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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第49話 ペアカップの灯り

 喫茶ペアカップの棚は、避難施設サブマリンの壁際へ運び込まれていた。


 もちろん、棚そのものを運んだわけではない。ヒルドバーグが大きな箱に詰め、オリーンが「カップにも避難訓練が必要です」と胸を張り、サポナーラが濡れた床で三度ほど滑りかけながら、どうにか割らずに運び込んだのだ。


 旧地下避難施設の管理用小部屋には、臨時の休憩場所が作られている。折りたたみ机の上には、湯気の立つポット、個包装の砂糖、乾いた布巾、紙コップ。それから、喫茶ペアカップの棚から選ばれた二つ一組のカップが、何組か並べられていた。


 雨は、まだ扉の外で鳴っていた。


 水の音は地下の壁を伝い、遠い場所から誰かが扉を叩いているように聞こえる。発電機の低いうなりと、避難灯の白い光。その白い光が、棚のかわりに積まれた木箱の上へ斜めに射し込み、二つのカップの縁に小さな輪を作っていた。


 青いカップと、白いカップ。


 片方には細い金色の継ぎ目が走っている。割れた場所を隠さず、むしろそこを光らせるような線だった。


 レトリスは、名簿を握ったまま、その線を見ていた。


 「見過ぎると、カップに穴が空くよ」


 ヒルドバーグが、布巾を絞りながら言った。


 「陶器は視線で穴が空くほど弱くありません」


 「じゃあ、あんたの眉間のほうが先に割れるね」


 レトリスは反射的に眉間へ指を当てた。湿った前髪が指に触れる。濡れた雨合羽を脱いでから、ずいぶん時間が経ったはずなのに、体の奥にはまだ雨が残っている気がした。


 ヒルドバーグは笑わず、二つのカップを少しだけ避難灯の近くへ寄せた。


 光が、金継ぎの線に入った。


 薄い金色が、暗い小部屋でかすかに浮かび上がる。


 「割れたものは、元どおりにはならない」


 ヒルドバーグは、いつもの調子で湯を注いだ。言葉の重さに比べて、手つきはやわらかい。


 「でも、直せないわけじゃない。直したあとを、なかったことにしなくてもいい」


 レトリスは、返事をしなかった。


 小部屋の入口では、オリーンが濡れた子どもにタオルを渡している。


 「はい、偉いです。ちゃんとここまで来ました。あ、今の偉いは大声ではありません。小声の偉いです」


 「小声じゃないよ」


 「心の中では小声です」


 子どもが笑った。


 その笑い声に、別の避難者が肩の力を抜く。サポナーラはその横で雨合羽を脱ぐ説明をしていたが、自分の袖がなぜか背中側に回っており、エメットに直されている。


 「サポナーラさん、そこは腕を抜いてからです」


 「なるほど。雨合羽は知恵の輪だったのか」


 「違います」


 エメットの返事はまっすぐだった。


 ガニーロは、入口に近い壁際で通信機のつまみを調整していた。濡れた髪から水滴が落ち、床に小さな黒い点を作っている。彼はその点を見つけると、話しながらも足で布巾を引き寄せ、踏まれない位置へずらした。


