第37話 レトリス、怒れなくなる
喫茶ペアカップの扉を押すと、焼いた青魚の匂いが、湯気と一緒に胸へ入ってきた。
昼前の店内は、いつもより少しだけ声が低かった。壁に並んだ二つ一組のカップは、窓から入る光を受けて白く光っている。カウンターの奥ではヒルドバーグがスープの鍋をかき混ぜ、オリーンが皿を両手に抱えて、厨房と客席の間を行ったり来たりしていた。
「帰ってこいサンド、二つ。あと、普通の青魚サンド、三つ。あと、サポナーラさんの普通盛り」
「なんで俺だけ正式名称が量なんだ」
「箱を落としたので」
「もう二度と箱と和解できない」
サポナーラが肩を落とすと、オリーンは真顔で頷いた。
「箱は今日、静かに距離を置きたいそうです」
「箱の気持ちを勝手に読むな」
「蒼い鞄の基板が止まってるから、私が代読しておきます」
「代読するな」
いつもの調子に戻そうとする声だった。
けれど、誰も大きく笑いすぎなかった。商店街の詰所で見つかった受付票、白い笛、エメットの母の証言。それらが、それぞれの肩に少しずつ乗ったままだった。
レトリスは入口の近くで足を止めた。
濡れてもいない傘を手に持っていることが、急に恥ずかしくなる。外は晴れていた。石畳に残った水たまりも、もう端から乾き始めている。それなのに、青い持ち手の傘を離せない。
「そこ、風が入るよ」
ヒルドバーグが鍋から目を上げずに言った。
「入口で考え込むなら、せめて中で考えな」
「考え込んでいるわけではありません」
「じゃあ、立ち食いする気かい」
「しません」
「だったら座りな」
レトリスは反論の言葉を探した。探して、見つからなかった。こういう時のヒルドバーグは、反論しにくい言い方を選んでいるわけではない。ただ、正しい置き場所へ人を移動させるだけだった。
窓際の二人席に、すでに皿が二つ置かれていた。
片方の皿には、青魚を挟んだパンが半分に切られている。表面に細く焼き目がつき、香草の緑が少しはみ出していた。もう片方にも、同じものがある。
オリーンが、胸の前で小さく手を合わせた。
「帰ってこいサンド、二人前です」
「その名前は、もう少し考えたほうがいいです」
「じゃあ、十年前の受付票と白い笛と青い鞄と背負われた少年と、今日やっと口にできたありがとうを記念する青魚サンド」
「長すぎます」
「略して、帰ってこいサンド」
「戻りましたね」
レトリスは椅子に手をかけた。
向かい側の椅子を、ガニーロが少し引いた。音を立てないように、脚を床から浮かせて動かす。そういうところが目につく。誰かが座りやすいように、でもそれを大げさに見せないようにする。
目につくから、腹が立つ。
腹を立てようとして、胸の奥がうまく熱くならない。
レトリスは椅子に腰を下ろした。傘は足元に立てかける。持ち手から手を離す時、指が少しだけこわばった。
「座っていい?」
ガニーロが向かい側で聞いた。
「もう椅子を引いたあとに聞かないでください」
「確かに」
「座るなと言ったら、どうするつもりでしたか」
「立って食べる」
「店に迷惑です」
「じゃあ、床に正座する」
「もっと迷惑です」
「だから聞いた」
「順番がおかしいんです」
レトリスは言いながら、自分の声が尖りきらないことに気づいた。
いつもなら、もっと簡単に切れた。彼が謝れば腹が立ち、黙れば腹が立ち、何かを直せば頼んでもいないのにと腹が立った。怒りは便利だった。胸の中で散らばっているものに、ひとつの名前をつけてくれた。
世界で一番嫌いな人。
そう言えば、何も説明しなくてよかった。
けれど今日、その言葉は、皿の上の青魚サンドより重く見えた。
ガニーロは座った。パンには手を伸ばさず、コップの水を少しだけ手前へ寄せる。レトリスが取りやすい位置だ。そういう無意識の動作が、また目につく。
「水、自分で取れます」
「うん」
「なら、動かさないでください」
「ごめん」
「謝らないでください」
「ごめ……」
ガニーロは途中で止まった。
レトリスは眉を寄せた。
「今、謝りかけましたね」
「言い切ってない」
「未遂です」
「謝罪未遂って、罪になるかな」
「私の前では重いです」
「覚えておく」
彼は本当に覚えそうな顔をした。
それがまた困る。
レトリスは皿を見下ろした。青魚サンドの切り口から、白いソースがほんの少し垂れている。昔は、この匂いが苦手だと思っていた。いや、苦手だと思っていただけで、食べたことはなかった。
ガニーロのことも、同じだったのかもしれない。
そう思いかけて、すぐに心の中で取り消した。
違う。
十年前、レトリスは待っていた。
