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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第38話 愛し方を知らない父たち

 青鞄電子堂の奥にある作業机は、朝からいつもより広く空けられていた。


 ガニーロは、使いかけのはんだ巻き、古いラジオの裏蓋、エメットが昨夜置いていった練習用の基板を、ひとつずつ箱へ戻した。机の中央だけ、磨いた板の色がうっすら違っている。そこへ置いたのは、父の工具箱だった。


 赤茶けた金具に、まだ水の匂いが残っているような気がした。


 十年前の水害のあと、父はその工具箱をほとんど開けなくなった。店の修理をする時も、別の道具を使った。ガニーロが触ろうとすると、父は決まって、


 「まだ早い」


 と言った。


 何が早いのか、当時のガニーロにはわからなかった。


 はんだごてを握る年齢が早いのか。


 壊れたものを直そうとするのが早いのか。


 それとも、水が引いたばかりの町で、もう次の灯りを作ろうとするのが早いのか。


 父は答えなかった。答えないまま、工具箱を店の一番下の棚に押し込み、鍵だけ外して、どこかへ置いた。


 鍵は、旧地下避難施設サブマリンの管理用小部屋から見つかった点検メモの束に、紐で結ばれていた。


 なぜ父の工具箱の鍵が、レトリスの母が関わっていた避難施設のメモと一緒にあったのか。


 それを確かめるために、今日は人を呼んでいた。


 ガニーロが金具に指をかけると、入口の鈴が鳴った。


 「開店前なら、看板にそう書いてください」


 レトリスは、紙袋を胸に抱えて立っていた。役所の封筒が二つ、紙袋から少しだけはみ出している。今日の彼女は髪を後ろで結び、蒼い鞄をいつもより体に近く掛けていた。


 「書いたよ」


 ガニーロは入口の札を指さした。


 そこには、白い紙が一枚貼られている。


 ――午前中、古い工具箱を開けています。修理依頼は午後から。


 レトリスはその紙を三秒見た。


 「お客さんが読んで、どうすればいいかわかる文章にしてください」


 「午後に来ればいい」


 「『午後』は何時ですか」


 「一時」


 「なら最初からそう書いてください」


 レトリスは紙袋を机に置き、棚から勝手に鉛筆を取った。札の文章に線を引き、下に小さく書き足す。


 ――本日午前九時から正午まで、古い工具箱の確認中です。修理品のお預かりは午後一時から受け付けます。


 ガニーロはそれを見て、少しだけ頷いた。


 「わかりやすい」


 「最初から、わかりやすくしてください」


 「次は頼む」


 「次も私に直させる前提で話さないでください」


 言いながら、レトリスは作業机の前に座った。


 ガニーロは奥から椅子をもう一脚出した。彼女が座る位置に、机の角が当たらないように少しずらす。レトリスはその動きを見ていたが、何も言わなかった。


 何も言わない代わりに、封筒を二つ並べた。


 「サブマリンの管理用小部屋にあった点検メモの写しです。原本は役所で保管します。こちらは確認用の複写。もう一つは、母の遺品から見つかった古いノートの一部です」


 ガニーロの手が、工具箱の金具から離れた。


 「見てもいい?」


 「そのために持ってきました」


 レトリスは封筒の口を開いた。


 最初に出てきたのは、薄い方眼紙だった。端が水で波打ち、鉛筆の線がところどころにじんでいる。上の余白に、ガニーロの父の字があった。


 ――誘導灯試作三号。光量不足。湿気で接点不安定。子どもの持ち歩きは禁止。


 ガニーロは、その字を指でなぞらなかった。触れたら、鉛筆の粉が崩れる気がした。


 「父さんの字だ」


 声は、思ったより低く出た。


