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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第40話 ブルグリンデが頭を下げる日

 現町公民館の大広間には、朝から紙の匂いが満ちていた。


 長机の上には、刷り上がったばかりの修正ハザードマップが積まれている。危険区域を示す線、車椅子でも通りやすい道、雨宿りできる軒先、休憩できる店、手すりのある坂。以前の地図より文字が多く、色も多く、折り目も厚かった。


 レトリスは、入口横の掲示板へ大判の地図を貼っていた。透明カバーはブルグリンデが商店街から持ってきたものだ。角に小さな傷があるが、雨に濡れても滲まない。


 「右上、少し傾いています」


 アリシャーが横から言った。


 「二ミリです」


 「二ミリでも、見る人の目が引っかかります」


 「では、直します」


 レトリスは文句を言わず、画びょうを外した。


 ガニーロが隣で台を支え、エメットは下から地図の端を両手で持っている。背伸びをしているせいで、声が少し震えた。


 「もう少し上です」


 「エメット、足、つらくない?」


 「つらいです。でも地図が曲がるほうが、もっとつらいです」


 レトリスは、彼を見下ろしてから、ほんの少しだけ笑った。


 「その判断は正しいです。ただし、踏み台を使ってください」


 「はい」


 エメットが踏み台に乗ると、ガニーロは自然に後ろへ手を添えた。レトリスは何も言わなかった。言わない代わりに、踏み台の脚が滑らない位置へ、足でそっと押し直した。


 広間の後ろでは、オリーンが紙コップを並べていた。


 「説明会だから、飲み物は控えめにって言われたけど、お茶がない説明会は乾いたパンみたいだよ」


 「乾いたパンにも使い道はある」


 ヒルドバーグが、魔法瓶のふたを閉めながら言う。


 「何ですか」


 「スープに浸す」


 「それ、説明会も何かに浸したほうがいいってこと?」


 「人の話は、茶に浸すくらいがちょうどいい。熱すぎる言葉をそのまま飲むと、喉をやけどする」


 オリーンは真剣に頷いた。


 「じゃあ今日は、お茶を多めにする」


 「こぼすなよ」


 「それは努力目標」


 「努力で済ませるな」


 サポナーラは、受付の前で配布用のマップを十枚ずつ数えていた。


 「十枚、十枚、十一枚、あれ、十枚、いや十一枚……」


 ロシルドゥアが横に立ち、静かに一枚抜いた。


 「今の束は十一枚です」


 「俺は一枚多く救おうとしていた」


 「一枚多いと、最後の人に渡せなくなります」


 「はい。正確に救います」


 サポナーラは背筋を伸ばして、もう一度数え直した。


 そのにぎやかさの外側で、ブルグリンデは演台の前に立っていた。


 いつものように髪はきっちりまとめられている。上着の襟も歪んでいない。手元には、昨夜遅くまで書き直した挨拶文がある。紙の端には、何度も折り返した跡が残っていた。


 レトリスは地図を貼り終えると、演台へ歩いた。


 「原稿、確認しますか」


 「必要ありません」


 ブルグリンデはすぐに答えた。


 それから、少し間を置いた。


 「……必要ありません。自分で言います」


 レトリスは、その言い直しを聞いて、紙を取り上げなかった。


 「わかりました」


 「あなたは、不安ではないの?」


 「不安です」


 「即答するのね」


 「不安なものを、不安ではないと言うと、また地図が曲がります」


 ブルグリンデは、演台に置いた紙の角を指で押さえた。


 「私は、曲げたつもりはありませんでした」


 「はい」


 「危険と書かれた通りに、人が来なくなるのが怖かった。店が閉まり、空き店舗が増え、現町が十年前の雨の町としてだけ覚えられるのが怖かった。だから、言葉を少し柔らかくした。線を少し細くした。危険ではなく注意と書いた」


 ブルグリンデは、貼られた地図を見た。


 「少し、ではありませんでしたね」


 レトリスは、そこでも責めなかった。


 「今日、ご自分で言えますか」


 「言います」


 その声は低かった。


 大広間に住民が入り始めた。


 青果店の夫婦、杖をついた常連客、子ども連れの母親、古道具市の手伝いをしていた若者、商店街の店主たち。十年前から住む人もいれば、最近越してきた人もいる。椅子の音が重なり、受付で紙が渡され、入口の地図の前で何人かが足を止めた。


