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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第44話 浸水する商店街

 商店街の低い通りに、水は最初、遠慮するように入ってきた。


 雨どいから落ちた水が路面のへこみにたまり、靴底の跡を黒く濡らす。その黒い跡がつながり、細い筋になり、やがて排水溝へ向かわずに、古道具屋の前でゆっくり広がった。


 ブルグリンデは振興会事務所の軒下で拡声器を握りしめていた。


 事務所の窓には、手書きの避難案内が貼ってある。


 西通りへ回ってください。


 旧郵便局前の坂は足元注意。


 喫茶ペアカップで休めます。


 水が見えたら、商品を置いて出てください。


 最後の一文だけ、ブルグリンデが自分で書いた。


 筆圧が強すぎて、紙の裏に黒い跡が浮いていた。


 「東通りの皆さん、西通りへ回ってください。店の物より、足を先に動かしてください」


 同じ言葉を三度言うと、拡声器の中で自分の声が少し割れた。雨音のせいで、どこまで届いているのか分からない。だが、言わないよりましだった。


 靴屋の店主が、シャッターを半分だけ下ろしていた。


 片手でシャッターの取っ手を握り、もう片方の手で棚の上の革靴を奥へ押し込んでいる。新作の箱が床に積まれ、床に触れそうな高さまで水が来ていた。


 「まだ箱だけでも上へ上げれば」


 店主の声は、雨にぬれた段ボールのように重かった。


 ブルグリンデは軒下から飛び出した。傘を差す時間が惜しく、肩にかけた雨合羽のフードだけを頭にのせる。雨粒が頬を打ち、眼鏡に白い点が増えた。


 「箱はあとです。今、外へ出てください」


 「でも、これ、今月入ったばかりで」


 「あなたの足が濡れてからでは、箱より運びにくくなります」


 靴屋の店主は口を開けたまま止まった。


 ブルグリンデは、棚の一番下に手を伸ばそうとしている店主の腕をつかむ。強く引いたのではない。けれど、離さなかった。


 「西通りへ。奥さんはもうペアカップへ向かっています。あなたが来ないと、奥さんが戻ってきます」


 その一言で、店主の目が変わった。


 「……分かった」


 店主は棚から手を離し、カウンターの上に鍵を置いた。シャッターを下ろし切る前に、もう一度店内を見る。床の水が、靴箱の角に触れた。


 ブルグリンデは見ないふりをしなかった。


 「水、入りました。ここは危険です」


 はっきり口に出すと、自分の胃が冷たくなった。


 何年も、できるだけ柔らかい言い方を探してきた。少し水がたまりやすい、足元に注意、早めの移動をおすすめします。そんな言葉で、町を怖がらせないようにしてきた。


 今は違った。


 危険な場所を危険と言わなければ、誰かが店の奥で最後の商品を抱えてしまう。


 「行きましょう」


 ブルグリンデは靴屋の店主の背中を押すように歩き出した。


 商店街のアーケードの屋根は、雨を全部は受け止められなかった。継ぎ目から落ちる水が、何本もの細い滝になっている。その下を通るたび、肩や首筋へ冷たいしずくが落ちた。


 角を曲がると、文房具店の前でサポナーラが雨合羽を着たまま、両腕を大きく振っていた。


 「こっちです! 西通りです! 袖を逆に通しても避難はできますが、足を逆に出すと転びます!」


 「足は逆に出せないだろ!」


 近くの少年が叫び、泣きそうだった顔で少し笑った。


 サポナーラは胸を張った。


 「今のは確認問題です!」


 「絶対違うわよ!」


 オリーンが雨の中から声を飛ばした。彼女は両手にビニール袋を下げ、袋の中には小分けにしたタオルと使い捨ての紙コップが入っている。袋の一つには、太い字で「びしょびしょさん用」と書かれていた。


