第51話 新しいハザードマップ
台風が去った翌々日の朝、現町役所の一階会議室には、乾いた紙の匂いと、まだ乾ききらない泥の匂いが同居していた。
窓は半分だけ開いている。外からは、側溝をさらう金属の音、濡れた看板を立て直す木槌の音、遠くで誰かが笑う声が入ってくる。ひどい雨のあとだというのに、町は眠りこけてはいなかった。ゆっくり起き上がり、膝についた泥を払いながら、次に歩く場所を探している。
長机の上には、刷り上がったばかりの地図が何枚も広げられていた。
タイトルは、ただの事務的な文字ではない。
『現町 新しい避難地図』
レトリスはその文字を指でなぞった。印刷機の熱がまだ紙に残っている。黒い線も、青い線も、赤い囲みも、昨日までの雨を忘れたように鮮やかだった。
けれど、その地図はきれいなだけではなかった。
低い通りは、赤い斜線で示されている。雨が続くと水がたまりやすい側溝には、小さな水滴の印。夜になると暗くなる角には、ガニーロが描いた豆電球の印。手すりのある坂には、細い緑の線。車椅子が回れる幅のある道には、丸い車輪の印。雨宿りできる軒先には、小さな屋根の印がついている。
さらに、避難所へ向かう途中で腰を下ろせる場所には、湯飲みの印があった。
レトリスはその印を見て、眉をひそめる。
「この湯飲み、誰が採用したんですか」
横で地図の端を押さえていたガニーロが、目をそらした。
「避難途中に休める場所を、ぱっと見てわかるようにしたほうがいいと思いまして」
「湯飲みである必要は」
「ヒルドバーグさんの店を基準にしました」
「現町中の休憩場所が喫茶ペアカップ扱いになります」
奥の机でホチキスを握っていたオリーンが、勢いよく手を上げた。
「いいじゃん。休めるところ全部、心のペアカップで」
「心のペアカップという分類を、公式地図に載せないでください」
「じゃあ、心を消して、ペアカップだけ」
「もっと駄目です」
サポナーラが段ボール箱から顔を出す。
「湯飲みが駄目なら、俺の似顔絵はどうだ。休める場所に俺の笑顔があると、子どもが覚える」
「避難速度が落ちます」
「即答だな」
レトリスの言葉に、会議室の空気が少し軽くなった。泥の匂いの中で笑いが揺れる。昨日までの張りつめた声とは違う。誰もが疲れているのに、疲れているからこそ、笑える隙間を探していた。
アリシャーは無言で定規を当て、地図の余白へ小さく修正の印をつけていた。彼の前には、歩行速度の表、階段の段数、坂道の角度、車椅子で曲がる時の必要な幅を書き込んだノートが積まれている。
レトリスはそれを見て、少しだけ姿勢を正した。
「アリシャーさん。南側の坂、手すりの印が二本ありますが」
「実際には一本です」
「では、なぜ二本」
「上りと下りで使える手すりが違います。右手を使いやすい方と、左手を使いやすい方で、避難のしやすさが変わります」
アリシャーはそこで、ようやく顔を上げた。
「一本に見えても、人によっては一本では足りません」
レトリスは返事をする前に、地図を見直した。たしかに、線は少しずれている。坂の左右に、別々の緑が引かれていた。紙の上では細い差だった。けれど、雨の日に杖をつく人にとっては、その細さが帰れるかどうかを分ける。
「採用します」
レトリスが言うと、アリシャーは小さくうなずいた。
派手な返事ではない。だが、彼のノートの角がほんの少しだけゆるむのを、ガニーロは見逃さなかった。
会議室の入口では、ロシルドゥアが避難支援名簿を確認していた。名簿は以前より薄くなっている。一人で抱えていた欄を、近所の店、自治会、福祉窓口、喫茶ペアカップ、青鞄電子堂で分けたからだ。
彼女は赤鉛筆で二重丸をつけ、ため息をつく。
「休憩場所の印、増えましたね」
「多すぎますか」
レトリスが尋ねると、ロシルドゥアは首を横に振った。
「少なすぎるくらいです。途中で座っていいと書いてあるだけで、歩ける人がいますから」
その言葉に、ヒルドバーグが持ってきた紙袋を机へ置いた。
中身は、個包装の焼き菓子だった。災害後の片づけを手伝う人たちへの差し入れらしい。包装紙には、手書きで『ひとつ食べたら五分座ること』と書かれている。