 レトリスは、もう一枚を横へ置いた。


 そこには別の筆跡で、短い文が書かれている。


 ――未完成でも、真っ暗よりはいい。音だけでも鳴れば、子どもは人を呼べる。


 レトリスは、その紙から目を離さなかった。


 「母の字です」


 店の外で、自転車のベルが鳴った。通学路のほうから、子どもたちの声がする。いつもの朝の音なのに、作業机のまわりだけ、昔の水の底に沈んだように静かだった。


 ガニーロは工具箱の鍵穴に鍵を差し込んだ。


 すぐには回らなかった。


 金属が錆びている。力任せに回せば折れる。


 彼は潤滑油を少しだけ垂らし、しばらく待った。待つ間、レトリスが封筒から別の紙を出す。


 ――現町小学校から喫茶ペアカップまで、子ども二人で歩く場合の目印。


 ――青い看板。赤い郵便受け。雨の日は左側の溝に近づかない。


 ――鞄の留め具内に小型灯。曲がり角で一回点滅。迷子になりにくい。


 レトリスは息を呑んだ。


 「これ……」


 「迷子にならない鞄の設計メモだ」


 ガニーロは、父の声を思い出した。


 店の奥で、父はよく配線を切りそろえていた。ガニーロが覗き込むと、手元を隠すこともあった。怒鳴るわけではない。ただ、短く言う。


 「向こうへ行っていろ」


 あの時、ガニーロは、自分を邪魔だと思っているのだと受け取った。


 レトリスも、似たような顔をしていた。


 「母は、私に『そんな物を持って遊ばないの』と言いました」


 「基板?」


 「ええ。蒼い鞄に入れたら、光るはずだと言ったら、『今日はだめ』と。私は、母が私の約束をどうでもいいと思っているのだと受け取りました」


 ガニーロは、潤滑油の染みた鍵をゆっくり回した。


 かち、と小さな音がした。


 工具箱の蓋が、少しだけ浮いた。


 レトリスの指が、蒼い鞄の肩紐を握る。


 「開けます」


 なぜか敬語になった。


 ガニーロは頷いて、蓋を持ち上げた。


 中には、道具が整えられていた。


 錆びたものは少ない。水害のあとに一度、丁寧に拭かれている。小型のニッパー、ねじ回し、紙やすり、古いはんだ、布で包まれた豆電球。底のほうには、透明な袋に入った色違いの導線が束ねられていた。


 そして、蓋の裏に、紙が貼ってあった。


 古い封筒を切って作ったような紙片だ。鉛筆ではなく、ボールペンで書かれている。


 ――子どもたちには、まだ持たせるな。だが、捨てるな。


 下に、別の字で書き足しがある。


 ――捨てません。あの子たちの道具です。


 ガニーロとレトリスは同時に黙った。


 父の字と、母の字が、同じ紙の上で向かい合っていた。


 その二人が、どんな顔でこの紙を見ていたのか、もう聞けない。


 ガニーロは工具箱の縁に手を置いた。


 「父さんは、危ないからだめだって言いたかったのかな」


 「母は、役に立つかもしれないから捨てないと言いたかったのでしょうね」


 「二人とも、言い方が足りない」


 「足りません」


 レトリスの返事は、早かった。


 早すぎて、ガニーロは少しだけ息を漏らした。


 「今のは怒ってる?」


 「怒っています。十年分ほど」


 「俺の分もある?」


 「もちろんあります」


 「父さんの分は?」


 「あります」


 「君のお母さんの分は?」


 レトリスは、そこで少しだけ口を閉じた。


 作業机の上の紙が、窓から入る風で一枚揺れた。


 「あります」


 小さな声だった。


 ガニーロは、それ以上聞かなかった。


 その代わり、工具箱の底から、布に包まれた細長い筒を取り出した。布をほどくと、中から小さな懐中電灯のようなものが出てくる。持ち手は木で、先端には乳白色のカバーがついていた。側面に、ひらがなで小さく書いてある。


