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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第43話 現町に避難指示

 夜明け前、現町の空はまだ暗かった。


 喫茶ペアカップの窓ガラスには、雨粒が細い線を何本も描いていた。一本の線が下へ落ちる前に、次の雨粒が追いつく。軒先の入口灯は一晩中消えず、濡れたタイルの端をぼんやり照らしていた。


 レトリスは、カウンターの端で目を覚ました。


 椅子に座ったまま、腕の中に蒼い鞄を抱えていた。眠ったつもりはなかった。けれど、机の上には、ヒルドバーグがいつの間にか置いた薄い毛布がある。肩にかけられていたそれが、起き上がると少しずり落ちた。


 「起きたね」


 厨房の奥からヒルドバーグの声がした。


 鍋から湯気が上がっている。コーヒーの香りではない。味噌と生姜の匂いが、雨の冷たさを店の外へ押し返していた。


 「寝ていません」


 「じゃあ、目を閉じて椅子に座っていただけだ」


 「……それは寝ていますね」


 「認めるのが早くなった」


 レトリスは毛布をたたみ、スマートフォンを確認した。


 未読の通知が七つ。役所の庁内連絡、防災気象情報、土木担当からの水位確認、福祉窓口の巡回状況。画面をなぞる指先が、少し冷えていた。


 午前五時十七分。


 現町を流れる旧川の水位が、避難判断の基準へ近づいている。


 レトリスは立ち上がった。


 カウンターの奥では、ガニーロが床に広げた防水ケースへ避難灯を並べていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。彼は数えるたびに、小さく紙へ印をつける。エメットはその向かい側で、電池の向きを声に出して確認していた。


 「プラス、マイナス、プラス……ガニーロさん、これは逆に入れると怒りますか」


 「僕より電池が怒ります」


 「電池、怒るんですか」


 「たまに熱くなります」


 「怒っていますね」


 エメットは真剣な顔でうなずき、もう一度向きを見た。


 レトリスはそのやり取りを聞きながら、鞄の肩紐を握り直した。笑っている場合ではない。そう思うのに、ほんの少しだけ口元がゆるむ。ゆるんだことに気づいて、すぐ表情を戻した。


 入口の引き戸が開いた。


 オバインが濡れた髪を片手で払って入ってくる。もう片方の手には、黒いケースがある。中に小型探索機サブマリンが入っているはずだった。


 「おはようございます。サブマリン、起きてます。俺は半分寝てます」


 「寝たら」


 レトリスが言うと、オバインは首を横へ振った。


 「今寝たら、夢の中でまで排水口に潜ります」


 「それは寝てください」


 「どっちですか」


 ガニーロが防水ケースの蓋を閉めた。


 「サブマリンの予備バッテリーは」


 「二本。あと、昨夜のうちに防水テープを二重にしました。三重にしたら、開かなくなりました」


 「開けたんですか」


 「歯で」


 レトリスは目を細めた。


 「防災用品を歯で開けないでください」


 「以後、歯を避難対象にします」


 「歯は自分で守ってください」


 その時、店の奥でスマートフォンが一斉に鳴った。


 短く、鋭い音だった。


 店内から、湯気の揺れる音まで消えたように感じた。


 レトリスは画面を見る。


 現町役所からの緊急連絡。


 旧川沿い低地区域、駅前南側、商店街東通り、旧地下避難施設周辺に避難指示。高齢者、体の不自由な人、小さな子どものいる家庭は、ただちに指定避難所または一時休憩所へ移動。