「地図に書くだけでは足りない。座る口実も要る」
ヒルドバーグはそう言って、自分の分を先にひとつ取った。
オリーンが目を丸くする。
「店長、先に食べるの?」
「配る人が倒れたら困る」
「名言みたいに言ってるけど、焼き菓子が食べたいだけじゃない?」
「それもある」
ヒルドバーグはためらいなく答え、焼き菓子を割った。ぱきり、という乾いた音がした。その音に、ロシルドゥアがふっと笑う。
レトリスは地図の左下へ目を移した。そこには、喫茶ペアカップ、青鞄電子堂、町工場の空き倉庫、商店街振興会の小さな事務所、役所の裏口、学校の昇降口が、雨宿りできる軒先として記されている。
ブルグリンデは、その一覧をじっと見ていた。
以前なら、彼女は商店街の危険区域が広く塗られることに眉をつり上げただろう。客足が遠のく。評判が落ちる。そんな言葉を先に並べていたはずだ。
だが今日は、違った。
彼女は自分の店の名前が入っている行に、青いペンで小さな丸をつけた。
「入口の段差、ここにも書いてください」
レトリスが顔を上げる。
「危険箇所として、ですか」
「ええ。店の前の石、雨の日は滑ります。今までは、見栄えが悪いから張り紙を外していたけれど……次は外しません」
ブルグリンデは、地図から目をそらさなかった。
「危ないものを危ないと書いても、町は終わらない。昨日、わかったから」
会議室の端で、サポナーラが無言で拍手しようとした。だが、ホチキスの針箱を持っていたため、片手だけが空しく上下した。
オリーンが代わりに拍手した。ぱちぱちと、二回。すぐにブルグリンデににらまれて、三回目で止まった。
「祝わなくて結構」
「でも、祝いたい顔してるよ」
「していません」
「じゃあ、してない記念」
「何でも記念にしない」
会議室にまた笑いが起きた。
ガニーロはその笑いの間に、刷り上がった地図の一枚を手に取った。
以前、彼が一人で作っていた手書きの地図は、線が細かすぎた。段差、溝、暗い角、雨水のたまり方。全部を書こうとして、初めて見る人には読みにくい紙になっていた。
今、目の前にある地図は違う。
レトリスの厳しい線があり、アリシャーの正確な数字があり、ロシルドゥアの名簿から出た生活の道があり、ブルグリンデが認めた危険があり、ヒルドバーグの休むための印がある。オバインの水路調査で見つけた古い避難標識も、サポナーラの雨合羽講座で子どもが覚えた目印も、エメットが灯した避難灯の位置も入っていた。
一人の地図ではない。
現町で、雨の中を歩いた人たちの地図だった。
「ガニーロ」
レトリスに呼ばれ、彼は顔を上げた。
「青鞄電子堂の前、電球の印が三つあります」
「はい」
「三つも必要ですか」
「一つは入口。もう一つは横の路地。最後の一つは、看板です」
「看板」
「夜、青い鞄の形が見えると、迷った子どもが目印にできます」
レトリスはすぐには否定しなかった。地図のその部分をじっと見る。
青鞄電子堂の看板は、古びてはいるが、雨の後でも落ちずに残っていた。あの看板を目印にした子どもが、店へ駆け込んでくるかもしれない。知らない大人に声をかけるのが怖い時でも、光っている鞄なら、少しは近づけるかもしれない。
「……採用します」
ガニーロの肩が、ほんの少し下がった。
そこへエメットが、印刷した地図の束を抱えて入ってきた。背が低いため、紙束の上から目だけがのぞいている。
「これ、学校用ですか」
「ええ。先生方へ渡す分です」
「じゃあ、避難灯の印を大きくしてください」
レトリスは瞬きをした。
「理由は」
「小さい子は、地図の細かい字を読まないです。でも、光の絵なら見ます」
エメットは、紙束を机へ置いた。腕が少し震えている。無理に持った重さだったらしく、オリーンがあわてて半分を受け取った。
「なるほど」
レトリスは赤鉛筆を持ち、避難灯の印に丸をつけた。
「大きくします」
エメットの顔が明るくなった。けれど、得意げに胸を張る前に、ガニーロが言う。
「次から重い紙束は二回に分けて運ぶこと」
「はい」
「腕が疲れると、はんだごてを持つ時に手がぶれる」