 「うちの店、休憩場所に入ってる」


 「裏の坂、やっぱり危ないって書いてあるな」


 「この道、夜は暗いんだよ。載せてくれたのか」


 声が広がる。


 ブルグリンデの指が、原稿の紙を少し強く握った。


 ガニーロは、演台の横に置いた手回しラジオ型の通信機を調整していた。今日は紙を出す必要はない。ただ、停電時の説明用に持ってきている。


 レトリスがそれを見て眉を寄せる。


 「今日は赤面ポエムを出さないでください」


 「出さない」


 「絶対に」


 「電源、別」


 「別でも、あなたの作るものは油断できません」


 ガニーロは少し考えた。


 「その評価は、半分くらい正しい」


 「全部です」


 エメットが通信機のスイッチを二重に確認し、小さな札を貼った。


 ――説明用。詩は出ません。


 サポナーラがそれを見て、受付の紙束にも同じ札を貼ろうとしたため、ロシルドゥアに止められた。


 「マップから詩は出ません」


 「念のため」


 「いりません」


 小さな笑いが、前列まで届いた。


 時間になり、レトリスが開会の挨拶をした。


 彼女は、危険箇所の説明を短くした。川の水位、排水路、坂道、夜間の暗さ、車椅子で通りにくい角。いつもなら真っ直ぐ刺さる言葉を、今日は一つずつ地図に結びつけて話した。


 「この地図は、怖がらせるための紙ではありません。どこへ行けば、少しでも安全に動けるかを知るための紙です。危険区域だけでなく、休める場所、助けを呼べる場所、明かりが届く場所も載せています」


 後ろの席で、誰かが頷いた。


 レトリスは、演台の横に立つブルグリンデを見た。


 「次に、商店街振興会のブルグリンデさんから、お話があります」


 大広間の空気が、少し硬くなった。


 ブルグリンデは一歩前へ出た。


 演台に両手を置き、目の前の住民たちを見た。


 最初の一行を読もうとして、紙が小さく震えた。


 ヒルドバーグが、客席の一番後ろで腕を組んでいる。何も言わない。けれど、逃げるなと言うより、ここで倒れても茶はあると言っているような顔だった。


 ブルグリンデは、原稿を伏せた。


 「私は、危険を小さく見せようとしました」


 ざわめきが起きた。


 彼女は、続けた。


 「商店街の評判が落ちるのが怖かったからです。危険と大きく書かれれば、お客様が来なくなると思いました。十年前の雨のあと、店主たちに『なぜもっと早く知らせなかったのか』と言われたことも、忘れられませんでした。また責められるのが怖くて、私は地図の線を細くしようとしました」


 前列の青果店の夫が、膝の上で手を握った。


 ブルグリンデは、その手を見てから、深く息を吸った。


 「ごめんなさい」


 頭を下げた。


 大広間から、椅子の軋む音が消えた。


 彼女の背中は、いつもより小さく見えた。けれど、その小ささは、負けた人のものではなかった。自分の重さを、自分の足で受け止めている人の背中だった。


 ブルグリンデは顔を上げた。


 「ただ、お願いがあります。私一人を責めるだけで終わらせないでください。私が間違えたことは、私が認めます。でも、次に逃げ遅れる人を減らす地図にしたいのです。この地図には、危険だけでなく、休める店も、声をかけられる人も、手すりのある坂も載っています。商店街は、隠すためではなく、知らせるためにこの地図を貼ります」


 後ろで、オリーンが泣きそうな顔で拍手しようとした。


 ヒルドバーグが、そっとその手首を押さえた。


 すぐ拍手しない。


 今は、言葉が落ちる音を聞く時間だ。


 沈黙のあと、杖をついた常連客が手を挙げた。


 「うちの前の道、危険って書いてあるな」


 ブルグリンデは、まっすぐに頷いた。


 「はい。雨が強い時は、避けてください」


 「客が減るぞ」


 「雨の日に流されるよりいいです」


 常連客は、しばらくブルグリンデを見ていた。


 それから、鼻を鳴らした。


 「そうだな。流されたら、店にも行けん」


 前列の青果店の妻が、ゆっくり手を叩いた。


 その音は一つだけだった。


 二つ目が続いた。


 三つ目、四つ目。


 やがて拍手になったが、明るく弾ける拍手ではなかった。重いものを少しずつ持ち上げるような音だった。


 ブルグリンデは、もう一度頭を下げた。


 レトリスは、演台の横でその姿を見ていた。


 自分が言ってきた危険という言葉は、間違っていなかった。けれど、言うだけでは届かない場所がある。怖がっている人が、自分の怖さごと前に出る時、同じ言葉でも届き方が変わる。


