第50話 あなたを想う時間
雨音が、少し遠くなった。
サブマリン管理用小部屋の壁に吊るされた古い時計は、針を二時すぎで止めたままだった。停電のあと、誰も直す余裕がなかったのだろう。けれど、扉の外を行き来する靴音は、さっきまでの走る音から、濡れた床を確かめながら歩く音に変わっていた。
南側坂の休憩席は満員ではなくなった。東側の水位も、アリシャーから「急な上昇なし」と連絡が入った。ロシルドゥアが支援名簿の最後の丸印をつけたとき、彼女の指は震えていたが、文字は崩れていなかった。
「残り、全員確認済みです」
レトリスがその声を聞いた瞬間、肩から力が抜けた。
体が椅子へ落ちる。座ったつもりではない。椅子がそこにあったから、そこへ落ちた。机の上のペンが転がり、青いカップに当たって小さく鳴る。
ガニーロが手を伸ばしかけた。
「大丈夫です」
レトリスは先に言った。
「今のは倒れたのではありません。座りました」
「はい」
「見てわかるでしょう」
「見て、確認しました」
「なら、余計な顔をしないでください」
「余計な顔は、どういう顔でしょう」
「今の顔です」
ガニーロは口を閉じた。
閉じたせいで、よけいに困った顔になった。
オリーンが入口のそばで、笑いをこらえて両手で口を押さえている。サポナーラは濡れた雨合羽を脱ぎながら、「今のやりとり、講座に使えますかね」と小声で言い、ブルグリンデに肘で脇腹を押された。
「使わないで。人命に関係ないところで失敗しなさい」
「それはそれで、俺の人生全部を否定してませんか」
「否定してないわ。分類しているの」
サポナーラは妙に納得した顔でうなずいた。
そんな声が、室内に戻ってきた。
誰かが笑えるほど、夜は少しだけ落ち着いた。雨はまだ続いている。けれど、たった今、誰も取り残されていないとわかった。
ヒルドバーグが、棚代わりの木箱の上に湯気の立つカップを置いた。
「飲みな」
「まだ記録が」
「飲んでから書けば、字が少しは人間になる」
「私の字は人間です」
「役所の字だね」
レトリスは反論しようとして、やめた。カップを持つ指先に温かさが戻る。中身は薄い番茶だった。喫茶ペアカップの店主が出すものにしては、驚くほど飾り気がない。けれど、今の喉にはそれが合っていた。
そのとき、机の下から、かすかな電子音が鳴った。
レトリスの蒼い鞄だった。
全員の視線が、一斉に下がる。
「止めたんじゃなかったの」
ブルグリンデが眉を上げた。
「止めました」
ガニーロは椅子から腰を浮かせ、床へ膝をついた。蒼い鞄の金具を外し、内側の布を少しめくる。基板の小さな表示灯が、弱々しく点いていた。青ではない。黄でもない。古い豆電球のような、眠そうな色だった。
「主電源は切れています。これは、予備のコンデンサに残っていた電気です」
「残り火みたいなもの?」
オリーンが言う。
「かなり近いです」
「じゃあ、最後のひと光り?」
その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。
基板から細い紙が出てきた。最初のころのように、勢いよく、恥ずかしい言葉を吐き散らす感じではない。息を整えながら、一行ずつ、ゆっくりと紙を送っていく。
レトリスは止めようと手を伸ばした。
けれど、指先が紙に触れる直前で止まった。
そこに印字された題名を見たからだ。
あなたを想う時間。
室内の空気が、静かに変わった。
サポナーラが何か言いかけた。たぶん、いつもの調子なら「商品名にできますね」とか「心に雨合羽が必要です」とか、そんなことを言ったはずだ。
だが、ヒルドバーグが彼を見ただけで、彼は両手で口を押さえた。
紙は続いた。
雨の日、待っていた。
怒っていた。
嫌いだと思った。
嫌いだと言わなければ、泣いてしまうから。
レトリスの唇が、細く震えた。
文字は、どこか幼い。十年前に書いた短文メモだ。そこに、現在の彼女が会議で使った言い回しが混じり、ガニーロの店で拾われた音声断片が挟まっている。仕組みとしては、もうわかっている。心を読んだわけではない。録音、紙片、定型文、周囲の声。それらが古い部品の中で組み合わさり、偶然のように一つの文章になっている。
それでも、偶然では足りないものがある。
紙の上で、十年前の自分が、今の自分へ追いついてくる。
約束の場所へ、行こうとした。
水の音がして、声がした。
小さな背中を背負った。
ごめん。
でも、置いていけなかった。
ガニーロの喉が、小さく鳴った。
彼は紙を見ていなかった。見られないのだと、レトリスにはわかった。彼の視線は、机の角に落ちている。そこには、何もない。何もない場所を見ていないと、立っていられないのだ。
「ガニーロ」
レトリスが呼ぶと、彼は少し遅れて顔を上げた。
「はい」
「読んでください」
「でも」
「これは、あなたの言葉でもあります」
「僕は、こんなにうまく言っていません」
「でしょうね」
レトリスは鼻をすすった。
「あなたは、肝心なところで止まりますから」
「はい」
「だから、機械に言われています」
「かなり厳しい機械です」
「持ち主に似たのかもしれません」
オリーンが、また口を押さえた。今度は笑いをこらえているのではなかった。
紙は、さらに送られた。
世界で一番嫌いな人。