「はい」
「あと、廊下の角で一回滑っていましたね」
「見てたんですか」
「見ていました」
「転んでません」
「転ぶ前の顔はしていました」
エメットは唇を尖らせたが、反論しなかった。
レトリスはそのやり取りを聞きながら、地図の余白に『学校配布版は避難灯印を大きくする』と書き込んだ。
この地図は、一枚で終わらない。学校用、高齢者向け、商店街掲示用、夜間避難用。見る人によって、必要な大きさも、言葉も、印も変わる。
以前のレトリスなら、正確な一枚を作れば十分だと思ったかもしれない。
けれど、正しいだけの紙を渡されても、足がすくむ人がいる。怖いと言えない人も、読めない字を読めるふりをする人も、荷物を置いて逃げる決断ができない人もいる。
地図は命令ではない。
逃げるための手すりだ。
そう思った時、レトリスは紙の端をそっと押さえた。
ガニーロが隣で、印刷機の音を聞いている。昨夜の「あなたを想う時間」の紙は、今はレトリスの鞄の内ポケットにしまわれていた。公開禁止。写し禁止。けれど、消したわけではない。
消さずに、しまう。
危険な場所も、痛かった記憶も、同じなのだろう。
見えないふりをして町をきれいに見せるより、印をつけて、次に通る人へ伝える。
「レトリスさん」
ブルグリンデが、少し固い声で呼んだ。
「商店街入口の掲示板、一番大きい地図を貼ります。危険区域も、隠さずに」
「ありがとうございます」
「ただし」
ブルグリンデは人差し指を立てた。
「湯飲みの印は、もう少し品よくしてください。あれでは、町全体が茶飲み休憩所です」
ヒルドバーグが、焼き菓子をもう一つ割った。
「悪くない」
「悪いです」
ブルグリンデが即答する。
オリーンが笑いながら、湯飲みの印を別紙にいくつも描き始めた。ひとつは湯気が三本。ひとつは二本。ひとつはなぜか取っ手が二つある。
「これは?」
「ペア湯飲み」
「却下です」
「早い」
「避難地図です」
「でも、かわいいよ」
「かわいさは、二次的な価値です」
レトリスが言うと、ガニーロが静かに紙を一枚差し出した。
そこには、小さな屋根の下に湯飲みが置かれた印が描かれていた。屋根は雨宿り、湯飲みは休憩。二つの意味がひと目でわかる。
レトリスはそれを見て、少しだけ口元をゆるめた。
「採用します」
「ありがとうございます」
「ただし、ガニーロさん」
「はい」
「この湯気が、ハートに見えます」
ガニーロは紙を見直した。
たしかに、湯気の先が偶然にも二つ重なり、丸みのある形になっている。
「湿度です」
「台風の夜、避難施設でも聞いた言い訳です」
「では、蒸気です」
「言い換えただけです」
サポナーラが腹を抱えて笑い、エメットが真似して「蒸気です」と小声で言った。ブルグリンデがそれを聞きつけ、「公式掲示前に余計な言葉を覚えない」と注意する。
役所の印刷機が、また一枚、地図を吐き出した。
紙の上に、現町の線が増えていく。
危険な場所もある。回り道もある。水が上がる通りも、暗い角も、立ち止まれる軒先も、誰かが手を貸してくれる店もある。
完璧な町ではない。
けれど、逃げ方を一緒に考えられる町にはなった。
午後になると、商店街入口の掲示板に、一番大きな地図が貼られた。
ブルグリンデは脚立の上に立ち、端を曲げないよう慎重に押さえている。下ではサポナーラが脚立を支え、必要以上に真剣な顔をしていた。
「揺らすな」
「揺らしてない。俺の心が揺れてるだけだ」
「心ではなく脚立を見なさい」
「はい」
通りを歩く人たちが足を止めた。
子どもが避難灯の印を指差す。年配の女性が、手すりのある坂を確認する。買い物袋を抱えた男性が、雨宿りできる軒先の印を見て、「ここ、うちの店も出していいか」とブルグリンデに声をかける。
ブルグリンデは脚立から降り、少しだけ胸を張った。
「入口の段差を直したら、申請を出してください」
「段差も書くのか」
「もちろんです。隠して転ばれたら、うちの商店街の名折れです」
その言葉に、レトリスは目を伏せた。
責めるための地図ではなく、次に間に合うための地図。
ブルグリンデは、その意味を自分の言葉で掴み直したのだ。
