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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第36話 エメットを背負った少年

 商店街の詰所に差し込む朝の光は、棚の奥まで届かなかった。


 オバインの小型探索機サブマリンが床板の上をゆっくり進む。水路用に作られた車輪は畳まれ、かわりに底面の小さなローラーが、古い埃を押しのけていく。青白いライトが掲示板の裏側を照らすたび、壁の染みが波の形に浮かび上がった。


 「ここ、祭りの山車の部品置き場だったんじゃなかったか」


 サポナーラが口元を覆った。埃を吸い込まないためなのか、何か余計なことを言わないためなのか、本人にもわかっていない顔をしている。


 ブルグリンデは詰所の戸口に立ったまま、棚の一段目を見つめていた。そこには古い提灯、割れた拡声器、色の抜けた紅白幕が詰め込まれている。祭りの名残に見えるものばかりだったが、その奥に水で歪んだ段ボール箱が二つあった。


 「それは、十年前のあとに片づけたものです」


 ブルグリンデが低く言った。


 「処分したはずでした。……いいえ、処分するつもりで、ここに移して、そのままにしたのだと思います」


 レトリスは何も責めなかった。蒼い鞄の肩紐を握り、掲示板の裏に挟まっている薄い紙を見た。縁が波打ち、茶色く変色している。紙の中央には、かすれた太い文字が見える。


 避難者受付。


 アリシャーが、携帯用の手袋を配った。


 「水を吸った紙は、素手で引くと崩れます。端を浮かせてください」


 「地味な作業だな」


 オバインが言うと、アリシャーは顔を上げずに返した。


 「地味なものほど、なくなると困ります」


 「今日の名言、壁に貼るか」


 「貼る場所を先に掃除してください」


 オバインは黙って雑巾を取った。


 ガニーロは掲示板の裏へ手を伸ばし、紙を直接引かず、折れた物差しを差し込んで少しずつ浮かせた。エメットはその横で息を止めて見ている。いつもなら、手元を見ながら次の道具を差し出すのに、今日は指先が固まっていた。


