第41話 あなたを想う時間、未完成
公開説明会が終わってから、現町公民館の大広間には、椅子を引く音と、紙をそろえる音だけが残っていた。
住民たちは、地図を手に少しずつ帰っていった。玄関先ではブルグリンデが一人ひとりに頭を下げ、ヒルドバーグは濡れた傘袋を回収し、ロシルドゥアは足の悪い老人の歩幅に合わせて外まで歩いた。オリーンは余った茶菓子を「帰り道の非常食です」と配り、サポナーラは「非常時に饅頭を一気に食べると喉に詰まります」と妙に真面目な注意を添えて、子どもに笑われていた。
レトリスは、掲示板に貼られた大判の修正ハザードマップをもう一度見上げた。
赤い線は、危険を示している。
青い印は、休める場所を示している。
緑の点は、車椅子でも回り込みやすい角を示している。
黒い細い線は、ガニーロが手書き地図から写した、夜に暗くなる路地だった。
以前の地図なら、きっとそこまでは載らなかった。
だが、今は載っている。
載せると決めた人がいる。
載せていいと認めた人がいる。
載せても町は壊れないと、今日、住民の前で頭を下げた人がいる。
レトリスは手元のクリップボードを閉じた。
「片づけは、青鞄電子堂で続きですね」
アリシャーが、資料の箱を持ち上げながら言った。
「続きますか」
「続きます。第七箱まであります」
「数え間違いでは」
「ありません。説明会用の地図控え、質問票、防災用品の貸出希望票、そしてサポナーラさんが自主的に作った雨合羽講座の感想用紙です」
サポナーラが、入口で振り向いた。
「自主的じゃないですよ。あれは町の未来のために必要な声です」
「質問欄に『袖を逆に通した時の気持ち』とあります」
「そこは、一番大事です」
レトリスが眉間を押さえると、オリーンがすかさず箱の上へ茶菓子を一つ置いた。
「レトリスさん、糖分です。眉間が避難指示を出しています」
「眉間に避難指示は出ません」
「出ています。私には聞こえます」
「それは幻聴です」
「いいえ、町を守る人の眉間はよくしゃべります」
大広間の端で、ガニーロが小さく笑った。
その声を聞くと、レトリスは反射的に睨みそうになった。けれど、睨む途中で、力が抜けた。怒る言葉が出てこない。出てこないことが、少し落ち着かない。
ガニーロは、彼女の方を見ずに、折りたたみ机の脚を一本ずつ確認していた。最後まで残っているのは、いつものことだった。椅子を片づけ、床に落ちた紙を拾い、誰かが忘れた傘の持ち主を探す。頼まれていないのに、頼まれたように動く。
それが、十年前もそうだったのだと知ってしまった。
レトリスは、クリップボードを胸に抱え直した。
その時、公民館の窓が、低い音を立てて揺れた。
風が強くなっている。
ガラスの向こうで、夕方の雲が重たく垂れていた。
「降りそうですね」
ガニーロが、机の下から拾ったボールペンを差し出した。
「天気予報では、明日の夜からです」
「前倒しになるかもしれません」
「そういうことを、さらっと言わないでください」
「さらっと言わない方が怖いので」
レトリスは、受け取ったボールペンを見た。役所の備品ではない。軸に小さく「青鞄電子堂」と印字されている。どこかの展示でもらう販促品のような安い作りだが、先端のばねだけ妙にしっかりしている。
「宣伝ですか」
「迷子になったら店に戻ってくる仕組みです」
「ペンに帰巣本能をつけないでください」
「そこまではまだ」
「まだ?」
レトリスが睨むと、ガニーロは机を畳む手を止めた。
「冗談です」
「あなたの冗談は、たまに完成品の匂いがします」
「すみません」
素直に謝られると、責める勢いが消える。
レトリスは、黙ってペンをクリップボードに挟んだ。
青鞄電子堂へ向かったのは、日が暮れる少し前だった。
商店街の入口では、ブルグリンデが公民館から持ち帰った大判地図を、商店街掲示板の前に立てかけていた。まだ固定する金具は足りない。けれど、彼女は雨が来る前に一度位置を合わせたいらしく、片手で地図を押さえ、もう片手で看板の汚れを拭いていた。
「明日でいいのに」
オリーンが呟くと、ヒルドバーグが首を振った。
「今日やらないと、あの人は眠れないんだよ」
ブルグリンデは、こちらに気づいたが、手を止めなかった。頭を下げる代わりに、雑巾を一度だけ掲げる。その雑巾は、朝見た時よりも黒くなっていた。