 ガニーロは、配布用のマップを住民に渡していた。


 「ここ、うちの店も休憩場所に入ってるの?」


 金物屋の主人が聞く。


 「軒が深くて、雨宿りできます。鍵が開いていれば」


 「開けとくよ。雨の日だけな」


 「雨の日だけでも助かります」


 別の店主が、地図を指さす。


 「この電子灯の印、誰が直すんだ」


 ガニーロが答える前に、エメットが一歩出た。


 「僕も手伝います。電池の交換と、接点の確認はできます」


 店主は、少し驚いた顔でエメットを見た。


 「じゃあ頼む。高いところは大人を呼べよ」


 「はい」


 エメットの返事は、今度は硬すぎなかった。


 サポナーラは、子どもたちの前で雨合羽のフードを広げていた。


 「これは、顔を全部隠すためのものではありません。前が見えないと、電柱と友情を育むことになります」


 「電柱と友達になれるの?」


 「なれません。痛いだけです」


 子どもたちが笑った。


 レトリスは横を通りながら言う。


 「今の説明は、少し覚えやすいです」


 サポナーラは胸に手を当てた。


 「今日の俺、掲示一枚から説明二つへ成長しました」


 「自分で表彰しない」


 「はい」


 オリーンが、紙コップのお茶を配りながら近づいた。


 「表彰は私が後でこっそりします」


 「しないでください」


 「じゃあ、こっそりしないで堂々と?」


 「余計にしないでください」


 笑いがまた広がった。


 公開説明会は、予定より長くなった。


 危険区域への不安、店の売り上げ、避難の時に誰が声をかけるか、夜に一人で歩けない高齢者のこと、車椅子の回転できる角、犬を連れて逃げる時の道。次々に声が出た。


 レトリスは一つずつ記録した。


 アリシャーは地図に線を足した。


 ロシルドゥアは支援の担当を分けた。


 ガニーロは、電子灯の点検日を書いた。


 ブルグリンデは、言い返したくなるたびに口を閉じ、最後まで聞いた。


 何度か、頬が引きつった。


 何度か、指先が原稿を探した。


 それでも、他人の言葉を勝手に整えなかった。


 説明会が終わる頃、入口の掲示板の前に、住民が自然と集まっていた。


 「うちの軒先も、雨宿り場所にしていい」


 「店の前の段差、板を置けば通れるかもしれない」


 「夜の暗いところ、青鞄電子堂に相談すればいいのか」


 ガニーロは、相談の文字を聞いて少し青ざめた。


 「全部を今日持ち込まれると、店が埋まる」


 「予定表を作ります」


 レトリスが即座に言う。


 「助かる」


 「赤字修理は禁止です」


 「努力する」


 「努力ではなく、見積書」


 「はい」


 ブルグリンデが、そのやり取りを聞いて、わずかに笑った。


 笑ったあと、地図の前へ行き、自分の店がある場所を指で押さえた。


 そこには、赤い線と、青い休憩印が同時についている。


 危険な通り。


 休める店。


 どちらも本当だった。


 「両方、書いてあるのね」


 ブルグリンデが呟く。


 ヒルドバーグが隣へ立った。


 「人間も店も、だいたいそうだ」


 「危険で、休める?」


 「面倒で、役に立つ」


 「それは誰のこと?」


 「さあな」


 ヒルドバーグは湯飲みを渡した。


 ブルグリンデはそれを受け取って、しばらく持っていた。


 「拍手されると、許されたように勘違いしそうになるわ」


 「勘違いするな。今日の茶は、許しではなく、喉のためだ」


 「厳しいのね」


 「熱いよりましだ」


 ブルグリンデは湯飲みに口をつけた。


 レトリスは、二人から少し離れた場所で、住民の書き込みを回収していた。


 ガニーロが隣へ来る。


 「すぐ拍手が起きなくてよかった」


 「なぜですか」


 「すぐ終わったことにならなかったから」


 レトリスは紙を束ねる手を止めた。


 「あなたにしては、まともなことを言いますね」


 「たまに」


 「たまにで満足しないでください」


 「はい」


 彼女は、束ねた紙の一番上に今日の日付を書いた。


 危険を小さく見せない。


 怖い人を一人にしない。


 責めるだけで終わらせない。


 その三つを、赤ペンで囲む。


 ガニーロは、その文字を見て言った。


 「新しい手順?」


 「ええ。現町用です」


 「鞄にも入れる?」


 「入れます。迷子にならないために」


 蒼い鞄は、彼女の椅子の上で静かにしていた。


 基板は眠っている。


 赤面ポエムは出ない。


 それでも今日、大広間には、言えなかった言葉がいくつも出た。


 紙に勝手に印字されたのではない。


 誰かが自分の口で言った。


 それは、機械で作るどの灯りより扱いが難しく、だからこそ、いちばん遠くまで届くものかもしれなかった。


 片付けの最後、ブルグリンデは大判地図の前にもう一度立った。


 そして、商店街入口に貼るための予備を一枚、両手で持った。


 「これ、私が貼ります」


 レトリスは頷いた。


 「お願いします」


 「曲がっていたら?」


 アリシャーがすぐに顔を上げた。


 「直します」


 ブルグリンデは、少しだけ肩の力を抜いた。


 「では、曲がっても貼ります」


 大広間の窓から、午後の光が入っていた。


 透明カバー越しの地図に、その光が反射する。


 赤い線も、青い印も、黒い文字も、同じ紙の上で光っていた。


 現町は、怖い場所だけではない。


 安全な場所だけでもない。


 間違えた人がいて、怒った人がいて、黙って茶を出す人がいて、紙を数え間違える人がいて、二ミリの傾きを直す人がいる。


 その全部を書き込んで、ようやく地図になる。


 ブルグリンデは地図を抱え、商店街へ向かって歩き出した。


 その背中に、ヒルドバーグが静かにうなずいた。


 拍手よりも小さく、けれど、誰よりもはっきりした合図だった。



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