 ブルグリンデは、思わず口元を引き結んだ。


 笑っている場合ではない。


 けれど、笑いがまったくない道は、子どもが歩き続けられない。


 「オリーンさん、靴屋さんをペアカップへ」


 「はい。靴屋さん、一番濃くないスープから出します。ヒルドバーグさんの説教は温まってからです」


 「説教付きか」


 靴屋の店主がぼそりと言うと、オリーンは袋を持ち直した。


 「生還特典です」


 店主は、ようやく足を速めた。


 ブルグリンデはその背中を見送る間もなく、また拡声器を握った。


 「東通り、文房具店より海側の店舗は、荷物を置いて避難してください。繰り返します。荷物を置いて、西通りへ向かってください」


 言い終わる前に、古書店の扉が開いた。


 白髪の店主が、胸に本を何冊も抱えて出てくる。雨に濡れないように胸元へ押しつけているせいで、足元が見えていなかった。


 入口の段差に、茶色い水が薄く乗っている。


 「待ってください!」


 ブルグリンデは走った。


 古書店の店主の靴先が、段差の縁で滑りかける。


 その横から、エメットが飛び出した。


 少年は大きな防水袋を胸に抱え、肩から斜めに避難灯を下げている。灯りは昼の雨でも頼りなく見えたが、濡れた段差の線だけを白く浮かせていた。


 「足、ここです。こっちに置いてください」


 エメットは自分の足を、段差の安全な位置へ置いて見せる。


 古書店の店主は、言われた通りに足を出した。胸の本が雨に濡れ、表紙の端が丸まりはじめる。


 「この本だけでも」


 「おじいさんが転んだら、その本を拾う人も危なくなります」


 エメットの声は震えていた。けれど、逃げなかった。


 「本は、防水袋に入れます。袋に入るだけです。入らない分は、あとで乾かし方を調べます。だから、先に出てください」


 古書店の店主は、本を抱く腕に力を入れた。


 「これは、亡くなった妻が好きだった」


 ブルグリンデは息を止めた。


 以前の自分なら、言葉を薄めようとしたかもしれない。お気持ちは分かります、可能な範囲で対応します、もう少し様子を見ましょう。そんなふうに、痛みをそっと包もうとして、結局、その人をその場に立たせ続けたかもしれない。


 雨が、古書店の看板を叩いている。


 水位は、少しずつ上がっている。


 ブルグリンデは、古書店の店主の前に立った。


 「奥様の本を大切にするためにも、あなたが先に避難してください」


 古書店の店主は、顔を上げた。


 「あなたがいなければ、その本の話を聞ける人がいません」


 言いながら、ブルグリンデは自分の声がどこかで震えるのを感じた。


 十年前、彼女は店主たちを一軒ずつ回った。


 大丈夫ですか、早めに閉めてください、できれば避難してください。


 できれば。


 その言葉を何度使ったか、今でも覚えている。


 できればでは足りなかった。


 帰ってほしい、逃げてほしい、今すぐ出てほしい。そう言い切ることを、彼女は避けた。商店街を怖がらせないため。自分が強く言って嫌われないため。あとで「あの人は大げさだった」と言われたくないため。


 水は、そんな言い訳を待たなかった。


 古書店の店主は、ゆっくりと本を防水袋へ入れた。


 エメットが袋の口を閉じる。


 「一冊、入らないです」


 少年が困った顔をした。


 ブルグリンデは自分の雨合羽の内側を開いた。


 「それは私が持ちます」


 「濡れますよ」


 「持ち主を濡らすよりましです」


 古書店の店主が本を一冊差し出す。薄い随筆集だった。表紙には小さな花の絵が描かれている。


 ブルグリンデはそれを胸の内側へ入れた。紙の角が服に当たる。小さな硬さだった。


 「西通りへ。エメットくん、足元の灯りを」


 「はい」


 エメットが先に立つ。


 その横を、ガニーロが小走りで戻ってきた。肩から工具袋を下げ、髪は額に張りついている。手には、濡れた延長コードの束ではなく、電池式の小さな誘導灯を数本持っていた。


 「低い通りの入口、もう車止めを置いた。アリシャーさんが旧郵便局前から回る線を確認してる」


 「水位は?」


 レトリスの声が、少し遅れて聞こえた。


 彼女は蒼い鞄を胸に抱え、役所の黄色い防水ファイルを脇に挟んでいる。髪から雨が落ち、頬の横を伝っていた。


 ガニーロは水の流れを指さす。


 「文房具店前で足首の下。古道具屋の角でくるぶしまで。排水溝の位置が見えにくい」


 レトリスはファイルの中の地図を開いた。雨で紙が濡れないよう、蒼い鞄を屋根代わりにする。基板は沈黙したままだった。


 「東通りの避難、前倒しします。ブルグリンデさん、店の人に直接言えますか」


 「言います」


 返事は、考えるより先に出た。


 レトリスは一瞬、ブルグリンデを見た。


 会議室で資料の言葉を勝手に柔らかく変えた時、レトリスは目を吊り上げた。危険を危険と書けないなら地図ではない、と言った。あの時、ブルグリンデは反発した。町の顔を傷つけるな、と言った。