夕方、青鞄電子堂の看板に小さな電球が取りつけられた。
エメットが脚立の下で工具を持ち、ガニーロが配線を確認し、オバインが離れた場所から「そこ、固定が甘い」と口を出す。町を出る準備を進めているはずのオバインは、今日も結局、最後まで現町にいる。
「出発の荷造りは」
レトリスが尋ねると、オバインはサブマリンのケースを抱え直した。
「してる。してるけど、ネジ一本くらい締めてからでも遅くない」
「ネジ一本で終わる顔ではありません」
「そこまで見抜くなよ」
オバインは笑ったが、その笑いの奥には少しだけ寂しさがあった。
ガニーロは看板の電球を指で軽く弾く。青い鞄の形をした看板の中で、小さな灯りがともった。
強すぎない光だった。
けれど、夕暮れの商店街では、十分に見える。
レトリスはそれを見上げた。
十年前、完成しなかった迷子にならない鞄。その続きを、今は町の看板が少しだけ引き受けている。
「ガニーロさん」
「はい」
「この光は、地図にも載せます」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「目印としてです。店の宣伝ではありません」
「承知しています」
「それから、光が青すぎます」
「青鞄電子堂なので」
「暗い場所で見やすい青にしてください。名前に引っ張られない」
ガニーロは少し考え、うなずいた。
「では、明日の朝、明るさを調整します」
「今夜ではなく?」
「今夜は、全員休む日です」
レトリスは言葉を止めた。
その答えは、以前のガニーロなら言わなかったかもしれない。頼まれていないものまで直し、赤字になっても動き続け、誰かのためなら自分の疲れを数えない人だった。
けれど、今の彼は一度止まると言った。
ヒルドバーグの焼き菓子、ロシルドゥアの名簿、アリシャーの緑の線、エメットの予備回路、そしてレトリス自身の赤鉛筆。
誰か一人で全部を背負わない地図は、作った人たちの歩き方まで変えている。
「……それは、よい判断です」
レトリスが言うと、ガニーロは少しだけ笑った。
その笑いを見て、エメットが工具箱のふたを閉める。
「じゃあ、今日は終わりですか」
「終わりです」
「明日は」
「地図を学校に届けます」
「僕も行きます」
「紙束は二回に分けて」
「はい」
エメットは元気よく返事をした。
商店街の掲示板には、新しいハザードマップが貼られている。正確に言えば、危険区域だけの地図ではない。逃げる時に助かる場所、休める場所、光る場所、手すりのある道、濡れると滑る石、車椅子が通れる角、雨宿りできる軒先まで書かれている。
町の傷を隠さない紙。
町の手を増やす紙。
レトリスは掲示板の前に立ち、最後に地図の端を指で押さえた。
風が吹いてもめくれないように。
誰かが見上げた時、最初の一歩を間違えないように。
隣でガニーロが、青い看板の灯りを見た。
「この話には」
彼が言いかけて、レトリスは横目で見る。
「続きがあるんですか」
「あります。ただ、今日は言わないほうがいい気がします」
「なぜ」
「休む日なので」
レトリスは少しだけ考えた。
それから、掲示板の下に置かれた予備の地図を一枚取り、くるりと丸めた。
「では、続きは明日聞きます」
「はい」
「忘れたら減点です」
「何点ですか」
「地図配布を二往復分」
「重いですね」
「紙は重いんです。町を載せていますから」
ガニーロは、ゆっくりうなずいた。
商店街の向こうで、夕暮れが水たまりに映っている。泥の跡はまだ残っていた。壊れた棚も、濡れた商品も、明日直す看板もある。
それでも、新しい地図の上には、次に歩く線が引かれていた。
現町は、怖さを隠すのをやめた。
そのかわり、怖くても進める目印を増やした。
レトリスは丸めた地図を蒼い鞄へ差し込む。鞄の中で、古い基板は静かだった。もう勝手に詩を印字しない。けれど、小さな金属の奥に残った時間は、消えていない。
彼女は鞄の留め具を閉めた。
かちり、と乾いた音がする。
迷子にならない鞄は、まだ完成していない。
でも、迷子にならない町の地図は、今日、最初の一枚を貼ることができた。




