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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第39話 サブマリン再起動

 喫茶ペアカップの棚の奥から出てきた部品箱は、菓子缶を二つ重ねたほどの大きさだった。


 青い塗装はところどころ剥げ、角には白い錆が浮いている。ふたの真ん中には、子どもの手で貼ったらしい紙片が残っていた。水に濡れて文字はかすれていたが、「まいごに」と「ならない」のあいだに、小さな星の絵が見えた。


 ヒルドバーグは、その箱を両手で持ってきて、喫茶店の一番大きなテーブルへ置いた。


 「重いぞ。落としたら、床より中身が泣く」


 「泣く部品は、だいたい再注文できませんから」


 ガニーロが、布を広げる。


 レトリスは椅子に座らず、テーブルの端に立ったまま箱を見下ろしていた。蒼い鞄は足元の椅子に乗せてある。鞄の金具は直っているのに、彼女はまだ片手で持ち手を押さえていた。


 「私、これを見ても怒るかもしれません」


 「うん」


 「怒ったら、面倒くさいと思ってください」


 「思わない」


 「即答しないでください。少しは迷ってください」


 「迷ってから、同じことを言う」


 レトリスは眉を寄せた。


 「……それは反則です」


 オリーンが厨房から顔を出した。


 「反則って聞こえたから、審判用のベルを持ってくる?」


 「持ってこなくていいです」


 「じゃあ、勝者用のプリンは?」


 「それも今は不要です」


 「負けた人用のプリンなら?」


 レトリスが一瞬だけ黙った。


 ヒルドバーグが、盆に三つの湯飲みを置きながら言った。


 「全員、先に茶を飲め。腹が空いた頭は、古い箱に八つ当たりする」


 その言い方で、レトリスは椅子に座った。


 サポナーラは入口近くで、やけに真剣な顔をして長靴の泥を落としていた。


 「俺、今日は絶対に余計なことを言わない」


 「今、言った」


 オバインがすかさず返す。


 「宣言は余計なことに含まれない。むしろ安全確認だ」


 「安全確認なら、長靴を脱いでから言ってください。床が砂だらけです」


 レトリスの声が飛ぶと、サポナーラは長靴をそろえて脱ぎ、背筋を伸ばした。


 「はい。床の避難経路を確保します」


 「その言い方は少し良いです」


 「褒められた!」


 「大声にしない」


 「はい!」


 それでも声は大きかった。


 店の空気が少しだけほぐれたところで、ガニーロは部品箱の留め金に手をかけた。


 ふたは、軽い音を立てて開いた。


 中には、防水のために巻かれた油紙が何層も重なっていた。紙の隙間から、小さな反射板、銅線、手のひらほどの古い発電機、赤と青の豆電球、ねじの入った紙袋が見える。箱の底には、折り畳まれた設計図が一枚、さらにその下に、丸い穴の開いた金属板が入っていた。


 レトリスは、反射板を見た瞬間、息を止めた。


 「これ、鞄の側面に付ける予定だったものです」


 ガニーロが頷く。


 「暗い道でも、横から見えるようにって」


 「母が言いました。前だけ光っても、横から来る自転車には見えないって」


 「父さんは、光りすぎると恥ずかしくて子どもが持たないって言ってた」


 「だから形を星にしたんです。防災用品っぽく見えないように」


 レトリスの指が、反射板の端をなぞった。


 十年前の机の上で、子どもの手がそこを何度も触ったのだろう。角の丸みが、妙に懐かしい。


 「二人とも、作っていたんですね」


 エメットが小さく言った。


 彼は今日は青鞄電子堂から工具箱を運んできた係だった。膝の上には、自分で作った小さな避難灯を抱えている。前よりも配線がきれいになり、スイッチの横には、彼の字で「よび」と書かれていた。