 余計なことをする人だ。


 レトリスはそう思って、すぐに胸が痛くなった。


 余計なこと。昔からそうだった。落ちている釘を拾う。傾いた看板を直す。泣いている子どもの靴紐を結ぶ。頼まれなくても、見つけてしまう。見つけたら、放っておけない。


 だから十年前も、彼は声を聞いてしまった。


 約束の場所へ向かう途中で。


 レトリスは名簿の角を指でなぞった。紙は水気を吸って少し波打っている。まるで、自分の中で押し込めていた十年分の言葉みたいだった。


 「レトリスさん」


 ロシルドゥアが、別の名簿を持って小部屋へ入ってきた。


 「南側坂から来た六人、全員休憩席に移れました。薬の確認も終わっています」


 「ありがとうございます。北側は」


 「ブルグリンデさんの台車組が戻りました。台車に乗っていた方が、台車を返したくないと言っています」


 レトリスは一瞬だけ言葉を失った。


 「返したくない」


 「乗り心地が良かったそうです」


 木箱の向こうから、ブルグリンデの声が飛んだ。


 「商品運搬用の台車なのに、人を乗せた瞬間だけ評判が上がるなんて、納得いかないわ」


 オリーンが満面の笑みで言う。


 「新しい名物になりますね。現町人力カート」


 「やめなさい。観光案内に載せません」


 「防災案内には載せますか」


 ブルグリンデは、濡れた袖を絞りながら黙った。


 黙ったあと、視線をそらして小さく言う。


 「必要なら、載せます」


 オリーンは口を押さえた。大声で祝わないためらしい。けれど、足元が小さく跳ねている。


 レトリスは、名簿に確認済みの印をつけた。


 確認済み。


 その二文字が増えるたび、体の中の水が少しずつ引いていく。


 けれど、完全には乾かない。


 扉の向こうで雨が続いている限り、ガニーロがまだ動いている限り、乾くことはないのだろう。怖さを消す方法を、彼女はまだ知らない。


 ヒルドバーグは金継ぎのカップに湯を注ぎ、もう片方の青いカップにも同じ量を注いだ。


 「持っていきな」


 「今は仕事中です」


 「仕事中でも、手は二本ある」


 「片手が名簿、片手が無線です」


 「じゃあ、口で持つかい」


 「やりません」


 ヒルドバーグは、少しだけ口の端を上げた。


 「なら、置いておく。逃げないから」


 その言葉に、レトリスの手が止まった。


 逃げない。


 カップは、逃げなかった。十年前に割れ、棚の奥に置かれ、金色の線をまとって、今ここにある。


 ガニーロも、戻ってきた。水の中へ向かった背中は、ここへ戻ってきた。戻ってきたあと、また別の人を待ち、別の道を照らしている。


 それでもレトリスは、まだ「許した」と言えない。


 許すという言葉は、軽く口にすると、十年前の自分が置き去りになる気がした。約束の場所で待っていた幼い自分。母と言い合ったまま避難した自分。蒼い鞄を抱え、欠けたカップを握り、ずっと怒ることで泣かないようにしていた自分。


