第42話 台風前夜のペアカップ
翌朝の現町は、雨の降り始めを待っているような空だった。
雲は低く、海の方から灰色の布を引きずってくる。商店街のアーケードには湿った風が入り込み、軒先の植木鉢の葉を裏返した。まだ大粒の雨は落ちていない。それなのに、川沿いの道は薄く濡れていて、昨夜の雨水が排水溝の中で小さく鳴っていた。
レトリスは役所の会議室で、壁の時計を見た。
午前八時五十七分。
机の上には、アリシャーがまとめた避難経路案、ロシルドゥアの避難支援表、ブルグリンデが直した商店街向けの案内文、ガニーロが書き込んだ電子灯の配置図が並んでいる。
三分前だった。
扉が、控えめに二回鳴った。
「失礼します」
ガニーロが入ってきた。手には紙袋が二つ。肩には工具鞄。いつものように、傘も二本持っている。
レトリスは時計をもう一度見た。
「本当に三分前ですね」
「はい。早く来すぎると叱られるので」
「遅れても叱ります」
「ちょうどよく来る練習をしました」
「練習するほど難しいことではありません」
そう言いながら、レトリスは机の端に置いた資料を少しだけ寄せた。ガニーロが工具鞄を置けるだけの幅だった。
ガニーロは、そこに鞄を置く前に、紙袋を一つ差し出した。
「防水袋です。地図と支援表用に」
「頼んでいません」
「頼まれていません。でも、雨でにじむと困ります」
「……そこは、困ります」
レトリスは紙袋を受け取り、中を確認した。透明の袋が何枚も入っている。大きさがそろっていて、角は丸く切られていた。雑に作ったものではない。夜のうちに、一枚ずつ整えたのだとわかる。
「寝ましたか」
「少し」
「少しとは」
「湯飲み一杯分くらいです」
「時間の単位がおかしい」
アリシャーが隣の席で顔を上げた。
「湯飲み一杯を睡眠時間の単位に採用すると、計算に支障が出ます」
「採用しません」
レトリスが即答すると、ガニーロは小さく頭を下げた。
「以後、分で言います」
「今すぐ分で言ってください」
「百八十分くらいです」
「三時間ですね」
「はい」
「最低限です」
「では今夜は、茶碗二杯分」
「分で」
「六時間」
「守ってください」
ガニーロは返事をしたが、目はもう資料へ向いていた。レトリスはその横顔を見て、言いかけた言葉を飲み込んだ。
一人で先に行かないでください。
昨夜、そう言った。言った瞬間、十年前の自分が手を伸ばした気がした。けれど今朝のガニーロは、約束通り三分前に来た。少なくとも、そこは守った。
レトリスは、蒼い鞄を膝の横に置いた。内ポケットには、未完成のままの紙が入っている。
あなたを想う時間、未完成。
その続きは、まだ誰にも見せられない。
「レトリスさん」
ロシルドゥアが支援表を持って入ってきた。髪はきちんとまとめられているが、前髪の端に湿気が含まれていた。
「一人暮らしの高齢者宅、昨日の夕方から今朝までに三件増えました。足の具合が悪い方が一人、台風のニュースで不安になって娘さんに電話した方が一人。もう一人は、猫を連れて行けるか心配で避難をためらっています」
「猫」
アリシャーが資料の余白に小さく書いた。
「避難所の受け入れ区画を確認します」
「喫茶ペアカップの裏の倉庫も、一時的な待機場所にできます」
ガニーロが言った。
「ヒルドバーグさんが、朝から片づけています。猫用の段ボールも用意すると」
「誰が言い出したんですか」
「オリーンさんです」
「でしょうね」
レトリスは額を押さえた。
その時、会議室の扉が大きく開いた。
「猫用の段ボールに『にゃん時避難箱』って書いたら、ヒルドバーグさんに無言で消されました!」
オリーンが顔だけ出した。
レトリスは一秒だけ目を閉じた。
「仕事に戻ってください」
「はい! あと、濡れた人用の席に『しっとり席』って貼ったら、それも消されました!」
「それは消されます」
「では『乾くまでここ』ならいいですか」
「許可します」
「やった!」
扉が閉まった。
アリシャーは真顔のまま、資料に「乾くまでここ」と書きかけて、手を止めた。
「これは公式名称ではありませんね」
「公式にしないでください」
レトリスは支援表に目を戻した。笑っている場合ではない。台風は、予報より少し西へ寄っている。現町に直撃する可能性は低くなったが、雨雲は長くかかる。川の上流で強い雨が降れば、町の低地に水が来る。