 ガニーロは、エメットの避難灯を見てから、箱の中の豆電球を取った。


 「完成させられなかった」


 「でも、部品は捨てられていません」


 エメットはまっすぐに言った。


 ガニーロの指が、豆電球を包む紙の上で止まる。


 「そうだな」


 オバインは箱の底の金属板を持ち上げ、目を細めた。


 「これ、サブマリンの前部に付けられる。排水路の中で光を拡散できる形だ」


 「勝手に持っていかないでください」


 レトリスがすぐに言う。


 「持っていかない。借りる。返す。できれば働いてもらう」


 「部品に労働を求めないでください」


 「じゃあ協力」


 「少しだけましです」


 オバインは笑い、金属板をテーブルの上に置いた。


 「明日、サブマリンを旧地下避難施設へ入れる。町を出る前に、排水の確認だけは終わらせたい」


 その言葉で、店内の音が一つ減った。


 カウンターの奥で湯気を上げていたやかんの音だけが、細く続いた。


 オバインは、わざとらしく肩をすくめた。


 「おい、そんな顔をするな。俺は流されるわけじゃない。電車に乗るだけだ」


 「電車に乗る前に、水路に潜る人は、あまり多くありません」


 レトリスが言うと、オバインは顎を上げた。


 「現町代表の変な土産だ。行く先で『地元で最後に何をしましたか』って聞かれたら、『喫茶店で古い星形反射板を借りて、小型探索機を水路に沈めました』って言える」


 「採用担当が困るだろうな」


 ガニーロが呟いた。


 「困らせたら勝ちだ」


 「面接は勝負ではありません」


 レトリスが即座に言った。


 「それ、役所の面接を受けた人の口調だな」


 「正しい返答をしただけです」


 「じゃあ俺も正しく返す。町を出るのと、町から逃げるのは違う。だから最後に、逃げ道を一つ確認する」


 オバインの声は軽かったが、指は金属板を真面目に押さえていた。


 アリシャーが、分厚いファイルを開いた。


 「旧地下避難施設の北側排水路は、今の図面では途中から未確認です。十年前の水害後、泥が入り、調査が止まっています」


 彼は地図を広げ、細い鉛筆で線を示した。


 「ここに、今は使われていない雨水ますがあります。現地の高さは、古い台帳より六センチ低い。豪雨時には先に水が溜まる可能性がある」


 「六センチって、そんなに変わるの?」


 オリーンが首をかしげる。


 アリシャーは、湯飲みの横に置かれていた角砂糖を二つ並べた。


 「足の悪い人が水の中を歩くと、六センチでも速度が落ちます。子どもが長靴で歩くと、片足を取られます。車椅子なら前輪が抵抗を受けます」


 オリーンは、角砂糖をじっと見た。


 「甘いのに怖い説明だね」


 「砂糖は悪くありません」


 「わかってる。私の頭が勝手にお茶へ逃げただけ」


 ヒルドバーグが、角砂糖を一つ回収して自分の湯飲みに入れた。


 「怖い話は、甘いものを挟んで聞くと最後まで聞ける」


 アリシャーは少しだけ目を瞬かせ、続けた。


 「サブマリンで排水路の内部を確認できれば、この線を確定できます。避難経路図と、ガニーロさんの電子灯の配置を合わせる必要があります」


 ガニーロは、持ってきた通信機を箱から出した。


 古い手回しラジオの外装を使ったものだ。右側に小さなつまみ、左側に薄い紙を送り出す口があり、上には豆電球が三つ並んでいる。


 レトリスはその形を見て、目を細めた。


 「また変なものを作っていますね」


 「通信機」


 「なぜ紙が出るんですか」


 「無線が不安定な時に短文だけ印字する」


 「赤面ポエムの親戚に見えます」


 「親戚じゃない。反省を踏まえた別人」


 「機械に別人という概念を持ち込まないでください」


 サポナーラが恐る恐る手を挙げた。


 「つまり、サブマリンが水路で見たものを、この親戚じゃない別人が紙に出す?」


 「映像はオバインの画面。こちらは位置と異常だけ。水深、詰まり、戻れない時の合図」


 「戻れない時の合図は怖いな」


 「怖いから先に決める」


 ガニーロは、紙に大きく書いた。


 水が増えたら戻る。


 通信が途切れたら引き上げる。


 人が向かうのは、別経路を確認してから。


 レトリスは、その文字を見た。


 十年前、誰もそこまで先に決めていなかった。


 決める前に雨が来た。


 決める前に水が増えた。


 決める前に、子どもたちはそれぞれ別の場所で、誰かを待った。


 「……この順番は、掲示用にも使えます」


 レトリスは赤ペンを取り、ガニーロの字の横に小さく注を入れた。


 水が増えたら戻る――見に行かない。


 通信が途切れたら引き上げる――声を張り上げて探しに行かない。


 人が向かうのは別経路確認後――一人で行かない。


 最後の一行で、ガニーロの手が止まった。


 レトリスも、そこに気づいていた。


 けれど、今日は怒鳴らなかった。


 代わりに、赤ペンのキャップを閉める音だけがした。


 「これで、よし」


 その声は、紙を裁断するほど鋭くはない。濡れた布を絞る時のような、静かな力があった。


 翌朝、旧地下避難施設サブマリンの入口前には、まだ朝の影が残っていた。


 丸い扉は、閉鎖されていた頃より少しだけきれいになっている。ブルグリンデが看板を拭いたあと、商店街の誰かが扉の周りの雑草を抜いてくれた。誰がやったのか尋ねても、皆が別の人の名前を出すので、結局わからないままだ。


