第45話 エメット、先に歩く
青鞄電子堂の避難灯は、細い雨の中で白く点々と続いていた。
旧郵便局前から高台の集会所へ向かう道は、昼間なら子どもの通学路だった。けれど夜の雨に濡れると、石畳の隙間が黒く沈み、低いところにたまった水が足元を見えにくくする。歩き慣れた住民でさえ、次に足を置く場所を一瞬探した。
避難灯は、その一瞬を少しだけ短くしていた。
牛乳瓶ほどの透明な筒に、ガニーロが組んだ基板とエメットが半田づけした白い発光部が入っている。筒の底には滑り止めのゴムが巻かれ、雨水が入りにくいよう、オリーンが食品保存用の密閉袋を切って作った覆いがかぶせてあった。見た目だけなら、商店街の福引きで余った景品をむりやり勇敢にしたような形だった。
それでも灯りは、逃げる人の靴先を照らしていた。
「足元、段差あります。右側の白い線から出ないでください」
エメットは小さな声を張った。
合羽のフードから落ちる雨が、頬を叩く。肩から下げた工具袋は、いつもよりずっと重かった。中には予備電池、絶縁テープ、乾いた布、小さなドライバー、そしてガニーロが何度も確認して入れた予備回路がある。
予備回路には、まだエメットの指紋が残っていた。
はじめて半田ごてを握った日、煙を出してレトリスに換気を注意された。小さな部品を落として床を探し回った。ガニーロは怒らず、焦げた箇所を一緒に見つけてくれた。
あの時は、ガニーロの手元を見てから動いた。
今は、ガニーロがすぐ横にいない。
「エメット、五本目、まだ平気か?」
サポナーラが後ろから声をかけた。合羽の袖がまた片方だけ裏返り、雨水を受ける小さな袋になっている。
「平気です。サポナーラさん、袖、逆です」
「これは水を集めて、非常時に役立てるための高度な形状だ」
「濡れるだけです」
「君は説明に遠慮がないな」
エメットは口元だけで笑い、五本目の避難灯を持ち上げた。
白い灯りがふっと弱くなった。
次の瞬間、ぽつりと消えた。
道の真ん中に、暗い穴が落ちたようになった。列の先頭にいた老婦人が足を止め、後ろの人も続いて止まる。傘がぶつかり、合羽の裾が擦れ、低いざわめきが雨音に混じった。
「止まってください。詰めすぎないで。前の人の肩を押さないでください」
ロシルドゥアの声が列の後ろから飛んだ。
エメットは避難灯に駆け寄った。
筒の中に水は入っていない。電池も外れていない。けれど発光部は沈黙していた。
手袋の指先が濡れている。小さなネジは回しにくい。ガニーロなら、まず乾いた布で拭いて、それから電池の接点を見る。焦らない。無理に開けない。濡れた場所で基板を触らない。
エメットは一度、工具袋を握りしめた。
ガニーロを呼ぶべきだと思った。
無線機を取れば、青鞄電子堂の方で別の灯りを調整しているガニーロにつながる。いつもならそうする。わからないことを、わからないまま触らない。それは何度も教わった。
けれど、道は暗い。
列はここで止まっている。
後ろから、赤ん坊の泣き声が聞こえた。誰かが「すぐ着くからね」と言い、別の誰かが「もう少し上」と答える。足の悪い男性が手すりに体重を預け、濡れた指で冷たい金属をつかんでいる。
エメットは、ガニーロの声を思い出した。
『わからない時は止まる。止まったあと、何を見ればいいかを決める』
止まった。
見た。
避難灯の下、石畳のへこみに水がたまり、筒の底のゴムがずれている。水そのものは中に入っていないが、底の接点を押すための小さな金具が斜めになっていた。昼間の確認では、乾いた場所に置いていた。雨の中で踏まれ、底が少しねじれたのだ。
修理するには時間がかかる。
列を待たせすぎる。
なら、予備回路を外につなぐしかない。
「サポナーラさん」
「はい、役立つ青年です」
「傘を持ってください。ここに水が落ちないように」
「了解。青年改め、傘柱です」
「動かないでください」
「厳命が具体的」
サポナーラが傘を大きく広げ、エメットの手元を覆った。傘の縁から雨が糸のように落ちる。完全には防げない。それでも、基板を取り出す数秒を稼げる。
エメットは工具袋から乾いた布を取り出し、筒の表面を拭いた。ネジを二つだけ外す。全部外す必要はない。横を少し開ければ、断線している接点に予備回路を差し込める。
ガニーロなら、たぶんそうする。
いや。
エメットは息を吸った。
自分が、そうすると決めた。
指先は震えていた。けれど、震える指でもテープは巻ける。金具を押さえる小さなクリップをつけ、予備回路の線を接点へ当てる。赤い線をプラス側へ。黒い線を戻り側へ。半田づけはしない。今は仮につなぎ、あとで青鞄電子堂で直す。
「エメット、後ろが少し詰まってる」
ロシルドゥアが言った。
「あと十秒ください」
エメットは答えた。
十秒で済むかはわからなかった。
けれど、十秒と言えば、後ろの人が数えられる。待つ時間に形ができる。
サポナーラがなぜか大声で数え始めた。
「十、九、八、七、ここで劇的に三!」
「飛ばさないでください!」
「緊迫感を演出しようと」
「演出いりません!」
列の誰かが小さく笑った。
その笑いで、詰まっていた肩がほんの少しゆるむ。老婦人が杖を持ち直し、泣いていた赤ん坊が一瞬だけ声を止めた。