いなくなったら、世界で一番困る人。
待っていた時間は、怒る時間だった。
怒る時間は、あなたを忘れない時間だった。
ガニーロは片手で目元を押さえた。
「すみません」
それは誰に向けた謝罪なのか、すぐにはわからなかった。
レトリスに。十年前の自分に。背負ったエメットに。間に合わなかった約束に。割ってしまったカップに。ずっと理由を言わなかった年月に。
けれど、レトリスはひとつだけ受け取った。
「謝罪は、記録します」
「はい」
「ただし、点数はつけません」
「点数なしですか」
「今夜は疲れています」
「助かります」
「許したわけではありません」
「わかっています」
「でも」
レトリスは紙を見下ろした。
濡れてもいないのに、文字が少しにじんで見える。目のせいだ。腹立たしい。役所の防災担当が、避難記録の前で泣くのは業務効率が悪い。
そう思ったのに、涙は落ちた。
紙の端へ、一滴。
印字された「時間」の文字の横に、丸い染みが広がった。
「でも、今は」
続きを言おうとして、声が詰まる。
ガニーロが、迷ってから、机の上に置かれたタオルを差し出した。直接触れず、彼女が取れる位置に置く。余計な顔はしていなかった。ただ、濡れたものを拭くために、そこへ置いた。
レトリスはタオルを取った。
「今は、怒るより先に、確認したいことがあります」
「何でしょう」
「あなたは、帰ってきました」
ガニーロは一度、まばたきをした。
「はい」
「十年前は戻れなかった。でも、今夜は戻ってきました」
「みんなで行ったので」
「それです」
レトリスはタオルで目元を押さえたまま、息を吸った。
「そこが重要です」
ガニーロの顔が、ゆっくり歪んだ。
笑っているのか、泣いているのか、わからない。本人にもわかっていない顔だった。サポナーラなら、たぶん「防災上、分類不能」と言う。だが、今は言わない。
基板が最後の紙を送り出した。
この話には続きがあって。
次は、待たせない。
次は、一人で行かない。
次は、帰ってきたあと、同じカップで温かいものを飲む。
最後の行が印字された直後、表示灯がふっと消えた。
部屋の中に、避難灯の光だけが残る。
誰も動かなかった。
超絶赤面ポエムのはずだった。
初めて出たときは、レトリスが紙を奪い、オリーンが朗読しかけ、サポナーラが心に雨水が入ったと騒いだ。あれから何度も、この基板は人を翻弄した。怒らせ、笑わせ、立ち止まらせた。
なのに、最後の紙を、誰も茶化せなかった。
ヒルドバーグが鼻をすすり、すぐに咳払いでごまかした。
「番茶、足りないね」
「店主」
ブルグリンデの声も湿っていた。
「今、それしか言わないの」
「泣いた顔に濃いコーヒーはきつい」
「泣いてません」
レトリスは即座に言った。
全員が彼女を見た。
レトリスはタオルを握りしめたまま、顎を上げる。
「これは、避難施設の湿度による目の不調です」
「俺も湿度が」
サポナーラが便乗しようとした瞬間、オリーンが彼の雨合羽のフードをつまんで下げた。
「サポナーラさんは、さっきからずっと泣いてるよ」
「湿度です」
「うん、心の湿度だね」
「商品名にできますか」
「今はやめよう」
小さな笑いが起きた。
その笑いに混じって、レトリスも少しだけ笑った。涙が残っているせいで、うまく笑えなかった。それでも、笑った。
ガニーロも笑った。
泣きながら笑う顔は、十年前の少年にはなかったものだ。十年分、間に合わなかった時間があった。けれど、今ここにいる彼は、戻ってきた人の顔をしている。
レトリスは最後の紙を、そっと机の中央へ置いた。
「これは、保管します」
「公開は」
ガニーロが尋ねる。
「禁止です」
「写しは」
「禁止です」
「心に保存は」
サポナーラが懲りずに言い、ブルグリンデがもう一度肘で押した。
レトリスはため息をつく。
「各自の判断に任せます。ただし、朗読した人は、避難所の泥落とし当番を三日追加します」
「重い」
「妥当です」
オリーンが紙の端を見つめたまま、ぽつりと言った。
「でも、よかったね」
誰に向けたのか、わからない言葉だった。
レトリスかもしれない。ガニーロかもしれない。エメットかもしれない。十年前の子どもたちかもしれない。現町そのものかもしれない。
ガニーロは二つのカップに、ヒルドバーグが注いだ番茶を分けた。
片方は青いカップ。
もう片方は、金継ぎの線を持つ白いカップ。
レトリスは白いカップを見て、眉を寄せた。
「なぜ、そちらを私に」
「割れた跡が、きれいに光っていたので」
「口説いていますか」
「いいえ。観察です」
「観察なら、言い方を考えてください」
「はい」
「減点は」
レトリスは少し考えた。
「保留です」
ガニーロはほっとしたように、青いカップを持った。
二人は同じ机で、同じ湯気を見た。
外では、まだ雨が降っている。明日になれば、泥をかき出し、掲示を直し、避難経路をもう一度歩き、ハザードマップの線を引き直さなければならない。壊れたものも、疲れた人も、数えればきりがない。
けれど今だけは、番茶の湯気が立つ時間だった。
あなたを想う時間。
その題名は、紙の上だけでなく、二つのカップの間にも置かれていた。
レトリスは番茶を一口飲んだ。
薄い。
温かい。
そして、腹立たしいほど、喉にやさしかった。