 今、その町の顔である店主たちが、水の中に立っている。


 守る順番を、間違えるわけにはいかなかった。


 「東通りの皆さん!」


 ブルグリンデは拡声器を持ち上げた。


 「水が店先に入っています。これは注意ではありません。危険です。商品を戻しに行かないでください。シャッターを下ろしたら、鍵を持って西通りへ。足の悪い方はその場で手を上げてください。青鞄電子堂の灯り班が迎えに行きます」


 雨に声が押し返される。


 それでも、何人かが顔を上げた。


 金物屋の若い店員が、店内へ戻ろうとしていた足を止める。惣菜屋の夫婦が、揚げ油の火を切って外へ出てくる。玩具店の店主が、軒先に並べていた小さなプラスチックの風車を見つめたあと、ひとつだけ外してポケットへ入れた。


 ブルグリンデは、そのひとつだけを見逃した。


 全部を捨てろと言うことと、思い出まで捨てろと言うことは違う。


 玩具店の店主がシャッターを下ろす。風車がポケットから少しだけ顔を出し、雨風にかすかに回った。


 サポナーラが、その風車を指さした。


 「それ、避難所で子どもに見せたら絶対人気出ますよ」


 「売り物じゃない」


 「じゃあ、なおさら人気出ます」


 玩具店の店主は、困ったように笑った。


 その笑い声の横で、足元の水が濁りを増した。


 ガニーロは誘導灯を一本、古道具屋の看板下へ置いた。白い光が雨水に反射し、排水溝の縁が浮かび上がる。


 「エメット、こっちの線、頼める?」


 「できます」


 エメットは頷き、予備の灯りを受け取った。


 以前なら、彼はガニーロの後ろに立ったままだった。今は違う。濡れた地図をちらりと見て、どこに置けば次の人が迷わないか考え、白い線を作るように灯りを置いていく。


 ブルグリンデはその背中を見て、胸の奥が少し熱くなった。


 子どもが先に歩く町にしてはいけない。


 けれど、子どもが自分で歩ける町にしなければならない。


 その違いを、今の背中が教えていた。


 「ブルグリンデさん」


 レトリスが地図から顔を上げる。


 「東通りの最後、金物屋の裏に一人、残っている可能性があります。店主のお母さんです。歩くのに時間がかかります」


 「ロシルドゥアさんの表にありましたね」


 「はい。電話がつながりません」


 ブルグリンデは金物屋を見た。


 店先の水は、もう足首に届きそうだった。


 ガニーロが動こうとする。


 「俺が」


 「あなたは灯りを切らさないで」


 レトリスが即座に言った。


 言葉は強かったが、目は彼の足元を見ていた。濡れたコード、工具袋、誘導灯。彼が動けば別の線が切れる。


 ガニーロは一度息を吸い、頷いた。


 「分かった。じゃあ、入口まで灯りを伸ばす」


 「私が行きます」


 ブルグリンデは言った。


 レトリスがこちらを見る。


 「一人では行かせません」


 「分かっています。サポナーラさん」


 「はい! 今度は雨合羽、正しく着ています!」


 「それは重要です。金物屋の裏へ一緒に来てください。エメットくんは入口まで。中へは入らない。ガニーロさんは灯り。レトリスさんは戻り先と連絡」


 自分の口から、順番が出ていく。


 誰かの意見を消して整えるのではない。今ここで、必要な声をそれぞれの場所へ置く。


 レトリスは短く頷いた。


 「了解。戻ったらすぐ人数確認します」


 ブルグリンデは金物屋へ向かった。


 水は思ったより冷たかった。長靴の表面を叩く音が変わる。アーケードの下なのに、横殴りの雨で顔が濡れる。


 金物屋の店主は入口で工具箱を抱えていた。


 「母が奥に。杖が見つからなくて」


 「工具箱は置いてください」


 「でも、中に親父の」


 「お父様の工具を大切にするために、あなたが無事でいてください」


 先ほど古書店で言った言葉に似ていた。


 だが、今度は迷わなかった。


 店主は工具箱を見下ろした。指が白くなるほど取っ手を握っている。サポナーラがそっと横から手を伸ばした。


 「上の棚に乗せます。俺、こういう時だけ無駄に背があります」


 「無駄って言うな」


 「では、有用に背があります」


 サポナーラは工具箱を受け取り、棚の上へ置いた。わざと両手で大切そうに持ち上げる。その仕草を見て、店主の肩から力が抜けた。


