも、見知らぬ土地で不安になる人用でもいい」
「俺が持ってていいのか」
「はい。ただし、勝手に赤面ポエムを印字する機能は削ってください」
「そこは必要だろ」
「不要です」
「絶対いるって。外で一人暮らししてるやつの本音を雑に印字する鞄、売れるぞ」
「売ってはいけません」
「じゃあ、印字しないけど、焼き菓子の残量を警告する機能は」
「検討します」
「そこは検討するのかよ」
レトリスは少しだけ唇の端を上げた。
「食料は重要です」
オバインは封筒を胸ポケットに入れた。
サブマリンの光が、そのポケットの縁を照らす。
町を出る準備は、出ていくためだけのものではなかった。
つながっていくための準備でもあった。
工場の外で、商店街の灯りが一つずつ点き始める。新しいハザードマップの掲示板にも、小さな青い灯りがともった。風に揺れる紙を、誰かが押さえ直したのだろう。
オバインはサブマリンを両手で持ち上げた。
見た目より重い。
傷もある。水の匂いも残っている。内部には、エメットがつけた予備線、ガニーロが直した通信部品、アリシャーが書いた番号、サポナーラが逆向きに入れかけたパッキンの跡がある。
そして、腹の裏には「現町一号」と「二号はエメット」。
オバインは、それを抱えたまま言った。
「持っていく」
誰も拍手しなかった。
その代わり、オリーンだけが小さく両手を握り、ぐっとこらえる顔をした。
「拍手、今はなし?」
サポナーラが聞く。
「明日の朝」
ヒルドバーグが答えた。
「今日は早く寝る日だよ」
「寝られるかな」
オバインがつぶやくと、レトリスが時刻表をもう一度指で押さえた。
「寝られなくても、五時五十分集合です」
「鬼か」
「防災担当です」
「それは関係あるのか」
「時間厳守は関係あります」
ガニーロが紙袋を一つ、サブマリンの横に置いた。
「これは、僕からです」
中には、小さな工具セットが入っていた。持ち手に青い布が巻かれている。
「古いやつじゃないか」
「はい。僕が最初に父から借りた工具です。欠けもありますが、使えます」
「そんなもん、くれるなよ」
「貸します」
「いつ返せばいい」
「いつか、次の機械を見せてくれる時に」
オバインは工具セットを見つめた。
返す約束がある。
戻る約束ではない。けれど、どこかへつながる約束だった。
彼は工具を受け取った。
「壊したら?」
「直してください」
「なくしたら?」
「探してください」
「返せなかったら?」
ガニーロは少し考えた。
「その時は、工具の話には続きがあって、と手紙を書いてください」
オバインは笑った。
笑いながら、目の奥が熱くなった。
「おまえ、本当に面倒くさいな」
「よく言われます」
「誰に」
レトリスがすぐに手を上げた。
「私です」
「即答かよ」
「事実です」
工場に、また笑いが戻った。
出発前夜は、思っていたより騒がしく、思っていたより温かく、思っていたより重かった。
オバインはサブマリンを箱に入れないことにした。
明日の朝、駅まで抱えていく。少し目立つだろう。電車の中で隣の人に変な顔をされるかもしれない。
それでもいい。
これは、現町に置いていくものではない。
現町から持っていくものだ。
やがて皆が帰り、工場にはオバインだけが残った。
扇風機を止めると、急に静かになった。
彼は時刻表をたたみ、青い封筒と一緒に鞄へ入れた。焼き菓子の袋を三つに分け、ロシルドゥアの連絡先一覧を財布へ入れ、ガニーロの工具セットをサブマリンの横に置く。
最後に、作業場の壁を見た。
錆びた工具。古い油染み。父が残したままの棚。自分が失敗して焦がした木片。
ここに閉じ込められていたわけではなかった。
ここから、出発するのだ。
オバインは照明を落とした。
暗くなった作業台の上で、サブマリンの小さなライトだけが、まだうっすら光っている。
その光は、濁った水の中を進む時よりも弱く、けれど遠くへ行くには十分だった。
彼は入口の鍵を閉める前に、工場の中へ向かって軽く手を上げた。
「行ってくる」
返事はない。
でも、扉の向こうの商店街には、新しい地図の灯りが見えていた。
オバインはサブマリンを抱え直し、明日の朝へ続く道を、ゆっくり歩き始めた。