 オバインは、折り畳み台の上に小型探索機サブマリンを置いた。


 前よりもずいぶん形が変わっている。


 先端には、喫茶ペアカップから出てきた星形の反射板が取り付けられていた。その後ろにエメットの避難灯が小さく収まり、左右にはガニーロが作った通信端子。底の部分には、泥に沈みにくいようオバインが昨夜追加した細い板が付いている。


 「顔が良くなった」


 オバインが満足そうに言う。


 「顔?」


 レトリスが聞き返す。


 「機械にも顔がある。これなら、多少濁った水でも前を見ている感じがする」


 「感じではなく、実際に照射範囲が広がっています」


 アリシャーが横から言う。


 「お前は夢を数字で固定するな」


 「固定しないと流されます」


 「今日だけは言い返せない」


 エメットは、サブマリンの前にしゃがみ込み、自分の避難灯のスイッチを確かめた。


 「点きます」


 「予備は?」


 ガニーロが聞く。


 「ここです」


 エメットは、工具箱から小さな電池入れを出した。


 「はんだのところ、昨日もう一回直しました。引っ張っても抜けません」


 「見せて」


 ガニーロは電池入れを受け取り、軽く振った。配線は動かなかった。


 「いい仕事」


 エメットの頬が、朝の冷たい空気の中で赤くなった。


 「はい」


 「返事が硬い」


 「うれしい時の返事がまだ練習中です」


 オリーンが手を叩いた。


 「今の返事、採用! うれしい時の返事表に入れよう」


 「また表を増やさないでください」


 レトリスが言うと、ロシルドゥアが、支援名簿のクリップを留め直しながら微笑んだ。


 「表は増やすだけだとつらいです。使う場面まで書けば助かります」


 「では、うれしい時の返事表は不要です」


 「厳しいなあ」


 オリーンは笑ったが、エメットの肩にそっと手を置いただけで、それ以上は騒がなかった。


 ヒルドバーグは入口の外に折り畳み椅子を二つ置き、ポットを並べていた。


 「中に入る者は、戻ったら温かい茶を飲む。外で待つ者も飲む。待つだけの口も乾く」


 「喫茶店を入口前に移動させる気ですか」


 レトリスが尋ねる。


 「茶があるところが、今だけ喫茶ペアカップだ」


 誰も反論できなかった。


 扉が開くと、地下から湿った空気が上がってきた。


 コンクリートの匂い、古い木の匂い、泥が乾いた後の匂い。十年前の水そのものではないのに、鼻の奥が重くなる。


 レトリスは蒼い鞄を肩に掛け直した。


 ガニーロは、その動作を見ていたが、何も言わなかった。


 オバインが送信機を持ち、アリシャーが図面を広げる。ガニーロは通信機のつまみを調整し、エメットは電池残量の札を見た。ロシルドゥアは入口で、誰が何時に入ったかを紙に書く。サポナーラは、なぜか腕まくりをしていた。