 「母さん、裏です」


 金物屋の奥は薄暗かった。


 停電はまだしていないが、照明が雨音に合わせて小さく揺れているように見える。床には、細い水の線が入口から伸びていた。


 ブルグリンデは中へ入る前に、店主へ言った。


 「あなたは入口で待ってください。奥で二人が動くと狭くなります」


 「でも」


 「待つ役も必要です。戻った時、手を貸してください」


 店主は唇を噛んで頷いた。


 奥の小部屋で、老婦人が椅子に座っていた。足元に杖はない。代わりに、古い金属製の菓子缶を膝に抱えている。


 「置いていけないの」


 老婦人は、ブルグリンデを見るなり言った。


 「写真が入っているの。あの人の」


 水音が、店の外から近づいてくる。


 サポナーラが何か言いかけたが、ブルグリンデは片手で止めた。


 「缶は私が持ちます」


 「重いわよ」


 「重いものは、持てる人が持ちます。あなたは杖代わりに、私の腕を持ってください」


 老婦人は菓子缶を抱く腕をさらに強くした。


 ブルグリンデは屈み、老婦人と目の高さを合わせた。


 「置いていけとは言いません。けれど、ここに残るのは危険です。今、出ます」


 最後の一言に、自分でも驚くほど力が入った。


 お願いではない。


 命令でもない。


 逃げるために必要な、まっすぐな言葉だった。


 老婦人はしばらくブルグリンデを見ていた。やがて、菓子缶を差し出す。


 「落とさないでね」


 「落としません」


 「あなた、昔から物を丁寧に持つ子だったもの」


 ブルグリンデは一瞬、息を止めた。


 覚えられていた。


 十年前、できれば避難してください、としか言えなかった自分のことも、この人は覚えているのだろうか。


 考えるのは後でいい。


 今は、外へ出る。


 サポナーラが老婦人の反対側に回った。


 「足元、ここです。私の失敗販売台本より段差が多いので気をつけてください」


 「それは、かなり危ないねえ」


 「はい。もう二度と売れません」


 老婦人が小さく笑った。


 その笑いを合図に、三人は動き出した。


 入口に戻ると、ガニーロの置いた誘導灯が白く光っていた。エメットがその横で、濡れた床の滑りやすい場所を指さしている。


 「そこ、斜めになってます。左に寄ってください」


 店主が母親へ手を伸ばした。


 「母さん」


 「工具箱は?」


 「棚の上」


 「写真は?」


 「ブルグリンデさんが持ってる」


 老婦人は、初めて少し安心した顔をした。


 外へ出ると、雨の音が一気に大きくなった。


 商店街の低い通りには、もう浅い川のように水が流れている。白い誘導灯が点々と並び、濁った水の中に小さな星の列を作っていた。


 レトリスが人数を数える。


 「金物屋、店主一名、母親一名、避難開始。ブルグリンデさん、サポナーラさん、戻り確認」


 「写真缶一個もあります!」


 サポナーラが叫ぶ。


 レトリスは一瞬だけ眉を動かした。


 「写真缶一個、確認」


 真面目に復唱したので、サポナーラの方が照れた。


 「いや、そこまで正式にしなくても」


 「持ち主にとっては正式です」


 レトリスはそう言い、地図に印をつけた。


 ブルグリンデはその横顔を見た。


 資料では届かない言葉がある。


 けれど、資料に残さなければ消えてしまう小さな大切さもある。


 写真缶一個。


 随筆集一冊。


 風車ひとつ。


 それらは命より先に取りに戻るものではない。けれど、命が助かったあと、その人が明日を始めるために必要なものだった。


 怖さを隠さず、大切なものも笑わない。


 それが、今の地図に足りなかった線なのかもしれなかった。


 ペアカップへ向かう途中、惣菜屋の夫婦が立ち止まった。


 妻が振り返り、店の方を見た。


 「火、消したわよね」


 「消しました。二度確認しました」


 レトリスが即答する。


 「油の元栓、私も見ました」


 ブルグリンデも続けた。


 夫婦は互いに顔を見合わせ、ようやく歩き出した。


 喫茶ペアカップの灯りが見えてきた。


 窓の内側には、人影が増えている。オリーンがタオルを配り、ヒルドバーグが湯気の立つ鍋を見ている。ロシルドゥアは名簿に線を引きながら、椅子の位置を動かしていた。