青鞄電子堂のシャッターは半分だけ開いていた。
店内へ入ると、いつものように部品の匂いがした。金属、古い紙、少し焦げたはんだ、そしてヒルドバーグが持たせた茶葉の匂い。作業台の上には、蒼い鞄から取り出した未完成の基板、喫茶ペアカップに残っていた古い伝言メモ、旧地下避難施設の小部屋で見つかった避難誘導ライトの部品、そしてガニーロの父の点検メモの写しが並べられていた。
基板には、細い導線が仮止めされている。
小さな印字機は、今は止まっていた。
止まっているはずなのに、レトリスは作業台を見るだけで胸の奥を押された気がした。
赤面ポエムは、笑いの種だった。
けれど、笑って済まないものも混ざっていた。
勝手に気持ちを紙へ引きずり出すように見えたから、止めた。
止めてよかったと思っている。
それでも、前回、紙の途中で止まった「あなたを想う時間」の続きだけは、作業台の上に置かれたままだった。
ガニーロは、黒い小さな記録媒体をピンセットでつまんだ。
「旧地下避難施設の小部屋にあった避難誘導ライトの記録部です。水をかぶって、ほとんど読めませんでした」
「読めないなら、無理に開けなくていいです」
レトリスの声は、自分でも少し速かった。
ガニーロはピンセットを置いた。
「やめますか」
その問いに、店の中が静かになった。
オバインは工具箱を閉じる手を止め、サポナーラは椅子の背もたれに掛けた雨合羽をずり落としかけたまま固まった。エメットは避難灯の小さな箱を持ったまま、レトリスを見ている。オリーンは皿を置く音を小さくし、ヒルドバーグは湯飲みを自分の前へ引き寄せた。
誰も、続きを急かさなかった。
それが、レトリスには少し苦しかった。
急かされれば、怒れた。
勝手に決められれば、反対できた。
でも、待たれると、自分で決めるしかない。
レトリスは蒼い鞄を膝の上に置き、留め具を指で押さえた。ガニーロが直した留め具は、以前より滑らかに動く。強く押さなくても閉まる。強く押さなくても、開く。
「……心を読むわけではないんですよね」
「読みません。読めません。拾えるのは、残っている音声と、メモに書かれた単語と、登録してあった定型文だけです」
「周囲の声も拾いますよね」
「拾うことがあります。だから今は入力を切っています」
「では、これから再生するものは」
「当時の記録だけです。復元できた分だけ。途中で止められます」
ガニーロは、基板の横に置いた小さなスイッチを示した。
赤いテープが貼られている。
「止めるのは、レトリスさんが」
「あなたではなく?」
「僕が止めると、都合の悪いところを隠したみたいになるので」
レトリスは、笑いそうになって、笑えなかった。
十年前、彼は言えなかった。
今は、隠したくないから自分で止めないと言う。
不器用にもほどがある。
「本当に、世界で一番嫌いです」
「はい」
「返事をしないでください」
「すみません」
「謝らないでください」
「……はい」
オリーンが、両手で口を押さえていた。笑いをこらえているのか、泣きそうなのか、少し判別しづらい顔だった。
レトリスは椅子に座った。
「再生してください」
ガニーロがうなずいた。
店の照明が一つ消された。作業台の小さなライトだけが、基板の上を照らした。導線の影が細い草のように伸びる。
スピーカーから、まず雑音が流れた。
ざあ、と雨に似た音。
けれど、それは雨そのものではなかった。水がコンクリートの床を流れる音、遠くで人が叫ぶ声、プラスチックの何かが壁に当たる音。音の端が裂けて、何度も途切れる。
エメットが息を止めたのがわかった。
十年前の水音は、彼の記憶の穴をまだ濡らしている。
ガニーロは操作盤に触れず、両手を膝の上に置いていた。
やがて、細い声が聞こえた。
『こっち、暗い』
幼い声。
レトリスの指が、蒼い鞄の持ち手を強く握った。
『ここに、光るやつをつけるの。そしたら、迷子にならない』
オバインが小さく口を開けた。
「これ……」
ヒルドバーグが目だけで制した。
声は、少しだけ明るかった。水害当日の恐怖ではない。もっと前の、練習中の声だ。旧地下避難施設の小部屋で、子どもたちが防災鞄の試作品を広げていた日の記録なのだろう。