しかし、完全に張りつめたままだと、人は動けなくなる。
オリーンの場違いな声で、会議室の空気はわずかに軽くなっていた。
「午後三時までに、喫茶ペアカップを休憩場所として整えます」
ロシルドゥアが言った。
「四時には、商店街の店主へ最終確認。五時までに、支援が必要な住民へ電話。夜は状況次第で、避難所への早めの移動を勧めます」
「地図の印刷は」
レトリスがアリシャーを見る。
「午前中に暫定版二百枚。午後、修正版を追加で百枚です。ただし雨が強くなると、配送が遅れます」
「配送は僕とオバインさんで」
ガニーロが言う。
「サポナーラさんも手伝うと言っていました」
「手伝うというより、雨合羽の成果発表をしたいだけでは」
レトリスが言うと、ガニーロは否定しなかった。
「でも、歩く速度は速いです」
「余計なことを言う速度も速いです」
「それは、まあ」
ロシルドゥアが小さく笑った。
レトリスは資料をまとめた。防水袋に入れる。昨日までなら、こういう手順を自分一人で決めて、全員に命令していただろう。今は違う。アリシャーが数字を積み、ロシルドゥアが暮らしの事情を重ね、ブルグリンデが店主たちの不安を言葉にし、ガニーロが電子灯と手の届く修理を足している。
自分は、ただ危険を示すだけでは足りない。
逃げ道を、見える形にしなければならない。
午前中は、ほとんどそのために過ぎた。
商店街の掲示板には、防水袋に入れた地図が貼られた。低い通りは赤い線。階段のある坂は黄色。車椅子で通れる道は青。喫茶ペアカップ、青鞄電子堂、薬局、元文具店の軒先には緑の丸がついた。雨宿りや一時休憩ができる場所だ。
ブルグリンデは、掲示板の前で腕を組んでいた。
通りかかった魚屋の店主が、地図を見て眉をひそめる。
「うちの前、赤いじゃないか」
「赤いです」
レトリスは言った。
「雨が強い時、足首まで水が来ます」
「客が嫌がるだろ」
ブルグリンデが一歩前に出た。
「嫌がっていいのよ」
店主は目を丸くした。
ブルグリンデは、いつものように資料を柔らかく言い換えなかった。
「嫌がって、早く逃げてもらうための赤よ。店を守るために命を置いていくより、いったん逃げて、あとで泥をかき出せる方がいい」
「お前がそれを言うのか」
「言うわよ。言うって決めたの」
ブルグリンデの手には、古い雑巾が握られていた。掲示板の透明カバーを何度も拭いた跡がある。
「店の評判より、店主が生きてる方が大事だもの」
魚屋の店主は、少し黙った後、地図の緑の丸を指した。
「じゃあ、うちは休める場所にはならんのか」
「魚箱があるでしょう。匂いが強いので、長くは無理です」
レトリスが答えると、店主はむっとした。
ガニーロがすぐに口を挟んだ。
「でも、雨具を置く場所にはできます。軒が広いので」
「そうか?」
「はい。足元もすべりにくいです。排水溝の蓋だけ、あとで固定します」
「それなら手伝う」
店主は納得したように店へ戻っていった。
レトリスは、ガニーロを横目で見た。
「フォローが速いですね」
「赤線だけだと、やっぱり身構えますから」
「私は赤線を引く係です」
「はい」
「あなたは緑の丸を増やす係ですか」
「そうですね。あと、蓋を固定する係です」
「地味ですね」
「アリシャーさんの弟子になれます」
少し離れた場所で排水溝を確認していたアリシャーが、顔を上げた。
「弟子制度はありません」
「残念です」
レトリスは、ふっと息を漏らした。
笑ったわけではない。そう言い張れる程度の、短い息だった。
昼過ぎから、風は強くなった。
雲が、町の上に蓋をするように厚くなる。海の方の空は黒く、川面はまだ穏やかなのに、どこか焦げた鉄のような色をしていた。商店街の旗は巻き取られ、店先の商品は奥へ下げられた。ブルグリンデは店主たちに声をかけて回り、ロシルドゥアは電話をかけ続け、アリシャーは排水溝の詰まりを一つずつ確認した。
ガニーロは、青鞄電子堂と喫茶ペアカップを何度も往復した。
手回しラジオ、予備の電池、簡易充電器、濡れても使える延長コード。紙袋に入れたり、コンテナに積んだりするたび、オリーンが勝手に札をつける。
『ぐるぐる回すと声が出る箱』
『なくすと困る線』
『ヒルドバーグさんに叱られないためのタオル』
『濡れたらここで反省』