 ――まいごにならないあかり。


 字はガニーロのものだった。


 幼い手で書いたせいで、「あ」の丸が大きすぎる。


 レトリスが顔を近づけた。


 「あなた、昔から字が丸いですね」


 「君も人の字を笑えるほどじゃない」


 「私は整っています」


 「壁の落書き、見たよ」


 「忘れてください」


 「ガニーロと迷子にならない鞄を作る、って」


 「完全に忘れてください」


 レトリスは耳まで赤くした。


 赤面ポエムの紙がないのに、店内の空気だけが勝手に詩を印字しそうになる。


 ちょうどその時、入口の鈴が鳴った。


 「おはようございまーす! 工具箱開封式に遅れましたか!」


 オリーンが、なぜか紙皿を持って入ってきた。後ろからサポナーラが、肩に雨合羽をかけて顔を出す。


 「俺は開封式とは聞いていない。『古い道具の確認』と聞いた。けど、オリーンさんが祝い菓子を焼いたから同行した」


 「祝い菓子ではありません。工具箱クッキーです。形が四角いだけです」


 レトリスは椅子から半分立ち上がった。


 「公開停止命令中です」


 「ポエムは読まないよ」


 オリーンは胸を張った。


 「今日は、工具箱の中身を祝うだけです」


 「それも十分おかしいです」


 「でも、十年閉じていた箱が開いたんですよ。開いたら、お茶です」


 ヒルドバーグの声が続いた。


 見ると、店の外に彼女もいた。手には魔法瓶を持っている。いつもより厚手の上着を着て、少し眠そうな顔をしていた。


 「休む日ではなかったんですか」


 レトリスが言うと、ヒルドバーグは店の入口の段差を見ながら答えた。


 「休みながら来た」


 「それは休みではありません」


 「歩くのが休みの日もある」


 ヒルドバーグは勝手に入ってきて、作業机から少し離れた棚の上に魔法瓶を置いた。濡れていないタオルも一緒に置く。誰かが泣く前提のような置き方だった。


 サポナーラは工具箱を覗き込み、懐中電灯を見て目を丸くした。


 「これ、売れるぞ。『十年前の未完成ロマン灯』」


 「売りません」


 レトリスとガニーロの声が重なった。


 サポナーラは両手を上げた。


 「冗談です。半分だけ」


 「全部冗談にしてください」


 「はい」


 オリーンがクッキーの皿を机の端へ置く。四角いクッキーの上には、白い砂糖で小さなねじ回しの絵が描かれていた。器用なのか不器用なのか判断しづらい。


 ヒルドバーグは、蓋の裏の紙を見た。


 しばらく黙っていた。


 「この字、懐かしいね」


 「父を知っているんですか」


 「知ってるよ。よく、店の椅子を直してくれた。直したあと、座っていけばいいのに、必ず『急ぐ』と言って帰った」


 ヒルドバーグは魔法瓶のふたを開ける。湯気がゆっくり上がった。


 「あの人は、礼を言われる前に逃げる癖があった」


 ガニーロは、少しだけ肩を動かした。


 父が帰ってくる姿を思い出す。雨の夕方。濡れた上着を玄関で脱ぎ、母に何か聞かれても「別に」としか言わない。夕食の時に、ガニーロが今日直した目覚まし時計の話をすると、父は皿の端を見ながら、


