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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第46話 サブマリン、濁った水を進む

 旧地下避難施設サブマリンの管理用小部屋は、雨の音を壁の奥でこもらせていた。


 天井から水が落ちているわけではない。入口の丸い扉も、アリシャーが持ってきた防水シートと土のうで、どうにか持ちこたえている。それなのに、空気の底に湿った冷たさが沈んでいた。金属棚に並ぶ古いヘルメットの縁には、懐中電灯の光が細く反射し、そこだけ夜の川面のように揺れて見えた。


 オバインは床に片膝をつき、小型探索機サブマリンの外装を布で拭いた。


 「よし。名前負けだけは避けたいところだな」


 「その名前、地下避難施設と同じだから紛らわしいんです」


 レトリスが無線機を片手に、容赦なく言った。


 「地下避難施設をサブマリンと呼ぶ住民、探索機をサブマリンと呼ぶオバインさん、さらに説明書にもサブマリンと書くサポナーラさん。混乱の原因が三つあります」


 「俺のは愛称だ」


 「説明書は愛称ではなく資料です」


 「じゃあ今だけ、機体番号一号」


 「最初からそうしてください」


 オバインは肩をすくめた。だが、笑いきれなかった。手元の機体には、青鞄電子堂の部品、町工場の金具、エメットがつないだ避難灯用の小型電池、アリシャーの計測用目印が取り付けられている。ふだんなら自慢して、三倍は余計な説明をするところだった。


 今は、口が先に走らない。


 低い通りが浸水し、商店街から高台集会所へ向かう列は大きく迂回していた。旧郵便局側の灯りはエメットが戻した。喫茶ペアカップではオリーンが濡れたタオルを配り、ヒルドバーグは休む人の足元に新聞紙を敷いている。ロシルドゥアは避難支援名簿を濡らさないよう、透明な袋へ入れて首から下げていた。


 その袋が、さっき震えた。


 まだ確認できていない家が二軒ある。


 うち一軒は、低い通りのさらに奥、川沿いに近い平屋だった。ロシルドゥアの名簿には、犬を飼う高齢男性の名がある。足が悪く、ふだんは杖をついて商店街へ来る。青魚サンドは嫌いだと言いながら、月に二度は喫茶ペアカップの前を通る人だ。


 電話はつながらない。


 表の道は、もう水が濁っている。


 アリシャーが地図を床に広げた。紙の端が湿気で丸まり、彼は工具箱から取り出したナットを重し代わりに置いた。


 「正面の通りは使えません。水深が読めない。マンホールの蓋が浮いた可能性もあります」


 「裏の坂は?」


 ガニーロが、濡れた前髪を手の甲で上げながら尋ねた。


 「途中の石段が狭いです。担架は通りません。ただし、家の裏手にある旧水路沿いの点検道なら、低い通りを避けて近づけるかもしれません」


 「かもしれません、って言い方が一番こわいな」


 サポナーラが雨合羽の袖をまた半分裏返しにしながら言った。


 レトリスは彼の袖を見た。


 「今は直しません。自分で直してください」


 「え、見捨てられた?」


 「手が空いた人から、自分の袖を救助します」


 サポナーラは無言で袖を引っ張った。逆にさらに絡まった。


 いつもなら誰かが笑う。しかし、今は息だけが漏れた。重い空気に、少しだけ穴が開く。その穴から、全員が必要な分だけ呼吸をした。


 オバインは探索機の電源を入れた。小さなプロペラが水を噛む音が、管理用小部屋に低く響く。


 「機体番号一号、行かせる。旧排水口から旧水路へ入れる。濁っていて映像は悪いけど、壁の位置と水の流れくらいは拾える」


 「流速は?」


 アリシャーがすぐに聞く。


 「見てから言う。嘘はつかない」


 「それでいいです」


 レトリスは無線のチャンネルを合わせた。


 「高台集会所、こちら現町役所レトリス。旧水路確認を始めます。喫茶ペアカップにいるロシルドゥアさんへ、川沿い平屋の家族連絡先を再確認してください」


 『こちらオリーンです! ロシルドゥアさん、いまお茶を片手に名簿を見ています!』


 無線の向こうで、ロシルドゥアの声が少し遠く入った。


 『お茶は片手に持たされただけです。確認します。対象はミグ爺さん、犬の名前はポット。足の状態は右膝に痛み、長い階段は不可。家の裏手に物置あり。鍵は掛けない習慣。隣家は空き家』