レトリスは三枚目まで見て、四枚目で手を止めた。
「反省は必要ですか」
「濡れた床で走った人用です!」
オリーンは胸を張った。
「走るな、ではなく、走った後に自分で反省する場所を作りました!」
「走らせない工夫をしてください」
「床に『ここで滑ると大変かっこ悪い』と貼りました!」
「少し有効そうなのが腹立たしいですね」
ヒルドバーグが店の奥から出てきた。
「貼るなら、ちゃんと拭いてから貼りな」
「はい!」
オリーンは雑巾を持って走りかけ、レトリスの視線に気づいて、歩いた。
喫茶ペアカップは、いつもの店ではなくなっていた。
テーブルは壁際に寄せられ、中央には椅子が広く並べられている。濡れた人が座れるように、古い布が敷かれていた。カウンターの奥では、大きな鍋に湯が沸いている。棚の上のカップは、落ちないように低い段へ移され、割れやすい皿は箱に入れられていた。
ただ、店の奥の一段高い棚だけは、そのままだった。
そこには、金継ぎされたカップが一つ。
そして、レトリスの蒼い鞄から出した片割れが、少し離れて置かれていた。
青と白。
二つ一組になるはずだったもの。
レトリスは、その棚の前で足を止めた。
ガニーロも、同じ場所で止まった。
ヒルドバーグは何も言わず、二つのカップを手に取った。片方は金の線が入っている。割れた跡は消えていない。けれど、手に持つと、不思議なほどしっくりした形をしていた。
「台風の日に、割れ物を出すものではありません」
レトリスが言った。
「だから今のうちに出すんだよ」
ヒルドバーグは、二つをカウンターの上に置いた。
「避難所に持っていくわけじゃない。ここに置く。戻ってくる場所の印みたいなものさ」
「印」
「逃げる時に必要なのは、行き先だけじゃない。戻る場所もいる」
店の窓が、風で小さく鳴った。
オリーンが札を貼る手を止めた。サポナーラは入口で雨合羽を畳みかけたまま固まっている。オバインは持っていた工具箱を床に置いた。アリシャーは壁に貼る経路図を持ったまま、少しだけ目を伏せた。
レトリスはカップを見た。
十年前、渡せなかった片割れ。
十年間、持っていた片割れ。
許すとか、許さないとか、そんな言葉ではまだ測れない。ガニーロが約束を破ったのではなかったと知っても、待っていた自分が消えるわけではない。寂しかった時間も、怒っていた時間も、なかったことにはならない。
「まだ、許したわけではありません」
声は、自分で思ったより静かだった。
ガニーロは、カップではなく、レトリスを見た。
「はい」
「理由があったことは、わかりました。エメットを助けたことも、わかりました。十年前の地図が間違っていたことも、大人たちが言葉にできなかったことも、わかりました」
「はい」
「でも、それで私の十年が、急に短くなるわけではありません」
ガニーロは、うなずいた。
「短くしなくていいです」
「いいんですか」
「はい。僕が短くしてほしいと言えるものではないので」
レトリスは、少しだけ眉を寄せた。
「あなたは、そういうところだけ、腹が立つほど正しいですね」
「すみません」
「謝らないでください」
「はい」
ヒルドバーグが、湯飲みに茶を注いだ。二つのペアカップには、まだ何も入れない。
ガニーロは、作業台の代わりにしている小さな丸テーブルへ、避難灯の部品を並べた。手つきはいつも通り丁寧だったが、今朝より少し遅い。寝不足だけではないと、レトリスにはわかった。
「僕は」
ガニーロが言った。
「許されるために動くんじゃなくて、次に間に合うために動きます」
レトリスは、黙っていた。
「十年前に間に合わなかったことは、変えられません。でも、明日の朝、明日の夕方、明日の夜に間に合うことは、まだあります」
外で、風が看板を揺らした。
青鞄電子堂の青い鞄形の看板が、遠くでかすかに鳴った気がした。
「だから、休憩場所の電源を確認します。手すりのない坂に、暗くても見える反射板をつけます。魚屋さんの前の排水溝の蓋を固定します。猫用の段ボールに、余計な名前をつけないようオリーンさんを見張ります」
「最後は私も手伝います」
レトリスが言うと、オリーンが不満そうに振り返った。
「余計な名前じゃありません! 『にゃん時避難箱』は一生に一度の出来です!」
「一生に一度なら、今日で終わりにしてください」
「そんな!」