 入口に着いた古書店の店主へ、ヒルドバーグがタオルを投げた。


 「本より先に手を拭きな」


 「本も濡れた」


 「人が乾いてから本だよ」


 「説教は温まってからでは」


 「これは前菜だ」


 オリーンが吹き出し、靴屋の店主まで笑った。


 その笑い声が、雨音の中で小さな屋根になった。


 ブルグリンデは、店の入口で一度立ち止まった。


 胸の内側に入れた随筆集を取り出し、古書店の店主へ渡す。雨合羽の内側に入れていたので、表紙の端は少し湿っただけだった。


 「お預かりしました」


 古書店の店主は、両手で受け取った。


 「ありがとう」


 たった一言なのに、ブルグリンデの喉が詰まりかけた。


 彼女は頷き、すぐに外へ向き直る。


 まだ終わっていない。


 水は入ってきている。


 低い通りには、まだ確認が必要な店がある。


 レトリスが隣に立った。


 「ブルグリンデさん」


 「はい」


 「さっきの案内、届いていました。店の人たちが、戻らずに動いてくれた」


 ブルグリンデは濡れた拡声器を見下ろした。


 「書類では、私はずいぶん余計なことをしました」


 「しました」


 レトリスは容赦なく言った。


 ブルグリンデは小さく息を吐く。


 「今も、余計なことを言いましたか」


 「いいえ。今の言葉は、紙だけでは届きません」


 雨が二人の間に落ちる。


 レトリスは地図を抱え直した。


 「でも、あとで地図に残します。どの店の前で水が入ったか。どの言葉で人が動いたか。どこに灯りを置けば足が止まらなかったか」


 ブルグリンデは、商店街の低い方を見た。


 白い誘導灯の列が、雨水の上で揺れている。


 商品を守るために戻ろうとした店主たちが、今はペアカップの明かりの中でタオルを受け取っている。水に濡れた靴箱も、本も、工具箱も、店の奥に残った。けれど、話す人はここにいる。


 失くしたものを数えるのは、命がそろってからでいい。


 「レトリスさん」


 「はい」


 「次の地図に、店の評判は載せられませんね」


 「載せません」


 「でも、休める店は載せられる」


 「載せます」


 「濡れた本を乾かせる店も?」


 レトリスは一瞬だけ考えた。


 「載せましょう。古書店の店主に聞いてから」


 「説教前のタオルが飛んでくる店も」


 「喫茶ペアカップは、説明が長くなりますね」


 二人は、少しだけ笑った。


 その時、遠くで水を叩く音が大きくなった。


 アリシャーからの無線が入る。


 『旧郵便局前、通行可能。ただし東通り低部、これ以上の滞在は危険。次の確認で閉鎖線を上げます』


 レトリスは無線機を握った。


 「了解。東通り低部、閉鎖線を一段上げます。ブルグリンデさん、もう一度案内を」


 ブルグリンデは拡声器を持ち上げた。


 雨で手が滑りそうになり、サポナーラが横から乾いた布を差し出した。


 「有用に手が空いてます」


 「助かります」


 布で拡声器の持ち手を拭き、ブルグリンデは大きく息を吸った。


 「東通り低部は、これより立ち入りを止めます。商品確認のために戻らないでください。忘れ物があっても、一人で戻らないでください。必要なものは、名前を言ってください。後で、必ず確認します」


 雨の向こうで、何人かが頷くのが見えた。


 ブルグリンデは続けた。


 「現町商店街は、逃げる人を先に通します。店は、そのあとでみんなで開け直します」


 言い終えると、拡声器の中で自分の息が小さく鳴った。


 十年前に言えなかった言葉が、雨の中へ出ていった。


 怖かった。


 それでも、声は届いた。


 レトリスが横で地図に太い線を引く。


 青鞄電子堂の灯りが、その線の先でまた一つ点いた。


 商店街の低い通りは水に沈み始めていた。


 けれど、人の列は高い方へ伸びている。


 ブルグリンデは、濡れた看板を一度だけ振り返った。


 守りたい町は、看板の文字ではなかった。


 その文字の下を、いま歩いて避難している人たちだった。



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