 ヒルドバーグの低い声が重なる。


 『ポットは人見知りだ。呼ぶ時は、低い声で名前を二回。甲高く呼ぶと逃げる』


 サポナーラが袖と格闘しながら顔を上げた。


 「犬にも接客作法があるんですね」


 『人にもあるよ。今あんたは袖と仲直りしな』


 無線の向こうで、短い笑いが起きた。


 オバインは管理用小部屋の奥にある古い排水口の蓋を開けた。湿った鉄の匂いが強くなる。黒い穴の向こうで、水が静かに動いていた。見えないはずの流れが、壁に当たる音だけでわかる。


 彼は探索機を両手で持ち上げた。


 今朝までは、自分が町を出る時、この機体をここに置いていくつもりだった。必要とされる場所に残すのが一番いいと思っていた。けれど、今、手の中の重さは違っていた。


 置いていくか、持っていくかではない。


 この機体を作った時間が、自分のどこに残るかだ。


 ガニーロが横から小さな防水ライトを差し出した。


 「側面にもう一個つける。さっきエメットが直した予備回路の電池、一本だけ残ってた」


 「いいのか。避難灯に使う分じゃないのか」


 「今、道を探すのも灯りの仕事だ」


 オバインは受け取った。ライトの透明な筒には、エメットの小さな字で「濡れた手で触らない」と書かれている。


 「エメット、字が真面目だな」


 「本人が真面目に書いたんだろ」


 「おまえに言われると、真面目という言葉まで工具箱に入りそうだ」


 ガニーロは返事をせず、ライトを固定するテープを巻いた。巻き方が丁寧すぎて、オバインは少し笑った。


 「水の中だぞ。そこまで角をそろえる必要あるか」


 「曲がっていると、はがれた時にわかりにくい」


 「ああ、出た。曲がり角まで面倒を見る男」


 レトリスが横から言った。


 「今のは記録しません」


 「してくれてもいいんだぞ。俺の言葉、わりと名言だった」


 「名言は自薦制ではありません」


 小さなやり取りの間に、ガニーロの手は止まらなかった。最後にテープの端を折り返し、はがしやすいよう小さな耳を作る。オバインはそれを見て、胸の奥が妙に熱くなるのを感じた。


 この町には、こういう手が多すぎる。


 うっとうしいほど、誰かが誰かのあとを考えている。


 だから、出ていくのが難しい。


 「行くぞ」


 オバインは機体を水面へ置いた。


 サブマリンは一度、小さく傾いた。全員が息を止める。次の瞬間、側面の白いライトが濁った水の中で丸く広がり、機体はゆっくり前へ進んだ。


 管理用小部屋の古いモニターには、泥でにごった映像が映った。水の中の光は弱く、壁の汚れが近づいたり遠ざかったりするだけにも見える。だが、アリシャーはすぐに地図へ鉛筆を置いた。


 「右壁との距離、二十センチ。流れは思ったより強くない。ここは旧水路が広い」


 「音波の反射、前方に段差あり」


 オバインが画面を見ながら言う。


 「段差というより、沈んだ木箱かもしれない」


 「木箱なら物置から流れた可能性があります」


 レトリスが即座にメモを取る。


 ガニーロは無線で高台集会所へ伝えた。


 「旧水路、現在確認中。低い通りから直接入らず、裏手の点検道を候補にします。まだ人は出さないでください」


 『了解。こちらエメットです。避難灯、旧郵便局から上は全部点いています』


 少年の声は、さっきより少しだけ息が上がっていた。それでも語尾は揺れていない。


 ガニーロは一瞬だけ目を細めた。


 「ありがとう。水に近いところへは行くな」


 『はい。行く前に言います』


 「行かないでくれ、が正しい」


 『……はい。行きません』


 無線越しに、サポナーラが小さく「成長が早い」とつぶやいた。レトリスが彼の袖をちらりと見た。


 「袖は成長していません」


 「今それ言う?」


 モニターの中で、サブマリンの光が大きく揺れた。


 オバインの指が操作盤の上で止まる。


 「待て。何かある」


 映像の端に、白っぽいものが見えた。最初はビニール袋かと思った。水に揺れ、ふわりと膨らみ、また沈む。だが次に映った形を見て、全員の背筋がこわばった。


 犬の尻尾だった。


 「ポット……?」


 レトリスが声を落とす。


 白っぽい毛の老犬が、水の入りかけた狭い床の上に乗っていた。画面の奥には木製の棚が倒れ、さらにその向こうに人の足が見える。膝から下だけ。長靴ではない。家の中で履くような古い布靴だった。


