第47話 この話には続きがあって、今度は一人で行かない
雨は、音だけで人を押し戻そうとしていた。
旧地下避難施設サブマリンの丸い扉を出ると、夜の空気はすぐに水の匂いをまとって頬へぶつかってきた。商店街の灯りはところどころ消え、代わりに非常灯の小さな白が、濡れた舗道に細く伸びている。靴底が水を踏むたび、冷たさが足首へ這い上がった。
ガニーロは先頭ではなく、真ん中を歩いた。
その位置を決めたのは、レトリスだった。彼が先頭に出ると、危ない場所を見つけた途端に体を入れてしまう。最後尾にすると、遅れた人のために戻ってしまう。だから、真ん中。前をアリシャーが地図と懐中電灯で測り、後ろをサポナーラがロープのたるみを見ながら支える。オバインは防水ケースに入れた操作機を胸に抱え、小型探索機サブマリンから送られてくる映像を何度も確認していた。
「次の角、左です」
無線からレトリスの声がした。
管理用小部屋に残った彼女は、地図の赤線とサブマリンの映像を見比べている。声は固く、いつものように余計な飾りがなかった。それなのに、息を吸う間隔だけが少し短い。
「左に曲がったら、古い薬局の裏手。足元に段差が二つ。二つ目は水で見えません」
「了解」
アリシャーが答え、足元の水を懐中電灯で照らした。
黄色い雨合羽の袖から、メモを貼り付けた定規がのぞく。普段ならレトリスが「なぜ雨の日に定規を持っているんですか」と言うところだが、今は誰も突っ込まなかった。水深を確かめるたび、定規の黒い線が一本、一本、濁った水の中へ消えていく。
「一つ目、七センチ。二つ目、十五センチ」
「十五センチで声が真面目になるの、地味に怖いな」
サポナーラが言うと、無線の向こうでオリーンが小さく声を上げた。
『いま笑っていいですか? 笑うと不謹慎ですか?』
『笑って手を動かしな。タオル、あと十枚』
ヒルドバーグの声が重なり、奥で椅子を引く音がした。
喫茶ペアカップは、もう喫茶店ではなくなっていた。濡れた人が座る椅子、靴を拭く新聞紙、温め直したスープ、犬用の青いタオル。カウンターの上に並ぶペアカップは、避難してきた住民が倒さないように奥へ寄せられ、そのかわりに紙コップが積まれているらしい。
ガニーロは、無線機から聞こえる店の音に、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
あそこに戻る。
その予定を口に出すだけで、歩く足に意味が戻った。
「サブマリン一号、映像安定。ミグさんの倉庫まで、残り二十メートルくらいだ」
オバインが操作機を見ながら言った。
画面の中では、小型探索機の灯りが濁った水の奥を白く切っている。倒れた棚の向こう、青いタオルを待つ老犬ポットは、まだ小さく丸まっていた。すぐ隣に、膝を押さえて座る老人の影がある。ミグは時々、犬に声をかけているらしい。だが雨音と水音に遮られ、探索機のマイクには細かな息遣いしか入ってこない。
「ミグさん、こちら青鞄電子堂です。聞こえますか」
ガニーロが小型拡声器に向かって言った。
探索機のスピーカーから、その声が倉庫の奥へ届く。画面の中で、ミグが顔を上げた。
『ああ、聞こえる。犬のほうが、わしより返事がうまい』
かすれた声に、サポナーラが無意識に笑いそうになり、すぐ唇を結んだ。
「ポット用の青いタオルを持っていきます。足元が悪いので、こちらが着くまで動かないでください」
『言われんでも動けん。格好悪いことに、膝が店じまいした』
「店じまいは、避難所でお願いします」
ガニーロが返すと、ミグは短く笑った。
その笑い声が、画面の中で水面を揺らす。まだ大丈夫だ、と全員が同じことを思った。けれど、大丈夫という言葉は、雨の日にはすぐに薄くなる。
アリシャーが曲がり角の手前で止まった。
「ここから先、通りの傾きが強い。右側へ流れが寄っています」
懐中電灯の光が、舗道の縁を照らした。普段なら何でもない排水溝が、いまは小さな口を開けた穴に見える。水がそこへ向かって吸い込まれ、白い泡を作っていた。
「ロープを腰より下にしないでください。流れに取られます」
レトリスの声が無線から飛ぶ。
「見えていますか?」
「サブマリンの映像と、あなたたちの位置情報だけです」
「よくそこまで言えますね」
「見えないから、言っています」
短い沈黙が落ちた。