水の音が近づく町で、母に手を引かれ、蒼い鞄の肩紐を握りしめながら、それでも何度も後ろを見た。約束した場所へ、ガニーロが来るはずだった。迷子にならない鞄を完成させて、ペアカップを交換して、くだらない発表会みたいに胸を張るはずだった。
けれど彼は来なかった。
その事実は、消えていない。
今日、別の事実が見つかった。彼は来なかったのではなく、途中で助けを求める声を聞き、浸水した路地へ入った。幼いエメットを背負って避難所まで運んだ。誰かを置いていかなかった。
それは、正しい。
正しいことが、レトリスの寂しさを消してくれるわけではなかった。
怒る先がない。
でも、痛みはある。
それが、こんなにも厄介だとは思わなかった。
オリーンが、少し離れた席にスープを置いていた。エメットと母親が並んで座っている。母親は、まだ何かを話すたびに言葉を選んでいた。エメットはその横で、両手でコップを持っている。少年の指先は少し赤い。朝から何度もリモコンやライトを握っていたからだろう。
ガニーロが助けた子ども。
今、避難灯を作る少年。
それを見て、怒れと言われても、もう無理だった。
レトリスは青魚サンドを手に取った。
パンは思ったより柔らかかった。指先に温かさが移る。焼いた青魚の香りと、酸味のあるソースと、刻んだ玉ねぎの匂いが混ざっている。
ひと口かじる。
皮の香ばしさが、先に来た。次に、身の油がじんわり広がる。青魚特有の強い匂いは、香草と酢で少し丸くなっていた。苦手だと決めつけていたものは、思ったより優しい味がした。
それが、また悔しかった。
「……おいしい」
言うつもりはなかったのに、声が出た。
ガニーロは、笑わなかった。
それどころか、彼は自分の分にまだ手をつけていない。
「食べないんですか」
「今、食べる」
「私が食べるまで待っていたんですか」
「いや」
「嘘です」
「じゃあ、少し待ってた」
「なぜ」
「初めて食べる人の感想を、先に聞くのは失礼かと思って」
「意味がわかりません」
「食べる前から、味を決めつけられたくないかなって」
レトリスは、サンドを持ったまま動きを止めた。
食べる前から、味を決めつけられたくない。
その言葉が、思っていたより深く入ってきた。
「……あなたは」
「うん」
「私に、決めつけられていました」
ガニーロは視線を落とした。
「そうかもしれない」
「なぜ、もっと怒らなかったんですか」
「怒るのが、下手で」
「下手で済む話ではありません」
「うん」
「私が、世界で一番嫌いな人と言っても」
「うん」
「あなたはいつも、傘だとか、配線だとか、資料の端だとか、そういうものばかり見ていました」
「見てた」
「なぜですか」
ガニーロは、パンの端を指で押さえた。
青魚サンドは、彼の手元で少し潰れた。いつも細かい部品を壊さないよう扱う指が、今日は力加減を間違えている。
「君が嫌いって言っている間は、まだそこにいると思った」
レトリスは息を止めた。
店の音が遠くなった。
「怒っているなら、話しかけてくれている。にらんでいるなら、こっちを見てくれている。危険だって言うなら、この町をちゃんと見てくれている。だから、怒らせないようにするより、君が転ばないようにしたかった」
「そんなの」
声が震えた。
「そんなの、ずるいです」
「うん」
「ずるいと言われたら、謝るところでしょう」
「謝罪未遂が重いらしいから」
彼は小さく言った。
レトリスは睨もうとした。
けれど、目の奥が熱くなって、うまく睨めなかった。
「そういうところも、腹が立ちます」
「うん」
「でも、今日は……」
言葉が続かない。
許す、と言えない。
許さない、とも言えない。
怒っている、と言えば嘘になる。
怒っていない、と言えば、十年前に待っていた自分を置き去りにする気がした。
レトリスは、もう一口かじった。
青魚の味が、さっきより濃い。
喉の奥が詰まった。飲み込もうとしたら、涙が先に落ちた。皿の白い縁に、小さな水滴がつく。
ガニーロがすぐに動こうとした。
「動かないで」
レトリスは、サンドを持ったまま言った。
彼は止まった。
「ハンカチも、ティッシュも、水も、今はいりません」
「うん」
「見ないでください」
ガニーロは顔を横へ向けた。
それがあまりに素直で、レトリスは余計に泣きそうになった。
窓の外で、自転車のベルが鳴った。商店街の午後が始まろうとしている。魚屋の店先に水が撒かれ、パン屋の扉から焼きたての匂いが流れてくる。十年前に止まったままだと思っていた町は、ずっと動いていた。誰かが掃いて、誰かが看板を拭き、誰かが鍋を温め、誰かが壊れたライトを直していた。