 管理用小部屋の空気が止まった。


 オバインは機体を近づけすぎないよう、慎重に速度を落とした。犬が顔を上げる。目が光を拾い、画面の中で小さく反射した。


 無線から、ヒルドバーグの声が入った。


 『低い声で二回だよ』


 誰も、いつの間に繋がっていたのか聞かなかった。


 ガニーロがマイクを取った。探索機の小型スピーカーに繋げる。


 「ポット。ポット」


 低い声が、水の中をくぐって届いた。


 犬は動かなかった。逃げない。吠えもしない。ただ、画面の奥の足元へ鼻を向けた。


 レトリスは唇を引き結び、ロシルドゥアの名簿を見た。


 「ミグさんがいる。意識は不明。犬はそばを離れていません」


 サポナーラが、ようやく袖を直し終えた腕を握った。


 「行くしかない、って言ったら怒られる?」


 アリシャーが地図の上で線を引いた。


 「正面からは行けません。低い通りは深さが増えています。消防の到着は、橋の手前で車両が詰まっていて時間がかかる」


 「じゃあ、どこから」


 「ここです」


 アリシャーは鉛筆の先で、旧水路の北側にある細い線を指した。


 「古い点検道。地図では途切れていますが、等高線を見ると裏の畑へ出る。ロシルドゥアさん、ミグさんの家の裏に物置があると言いましたね」


 『あります。物置の横に小さな梅の木。春に枝を切れなくて、毎年近所に怒られていました』


 「その梅の木が目印になります。点検道から物置の裏へ出られれば、床下より高い場所を通れます。ただし、石段が狭い。担架は無理。背負子か、二人で支える形です」


 ガニーロが無言で立ち上がった。


 その動きが早すぎて、レトリスの手が先に伸びた。彼女の指は、彼の雨合羽の袖をつかむ。


 水の音が、十年前の雨の音に変わったように聞こえた。


 ガニーロは振り返った。


 「まだ行かない」


 レトリスの手に力が入ったままだった。


 「まだ、って言いました」


 「行く前に、道を決める。人数を決める。持つ道具を決める。十年前みたいにはしない」


 その言葉に、レトリスの指が少しだけ緩む。


 オバインはモニターを見たまま、機体をその場で待機させた。ポットはまだ老いた体を棚の上に乗せ、画面の向こうで動かない。


 「俺も行く。点検道の幅を見るなら、サブマリンの映像を見ていた俺がいた方がいい」


 「君は外へ出る準備があるんじゃなかったのか」


 アリシャーが地図を押さえながら言った。


 オバインは少しだけ笑った。


 「未来へ出るのと、今ここから逃げるのは違うって、誰かに言われた」


 レトリスは顔をそらした。


 「言った覚えはあります。使い方は合っています」


 「採点ありがとう、防災担当」


 サポナーラが一歩前に出た。


 「俺も行く。ミグ爺さん、俺の雨合羽講座で一番後ろにいた。覚えてないだろうけど、俺は覚えてる。袖も直した」


 レトリスは彼の両袖を確認した。


 「左右は合っています」


 「合格?」


 「最低条件です」


 「最低から始まる救助、悪くないな」


 ガニーロは工具袋の中身を床へ広げた。ロープ、滑り止めの手袋、防水ライト、予備電池、小型無線、折りたたみの背負子。すべてに、青鞄電子堂の白いテープが貼られている。


 レトリスは一つずつ確認した。


 「ロープ二本。一本は帰路固定用。一本は人員補助用。ライトは三つ。予備電池は濡れない袋へ。背負子は点検道で展開しない。物置裏へ出てから」


 アリシャーが地図に赤い線を引いた。


 「通るのはこの順番です。旧地下避難施設の裏口から上がる。石段を十七段。左に曲がって、古いフェンス沿い。梅の木の手前で水路側へ寄らない。ここ、土が崩れやすい」


 ロシルドゥアの声が続く。


 『ミグさんは右膝を曲げにくいです。急がせると足が止まります。ポットは抱こうとすると暴れるかもしれません。先にミグさんの声を聞かせてください』


 ヒルドバーグが短く足す。


 『ポットは青いタオルが好きだ。店に一枚ある。持っていきな』


 『こちらオリーン、青いタオル持って走ります!』


 「走らないでください」


 レトリス、ガニーロ、ロシルドゥアの声が同時に重なった。


 無線の向こうで、オリーンが「競歩にします!」と答えた。


 こんな時でも、少しだけ笑えてしまう。笑った分だけ、指先の震えが落ち着いた。


 オバインは探索機の映像を保存し、画面の角度を変えた。ミグの足元、水の高さ、倒れた棚、逃げ道になりそうな小窓。必要なものを一つずつ切り取るように見る。


 ガニーロが折りたたみ背負子を持ち上げた。


 その瞬間、レトリスの目に、十年前の背中がよみがえる。雨の中、誰かを背負って走った少年。約束の場所へ戻れなかった少年。理由を言わずに謝っただけの、世界で一番嫌いな人。