ガニーロは、胸の前のロープを握り直した。見えないから言う。十年前、レトリスは見えない場所で待っていた。彼がどこで何をしているかも、なぜ戻らないかも知らずに、雨音の中で待っていた。
今、彼女は見えない場所から、彼らの足元を照らしている。
「進みます」
アリシャーが言い、左へ曲がった。
水の流れは、そこで急に足へ重くぶつかった。ガニーロの膝下に冷たい圧が来る。サポナーラが後ろで「最低条件、更新」とつぶやいた。
「何の最低条件ですか」
レトリスがすぐに拾う。
「転ばない。泣かない。雨合羽を裏返しに着ない」
「三つ目は出発前に確認済みです」
「褒められた?」
「確認済みと言いました」
オバインが小さく吹き出した。
「お前ら、命綱の会話が軽いんだよ」
「軽くないと沈むんだ」
サポナーラはそう言いながら、ロープの結び目を確かめた。その手つきは、ふざけた声とは違っていた。雨合羽講座で何度も見せた結び方。子どもたちに笑われながら覚えさせた手順。いま、その手順が彼らの腰をつないでいる。
角を越えると、古い薬局の裏手が見えた。
看板は半分外れ、白い壁に雨筋が走っている。裏口の前に倒れた棚板が流れ着き、倉庫へ向かう細い通路をふさいでいた。棚板の下には、鉄の脚が絡まり、むやみに動かせば足を取られそうだった。
「ここ、予定より悪いな」
オバインが低く言った。
アリシャーは地図を確認する。
「旧図には、ここに棚の記載がありません」
「棚まで地図に載ってたら怖いだろ」
「平時なら」
アリシャーは返事を短く切り、ライトを下へ向けた。
通路の幅は狭い。四人がそのまま進むのは難しい。棚板の上に乗れば、滑る。下をくぐるには、水が深い。
「一人なら、右の隙間から入れる」
ガニーロが言った。
言った瞬間、無線の向こうの空気が変わった。
「却下」
レトリスの声が、雨より速く届いた。
「まだ提案です」
「却下です」
「ミグさんの膝とポットの体温を考えると、時間をかけられません」
「だから、一人で入る案は却下です」
ガニーロは口を閉じた。
棚板の右にある隙間は、たしかに人一人分しかない。青いタオルと簡易担架の紐を持って入れば、ミグの元までたどり着けるかもしれない。十年前なら、彼はそうした。誰かが止める前に体を入れて、あとから理由を探した。
足元の水が、冷たい指のように長靴を叩く。
「ガニーロ」
レトリスが名前を呼んだ。
役所の防災担当としてではなく、十年前に喫茶ペアカップで待っていた少女の声に近かった。
「行かないで」
雨音の中で、その一言だけがはっきり聞こえた。
オバインも、サポナーラも、アリシャーも黙った。誰も茶化さない。誰も慰めない。ロープにしみた雨が、手袋の縫い目から指へ入ってくる。
ガニーロは棚板の隙間から目を離し、無線機を口元へ寄せた。
「この話には続きがあって」
声が震えないように、ゆっくり言った。
「今度は一人で行かない」
無線の向こうで、誰かが息を吸った。
ガニーロは続けた。
「一人で入れば早い。でも、戻る時にミグさんを支えられない。ポットを抱けない。ロープの角度も見えない。だから、一人では行きません」
オバインが操作機を防水ケースに押し込み、前へ出た。
「じゃあ、俺が棚板を上げる。サブマリン一号の予備ワイヤーを使う」
「棚板を上げるには支点がいります」
アリシャーがすぐに、薬局裏の鉄柱を照らした。
「この柱なら耐えます。錆びは表面。根元は残っている」
サポナーラがロープをほどき、結び目を作り直し始めた。
「最低条件、さらに更新。目立つところで活躍しない。地味に支える。あと転ばない」
「最後が毎回入りますね」
「俺にとっては最重要項目だからな」
レトリスは無線の向こうで、小さく息を吐いた。
「作業手順を確認します。オバインさんは予備ワイヤーを棚板の左端へ。アリシャーさんは鉄柱への固定を確認。サポナーラさんはロープのたるみ管理。ガニーロさんは、隙間へ入るのではなく、ミグさんへの声かけを続けてください」
「了解」
三人の声が重なった。
ガニーロは一拍遅れて答えた。
「了解」
言葉にするだけで、体が少し後ろへ戻った。行かないと決めるのではない。一人で行かないと決める。たったそれだけなのに、十年前から濡れたままだった何かが、ようやく水を切った気がした。