 「エメット」


 ガニーロが小さく呼ぶ。


 「はい」


 「明かりを、もう少し左に」


 エメットはサブマリンの小さなリモコンを握った。指が一度滑り、サブマリンはなぜか後退した。


 「わっ」


 「落ち着け。水路じゃないから逃げない」


 オバインが笑ったが、エメットは笑わなかった。ライトを左に向けると、紙の端に薄い鉛筆書きが浮かび上がった。


 東二番路地。


 男児一名。


 背負って搬送。


 文字はそこで大きくにじんでいた。


 レトリスの喉が、かすかに鳴った。


 ガニーロの手は止まっている。


 サポナーラが空気を読もうとして、読めなかった顔で棚の別の箱に手をかけた。


 「じゃ、じゃあ、こっちは俺が――」


 言い終わる前に、段ボール箱の底が抜けた。


 紙束、古い名札、輪ゴムの切れ端、使われなかった乾電池、白いプラスチックの笛が、床へばらばらと落ちる。サポナーラは両手を宙で止めたまま、口を横に引いた。


 「今のは、重力が悪い」


 「箱の底を見なかった人も悪いです」


 レトリスが即座に言う。


 「はい」


 サポナーラは床に正座した。


 けれど、散らばった紙束の中に、別の受付票が見えた。


 ロシルドゥアが膝をついて一枚を拾う。彼女は紙の端を傷めないよう、両手で受け皿を作るように持った。


 「これ、避難所で書いた聞き取り票です。名前と連絡先があります。……読める部分だけですけど」


 ブルグリンデが一歩近づいた。


 「そんなものまで残っていたの」


 「残した人がいたんですね」


 ロシルドゥアはそう言い、紙を光にかざした。


 文字は濡れて半分流れている。だが、ところどころ残った筆跡は、焦った人の手の動きをそのまま留めていた。


 助けた少年、氏名不明。


 青い布を持つ。


 子に水を飲ませず、背中で話しかけていた。


 エメ――


 最後の数文字は、雨染みの中で途切れていた。


 エメットは、リモコンを落とした。


 軽い音が床に響く。


 「僕……」


 その声は、いつもの返事よりずっと小さかった。


 「僕の名前、そこにありますか」


 誰もすぐには答えなかった。


 アリシャーが別の紙をめくる。ロシルドゥアが名簿を確認する。ブルグリンデは棚に手をつき、オリーンは戸口の外から中を覗いたまま、喫茶店で見る笑顔を消していた。


 ガニーロだけが、紙を見ていなかった。


 彼は自分の左手を見ていた。親指の付け根に、小さな白い痕がある。古いはんだごての火傷ではない。水害の日、何かの金具で切った傷だ。ずっと、工具箱の角で切ったと思っていた。そういうことにしていた。


 レトリスは、その手を見た。


 十年前の雨音が、詰所の中へ戻ってきた気がした。


 外は晴れている。軒から落ちる雫ももう少ない。それでも、古い紙の匂いを吸うたび、肺の奥に水が入るようだった。


 「エメット」


 ロシルドゥアが静かに言った。


 「あなたのお母さんに、連絡してもいいですか。無理に聞きません。でも、この紙は、本人か家族に確認したほうがいい」


 エメットは、床に落ちたリモコンを拾わないまま頷いた。


 「お願いします」


 声は震えていた。けれど、逃げる声ではなかった。


 ロシルドゥアは詰所の外へ出て、携帯電話を耳に当てた。商店街の朝は、いつの間にか動き始めている。八百屋のシャッターが半分上がり、遠くで自転車のベルが鳴った。日常の音があるのに、詰所の中だけが、十年前のまま止まっている。


 サポナーラは正座を崩さず、床の紙片を一枚ずつ拾っていた。拾うたびに「すみません」と小声で言う。紙に謝っているのか、十年前に謝っているのか、本人にもたぶんわからない。


 オリーンがそっと入ってきた。


 「手、足りる?」


 「足は正座で痺れています」


 サポナーラが言うと、オリーンは迷わず答えた。


 「じゃあ、手だけ貸して」


 誰かが少しだけ笑った。


 その笑いは小さく、すぐ消えた。けれど、消えたあと、部屋の空気は少しだけ呼吸を取り戻した。


 ロシルドゥアが戻ってきたのは、それから十分ほど後だった。


 「来られるそうです」


 「今から?」


 エメットが顔を上げる。


 「商店街の近くまで買い物に出ていたって。あなたに黙っていたわけじゃない、覚えていないことを無理に掘り返さないようにしていた、と言っていました」


 エメットは唇を結んだ。


 ガニーロが何か言おうとして、やめた。


 レトリスはその横顔を見ていた。


 彼は、また自分を後回しにしようとしている。謝るのか、説明するのか、黙るのかを、自分のためではなく、エメットが傷つかない順番で考えている。


 それが、腹立たしかった。


 腹立たしいのに、怒りになりきらなかった。


 少しして、詰所の引き戸が控えめに鳴った。


 入ってきた女性は、エメットと同じ形で眉尻を下げていた。手には買い物袋を提げている。中には葱の青い先が見えていて、その生活の匂いが、十年前の紙束の上にふっと降りた。