 同じことを繰り返すのか。


 喉まで出かかった言葉を、彼女は飲み込まなかった。


 「ガニーロ」


 彼は足を止める。


 「今度は、誰がどこを歩くのか、全部言ってから行ってください」


 ガニーロは少しだけ目を丸くした。


 それから、うなずいた。


 「俺が先頭で道を見る。オバインが二番目で足場と機材を見る。サポナーラが三番目でロープを持つ。アリシャーはここで地図と水位を見ながら指示。レトリスは全体の連絡。ロシルドゥアさんはミグさんの状態を教える。ヒルドバーグさんはポットの扱いを教える。エメットは高台で灯りを守る」


 レトリスは首から下げたペンで、そのまま紙に書いた。


 「記録しました」


 「足りないところは?」


 「あります」


 彼女は紙から顔を上げた。


 「帰ってきたら、全員で喫茶ペアカップに戻ること。ミグさんとポットも含めて」


 サポナーラが片手を挙げた。


 「青魚サンドは?」


 「食べられる人だけ」


 「食わず嫌いにも配慮」


 レトリスはほんの少しだけ、口の端を上げた。


 「私は食べます」


 ガニーロが、彼女を見た。


 雨音の中で、その小さな宣言は奇妙に明るかった。避難の合間に言うことではない。けれど、言えるうちに言っておくことが、この町には多すぎる。


 オバインはサブマリンを少し後退させ、ポットの視界からライトを外した。犬の目が、また暗がりへ戻る。


 「待ってろよ、ポット。ミグ爺さんも。機体番号一号、留守番に入る」


 探索機は小さく水をかき、倒れた棚の手前で止まった。濁った水の中に灯りが残る。そこにいる、と知らせ続けるための光だった。


 ガニーロがロープを肩にかける。


 レトリスの指が、もう一度だけ袖をつかんだ。


 今度は止めるためではない。白いテープの端がめくれていた。彼女はそれを押さえ、指の腹でしっかり貼り直した。


 「はがれます」


 「ありがとう」


 「感謝は帰ってきてから、きちんと文章で提出してください」


 「この雨の中で?」


 「防水の紙があります」


 サポナーラが息をのんだ。


 「まさか、超絶赤面ポエム再開?」


 「しません」


 レトリスは即答した。


 それでも、誰かが少し笑った。


 旧地下避難施設の奥で、丸い扉が重く開く。外の雨音が一気に大きくなり、冷たい風が管理用小部屋へ流れ込んだ。


 アリシャーの鉛筆が地図の上に置かれる。


 「最初の石段まで、十メートル。足元、左に傾きます」


 ロシルドゥアの声が続く。


 『ミグさんは、急かさないでください。ポットには青いタオル』


 ヒルドバーグが言った。


 『全員、帰ってきたら靴を脱ぐ前にタオルだよ。床を濡らしたら怒るからね』


 オリーンがその後ろで叫ぶ。


 『青いタオル、いま到着しました! 走ってません! 競歩です!』


 「競歩も足元を見てください」


 レトリスは無線に向かって言い、深く息を吸った。


 濁った水の向こうに、人がいる。老犬がいる。そこへ向かう道は、誰か一人の勇気で見つけるものではなかった。小さな探索機が進み、地図の線が重なり、名簿の文字が声になり、店のタオルが犬の記憶へ届こうとしている。


 ガニーロは扉の外で振り返った。


 レトリスは、今度は「行かないで」とは言わなかった。


 「行くなら、予定どおりに」


 ガニーロは濡れたロープを握り直した。


 「この話には続きがあって……」


 彼はそこで一度だけ、言葉を区切った。


 レトリスの胸が強く鳴る。


 「今度は、全員で書く」


 オバインが隣で笑った。


 「名言、自薦していいか?」


 「今のは記録します」


 レトリスが言うと、サポナーラが袖を確かめながら胸を張った。


 「じゃあ、最低条件は満たした男として続く」


 雨の中へ、三つの背中が出ていく。


 管理用小部屋のモニターでは、サブマリンの白い灯りが濁った水を照らし続けていた。小さな丸い光は、逃げ道の入口ではなく、待っている人の場所を示している。


 レトリスは無線機を握り、地図の赤い線を見た。


 十年前、誰かの背中をただ待つことしかできなかった。


 今は違う。


 彼らの歩く先を、声で照らすことができる。



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