オバインは小型探索機サブマリンの後部から、予備ワイヤーを引き出した。水路調査用に付けた細いワイヤーで、人を引くためのものではない。だが棚板の片側をわずかに持ち上げるだけなら使える。
「俺の未来、意外と棚板を上げるところから始まるかもしれない」
「会社の面接で言わないほうがいい」
サポナーラが返す。
「いや、言う。『私は豪雨の夜、棚板を上げました』って」
「その前に、いま上げてください」
レトリスの声で、オバインは慌てて手を動かした。
アリシャーが鉄柱へワイヤーを回し、角度を測る。サポナーラがロープを張り、ガニーロが拡声器を握った。
「ミグさん、いま入口を広げます。大きな音がしますが、ポットを驚かせないように声をかけてください」
『ポット、大丈夫だ。青いタオルが来るぞ。お前、青は似合うからな』
画面の中で、老犬の耳がぴくりと動いた。
それだけで、オリーンが無線の向こうで涙声になった。
『青いタオル、まだ温かいです! さっきまで私が抱いてました!』
『それは犬に伝えなくていい』
ヒルドバーグが言い、避難所にいる誰かが笑った。
笑いが無線を通って、雨の夜に細く届く。
オバインが操作機のレバーを押した。小型探索機のモーターが低くうなり、ワイヤーが張る。棚板は最初、動かなかった。水を吸った木が重く、鉄の脚が溝に噛んでいる。
「まだです。右下の脚が引っかかっています」
アリシャーが言う。
サポナーラが足を半歩前へ出した。
「俺、押す」
「流れに足を取られます」
「だからロープ、持っててくれ」
彼の声は、売り文句の時の大きさではなかった。失敗を笑いに変えるための声でもない。頼む、と言うかわりに、結び目を差し出す声だった。
アリシャーがうなずき、ロープを握る。
「三秒だけ」
「充分」
サポナーラは棚板の端へ肩を当てた。
「一、二、三」
オバインがレバーを押し込み、サポナーラが押す。棚板が、ぬめった音を立ててわずかに持ち上がった。その瞬間、ガニーロが下から折れた鉄脚を引き抜いた。
「ガニーロさん!」
レトリスの声が鋭くなる。
「手だけです。体は入れていません」
「手も体の一部です」
「はい」
素直に返事をすると、サポナーラが肩で笑った。
「怒られ慣れてる返事だな」
「安全確認です」
「愛情表現では?」
「安全確認です」
レトリスが二度目を少し強く言い、無線の向こうでオリーンが「安全確認の赤面ポエム、出ませんか」と余計なことを言った。
「出しません」
棚板が持ち上がり、通路に人が通れるほどの隙間ができた。
今度は一人ではない。アリシャーが先に足場を照らし、ガニーロが青いタオルと簡易担架を持つ。サポナーラがロープを管理し、オバインがサブマリン一号を先行させる。四人の動きはぎこちなく、雨合羽は何度も引っかかった。それでも、誰かだけが前へ出る形にはならなかった。
倉庫の奥へ入ると、湿った紙と油の匂いが濃くなった。
ミグは倒れた棚の陰で、膝を伸ばせずに座っていた。古い工具箱を抱えている。ポットはその足元で震え、探索機の光をまぶしそうに見ていた。
「遅くなりました」
ガニーロが言うと、ミグは眉を下げた。
「早いくらいだ。わしの若い頃なら、まず犬に説教してから来る」
「犬は説教を聞きません」
「だから長生きする」
サポナーラが青いタオルを広げた。
「ポットさん、こちら高級青タオルです。喫茶ペアカップで人肌に温め済み」
ポットは一瞬だけ警戒し、それからタオルに鼻を近づけた。青い布が体にかかると、老犬の震えが少しだけ小さくなる。
無線の向こうで、オリーンが鼻をすすった。
『泣いてません。タオルの湿度を確認しています』
『嘘をつくなら、もう少し乾いた声でお言い』
ヒルドバーグが返し、避難所にまた小さな笑いが広がった。
ミグの膝には大きな傷はなかった。ただ、立ち上がろうとすると痛みで体が傾く。ロシルドゥアが無線で確認しながら、簡易担架ではなく、肩を貸してゆっくり歩く方法を指示した。
『急がないで。焦って転ぶと、助ける人が増えます』
「それ、俺に向けて言ってます?」
サポナーラが聞く。
『全員です。特にあなたです』
「名指しだった」
ポットはオバインが抱えることになった。最初、オバインは「俺、犬に好かれる顔かな」と心配したが、ポットは青いタオルに包まれたまま、彼の腕の中でおとなしく目を閉じた。
「好かれてる」
ガニーロが言った。
「機械と犬にだけは信頼される男か」