 「ネジをなくすな」


 とだけ言った。


 褒められたことは、ほとんどない。


 けれど、ガニーロの小さな道具箱には、いつの間にか足りないネジが補充されていた。


 はんだが切れた翌朝には、新しい巻きが置かれていた。


 手の大きさに合う細いねじ回しも、いつの間にか増えていた。


 ガニーロは、それを都合のいい偶然だと思っていた。


 偶然が何度も続くほど、自分は鈍かったのだろうか。


 「父さんは、何も言わなかった」


 「言わない人は、言わないまま置いていくんだよ」


 ヒルドバーグは湯飲みに茶を注いだ。


 「道具とか、メモとか、直した椅子とかね。受け取る側は、もっと早く言ってくれと思うけど」


 レトリスは母のノートを開いていた。


 紙の端に、走り書きがある。


 ――子どもたちに説明する時間がない。危ないから取り上げる、と言えば反発する。けれど、持たせて失敗したら、あの子たちは自分を責める。


 その下に、さらに小さな字が続いていた。


 ――あとで、ちゃんと話す。


 レトリスは、その一行を見つめたまま動かなかった。


 あとで。


 その言葉は、水害の前の日付の横に書かれていた。


 あとでは、来なかった。


 母が忙しかったことは知っている。避難誘導の確認、独居高齢者への連絡、地下避難施設の鍵の確認、雨が強くなる前の巡回。レトリスは、母の背中を何度も見ていた。


 でも、子どものレトリスに見えていたのは、母が自分の話を最後まで聞かなかったことだけだった。


 ――そんな鞄で遊ばないの。


 母はそう言った。


 レトリスは、遊びではないと怒った。


 母は、怒る暇も惜しむように家を出た。


 あの時、蒼い鞄の内ポケットに補助鍵を入れたのも、おそらく慌てていたからだ。娘に託すつもりだったのか、手から離しただけだったのか、それさえもうわからない。


 けれど、ノートの次の行に、答えのようなものがあった。


 ――レトリスは、怒るとまっすぐ歩く。だから雨の日は、誰かが横にいてほしい。


 レトリスは唇を噛んだ。


 「母は……私が怒ることまで、書いています」


 オリーンが、皿を持ったまま少し身を乗り出した。


 「それ、すごくお母さんですね」


 「どういう意味ですか」


 「だって、レトリスさんが怒った時に歩く方向まで知ってるんですよ」


 レトリスは反論しかけて、できなかった。


 母は、知らなかったわけではない。


 見ていなかったわけでもない。


 ただ、言葉にする前に、雨が来た。


 ガニーロは父の紙をもう一枚見つけた。


 工具箱の底板の下に、薄い封筒が隠されている。木の板を外すと、乾燥剤と一緒に入っていた。封筒の表には、父の字で短く書かれている。


 ――青い鞄の続き。


 ガニーロは封を開けた。


 中には、設計図があった。


 蒼い鞄の留め具に入る小型灯。


 曲がり角で鳴る小さなブザー。


 水に濡れた時だけ光る誘導用の豆電球。


 子どもの足で歩いた時に、十分ほど持つ手回し充電部品。


 隅に、父の字で注意が書いてある。


 ――ガニーロは、壊れた物を見ると放っておけない。そこがよい。だが、水の中では危ない。


 ガニーロは瞬きを忘れた。


 そこがよい。


 父は、そんな言葉を一度も口にしなかった。


 口にしなかった言葉を、こんな工具箱の底に隠していた。


 怒るにも、笑うにも、遅すぎる。


 「……父さん、隠し場所が下手だ」


 ようやく出た言葉がそれだった。


 サポナーラが真剣な顔で頷いた。


 「いや、十年見つからなかったなら、かなり上手い」


 「そういう話じゃありません」


 レトリスが即座に言った。


 「だが、隠し場所としては高得点だ」