エメットは最後のテープを巻いた。
指でスイッチを押す。
点かない。
胸がきゅっと縮んだ。
もう一度押す。
白い灯りが、筒の中で瞬いた。
消えかける。
エメットは咄嗟に、筒の底に挟んだ布の位置を直した。金具の角度が戻る。白い灯りが、今度はまっすぐ立ち上がった。
「点きました!」
自分で思っていたより大きな声が出た。
列の前から、ほっと息を吐く音がいくつも重なった。
「進めます。右側を見てください。灯りの外へ足を出さないでください」
エメットは避難灯を持ち上げた。
ただ置くだけではまた水で底がずれる。近くの店先にあった木箱を借り、その上へ乗せる。高さが上がったぶん、白い光は石畳の端まで届いた。
「サポナーラさん、この木箱、後で持ち主に返すため、場所を覚えておいてください」
「了解。旧郵便局から高台へ三つ目の軒先、ひび割れた木箱、左側に魚の絵、私の袖は逆」
「袖は戻してください」
「それも記録対象か」
エメットはうなずこうとして、ふと前を見た。
列が動き始めている。
さっきまで立ち止まっていた人たちが、灯りを頼りに、一人ずつ上へ進んでいく。誰かが誰かの腕を支え、子どもが濡れた靴を鳴らし、合羽の背中に白い光が映っている。
その少し先で、ガニーロが振り返っていた。
彼は別の避難灯を抱え、坂の上からこちらを見ていた。雨で眼鏡が濡れ、表情ははっきり見えない。けれど、エメットが予備回路をつないだ避難灯を指さすと、ガニーロは近づいてこなかった。
代わりに、親指を一本立てた。
それだけだった。
エメットの喉の奥が熱くなる。
褒め言葉を待っていたわけではない。助けを求めなかったことを、責められなかっただけでもほっとした。けれど、それ以上に、ガニーロが駆け寄ってこなかったことが嬉しかった。
任されたのだ。
「エメットくん」
老婦人が、灯りの横で立ち止まった。
「はい。足元、そこ段差です」
「ありがとうね。白いところを踏まないで、白いところの横を歩けばいいんだね」
「はい。灯りは目印なので、足は光の手前に置いてください」
「はいはい。先生みたいだねえ」
エメットは返事に困った。
先生ではない。まだ半田ごての先を焦がすし、ネジを落とすし、レトリスに換気を忘れるなと言われる。けれど、今、目の前の人の足を止めずに済んだ。
「先生じゃないです」
「じゃあ、灯りの番人だ」
老婦人はそう言って、ゆっくり上へ歩いていった。
サポナーラが横で小さく拍手した。
「灯りの番人、いいな。商品名にできる。『灯りの番人エメット型』」
「売らないでください」
「非売品か。価値が上がるな」
「サポナーラさん、次の灯りを見に行きます」
「はい、番人殿」
「その呼び方もやめてください」
言いながら、エメットは工具袋を肩にかけ直した。
重い。
けれど、さっきとは違う重さだった。
袋の中に入っているのは、誰かに持たされた道具だけではない。自分で選んだ布、自分で巻いたテープ、自分で失敗して覚えた部品の向き。全部が肩に残っている。
無線機から、レトリスの声が入った。
『高台集会所前、受け入れ継続。旧郵便局側の灯り、復旧しましたか』
エメットは一瞬、ガニーロを見る。
ガニーロはまだ坂の上にいて、別の住民へ道を示していた。こちらには来ない。
エメットは無線機を手に取った。
「復旧しました。五本目です。底の接点がずれていました。予備回路で仮につないで、木箱に乗せています。あとで本修理が必要です」
言い終えてから、息を止めた。
少し沈黙があった。
『了解。記録します。五本目、仮接続。通行継続。……エメット、手は濡れていませんか』
「布で拭きました」
『よし。次へ行く前に、サポナーラさんの袖を直してください』
サポナーラが空を仰いだ。
「防災担当の目は雨雲より広い」
列の前後でまた小さな笑いが起きた。
エメットはその笑いを聞きながら、サポナーラの袖を引っ張って戻した。濡れた布がべしゃりと鳴る。
坂の上で、ガニーロが別の避難灯を置き、老犬を抱えた男性に手を貸していた。
エメットは走り出したくなった。
けれど、走らない。雨の坂で走ると転ぶ。急いでいる時ほど、足を置く場所を見る。そう教わった。
一歩。
白い灯りの手前に足を置く。
もう一歩。
次の暗がりへ向かう。
さっきまでは、誰かの背中を見て歩いていた。
今は、背中の前に灯りを置きに行く。
ガニーロが坂の上から振り返った。今度は親指ではなく、工具袋を軽く叩く仕草をした。
準備を忘れるな。
エメットは工具袋を叩き返した。
持っています。
言葉にしなくても通じた気がした。
雨はまだ強い。商店街の低い通りでは水が増え、役所の無線は次々に声を運んでくる。これで終わりではない。次の灯りも、次の段差も、次の迷う人もいる。
けれどエメットは、もう「ついていきます」とは言わなかった。
前へ出て、白い筒を抱える。
「次の避難灯、確認します。足元、少し暗くなります。僕が先に行きます」
その声に、誰かが「頼むよ」と答えた。
エメットはうなずき、雨の中へ一歩踏み出した。
白い光が、彼の靴先から次の道を照らし始めた。