サポナーラが雨合羽を畳みながら、真剣な顔をした。
「では、犬用は『わん時避難箱』で」
「あなたも黙ってください」
「はい」
オバインが吹き出した。笑いをこらえようとして、工具箱の留め具を二度も空振りする。
ブルグリンデは、店の入口に立ったまま、二つのカップを見ていた。
「戻る場所の印、ね」
彼女は小さく言った。
「商店街の店にも、そういうものがあるといいわね。避難した後、店主が戻ってきた時に、何から手をつけるか迷わないように」
「チェック表を作りますか」
レトリスが反応すると、ブルグリンデは苦笑した。
「あなた、本当にすぐ表にするのね」
「必要なら」
「必要よ。でも、言葉も要るわ。『片づける順番』だけじゃなくて、『戻ってきていい場所です』ってわかる言葉」
レトリスは、カウンターの紙束から一枚取り出した。
「では、店ごとに掲示できる短い文を作りましょう。危険確認が終わるまで入らないこと。片づけは複数人で行うこと。水に濡れた電化製品には触らないこと」
「最後のはガニーロに大きく書かせましょう」
ブルグリンデが言った。
ガニーロは、すぐにペンを取った。
「水に濡れた電化製品には、乾いた手でも触らない」
「そこだけやけに字が大きいですね」
レトリスがのぞき込む。
「大事なので」
「あなたにも貼りたいです」
「僕は一応、専門なので」
「専門でも濡れたら危険です」
「はい」
エメットが奥から避難灯の箱を抱えて出てきた。
「ガニーロさん、予備回路、これで足りますか」
「見せてください」
少年は箱を置き、部品を一つずつ並べた。以前なら、ガニーロの手元だけを見ていた。今は、自分で確認した箇所を指で示している。
「この線、濡れたら危ないので、ここに袋をかぶせます。あと、電池の向きは全部そろえました。オリーンさんが一個だけ逆に入れて、避難灯が怒っているみたいに点滅しました」
「避難灯は怒りません」
レトリスが言った。
「でも、ちょっと怒っていました」
オリーンが真顔で言う。
「『私は光るために生まれたのに、なぜ逆に入れる』って」
「詩にしないでください」
「基板が止まっているので、自力で詩を作りました!」
「やめてください」
ガニーロは、エメットの回路を見てうなずいた。
「大丈夫です。ここまでできていれば、現場で直せます」
エメットの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか」
「はい。ただし、自分一人で全部しようとしないこと」
「はい」
「人に見せること。声に出して確認すること。焦ったら、手を止めること」
「はい」
レトリスは、その言葉を聞きながら、自分にも言われている気がした。
自分一人で全部しない。
人に見せる。
声に出して確認する。
焦ったら、手を止める。
防災の手順でもあり、十年間抱え込んだ感情の扱い方でもあった。
夕方五時、雨が降り始めた。
最初は細かった。喫茶ペアカップの窓ガラスに、斜めの線が一本、また一本と走る。商店街のアーケードは雨を避けてくれるが、風が回ると、細かい水しぶきが入口まで入った。
ヒルドバーグは、店の扉に厚手の布を重ねた。
オリーンは「乾くまでここ」の札をまっすぐに貼り直した。今度は、ふざけた絵を足さなかった。
ロシルドゥアは電話を終え、メモを確認する。
「猫の方、娘さんが車で迎えに来られるそうです。念のため、喫茶店の待機箱は残しておきます」
「名前は」
レトリスが聞く前に、オリーンが両手を上げた。
「無地です!」
「よろしい」
サポナーラは、雨合羽を十枚、入口の近くに並べた。今度は袖が全部同じ方向を向いている。
「俺も成長しています」
「袖の向きで胸を張らないでください」
「でも、袖は大事です。前回、片腕だけ未来へ行きました」
「行っていません」
オバインは、サブマリンのケースを店の隅へ置いた。明日の確認用に、充電を終えている。
「一応、動く。たぶん」
「たぶんを減らしましょう」
レトリスが言うと、オバインは肩をすくめた。
「じゃあ、九割動く」
「残り一割は」
「現町らしさ」
「いりません」
アリシャーが、壁の経路図に赤い付箋を貼った。
「低地の水位が上がった場合、ここを閉じます。代わりに、魚屋裏の坂から回る。喫茶ペアカップは、一時休憩場所として十九時まで通常待機。それ以降は、雨量を見て避難所へ移動」