「人にもです」
アリシャーが短く言うと、オバインは雨で濡れた前髪の奥から目を丸くした。
「今の、録音したか?」
「録音機能は切っています」
レトリスの声がした。
「残念」
「必要なら、帰ってから文章で証明します」
「役所の証明書みたいな友情だな」
軽口を交わしながら、彼らは倉庫を出た。
帰り道の水は、来た時より重かった。棚板を越えるたび、ミグの足が止まり、ポットが小さく鳴いた。ガニーロは何度も前へ出ようとし、そのたびにロープが腰を引いた。サポナーラが張りを調整し、アリシャーが足場を照らし、オバインが犬を抱え直す。
一人なら、もっと早く戻れただろう。
でも、一人なら、誰かを置いていった。
丸い扉の灯りが見えた時、ガニーロの無線にレトリスの声が届いた。
「あと五メートル。右の段差、忘れないでください」
「覚えています」
「覚えていても、踏みます」
「信用がない」
「信用しているから、言っています」
ガニーロは足を止めそうになった。
だが、ミグの体重が肩にかかっている。ポットの息が、オバインの腕の中で小さく動いている。サポナーラのロープが、背中で確かに張っている。
だから彼は、止まらずに段差を越えた。
丸い扉の内側へ入った瞬間、温かいタオルが飛んできた。ヒルドバーグではなく、レトリスが投げたものだった。狙いは正確で、ガニーロの顔面に広がった。
「ただいまを言う前に、拭いてください」
レトリスは扉のそばに立っていた。さっきまで管理用小部屋にいたはずなのに、いつの間にか入口まで来ている。白い顔をして、無線機を握りしめ、靴の先を水で濡らしていた。
ガニーロはタオルを顔から外した。
「ただいま」
「順番が違います」
「拭きながら言いました」
「減点です」
レトリスはそう言ったのに、目をそらさなかった。
ミグはヒルドバーグの指示で椅子へ座らされ、ポットは青いタオルごとオリーンに抱きしめられた。老犬は少し迷惑そうだったが、逃げる力は残していないらしい。
サポナーラは壁にもたれ、雨合羽の前を確かめた。
「裏返しじゃない。転んでもいない。泣いて……ない」
「最後は微妙ですね」
アリシャーが言う。
「目に雨が入った」
「屋内です」
オバインはポットを渡した後、操作機を胸に抱えたまま座り込んだ。
「サブマリン一号、帰還。俺も帰還。棚板は、できれば二度と上げたくない」
「帰ってきたから、言えますね」
レトリスが静かに言った。
その声に、ガニーロはうなずいた。
帰ってきた。
十年前には言えなかった言葉が、いまは水を切った雨合羽の端から、ぽたぽたと床へ落ちる雫のように、確かにそこにあった。
レトリスは濡れたロープを見下ろし、指先で結び目に触れた。
「今度は、本当に一人で行きませんでしたね」
「はい」
「次もです」
「はい」
「その次も」
ガニーロは少しだけ笑った。
「予定表に書きます」
「大きい字で」
「赤で」
「赤は危険表示です」
「じゃあ、青で」
レトリスは目を伏せた。蒼い鞄の色と同じ言葉が、二人の間に落ちる。
その時、管理用小部屋の奥で、停止していたはずの基板が短く鳴った。
誰も触れていない。雨音と無線のノイズ、古い伝言メモ、帰還の声。その断片を拾ったのか、小さな印字機が紙を吐き出した。
オリーンがポットを抱いたまま、息をのんだ。
「読みます?」
「読みません」
レトリスが即答する。
しかし紙は、床の水たまりに落ちる前にヒルドバーグが拾った。彼女は一度だけ目を通し、口元をほんの少し緩めた。
「これは、あとで本人たちに返すよ」
「本人たち?」
サポナーラが首を伸ばした。
ヒルドバーグは紙を折り、濡れないようにエプロンのポケットへしまった。
「帰ってきた人たち全員さ」
レトリスは何か言おうとして、やめた。
ガニーロも聞かなかった。
今は、読む時間ではない。まだ避難は終わっていない。名簿には確認が残り、商店街には水が入り、喫茶ペアカップには濡れた靴の列が伸びている。
けれど、ひとつだけ終わったものがある。
誰か一人が黙って走っていく夜は、ここで終わった。
レトリスは無線機を持ち直し、地図の上に青いペンで一本の線を足した。ガニーロたちが戻ってきた道。棚板を上げ、ロープを張り、犬を抱き、老人を支えた道。
それは、最短の線ではなかった。
けれど、誰も置いていかない線だった。




