第48話 世界で一番嫌いな背中
丸い扉の外で雨が鳴っている。
それはもう、雨というより、町ぜんぶを細かい釘で打ちつける音に近かった。旧地下避難施設サブマリンの天井を、水の重さが低く押している。換気口の奥で風が唸り、どこかでバケツが満ちる音がした。
レトリスは管理用小部屋の机に戻り、避難支援名簿の一行へ鉛筆で印をつけた。
ミグ、確認済み。
老犬ポット、確認済み。
文字はいつもより角が強く、線の終わりが少し震えていた。鉛筆の芯が紙に沈みこむたび、さっき無線越しに聞いたガニーロの声が戻ってくる。
この話には続きがあって、今度は一人で行かない。
その言葉を聞いた時、胸の奥にあった水位が、ほんの少しだけ下がった。安心した、とはまだ言いたくなかった。安心という言葉を使えば、また誰かが扉の外へ出ていきそうで怖い。
レトリスは名簿の上へ手を置いた。
「次の確認をします。西側の坂道から来る人は、まだ何人残っていますか」
声は、思ったより硬かった。
ロシルドゥアが隣で濡れた髪をタオルに押し当てながら、別の名簿を広げる。
「六人。うち二人は足が悪い方です。三条薬局の裏道は水が増えたので、そこは使えません」
「商店街中央の通りは」
「ブルグリンデさんが止めています。商品を取りに戻ろうとした人も、いまは喫茶ペアカップ側へ回しました」
レトリスは地図を見た。
赤い線は危険。青い線は避難可能。黄色い丸は休憩場所。緑の点は手すり。鉛筆で書き足された細かい印は、ガニーロの手書きだった。街灯が切れやすい角、雨で滑る石畳、犬が吠えやすい家の前。最初に見た時は、細かすぎると思った。防災資料ではなく、心配性の落書きに見えた。
けれど今、その落書きが一人ずつの足を守っている。
「中央通りを使えないなら、喫茶ペアカップの裏口から、古本屋横の庇へ抜けます。そこから南側の坂へ」
「距離が伸びます」
ロシルドゥアが言う。
「でも、手すりがある」
レトリスは青いペンを取った。
「足の悪い方には、長いけれど止まれる道のほうがいい。三十メートルごとに声をかける人を置きます」
「声をかける人、足りますか」
机の反対側から、オリーンが両手を挙げた。
「私、声は足ります!」
「声量の話ではありません」
「足もあります!」
「転ばないでください」
「それはサポナーラさん向けの注意では?」
無線から、ちょうどサポナーラの声が割り込んだ。
『聞こえています。俺はいま転んでいません。歴史的瞬間です』
避難所の空気が、少しだけゆるんだ。
レトリスは口元を動かしかけ、すぐに地図へ視線を戻した。笑っている暇はない。けれど、笑いを消す必要もない。笑えるだけの余白がある場所ほど、人は息を続けられる。
そう教えたのは、たぶんオリーンの皿であり、ヒルドバーグの茶であり、ガニーロの余計な修理だった。
「オリーンさんは喫茶ペアカップ裏口。濡れた人にタオルを渡しながら、南側の坂へ案内してください。ただし、祝わないでください」
「避難できた人を祝うのは駄目ですか」
「今は小さく」
「小さく祝います」
オリーンは両手を胸の前で握り、口の形だけで万歳と言った。
ヒルドバーグは湯気の立つポットを持って、管理用小部屋に入ってきた。避難施設の古い机へ紙コップを並べながら、誰にも急げと言わない。
「熱いよ。飲むなら気をつけな」
「今は」
「今だからだよ」
レトリスの言葉を切るように、紙コップが一つ、地図の端へ置かれた。
「手が冷えると、線が曲がる」
レトリスは自分の指を見た。確かに、鉛筆を握る指先が白くなっている。
彼女は短く息を吐き、紙コップを両手で包んだ。温かさが、指の関節からゆっくり入ってくる。扉の外ではまだ雨が打ちつけ、無線は途切れ途切れに声を吐き出している。それでも一口だけ茶を飲むと、舌の上に苦みと熱が残った。