 「採点しないでください」


 オリーンが、泣きそうな顔のまま笑った。ヒルドバーグは湯飲みを二つ、ガニーロとレトリスの前に置く。


 「飲みな。紙は逃げない」


 その言い方に、ガニーロは少し救われた。


 紙は逃げない。


 でも、人は逃げる。


 ありがとうを言われる前に逃げる父。


 あとで話すと言って、雨の中へ走った母。


 約束の場所へ戻れずに、理由も言えなかった自分。


 嫌いという言葉で、本当の言葉を包んでいたレトリス。


 似ている、と思った。


 親と子は、似たくないところまで似るのかもしれない。


 レトリスが湯飲みに触れた。


 「母は、私に謝るつもりだったのでしょうか」


 「わからない」


 ガニーロは正直に答えた。


 「父さんも、俺に言うつもりだったのかもしれない。でも、わからない」


 「わからないままですか」


 「うん」


 レトリスは、湯飲みの中の茶を見た。揺れる水面に、窓の光が細く映っている。


 「腹が立ちます」


 「うん」


 「どうして、大事なら大事と言わないのでしょう」


 「言えない人だったんだと思う」


 「だから許せと?」


 「違う」


 ガニーロは、父の設計図を見た。


 「許すかどうかは、別だと思う。でも、何もなかったわけじゃないとは思える」


 レトリスは、すぐには返事をしなかった。


 店の奥で、古い時計が一度だけ鳴る。直している途中の時計だから、時間は合っていない。午前十時なのに、二回だけ鳴った。


 サポナーラが小声で言う。


 「その時計、何時を主張してるんだ」


 「修理中です」


 「修理中の主張が強い」


 オリーンが吹き出した。


 重たくなった空気に、少しだけ隙間ができる。


 その隙間から、レトリスの声が落ちた。


 「私は、母に見捨てられたのだと思っていました」


 誰も、すぐには言葉を返さなかった。


 「私が作りたいと言った物を、くだらないと思っていたのだと。私が待っていたことも、怒っていたことも、どうでもよかったのだと」


 レトリスはノートを閉じた。


 「でも、どうでもよくない人のほうが、言い方を間違えることもあるのですね」


 ヒルドバーグが茶を飲んだ。


 「あるね」


 「迷惑です」


 「うん」


 「とても」


 「うん」


 ヒルドバーグの返事は、短い。でも、急がない。


 レトリスは、その返事に支えられるように、肩を少し下ろした。


 ガニーロは設計図の隅に、小さな丸印を見つけた。丸印の横に、父の字で、部品名が書いてある。


 ――湿気対策。喫茶ペアカップの棚に置いた乾燥箱を使う。


 ガニーロは顔を上げた。


 「ヒルドバーグさん」


 「何」


 「父さん、喫茶店に部品を置いてた?」


 「ああ」


 ヒルドバーグは、あっさり頷いた。


 「小さい箱を預かったよ。水に弱い物だから、店の棚に置かせてくれって」


 「それ、どこに」


 「金継ぎのカップの奥」


 レトリスが目を見開いた。


 「また、奥ですか」


 「奥は便利だよ。見つかりにくい」


 「見つけてください」


 「今日、取りにおいで」


 ヒルドバーグは平然と言った。


 「ただし、棚を荒らすなら、先に手を洗うこと」


 オリーンが勢いよく手を挙げた。


 「私も行きます! 棚の奥発掘係をします!」


 「発掘しない。取り出す」


 「同じです」


 「違います」


 レトリスの訂正が飛ぶ。


 サポナーラは工具箱クッキーを一つ手に取り、じっと眺めた。


 「これ、食べていい空気か?」


 「食べてください。泣く人が出る前に、糖分です」


 オリーンが皿を差し出す。


 サポナーラは真面目な顔でかじった。