『ガニーロ、ここ曲がると、ペアカップのお店に戻れる?』
雑音の向こうで、幼いガニーロらしい声が何か答えた。水に削られたように、言葉はほとんど残っていない。ただ、最後の「戻れる」という音だけがかすかに聞こえた。
レトリスは唇を噛んだ。
こんな声を、自分は持っていたのか。
もっと硬くて、もっと怒っていて、最初から誰かを疑う声しか、自分にはないと思っていた。
スピーカーの雑音が、一度大きくなった。
そして、印字機が小さく震えた。
止めたはずの印字機に、ガニーロが慌てて目を向ける。
「入力は切っています。過去データの定型文だけが走っているみたいです」
「走らせないでください」
「止められます」
「まだです」
レトリスは自分で言って、驚いた。
まだ、だった。
終わらせたいのに、終わらせたくない。
紙が、ゆっくり吐き出された。
そこには、最初の一行だけが印字された。
あなたを想う時間
以前、そこで止まった言葉だ。
続きは空白だった。
今日は、その下に、かすれた文字が一つずつ現れた。
迷子にならないために、先に灯りを入れる。
嫌いと言う前に、名前を呼ぶ。
雨が降ったら、二本目の傘を持つ。
サポナーラが鼻をすすった。
「俺の雨合羽講座も入れた方が」
「黙って」
レトリス、オリーン、ブルグリンデが同時に言った。
サポナーラは肩をすくめたが、少し救われたように口を閉じた。重くなりすぎる空気を自分の失敗で引き受けようとする癖が、今は見えた。
スピーカーから、また幼い声がした。
『世界で一番……』
レトリスの背筋が固まった。
ガニーロも、息を止めた。
『世界で一番、きらいな人』
店の中の誰も、笑わなかった。
小さなレトリスの声は、今のレトリスよりも少し高く、少し得意げで、少し泣きそうだった。
『だって』
ざあ、と水音に似た雑音が重なる。
『いなくなったら、世界で一番こまるから』
レトリスは、反射的に赤いスイッチを押した。
音が止まった。
印字機も止まった。
紙は、途中まで出たまま揺れている。
誰も、動かなかった。
外で、最初の雨粒がシャッターに当たった。
ぱつん、と小さな音。
それが合図のように、レトリスは立ち上がった。
「今のは、違います」
声が裏返った。
オリーンの口が開きかけたが、ヒルドバーグが湯飲みを置く音で止めた。
「違うんです。子どもの言葉です。意味なんて」
レトリスは蒼い鞄を抱えた。
「意味なんて、ありません」
ガニーロは、紙を見ていなかった。
レトリスを見ていた。
笑っていない。
からかっていない。
勝ち誇ってもいない。
ただ、雨の中でなくしたものを、十年遅れで両手に受け取ってしまった人の顔をしていた。
レトリスは、それが一番困った。
「笑ってくださいよ」
自分でも思っていない言葉が出た。
「いつもみたいに、変な冗談を言えばいいでしょう。ペンに帰巣本能をつけるとか、傘が二本あるとか、そういうのを言ってください」
ガニーロは首を振った。
「笑えません」
「どうして」
「嬉しかったからです」
レトリスの喉が、きゅっと詰まった。
「十年前のレトリスさんが、僕のことを、そんなふうに心配してくれていたって、今、知ったので」
「……心配なんか」
「していなかったなら、それでもいいです」
「よくありません」
「はい」
「返事をしないでください」
「……すみません」
「謝らないでください」
同じやり取りなのに、さっきとは違っていた。
足元が薄く揺れる。
怒りで立っている時は、揺れなかった。
怒れなくなると、人はこんなに不安定になるのだと、レトリスは初めて知った。
ブルグリンデが、入口近くで小さく息を吸った。
「レトリスさん」
「何ですか」
「今の紙は、掲示板には貼りません」
「当たり前です」
「商店街通信にも載せません」
「載せたら、あなたの店の前に危険区域の赤線を十本引きます」
「それは困ります」
ブルグリンデは、少しだけ口元をゆるめた。
「でも、捨てない方がいいと思います」
レトリスは反論しようとして、言葉を失った。
捨てたい。
燃やしたい。
水に流したい。
なのに、捨てたら、十年前の自分まで否定する気がした。
ガニーロは作業台の上から、透明な保存袋を一枚取った。
「預かりません。レトリスさんが持っていてください」