 午前五時二十九分。


 避難指示が出た。


 ガニーロは防水ケースを持ち上げた。


 ヒルドバーグは火を止めた。


 オリーンは、店の奥の椅子を両手で持ち上げていた。今の音で驚いたのか、椅子をどこへ運ぶつもりだったのか、本人もわからない顔をしている。


 「一時休憩所、開けます!」


 彼女はそう言ってから、自分の手元を見た。


 「椅子、これはどこですか!」


 「座るところだよ」


 ヒルドバーグが答えた。


 「店の中央に並べな。濡れた人が靴を脱がなくても座れる場所を作る」


 「はい!」


 オリーンは椅子を置き、今度はタオルの棚へ走った。途中で床に置いてあった雨合羽の袋を踏み、つるりと滑る。サポナーラが反射的に受け止めた。


 「大丈夫か!」


 「大丈夫です! サポナーラさん、今の受け止め方、雨合羽講座の実演に使えます!」


 「転倒実演は一回までにしよう」


 サポナーラは真顔で言いながら、自分の雨合羽を広げた。昨日の講座で何度も練習したはずなのに、なぜか首を通す穴から腕が出ていた。


 エメットがそれを見て、静かに言った。


 「それ、人間じゃなくて干物の着方です」


 「干物は合羽を着ない」


 「じゃあ、サポナーラさんだけです」


 店内に小さな笑いが起きた。


 レトリスは笑いかけて、すぐにスマートフォンへ視線を戻した。現町役所へ連絡する必要がある。アリシャーから、低地区域の水位確認の写真が届いていた。駅前南側の側溝は、すでに道路との境目が見えにくくなっている。


 彼女は通話を押した。


 「レトリスです。喫茶ペアカップを一時休憩所として開けます。入口灯、非常用電源、タオル、椅子の準備あり。避難所へ直接行けない人の中継にします」


 受話口の向こうから、役所の職員の声が返る。


 レトリスは短く確認し、紙に書く。


 駅前南側から避難所までの直行ルートは一部冠水。


 商店街西通りへ迂回。


 坂上公民館は開設済み。


 ペアカップは休憩所。


 青鞄電子堂の避難灯は西通り角、八百屋前、古本屋横、ペアカップ入口へ設置。


 書きながら、レトリスは顔を上げた。


 「ガニーロさん」


 「はい」


 「避難灯は、西通り優先です。低い東通りには、設置へ行かないでください」


 「わかりました」


 返事が早すぎる。


 レトリスは一歩近づいた。


 「本当に、わかっていますか」


 「はい。東通りは水位を確認してからです。僕だけでは行きません」


 その言い方に、レトリスの指先から少し力が抜けた。


 十年前の彼なら、きっと一人で走った。今の彼は、言葉にする。誰と行くか、どこまで行くか、どこで止まるかを、ちゃんと口にする。


 それでも怖さは消えない。


 消えないまま、レトリスはうなずいた。


 「エメットさんは」


 「僕、西通りの角まで行けます」


 エメットがすぐに言った。


 「足元、見えます。昨日、ガニーロさんが灯りを置く場所を教えてくれました」


 「一人では行かない」


 レトリスが言うと、エメットは胸の前で両手をぎゅっと握った。


 「はい。ガニーロさんの後ろです」


 少し間を置いて、彼は言い直した。


 「……横です。今日は横を歩きます」


 ガニーロは何も言わず、エメットへ防水袋を渡した。エメットはそれを両手で受け取り、肩にかける。袋は少し大きかったが、彼は背中を丸めなかった。


 ロシルドゥアが到着したのは、それから五分後だった。


 彼女の髪は雨で額に張りついている。手には防水袋に入れた避難支援名簿。もう片方の腕には、折りたたみ式の小さな座布団が三枚抱えられていた。


 「ペアカップさん、休憩所にできますか」


 「もうなってるよ」


 ヒルドバーグは棚から湯飲みを下ろしながら答えた。


 「座れない人がいたら奥の長椅子を使いな。靴のままでいい。床はあとで私が叱る」


 「床を叱るんですか」


 「濡れるほうが悪い、とは言わないさ」


 ロシルドゥアは一瞬だけ目を伏せ、それから名簿を広げた。


 「東通りの奥、足の悪い津留さんへ連絡済み。お孫さんが車で来られないので、西通りの角まで職員が迎えに行きます。坂下の木村さんは、犬を連れて避難するか迷っています」


 「犬用のタオルあります!」


 オリーンが即答した。


 「犬用ではなく、未使用の厚手タオルです! 犬にも人にも対応できます!」


 ヒルドバーグが鍋の蓋を閉じた。


 「犬が来たら、入口側。人が怖がる犬なら、厨房横の土間。人が犬を怖がるなら、椅子を離す。犬が人を励ますなら、少し近づける」


 「細かいですね」


 「客商売だよ」


 レトリスはその会話を聞きながら、名簿へ赤い丸をつけた。ペアカップはただの喫茶店ではなく、雨の中で一度息を吸える場所になる。ハザードマップに書く「一時休憩所」という言葉の中身が、今、目の前で形になっていた。