 「うまい。ねじ回しの味はしない」


 「したら困ります」


 レトリスは、呆れたように言った。


 でも、声の端が少しだけ柔らかかった。


 ガニーロは、父の設計図をもう一度広げた。そこに、レトリスの母の字で短い付箋が貼られている。


 ――子どもたちが完成させたがるはず。大人が先に仕上げすぎないこと。


 父の字で、その横に返事がある。


 ――安全だけは大人が見る。


 母の字。


 ――約束は、子どもたちのもの。


 父の字。


 ――では、壊れたら直す係は大人。


 レトリスはそれを読み、長い息を吐いた。


 「会話ができているじゃありませんか」


 「紙の上では」


 「なぜ、本人たちの前でも同じようにできなかったのでしょう」


 「たぶん、下手だった」


 「下手で済ませないでください」


 「下手で、忙しくて、怖かった」


 ガニーロは、言いながら自分で少し驚いた。


 父が怖がっていた姿を、見たことはない。


 けれど、今なら想像できる。


 水が来る町で、子どもが作った小さな灯りを信じていいのか。


 信じたい。でも、失敗したらどうする。


 止めたい。でも、止めたら子どもの約束を壊す。


 大事だからこそ、言葉が乱暴になる。


 守りたいからこそ、取り上げる。


 そんなやり方で守られた子どもは、守られたことより、取り上げられたことを覚える。


 ガニーロは工具箱の木の縁を撫でた。


 「俺たちも、似たようなことをしてるかもしれない」


 レトリスが顔を上げる。


 「誰にですか」


 「エメットに。町の子どもたちに。危ないからだめだって言うだけなら、十年前と同じになる」


 店の外から、エメットの声が聞こえた。


 「おはようございます。あ、すみません、午後からでしたか」


 入口に、エメットが立っていた。手には練習用の避難灯を抱えている。後ろには、近所の小学生が二人、彼の背中に隠れるようにしていた。


 エメットは、机の上の工具箱と大人たちの顔を見て、入っていいのか迷っている。


 ガニーロは、父の設計図を畳まなかった。


 「入っていいよ」


 「でも、札に午後一時って」


 「修理の受付は午後。これは、見るだけなら今」


 レトリスがすぐに言った。


 「ただし、机には触らない。紙は破れやすい。飲み物は離す。走らない。質問は一つずつ」


 小学生二人が背筋を伸ばした。


 エメットは、少し笑った。


 「はい」


 ガニーロは、まいごにならないあかりを手に取った。


 「これ、十年前に途中で止まった灯りなんだ」


 エメットの目が、ぱっと変わった。


 「直すんですか」


 「直す。でも、俺一人では直さない」


 レトリスが、母のノートを見た。


 その横顔に、さっきまでの怒りは残っている。悲しみも残っている。けれど、机の上に線を引く時の目に戻っていた。


 「安全の確認は大人がします。作る手順は、子どもにもわかるように書きます」


 「それ、僕も見ていいですか」


 エメットが聞いた。


 ガニーロは頷いた。


 「うん。見て、変なところがあったら言って」


 「僕がですか」


 「使う人がわからない設計図は、地図として失敗だから」


 アリシャーが言いそうな言葉だと、ガニーロは思った。


 レトリスも同じことを思ったのか、少しだけ目を細めた。


 「今の言い方は、アリシャーさんに報告しておきます」


 「褒め言葉として?」


 「たぶん」


 「たぶんか」


 オリーンが小学生たちにクッキーを配り、サポナーラが「工具箱クッキーはねじ回しの味がしないから安心」と余計な説明をする。小学生の一人が真剣に「ねじ回しって食べたことあるんですか」と聞き、サポナーラが言葉に詰まった。