「あなたが持っていた方が、修理に必要でしょう」
「写しだけ取れれば足ります。原本は、あなたの鞄に戻した方がいい」
「どうして」
「蒼い鞄の中にあった言葉なので」
レトリスは、保存袋を受け取った。
紙はまだ温かかった。
印字機から出たばかりの熱なのか、自分の手が熱いのか、わからない。
エメットが、そっと避難灯の箱を作業台に置いた。
「レトリスさん」
「はい」
「小さい頃の言葉って、今の自分が困ることを言いますよね」
レトリスは少年を見た。
エメットは、耳の先を赤くしていた。
「僕も、母さんに昔の話をされると、穴を掘りたくなります」
「掘らないでください」
「はい。避難経路が変わるので」
アリシャーが真顔でうなずいた。
「無許可の穴は困ります」
そこで、オリーンがついに吹き出した。
笑いは、最初は小さかった。けれどサポナーラが「穴を掘ったら雨合羽を着て入るべきですか」と余計なことを言い、オバインが「まず何の穴だよ」と返し、ブルグリンデが「商店街に穴は困ります」と言い、ヒルドバーグが「穴より先に茶を飲みな」と湯飲みを押し出すと、店の空気が少しずつほどけた。
レトリスは、笑わなかった。
でも、息はできた。
ガニーロは、印字機の電源を切った。
基板の小さな灯りが消える。
「今日は、ここまでにしましょう」
その言葉に、誰も反対しなかった。
作業台の上には、まだ整理されていない記録がある。父の点検メモ、母の鍵、避難誘導ライトの部品、未完成の詩。すべてを一晩で片づけることはできない。
できないままで、明日に持っていくしかない。
レトリスは、保存袋に入れた紙を蒼い鞄の内ポケットへしまった。
かつて補助鍵が入っていた場所だ。
留め具を閉じると、小さく、かちりと音がした。
外の雨音が、少し強くなっていた。
シャッターの隙間から、濡れた風が入ってくる。商店街の蛍光灯が、雨粒でぼやけて見えた。
ガニーロが傘立てから傘を二本取った。
一本は自分用。
もう一本は、いつものように、誰か用。
レトリスはそれを見て、ため息をついた。
「二本目、まだ持っているんですね」
「はい」
「重くないんですか」
「慣れました」
ガニーロは、二本目の傘を差し出した。
レトリスは受け取らなかった。
代わりに、自分の蒼い鞄から折りたたみ傘を出した。十年前から使っているものではない。けれど、色は同じ青だった。
「今日は、自分のがあります」
「そうですか」
「でも」
レトリスは、店の外の雨を見た。
夜の商店街は、さっき貼ったばかりの修正ハザードマップのカバーを濡らしている。赤い線も、青い印も、緑の点も、雨の中でまだ見えている。
「明日の夜、予報が本当に悪くなるなら、二本では足りません」
ガニーロは、わずかに表情を引き締めた。
「はい」
「避難所用の傘、喫茶ペアカップの休憩場所、商店街掲示板の地図、ロシルドゥアさんの支援表、アリシャーさんの経路図。全部、明日朝、確認します」
「わかりました」
「あなたも来てください」
「もちろん」
「一人で先に行かないでください」
言ってから、レトリスは口を閉じた。
店の奥で、誰かが湯飲みを置く音がした。
ガニーロは、今度も笑わなかった。
「行きません」
雨の匂いが濃くなる。
レトリスは傘を開いた。青い布が、店の灯りを受けて淡く光る。
外へ一歩出る前に、彼女は振り返った。
作業台の上の基板は、もう沈黙している。
けれど、蒼い鞄の内ポケットには、未完成のままの「あなたを想う時間」が入っている。
世界で一番嫌いな人。
だって、いなくなったら世界で一番困るから。
そんな言葉を、十年前の自分が残していた。
今の自分は、まだ続きを言えない。
だからレトリスは、傘の柄を握り直した。
「明日、遅刻したら許しません」
ガニーロは、自分の傘を開いた。
「五分前に行きます」
「三分前でいいです。早すぎると、また一人で何か直し始めます」
「では、三分前に」
レトリスは、雨の中へ歩き出した。
隣に、ガニーロの傘が並ぶ。
少し離れて、でも離れすぎずに。
商店街の掲示板では、透明カバー越しの修正ハザードマップが、雨粒を受けてかすかに光っていた。
その光は、まだ小さかった。
だが、明日へ向かうには、十分だった。