 外から、別の足音がした。


 ブルグリンデだった。


 傘は差しているが、裾は濡れている。手には商店街振興会の腕章と、古い拡声器。彼女は入口で立ち止まり、店内の準備を一度で見渡した。


 「東通りの店主たちに連絡しました。商品を上げる前に避難。レジを閉める前に避難。看板をしまう前に避難。そう伝えました」


 声は硬かった。


 けれど、言葉は迷っていなかった。


 レトリスは彼女を見た。


 「ありがとうございます」


 ブルグリンデは、拡声器の持ち手を握り直した。


 「礼を言われることではありません。昨日まで、私が言うのを遅らせていた言葉です」


 そう言って、彼女は店の外へ半歩出た。


 雨の匂いが強くなる。


 ブルグリンデは拡声器の電源を入れた。最初に小さな雑音が鳴り、彼女は眉を寄せる。サポナーラが横からのぞき込んだ。


 「叩くと直ることがあります」


 「あなたの商売台本ではないので叩きません」


 「正しいです」


 ガニーロが予備の電池を渡した。


 「こちらを」


 ブルグリンデは短く頭を下げ、電池を入れ替えた。


 拡声器から、今度ははっきりした音が出た。


 「商店街東通り、旧川沿いの皆さん。現町役所から避難指示が出ています。店の物より、足を先に動かしてください。西通りへ回ってください。喫茶ペアカップを休憩所として開けています。繰り返します。店の物より、足を先に動かしてください」


 その言葉に、レトリスは胸の奥を押された。


 危険を小さく見せようとしていた人が、今は危険をはっきり告げている。


 雨音の中で、その声は商店街へ伸びていった。


 アリシャーから新しい写真が届いた。


 西通りの坂下、まだ通行可能。


 ただし、駅前南側の横断歩道付近に水たまりが広がり始めている。


 レトリスは電話をかけた。


 「アリシャーさん、ペアカップです。西通りを主経路にします。坂下の水位は、十センチを超えたら引き返しでいいですか」


 『九センチでも引き返してください』


 受話口から、低い声が返った。


 『足元に段差があります。水が濁ると、深さより先に段差が消えます。駅前南側へは入らないでください。旧郵便局の軒下を中継点にします』


 「旧郵便局、了解です」


 『あと、サポナーラさんが東通りへ走ろうとしたら止めてください』


 レトリスは顔を上げた。


 サポナーラが、ちょうど雨合羽の紐を結びながら入口へ向かおうとしていた。


 「サポナーラさん」


 「はい!」


 「東通りへ走らないでください」


 「まだ考えただけです!」


 「顔に書いてあります」


 オリーンが横から言った。


 「顔だけ先に避難してください!」


 「顔と体は一緒に避難したい!」


 エメットが小さく笑った。緊張で硬くなっていた肩が、少し落ちる。


 レトリスはスマートフォンをポケットへ入れ、蒼い鞄の留め具を確認した。昨夜ガニーロが直した部分は、しっかり閉じている。内側の基板は停止させてある。赤面ポエムは出ない。今は、誰かの隠した言葉より、外に出すべき声が多すぎる。