 「サポナーラさんは、何をするんですか」


 エメットが聞く。


 「応援」


 「腕まくりは必要ですか」


 「気持ちが入る」


 「袖を下ろしてください。地下は冷えます」


 レトリスに言われ、サポナーラは素直に袖を戻した。


 「応援も安全第一」


 「その言い方は、少し覚えやすいです」


 「また褒められた!」


 「声量」


 「はい」


 サブマリンは、排水路の点検口からゆっくり入れられた。


 車輪が金属の縁を越える時、小さく鳴った。星形の反射板に避難灯の光が当たり、濁った水面に淡い筋が走る。画面には、狭い通路が映った。


 オバインの指が操作盤の上を動く。


 「前進」


 サブマリンが水の上を進む。


 ガニーロの通信機から、細い紙が一行だけ出た。


 水深、浅い。泥、少し。


 「よし」


 エメットが息を吐く。


 レトリスは、その紙をすぐに台紙へ貼った。


 「記録します」


 アリシャーは図面に鉛筆を入れた。


 「入口から二・四メートル。まだ通れます」


 「二・四メートルで記念写真を撮るか」


 サポナーラが言いかけ、全員の視線を浴びた。


 「言わない練習中だった」


 「途中経過を口に出さないでください」


 レトリスが言うと、ヒルドバーグが紙コップを渡した。


 「口に何か入れておけ」


 「ありがたい封印です」


 サポナーラは茶を受け取った。


 画面の奥に、古い掲示板が見えた。


 水に濡れて黒ずんだ板に、かろうじて白い矢印が残っている。その矢印は、現行の図面と違う方向を向いていた。


 アリシャーの鉛筆が止まる。


 「この矢印は、記録と違います」


 「古い掲示が間違っている?」


 オリーンが小声で聞く。


 「もしくは、途中で経路が変わったのに、図面へ反映されなかった」


 レトリスは唇を結んだ。


 ガニーロは通信機の紙を見た。


 矢印あり。右。図面と違う。


 紙に出た短文は味気ない。赤面ポエムのように騒がしくも、恥ずかしくもない。


 けれど今は、その味気なさがありがたかった。


 感情ではなく、事実が出ている。


 事実なら、手順に変えられる。


 「右へ進める?」


 オバインが、サブマリンの映像を拡大した。


 「泥が多い。けど、底に隙間がある。反射板の光、使うぞ」


 エメットが避難灯のつまみを少し上げた。


 画面の白い筋が広がる。


 右側の通路の奥に、丸いものが見えた。


 「何かあります」


 エメットの声が震えた。


 オバインは操作を止めた。


 画面の中で、泥に半分埋まった小さな看板が映った。そこには、子どもの字で描かれた青い鞄と、星形の光があった。


 レトリスの手が、蒼い鞄の持ち手を握る。


 「……私の字です」


 ガニーロは、画面を見つめた。


 十年前の彼女の字。


 十年前の自分たちが作ろうとしていた鞄。


 そして今、その絵を照らしているのは、エメットの避難灯と、ガニーロの通信機と、オバインのサブマリンと、アリシャーの経路図だった。


 誰か一人の工作ではない。


 誰か一人の後悔でもない。


 止まっていたものが、ようやく動いている。


 通信機が、また紙を吐き出した。


 古い標識。右奥、詰まり。


 アリシャーがすぐに図面へ印を入れる。


 「右奥が詰まっているなら、台風時に水が戻る可能性があります。ここの経路は避難路としては使えない」


 「でも、詰まりの手前までは確認できた」


 オバインが言う。


 「別の出口へつながっているかもしれない。左は?」


 サブマリンが向きを変えた。


 その瞬間、画面が一度、白く乱れた。


 通信機の豆電球が一つ消える。


 エメットが息をのんだ。


 「通信、弱いです」


 ガニーロは紙に書いた手順を見た。


 通信が途切れたら引き上げる。


 オバインも見た。


 ほんの数秒、指が操作盤の上で止まった。


 町を出る前に、できるだけ奥まで見たい。


 その気持ちが、彼の肩に出ていた。


 レトリスは、手順表の最後の一行を指で押さえた。


 一人で行かない。


 オバインは、深く息を吐いた。


 「戻す」


 誰も口を挟まなかった。


 サブマリンはゆっくり後退した。水面に星形の光が揺れ、画面の青い鞄の絵が少しずつ遠ざかる。通信機の豆電球は二つに戻り、紙が小さく震えながら出てきた。


 帰還中。泥、多い。機体、無事。


 エメットが両手を握った。


 「戻ってきます」


 「まだ油断しない」


 ガニーロが言う。


 「はい」


 数分後、点検口からサブマリンが引き上げられた。


 泥だらけだった。


 星形の反射板には細かい傷がつき、エメットの避難灯の前面にも泥がこびりついている。けれど、灯りは消えていなかった。


 オバインは、濡れた機体を両手で受け取ると、しばらく何も言わなかった。


 サポナーラが口を開きかけたが、ヒルドバーグの湯飲みが目の前に差し出され、黙った。


 オバインは、泥のついた星形反射板を親指で拭いた。


 「……こいつ、ちゃんと帰ってきたな」


 「操作した人が手順を守ったからです」


 レトリスが言った。


 「もっと言ってくれ。今のは効く」


 「調子に乗るなら取り消します」