 笑いが店の奥まで転がる。


 その中で、レトリスはノートの最後のページを開いた。


 そこに、母の字で一行だけ残っていた。


 ――あとで話すことを、あとに残しすぎない。


 レトリスは、その文字を見つめた。


 ガニーロも覗き込む。


 「耳が痛い」


 「痛いなら、聞こえている証拠です」


 「君も?」


 「私は、かなり痛いです」


 レトリスは、静かにノートを閉じた。


 それから、蒼い鞄の口を開け、内ポケットから小さな布袋を出した。中には、未完成の基板を止めるために外した細い部品が入っている。


 「公開停止中です。ですが、部品としては使えます」


 「いいの?」


 「心を読んでいるように見える使い方はしません。記録を勝手に拾う使い方もしません。道を照らすためなら、使います」


 ガニーロは、その言葉をすぐに受け取らなかった。


 差し出された部品が小さすぎて、十年分の重さを持っているように見えた。


 「レトリス」


 「何ですか」


 「ありがとう」


 彼女は、少しだけ瞬きをした。


 「そういう言葉は、工具箱の底に隠さず、今言ってください」


 「今言った」


 「なら、よろしい」


 レトリスは布袋を机に置いた。


 父たちは、愛し方を知らないまま、道具を残した。


 母たちは、言葉を急ぎすぎて、ノートに後悔を残した。


 けれど、その紙と金属と小さな灯りは、今、作業机の上に並んでいる。


 ガニーロは、まいごにならないあかりの電池部分を開けた。中は古いままだが、完全には壊れていない。豆電球も、導線も、直せる余地がある。


 エメットが息を詰めて見ている。


 小学生二人が、クッキーを食べる手を止めている。


 オリーンが、今にも「祝います」と言い出しそうな顔をしている。


 サポナーラが、今度こそ変な売り文句を言わないように口を押さえている。


 ヒルドバーグは、湯飲みに茶を足している。


 レトリスは鉛筆を持ち、白い紙に新しい見出しを書いた。


 ――迷子にならない鞄・安全確認表。


 ガニーロは、その下に小さく書き足した。


 ――あとで話すことを、今日ひとつ減らす。


 レトリスは、その文字を見て、何も言わなかった。


 赤ペンで直されるかと思ったが、直されなかった。


 代わりに、紙の右上へ小さな丸がついた。


 「合格?」


 「仮です」


 「仮でもいい」


 「調子に乗らないでください」


 ガニーロは頷いて、工具箱から細いねじ回しを取った。


 父の手に合わせた道具は、今の自分には少し小さかった。


 けれど、エメットの手にはちょうどいいかもしれない。


 彼はねじ回しをエメットへ渡す前に、柄のひびを確かめた。


 「これは、力を入れすぎると割れる。だから、最初は見るだけ」


 エメットは素直に頷いた。


 「はい」


 「次に、持つだけ」


 「はい」


 「それから、回す」


 レトリスが横から口を挟む。


 「その前に、机の上から飲み物を下げます」


 「そうだった」


 「順番を書いてください」


 「書く」


 ガニーロは紙に、最初の手順を書き直した。


 一、飲み物を離す。


 二、手を拭く。


 三、見る。


 四、持つ。


 五、回す。


 レトリスは横で頷いた。


 「よくできました」


 ガニーロは顔を上げた。


 「今、褒めた?」


 「記録しないでください」


 「赤面ポエムは停止中」


 「あなたの記憶も停止してください」


 「それは難しい」


 エメットが小さく笑った。


 その笑い声を聞いて、ガニーロは父の工具箱の蓋を見た。


 蓋の裏の紙には、まだ父とレトリスの母の字が残っている。


 大人たちは、間に合わなかった。


 言葉も、灯りも、約束も、途中で止まった。


 でも、途中で止まったものは、終わったものと同じではない。


 直す余地がある。


 続きを作る手がある。


 ガニーロは、机の上のまいごにならないあかりへ、小さな電池を仮につないだ。


 一瞬だけ、乳白色のカバーの中が淡く光った。


 店にいる全員が、息を止める。


 すぐに消えた。


 けれど、確かに光った。


 オリーンが両手で口を押さえ、足だけで跳ねた。


 サポナーラが小声で言う。


 「売れる」


 「売りません」


 今度は、エメットまで一緒に言った。


 店の中に、笑いが広がる。


 レトリスは、光の消えた小さな灯りを見つめていた。


 その目に、十年前の怒りはまだある。


 けれど、その奥に、別のものもあった。


 怒りながらでも、手を動かせる。


 泣きながらでも、線を引ける。


 許しきれなくても、続きを作れる。


 レトリスは鉛筆を持ち直した。


 「次は、湿気対策です」


 「はい」


 ガニーロが返事をする。


 彼女は紙の端に、母の字をまねず、自分の字で書いた。


 ――大事なことは、あとでと言わず、作業中に言う。


 ガニーロは、それを読んで、父の工具箱から布を一枚出した。


 古い道具を包むための布だ。


 彼はまいごにならないあかりをそっと包み、机の中央に置いた。


 十年前の誰かが、守り方を間違えた。


 十年前の誰かが、言い方を間違えた。


 今の彼らも、きっと何度も間違える。


 だから、手順を書く。


 だから、確認する。


 だから、ひとつずつ言葉にする。


 レトリスが、ふと窓の外を見た。


 商店街の向こうに、喫茶ペアカップの看板が見える。金継ぎのカップの奥には、父が預けた小さな部品箱があるという。


 まだ見つけるものがある。


 まだ直すものがある。


 まだ、言うべき言葉が残っている。


 「午後、喫茶ペアカップへ行きます」


 レトリスが言った。


 「部品箱を取りに?」


 「それもあります」


 「他にも?」


 「母が残したものを、私はもう少しきちんと怒りたいので」


 ガニーロは頷いた。


 「付き合う」


 「逃げないでください」


 「逃げない」


 「ありがとうを言われる前に帰る癖も禁止です」


 「それは父さん」


 「遺伝している可能性があります」


 「気をつけます」


 レトリスは、少しだけ口元を緩めた。


 「よろしい」


 工具箱の中で、古いねじ回しが朝の光を受けた。


 それは、父の手から子の手へ渡るだけのものではない。


 言えなかった言葉を、今の手順に変えるための道具だった。


 ガニーロは作業机の上に新しい紙を置いた。


 レトリスが、見出しを書く。


 エメットが、手順の番号をふる。


 オリーンが、勝手に「第一回・迷子にならない灯り会」と書きかけて、レトリスに消しゴムを渡される。


 サポナーラが「販売台本ではなく説明台本なら得意になりたい」と言い、ヒルドバーグが「まず茶を飲め」と湯飲みを渡す。


 青鞄電子堂の奥で、止まっていた灯りの続きが、ゆっくり始まる。


 愛し方を知らないまま残された道具は、今、愛され方ではなく、使われ方を教わっていた。



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