自分だけが、同じ雨の中に立っていたのかもしれない。
そう思うと悔しかった。
でも、同じ雨の中にいたのは、ガニーロも同じだったのかもしれない。
それを認めるのは、もっと悔しかった。
「私は」
レトリスは、紙ナプキンを自分で取った。涙を拭く。ガニーロはまだ横を向いている。
「あなたを、簡単には許しません」
「うん」
「十年分ですから」
「うん」
「でも、今日から、あなたを責める言葉を選び直します」
ガニーロは、ゆっくりこちらを向いた。
レトリスは泣いた顔を見られたくなくて、青魚サンドを顔の前に上げた。盾としては小さすぎるし、香ばしすぎる。
「選び直す?」
「間違っていた部分があるなら、修正します」
「ハザードマップみたいに」
「そうです」
「じゃあ、危険区域は残る?」
「残ります」
「通行止め?」
「一部通行止めです」
「迂回路は?」
「今、作っています」
ガニーロは、少しだけ笑った。
レトリスはその笑いに、胸の奥を押されたような気がした。
「笑わないでください」
「ごめ……」
「未遂二回目です」
「危なかった」
「危険区域です」
「表示しておく」
向こうの席で、エメットが小さく笑った。
聞こえていたらしい。
サポナーラは、普通盛りの青魚サンドを両手で持ったまま、わざとらしく天井を見上げていた。
「俺、今の会話を売り文句にしたら怒られるかな。『危険区域つき青魚サンド、迂回路は自分で作れ』って」
「売らないでください」
レトリスとガニーロの声が重なった。
店内に、今度は本当に笑いが広がった。
ブルグリンデがカウンターの端で、配布資料の束を整えていた。彼女は笑いに混ざらなかったが、口元の力が少し抜けている。アリシャーは隣で、次の現地確認の日程を手帳に書き込んでいた。ロシルドゥアは高齢者宅へ届けるためのスープを小分けにしている。ヒルドバーグは鍋をかき混ぜながら、何も言わずに窓際の二人を見た。
見守られている。
そのことに気づいて、レトリスは少しだけ居心地が悪くなった。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
「レトリス」
ガニーロが、名前を呼んだ。
「何ですか」
「ありがとう」
「何に対してですか」
「言葉を選び直すって、言ってくれたこと」
「まだ選んでいません」
「うん」
「選んだ結果、もっと厳しい言葉になる可能性もあります」
「それは困る」
「困ってください」
「困る」
彼は、少しだけ眉を下げた。
レトリスは、また泣きそうになった。
困った顔をしてほしかった。
十年前から、ずっと。
来られなかったなら、困ってほしかった。待たせたなら、苦しんでほしかった。自分だけが置いていかれたのではないと、どこかで示してほしかった。
でも彼は、ずっと困っていたのかもしれない。
誰にも見えない形で。
それを知ったからといって、すぐに救われるわけではない。
けれど、ひとりではなかったと知ることは、痛みの形を変える。
レトリスはサンドの残りを見た。半分以上食べていた。こんな日に限って、食欲はなくならない。悲しい時でも腹は空く。腹が空くから、人は今日の椅子に座る。
「おいしいです」
もう一度、今度ははっきり言った。
オリーンが厨房から顔を出した。
「おかわり?」
「違います」
「記念に名前変える? 怒れなくなるサンド」
「絶対にやめてください」
「じゃあ、責め言葉選び直しサンド」
「長いです」
「略して、選び直しサンド」
「商品名にしないでください」
オリーンは笑いながら、別のテーブルへ皿を運んでいった。
ガニーロは、やっと自分の青魚サンドを食べた。
「冷めてませんか」
「少し」
「温め直してもらえばいいでしょう」
「これはこれでおいしい」
「あなた、壊れたものも冷めたものも、すぐ『これでいい』と言いますね」
「これでいい、とは違う」
「どう違うんですか」
「今の形で、食べ方を探す感じ」
レトリスは黙った。
割れたペアカップ。
金継ぎで直された片割れ。
古いハザードマップ。
未完成の基板。
待たせた時間。
怒れなくなった今日。
どれも元には戻らない。
元に戻らないものを、捨てるか、隠すか、今の形で持つか。
それを決めるのは、まだ少し先でいい。
レトリスは紙ナプキンを折った。涙の跡が残っている。捨てようとして、少しだけ迷った。残すほどのものではない。でも、今日は自分が泣いたことを、なかったことにはしたくなかった。
彼女はナプキンを皿の端に置いた。
ガニーロは見ていないふりをした。
そのふりが下手だった。
「見ましたね」