その熱で、レトリスはようやく背筋を伸ばした。
「続けます」
「それでいい」
ヒルドバーグは、まるで返事のかわりに隣の机へタオルを積んだ。
無線の向こうでは、ガニーロたちがミグを救助した後も、低い通りの確認を続けている。ガニーロの声は時々聞こえた。いつもより少し低く、雨に押されても途切れないように、言葉を一つずつ置いている。
『薬局前、棚板撤去済み。通行は不可。水位、長靴の上三分の一。青い旗を立てます』
「了解。青い旗を地図に反映します」
レトリスは青い点を打った。
点を打ちながら、胸がざわつく。
声が聞こえるたび、安心する。声が途切れるたび、体の中の水が増える。十年前の自分は、きっとずっとこうだった。約束の場所で、来ない背中を待っていたのではない。見えない背中が、どこかで水にのまれるのを想像していた。
嫌いだった。
待たせたことが。
言わなかったことが。
勝手に誰かを助けに行ったことが。
でも一番嫌いだったのは、その背中を失うかもしれないと思う自分の怖さだった。
レトリスは唇を噛んだ。
「南側の坂へ、案内を増やします」
彼女は無線を取った。
「ガニーロさん」
『はい』
返事は早かった。
「次に青い旗を立てたら、すぐ戻るのではなく、南側の坂の入口で一度止まってください。そちらへ六人向かいます。足の悪い方が二人います」
『了解。坂の入口で待機します』
「待機です。迎えに行くではありません」
無線の向こうで、わずかな間があった。
『待機です』
「復唱が遅いです」
『反省しています』
サポナーラの声が入る。
『いまの返事、怒られ慣れてる人の速度でしたね』
『安全確認です』
ガニーロが答え、オバインが笑いをこらえ損ねたらしい音が混じった。
レトリスは紙コップを置いた。手はまだ震えている。でも、震えたままでも線は引ける。
避難所の中央では、エメットが子どもたちの靴を並べていた。片方だけ脱げた長靴、泥のついたスニーカー、紐がほどけた運動靴。彼は一足ずつ向きをそろえ、濡れた床で誰かが転ばないように、入口の端へ寄せている。
「エメットさん」
レトリスが呼ぶと、彼は背中をぴんと伸ばした。
「はい」
「南側の坂から来る方のために、入口から休憩席までの床を空けてください。濡れた靴で滑らないように、タオルは二列。途中で座れる椅子を三脚」
「わかりました」
エメットはすぐに動き出した。以前の彼なら、ガニーロの顔を見てから動いたかもしれない。けれど今は、自分の判断で椅子を持ち、年下の子に「ここ持って」と頼んでいる。
レトリスは、その背中を見た。
先に歩く背中。
助けられた子どもが、別の誰かの足元を整えている。十年前、ガニーロが背負った未来は、ここで靴を並べている。
「レトリスさん」
ロシルドゥアが、名簿を指差した。
「北側の独居の方、連絡が取れました。ブルグリンデさんが迎えに行くと言っています」
「一人でですか」
「いいえ。商店街の人を三人連れて、商品運搬用の台車を椅子代わりにするそうです」
レトリスは思わずまばたきをした。
「台車を椅子代わりに」
「本人が、商品より人を運ぶ台車にすると」
無線の向こうで、ブルグリンデの声が聞こえた。
『聞こえているわよ。台車は本来、重いものを運ぶためのものです。今夜いちばん重いのは、動けない人の不安です』
オリーンが小さく拍手した。
「かっこいいです!」
『拍手はいりません。そこの角、滑るから布を敷いておいて』
「はいっ」
レトリスは地図に新しい線を足した。ブルグリンデが動く道。かつて危険を小さく見せようとした人が、今は危険を口にしながら進む道。