 その子を、置いていけない。


 けれど、今の自分がいる。


 名簿に印をつけ、避難経路を引き、戻る背中のために十二歩の床を空ける自分がいる。


 過去をなかったことにはできない。


 でも、今の形で持つことはできる。


 レトリスは、ゆっくりと金継ぎのカップへ手を伸ばした。熱が陶器越しに伝わる。指先の冷えが、少しずつほどけた。


 「熱いです」


 「熱いように入れたからね」


 「適温という概念は」


 「生きていれば冷める」


 ヒルドバーグはそっけなく言った。


 レトリスは、その言い方に少しだけ息をもらした。笑ったのか、ため息なのか、自分でもわからなかった。


 ガニーロが通信機から顔を上げた。


 「どうかしましたか」


 「何も」


 「カップ、熱くないですか」


 「熱いです」


 「布を」


 「自分で持てます」


 ガニーロは、差し出しかけた布を途中で止めた。


 そして、何も言わずに自分の近くの床を拭いた。


 レトリスはカップを両手で包んだまま、その動きを見た。差し出すことを途中で止める。踏み込みすぎない。けれど、何もしないわけではない。


 十年前にはできなかった距離の取り方を、彼も覚えようとしているのかもしれない。


 入口近くで、避難灯がわずかに揺れた。


 白い光が、二つのカップに入る。青いカップの内側には丸い灯りが浮かび、金継ぎのカップでは、その灯りが金の線に沿って細く伸びた。


 割れた跡が、光の道になっている。


 レトリスは、その線を見て、胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じた。


 「ヒルドバーグさん」


 「なんだい」


 「割れた跡は、消えなくてもいいんですね」


 「消えたら、どこを直したか忘れるだろ」


 あまりに当然のように言うので、レトリスは返事が遅れた。


 「忘れないほうが、いいこともある」


 ヒルドバーグは、カップの影を見ていた。


 「ただ、忘れないことと、毎日そこを指でこすって痛がることは違う」


 レトリスは、金の線へ親指を近づけた。こすらなかった。ただ、そこにあると確かめるだけにした。


 無線が短く鳴る。


 『こちらアリシャー。東側の水位、上昇止まりました。現時点では南側坂への移動を続行できます』


 「了解。東側の赤印、警戒継続。南側は維持します」


 『了解』


 短いやり取りの後、通信機の雑音が薄くなった。


 その時、蒼い鞄が、小さく鳴った。


 紙の送り出される、かすかな音。


 オリーンが振り返り、サポナーラが背筋を伸ばし、エメットが口を開けた。ブルグリンデまで、台車の車輪を拭く手を止めた。


 レトリスは、すぐに言った。


 「今は読みません」


 「まだ何も言っていません」


 オリーンが両手を上げる。


 「目が言っていました」


 「目は祝っていました」


 「祝わないでください」


 ガニーロが蒼い鞄のそばへ行き、出てきた紙を確認した。彼はいつものように勝手に読もうとはしない。ただ、紙の端を指で押さえ、レトリスの方を見た。


 「短いです」


 「長さの問題ではありません」


 「はい」


 「内容は」


 そこまで言って、レトリスは自分で矛盾に気づいた。


 周囲の視線が一斉に集まる。


 サポナーラが、わざとらしく咳払いした。


 「内容は、という質問に聞こえました」


 「確認です」


 「防災上の確認ですね」


 「そうです」


 ガニーロは紙を裏返し、読めないようにして差し出した。


 「自分で確認しますか」


 レトリスは少し迷い、カップを机に置いた。青いカップの横、金継ぎのカップのすぐ隣に。


 二つのカップが、小さく音を立てた。


 十年前に並ぶはずだった音かもしれない。


 レトリスは紙を受け取った。


 そこに印字されていた文字は、赤面ポエムにしては短かった。


 割れた線も、灯りを運べる。


 たった一行。


 誰かの古いメモと、今この場所の光と、基板の定型文が混ざっただけのものかもしれない。心を読んだわけではない。奇跡でもない。機械の偶然で、紙の上に出てきた言葉だ。


 それでも、レトリスは紙を破れなかった。


 オリーンがそっと覗き込もうとし、レトリスは紙を胸元へ引いた。


 「読み上げ禁止です」


 「はい。額縁は」


 「禁止です」


 「写しは」


 「禁止です」


 「心に保存は」


 レトリスは一拍置いた。


 「各自の判断に任せます」


 オリーンが、声を出さずに万歳した。


 サポナーラは目元を拭くふりをして、雨水ですと言い訳した。ブルグリンデは聞こえないふりをして、台車の車輪を必要以上に丁寧に磨いている。エメットは、紙の内容を見ていないのに、ほっとしたような顔をした。


 ガニーロは、何も言わなかった。


 何も言わず、二つのカップの位置を少しだけ直した。避難灯の光が、どちらにも同じように入るように。


 その動きに、レトリスは気づいた。


 「触らなくても、私は直せます」


 「はい」


 「でも」


 言葉がそこで止まった。


 この話には続きがあって、と言いかけそうになって、レトリスは唇を結んだ。まだその言葉は、彼のものだ。自分が口にするには、少し早い。


 かわりに、紙を名簿の間へ挟んだ。


 「そこに置くと、濡れません」


 ガニーロが言う。


 「知っています」


 「はい」


 「あなたより先に考えました」


 「それは頼もしいです」


 「減点なしです」


 「またですか」


 「今夜二回目です。調子に乗らないでください」


 ガニーロは濡れた前髪の下で笑った。


 その笑い方を見ても、胸はもう先ほどほど痛まなかった。痛みが消えたわけではない。けれど、痛みの周りに少しだけ温かい場所ができた。


 避難施設の丸い扉の向こうでは、雨が続いている。


 まだ終わっていない。東側の水位は警戒中で、北の細い坂にはぬかるみが残り、支援が必要な人の名前は名簿にいくつも残っている。新しいハザードマップは、完成したとは言えない。今夜の線は、まだ増える。


 レトリスはカップをもう一度手に取った。


 金継ぎの線が、避難灯を受けて細く光る。


 割れた跡は消えない。


 でも、そこからも灯りは通る。


 レトリスはそのことを、ゆっくり飲み込んだ。


 そして無線を取る。


 「こちらサブマリン管理用小部屋。南側坂の休憩席、空き二つ。北側台車組、帰還済み。東側は警戒継続。次の確認に移ります」


 彼女の声は、もう震えていなかった。


 机の上で、二つのカップが並んでいる。


 青いカップと、金の線を持つ白いカップ。


 十年前に揃わなかったものが、雨の夜、避難灯の下でようやく同じ光を受けていた。



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