「見てない」
「嘘です」
「少し見た」
「正直でよろしい」
「怒ってる?」
レトリスは、答えようとして止まった。
怒っている。
怒っていない。
どちらも違う。
だから、別の言葉を探す。
「保留です」
「保留」
「はい。あなたへの怒りは、今日から保留です」
「期限は?」
「未定です」
「長そうだ」
「十年分ですから」
「わかった」
ガニーロは頷いた。
その頷き方が、避難灯の配線を確認する時と似ていた。すぐ直せないものを、すぐ捨てず、まず状態を確かめる顔。
レトリスは、心の中でため息をつく。
また目についた。
けれど、今日のそれは、少しだけ怖くなかった。
カウンターの上で、ヒルドバーグが金継ぎのペアカップを磨いていた。客に出すわけではない。ただ、布でゆっくり拭いている。金の線が、窓の光を細く返した。
「ヒルドバーグさん」
レトリスは思わず呼んだ。
「あいよ」
「そのカップ、割れたところは、触るとわかりますか」
ヒルドバーグはカップを傾けた。
「わかるよ。指でなぞれば、少し盛り上がってる」
「気になりますか」
「急いで飲む時は、ちょっと気をつける」
「不便ですか」
「不便なところもある。けど、持ち方を覚えれば落とさない」
レトリスは、その言葉をゆっくり聞いた。
ヒルドバーグはカップを棚に戻した。
「直したものは、新品より扱い方を知ってやらないとね」
ガニーロが小さく頷いた。
レトリスは、その頷きを見なかったことにした。
見たら、また泣きそうだった。
昼食が終わるころ、店の外に薄い雲が広がり始めた。晴れていた空に、灰色が少し混ざる。雨が降るほどではない。けれど、遠くの川沿いから風が吹いて、店先の旗が小さく揺れた。
アリシャーが手帳を閉じた。
「午後は、地下避難施設の保管資料を役所へ移します。原本の乾燥状態も確認します」
「私も行きます」
レトリスが言うと、ガニーロもすぐ口を開きかけた。
「あなたは店です」
「まだ何も言ってない」
「顔が言いました」
「顔も危険区域?」
「通行制限です」
ガニーロは口を閉じた。
オリーンが小さく吹き出した。
レトリスは席を立つ。青い傘を手に取った。外はまだ降っていない。それでも持っていく。
ガニーロが、今度は何も聞かなかった。
何も聞かないまま、傘立ての奥から自分の傘を一本取る。二本ではなく、一本だけだった。
レトリスはそれに気づいた。
「今日は、一本なんですね」
「うん」
「なぜですか」
「君が一本持ってるから」
胸の奥が、また少し痛んだ。
痛いのに、前より苦しくない。
「そうですか」
それだけ言って、レトリスは扉へ向かった。
外へ出ると、石畳はもうほとんど乾いていた。商店街の屋根の影が、道の上に縞を作っている。遠くで子どもたちの声がした。エメットが誰かに、避難灯のスイッチの入れ方を教えている声だ。
ガニーロは店の前で立ち止まった。
「レトリス」
「何ですか」
「午後、気をつけて」
「それだけですか」
「それだけ」
レトリスは傘の持ち手を握り直した。
十年前、言ってほしかった言葉が何だったのか、まだ正確にはわからない。
ごめん、だったのか。
待ってて、だったのか。
戻る、だったのか。
今は、そのどれでもなくていい気がした。
気をつけて。
今日の道には、その言葉で足りる。
「あなたも、店の配線を直してください」
「直す」
「赤字修理を増やさないでください」
「努力する」
「努力ではなく、予定表に書いてください」
「書く」
彼は本当に書きそうだった。
レトリスは、少しだけ口元を緩めた。
笑ったつもりはない。
けれど、ガニーロが目を丸くしたので、たぶん笑っていたのだろう。
「今のは、記録しないでください」
「何を?」
「とぼけるのも禁止です」
「わかった」
レトリスは背を向けた。
怒れないことは、許したことではない。
泣いたことは、負けたことではない。
おいしいと認めたことは、すべてを好きになったことでもない。
ただ、今日の地図に、新しい道が一本増えた。
危険区域は残っている。
通行止めもある。
それでも、迂回路を作り始めた。
レトリスは、青い傘を持って歩き出す。
後ろから、ガニーロが青鞄電子堂のシャッターを半分開ける音がした。金属がこすれる音は少し硬く、途中で一度引っかかった。
「そこも直しなさい」
振り返らずに言う。
「はい」
返事は、すぐに返ってきた。
その早さに、レトリスはもう一度だけ小さく笑った。
世界で一番嫌いな人。
今日は、言わない。
言わないまま、午後の現町を歩く。
それだけで、胸の中の水位が少し下がった気がした。