「十九時」
ヒルドバーグが時計を見た。
「それまでに、茶を飲ませられるだけ飲ませるよ」
「飲みすぎると避難中に困ります」
レトリスが言うと、ヒルドバーグは鼻で笑った。
「そこまで飲ませないよ。心を温める分だけだ」
その言い方に、誰も反論しなかった。
午後六時半。
店の中に、湯気の匂いが満ちていた。濡れた靴の匂い、畳んだ雨合羽の匂い、温かい茶の匂い。外では雨脚が強くなり、商店街のタイルに水が流れ始めている。まだ避難指示は出ていない。しかし、予報画面の雨雲は現町の上をゆっくり覆っていた。
レトリスのスマートフォンが震えた。
役所からの連絡だった。
上流域で、予想より強い雨。
深夜から未明にかけて、川の水位上昇の可能性。
早めの避難準備を呼びかけること。
避難指示ではない。
けれど、もう待つだけの段階ではなかった。
レトリスは、店の中を見回した。
ガニーロは避難灯の最終確認をしている。エメットはその横で、声に出しながら電池を数えている。オバインはサブマリンのケースを閉じた。サポナーラは雨合羽を持ち上げ、また片袖を落として拾った。オリーンは湯飲みを並べ、ヒルドバーグは二つのペアカップを棚の奥へ戻さず、カウンターの見える場所に置いた。
ブルグリンデは入口の外を見ている。
アリシャーは地図の前で、次の線を引く準備をしている。
ロシルドゥアは支援表を、防水袋へ入れ直している。
十年前、誰もが足りなかった。
地図も、灯りも、言葉も、時間も。
今も、足りないものはある。完成していないものばかりだ。新しいハザードマップは暫定版で、サブマリンは九割で、赤面ポエムは未完成で、二人の言葉もまだ途中だ。
それでも、昨日よりは多い。
一人ではない分だけ、多い。
「レトリスさん」
ガニーロが、避難灯を一つ差し出した。
小さな灯りだった。強すぎず、目に刺さらない。青白い光ではなく、喫茶店の湯気に似た柔らかい光。
「喫茶店入口用です」
「ここにつけるんですか」
「はい。戻る場所の印になるように」
レトリスは、その灯りを受け取った。
軽かった。
けれど、十年前の蒼い鞄より、今の自分にはずっと重く感じた。
「つけましょう」
「はい」
二人で入口へ向かった。
外の雨が、さっきより太くなっている。商店街の奥は、もう少し霞んで見えた。ガニーロが椅子に乗ろうとすると、レトリスが腕をつかんだ。
「一人で乗らないでください」
「椅子です」
「椅子でもです」
「わかりました」
オバインが脚立を持ってきた。サポナーラが脚立を支えようとして、反対側に立ったので、アリシャーが無言で正しい位置へ移動させた。オリーンは下から「入口灯、点灯式です!」と言いかけ、レトリスに見られて、口を閉じた。
ガニーロが灯りを取り付けた。
レトリスがスイッチを入れる。
喫茶ペアカップの入口に、小さな光がともった。
その光は、雨に濡れたタイルを薄く照らし、掲示板の地図の緑の丸に反射した。カウンターの上のペアカップにも、かすかに届いた。金継ぎの線が、一瞬だけ、細い川のように光った。
レトリスは、息を吸った。
「まだ、許したわけではありません」
もう一度、言った。
今度は、雨に向かってではなく、隣にいるガニーロへ。
「はい」
「でも」
言葉は、そこで止まりかけた。
この話には続きがあって。
その口癖を、彼のものにしておくのは、少し悔しかった。
「でも、明日、間に合うことは、一緒にやります」
ガニーロは、入口灯を見上げたまま、少しだけ目を細めた。
「はい。一緒に」
スマートフォンが、店の奥で一斉に震えた。
緊急の音ではない。けれど、全員が手を止めるには十分な音だった。
役所からの防災メール。
夜間の大雨に備え、早めの避難準備をお願いします。
ヒルドバーグが、湯飲みを一つ、カウンターに置いた。
「さて」
彼女は、いつもの声で言った。
「茶を飲む人は今のうち。動く人は、飲んでから動きな」
誰かが小さく笑った。
外では雨が強くなる。
台風の夜が、現町へ近づいていた。
レトリスは蒼い鞄の肩紐を握り直した。内ポケットの紙は、まだ続きを印字していない。
それでいいと思った。
続きは、明日の雨の中で、みんなで書く。
喫茶ペアカップの入口灯は、雨粒を受けながら、消えずに光っていた。