 「取り消さないでくれ。町を出る時の荷物に入れる」


 「荷物に入れるのは工具だけにしてください」


 そう言いながら、レトリスの声は柔らかかった。


 アリシャーは、図面へ新しい線を入れ終えると、皆の前に広げた。


 「旧図面の右経路は使えません。左経路は未確認。北側排水路は、詰まりの除去が必要です。避難誘導灯は入口から二メートル間隔ではなく、角の手前にも必要です」


 ガニーロは、地図の上へ透明な紙を重ね、電子灯の印を置いた。


 エメットは、自分の避難灯をその印の一つに重ねた。


 オバインは、サブマリンの位置を赤い丸で囲んだ。


 ロシルドゥアは、その横に「車椅子は別経路」と書き足した。


 サポナーラは、迷いに迷った末に「右奥は見に行かない」と大きく書いた。


 レトリスはそれを見て、少し頷いた。


 「その字は採用します」


 「本当に?」


 「大きくて、逃げる時に読めます」


 「俺の字が人を救う時代が来た」


 「時代ではなく、掲示一枚です」


 「掲示一枚でも、俺には大きい」


 サポナーラは、照れたように笑った。


 ブルグリンデは、遅れて入口へやってきた。両手には、商店街の掲示板から外してきた古い透明カバーを抱えている。


 「雨に濡れないように、これを使いなさい。掲示した紙がまた滲んだら困るでしょう」


 レトリスは、彼女を見た。


 「ありがとうございます」


 「礼を言われる筋合いではありません。店の前に、読めない紙を貼られると見栄えが悪いだけです」


 オリーンがにこにこしながら言った。


 「見栄えを守るために、朝からカバーを四枚も外してくれたんですね」


 「黙りなさい」


 「はい。黙って感謝します」


 「黙れていません」


 ブルグリンデはそっぽを向いたが、耳だけ赤かった。


 レトリスは、透明カバーの一枚を受け取り、アリシャーの地図とガニーロの電子灯配置図を重ねた紙にかぶせた。


 その瞬間、ただの紙だったものが、掲示できるものに変わった。


 誰かの机の上で終わらない。


 誰かの工具箱の中で眠らない。


 店の入口に貼られ、雨に濡れ、誰かの目に入るものになる。


 オバインは泥だらけのサブマリンを布で拭きながら、ぽつりと言った。


 「置いていこうと思ってた」


 皆が彼を見た。


 「こいつ。俺が町を出るなら、現町に置いていくのが筋かなって。でも、今日わかった。こいつは、ここで終わる機械じゃない」


 「持っていくの?」


 エメットが聞いた。


 「持っていく。外で改良して、また持って帰る。現町の水路だけじゃなくて、別の町の暗いところも見られるようにする」


 ガニーロは頷いた。


 「いいと思う」


 「引き止めないの、相変わらず腹が立つな」


 「引き止めたいけど、部品に労働を求める人の未来を邪魔するのは違う」


 「まだ根に持ってるな」


 「少し」


 レトリスが、透明カバーの端を押さえながら言った。


 「持っていくなら、報告書を残してください。何をどう直して、どの部品が現町に由来するのか。次に戻ってきた時、同じ説明を繰り返さなくて済むように」


 「役所っぽい送り出しだ」


 「正しい送り出しです」


 「じゃあ、書く。帰ってくる理由にもなる」


 オバインは、そう言って笑った。


 地下の入口に、朝の光が少しずつ差し込んできた。


 湿った床の上で、星形反射板が光を拾う。


 十年前、作れなかった鞄の部品。


 昨日まで、喫茶店の棚の奥で眠っていたもの。


 今日、それはサブマリンの顔になり、水路の奥を照らし、使えない道と使えるかもしれない道を分けた。


 レトリスは、蒼い鞄を開いた。


 止めていた基板は、静かなままだった。


 赤面ポエムは出ない。


 余計な言葉も出ない。


 ただ、鞄の底で小さな金属音がした。


 彼女はそこへ、泥を拭いた星形反射板の予備を一枚入れた。


 ガニーロがそれを見て、何か言いかける。


 レトリスは先に口を開いた。


 「これは、持って帰ります」


 「うん」


 「十年前の続きを、全部サブマリンに持っていかれるのは少し悔しいので」


 「じゃあ、鞄の方も進めよう」


 「ええ。逃げ道を光らせる鞄です。恥ずかしくない程度に」


 オリーンが両手を挙げた。


 「恥ずかしくない程度、っていう基準が一番難しい!」


 「だから、レトリスが決める」


 ガニーロが言う。


 「なぜ私ですか」


 「一番厳しいから」


 「褒めていますか」


 「必要としてる」


 レトリスは、言い返す言葉を探した。


 見つからなかった。


 代わりに、蒼い鞄のふたを静かに閉じた。


 旧地下避難施設サブマリンの前で、泥だらけの小型探索機と、折り重なった地図と、温かい茶と、透明カバーと、濡れた靴が並んでいる。


 どれか一つでは、町は照らせない。


 けれど一つずつなら、暗い通路の奥まで届く。


 オバインが、再起動を終えたサブマリンの電源を切る。


 小さな機械は静かになった。


 その静けさは、終わりではなかった。


 次に動くための、短い休息だった。



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