 そう思った瞬間、鞄の奥で、かすかな電子音が鳴った。


 レトリスは肩を跳ねさせた。


 「……今、鳴りましたね」


 ガニーロも聞いたらしく、顔を上げた。


 「電源は切ったはずです」


 「では、どうして鳴るんですか」


 「たぶん、緊急用の定型音だけ残っています。昔、迷子にならない鞄に入れようとしていた」


 鞄の内ポケットから、短い紙片が半分だけ出てきた。


 レトリスは反射的にそれを押し戻そうとして、止めた。


 紙に印字されていたのは、詩ではなかった。


 たった一行。


 『こわい時ほど、近い人から声をかける』


 誰も茶化さなかった。


 サポナーラが、雨合羽の紐を結び直した。


 「じゃあ、俺は近い子どもから声をかけます。講座を受けた子たちは、俺の失敗した着方も覚えてますし」


 「失敗した着方は覚えなくていいです」


 レトリスが言うと、サポナーラは笑った。


 「覚えていると、正しい着方も思い出すんです」


 彼は店先へ出た。


 ちょうど、母親に手を引かれた小学生が二人、商店街の屋根の下を小走りでやって来る。片方の子は、雨合羽のフードを後ろ前にかぶっていた。


 サポナーラは膝を曲げ、子どもの高さに合わせた。


 「それは、昨日の俺と同じだ。つまり、直せば助かる」


 子どもは一瞬きょとんとして、それから少し笑った。


 サポナーラがフードの向きを直す。母親が何度も頭を下げる。オリーンが店の中からタオルを差し出す。ヒルドバーグが湯飲みではなく紙コップを用意する。ロシルドゥアが名前を確認し、支援表の欄へ鉛筆で印をつける。


 一つずつ。


 声をかける。


 座らせる。


 濡れた袖を拭く。


 次にどこへ行くか伝える。


 ハザードマップの上では、一本の線でしかなかった避難経路が、人の息遣いを持ちはじめていた。


 ガニーロは防水ケースを背負った。


 「西通りの避難灯、行ってきます」


 「僕も行きます」


 エメットが横へ並んだ。


 レトリスは二人の前に立つ。


 「旧郵便局まで。水が九センチを超えたら引き返す。東通りへは入らない。設置したら、必ずここへ戻る」


 「はい」


 ガニーロとエメットの返事が重なった。


 オバインがサブマリンのケースを肩にかける。


 「俺はアリシャーさんと合流します。排水口の詰まりを確認して、危ない場所をレトリスさんへ送ります。潜るのは機械だけです」


 「あなたは潜らないでください」


 「歯も潜りません」


 「それはもういいです」


 ブルグリンデは拡声器を持って、商店街の屋根の下へ出た。


 ロシルドゥアは二人目の高齢者へ電話をかけながら、座布団をオリーンへ渡す。


 ヒルドバーグは入口の灯りを見上げ、少しだけまぶたを伏せた。


 「いいかい。戻ってきた人から、濡れたままでも座らせる。説教は体が温まってからだ」


 「説教はあるんですね」


 オリーンが言うと、ヒルドバーグは鍋をもう一度火にかけた。


 「生きて戻った人にはね」


 レトリスはその言葉を聞き、深く息を吸った。


 雨は強い。


 旧川の水位は上がっている。


 新しいハザードマップはまだ印刷途中で、配れていない家もある。旧地下避難施設サブマリンは完全再開ではない。避難誘導ライトも、数は足りない。誰かの不安を全部消すことなどできない。


 けれど、今は何もないわけではなかった。


 足りないものの隙間を、昨日までの一つ一つが埋めている。


 青魚サンドを半分にした昼。


 雨合羽を逆に着た講座。


 看板を拭いた朝。


 休む練習をした午後。


 金継ぎされたカップを見た夜。


 笑いながら積み上げたものが、今、町の中で使われている。


 レトリスは蒼い鞄を肩にかけ、店の入口に立った。


 「現町役所、防災担当レトリスです」


 電話の向こうの職員へ、はっきり告げる。


 「喫茶ペアカップ、一時休憩所として稼働。青鞄電子堂の避難灯班、西通りへ出発。福祉窓口、支援対象者の確認中。商店街振興会、拡声器で避難案内中。土木担当、旧郵便局前を中継点として水位確認中」


 言葉にすると、ばらばらだった人たちの動きが一本の線になった。


 受話口の向こうから了解の声が返る。


 レトリスは通話を切った。


 ガニーロが入口の外で振り返る。


 エメットも隣で振り返る。


 レトリスは言った。


 「戻る場所は、ここです」


 「はい」


 ガニーロは短く答えた。


 「行ってきます」


 その背中を、レトリスは見送った。


 見送るだけではない。彼女の手元には地図がある。電話がある。名簿がある。蒼い鞄がある。戻ってくる人を受け止める店がある。


 外では、商店街の低い通りに水が集まりはじめていた。


 排水溝の縁が、雨水で見えにくくなっている。


 ブルグリンデの声が、雨に混じって聞こえた。


 「東通りの皆さん、西通りへ回ってください。店の物より、足を先に動かしてください」


 その向こうで、誰かがシャッターを下ろす音がした。


 レトリスは地図に赤い線を引いた。


 現町の避難は、もう紙の上だけではなかった。


 濡れた道の上で、始まっていた。



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