地図は、きれいな図ではなくなっていた。
青も赤も黄色も緑も、ところどころ水滴でにじみ、鉛筆の線が何本も重なっている。間違えた線は消しゴムで薄くなり、上から別の線が引かれている。
でも、それでよかった。
生きている町の地図は、きっと最初からきれいではない。人が迷い、止まり、戻り、誰かを待つたびに、線は増える。
その時、南側の坂からの無線が入った。
『こちらガニーロ。六人確認。足の悪い方二人、坂の手すり側を通っています。エメットの避難灯、見えています』
「了解。入口までの床、確保済みです」
『ありがとうございます』
ありがとうございます。
そんな普通の言葉に、レトリスの喉が詰まりかけた。
彼は戻ってくる途中で、また誰かを待っている。十年前のように、一人で消えているのではない。レトリスが引いた線の上で、仲間と共に立っている。
それでも怖い。
怖さは消えない。
消えないまま、彼女は無線を握った。
「ガニーロさん」
『はい』
「こちらから入口まで、タオルを二列に敷きました。休憩席までの距離は十二歩です。焦らず、足元を見てください」
『了解。十二歩ですね』
「あなたは十三歩目で余計なことをしがちなので、十二歩で止まってください」
無線の向こうで、サポナーラが吹き出した。
『すごい分析だ』
『否定できません』
ガニーロの声が笑っていた。
レトリスは、目を閉じなかった。
丸い扉の先を見つめる。濡れた人影が一人、また一人と入ってくる。ブルグリンデの台車に座った高齢者が震える手で礼を言い、オリーンが小さく万歳をし、ヒルドバーグがタオルを投げ、エメットが椅子を引く。
最後に、ガニーロの背中が見えた。
雨合羽の青い背中。肩にはロープの跡が残り、裾から水が落ちている。彼は入口で本当に十二歩だけ進み、そこで止まった。
振り返る前に、レトリスは声をかけた。
「減点なしです」
ガニーロがこちらを向いた。
驚いた顔をして、それから少し困ったように笑う。
「珍しいですね」
「記録に残します」
「減点なしの記録ですか」
「今後の基準です」
ガニーロは濡れた前髪を手で押さえた。
「厳しいな」
「当然です」
レトリスは言い、地図の上で青いペンを置いた。
彼の背中を見るのは、まだ嫌いだった。雨の中へ向かう背中を見ると、心臓が古い警報機みたいに鳴る。止めたい。怒りたい。二度と見たくない。
でも、その背中が戻ってくる場所を作ることはできる。
背中を追いかけて水へ飛び込むのではなく、戻る道を照らすことはできる。
レトリスは名簿に新しい印をつけた。
南側坂、六人確認済み。
彼女の手は、もう震えていなかった。
管理用小部屋の壁際で、蒼い鞄がかすかに鳴った。停止したはずの基板が、また何かを拾ったのかもしれない。オリーンが目を輝かせたが、レトリスは先に指を立てた。
「今は読みません」
「でも、短いです」
「読みません」
ヒルドバーグが紙を抜き取り、ちらりと見た。
そして、レトリスへ差し出した。
「これは、あとで破らなくてもいいやつだよ」
レトリスは受け取らなかった。今受け取れば、手元の名簿がにじむ気がした。
「あとで」
そう言うと、ヒルドバーグはうなずいて紙を伏せた。
紙の端に、少しだけ文字が見えた。
世界で一番嫌いな背中。
その後ろは、見えない。
レトリスは無線を握り直し、次の確認へ移った。
嫌いの続きは、まだ今ではない。
今は、一人でも多く、名前の横に確認済みの印をつける。
外の雨はまだ止まない。けれどサブマリンの中では、濡れた靴が少しずつ揃い、温かい茶が渡され、誰かの背中が戻るたびに、地図の青い線が一本ずつ増えていった。