 「エメット」


 「母さん」


 エメットの声は、子どもの頃の響きに戻っていた。


 彼女は息子の肩に手を置き、それから部屋の中を見回した。ガニーロの顔で視線が止まる。すぐには何も言わなかった。


 「お忙しいところ、すみません」


 ロシルドゥアが紙を示す。


 「十年前の避難所受付票が見つかりました。お名前が読めるかもしれなくて」


 エメットの母は紙を見た。


 茶色く波打った一枚を前に、彼女の指が買い物袋の持ち手を強く握る。葱の先が揺れた。


 「……この紙、私が書きました」


 詰所の中で、誰かが息を吸った。


 「書いたというより、書かされました。避難所の人に、あとで確認が必要だからと。私は泣いていて、字がひどくて」


 彼女は苦笑しようとした。けれど、口元だけでは形にならなかった。


 「エメットはあの日、少しだけ目を離した隙に、家の裏の低い道へ行ってしまったんです。水が上がって、私は追えなくて。声は聞こえているのに、足が前に出ませんでした」


 エメットは母を見る。


 初めて聞く話ではないのだろう。けれど、ここまで細いところまで聞くのは初めてなのかもしれない。彼の手はズボンの布を握っていた。


 「そこへ、男の子が来ました。中学生くらいだったと思います。青い鞄みたいな布を抱えて、片手で壁を触りながら、水の深いところを避けていました」


 ガニーロの肩が、かすかに動いた。


 エメットの母は続ける。


 「私は、行かないで、と言ったんです。大人でも危ない道でしたから。でも、その子は振り返って、こう言いました。『戻る道は見てあります』って」


 レトリスは目を閉じた。


 戻る道は見てあります。


 ガニーロらしい言葉だと思ってしまった。十年前の少年にまで、今の彼を重ねてしまうことが、胸の奥を痛くした。


 「その子はエメットを背負って戻ってきました。靴は片方なくなっていて、腕から血が出ていました。なのに、ずっと背中の子に話しかけていたんです。『目を閉じたら眠くなるから、白いカップと青いカップの話をしよう』って」


 ヒルドバーグが、戸口で静かに目を伏せた。


 ペアカップ。


 棚の奥に置かれていた、あの二つ一組の器。


 「白いカップには、熱いものを入れるなって言っていました。青いカップには、雨を入れるなって。意味はよくわからなかった。でも、エメットはそれを聞いて泣きやんだんです」


 オリーンが両手で口元を覆った。


 「その男の子の名前を聞こうとしたら、もういませんでした。避難所の人が、毛布を取りに行ったあいだに、また外へ出てしまって。私は何度も探しました。でも、水害のあと、私たちも親戚の家へ移って、現町を離れてしまって」


 エメットの母は、ガニーロへ向き直った。


 「あなたでしたか」


 問いではなかった。


 確認だった。


 ガニーロは、すぐには頷かなかった。


 視線が床に落ちる。落ちたまま、古い紙、白い笛、サポナーラが並べた名札、エメットのリモコンを順に見た。


 「たぶん」


 ようやく出た言葉は、それだけだった。


 レトリスは、思わず彼を見た。


 たぶん、ではない。


 白いカップと青いカップの話をした少年が、他にいるわけがない。靴を片方なくして、戻る道を見ていると言い、戻れなかった場所を十年も歩き続けた人が、他にいるわけがない。


 それでも、ガニーロは「たぶん」と言った。


 自分のしたことを大きくしないために。


 その日の遅れを、誰かの命と引き換えのように見せないために。


 レトリスの指先が、蒼い鞄の布を強く握った。


 エメットは一歩前に出た。


 「ガニーロさん」


 声が裏返りそうになったのを、彼は飲み込んだ。


 「僕、覚えていません。ちゃんとは。水の音と、濡れた布の匂いと、背中が揺れていたことだけです。あと、誰かがずっと変な話をしていたこと」


 「変な話って」


 ガニーロの声はかすれていた。


 「カップに雨を入れるなって」


 エメットは笑おうとした。笑うには早すぎる顔だった。けれど、泣くためだけの顔でもなかった。


 「僕、あの変な話に助けられたんですね」


 ガニーロは答えなかった。


 エメットは両手を体の横へ下ろし、深く頭を下げた。


 「ありがとうございました」


 その一言は、詰所の古い板壁にしみ込んだ。


 ガニーロはすぐに手を伸ばしかけ、途中で止めた。頭を上げろ、と言おうとしたのだろう。やめて、拳をゆっくり握る。


 「俺は、間に合わなかった人もいた」


 エメットの母が首を横に振る。


 「それでも、うちの子は間に合いました」


 「俺は、約束にも間に合わなかった」


 その言葉だけは、レトリスへ向けられていた。


 レトリスは、真正面から受け止めた。


 十年前の自分は、喫茶ペアカップで彼を待っていた。白いカップを抱え、青い鞄の基板を握り、来ない人を憎むことでしか、帰ってこない時間を持てなかった。


 そのあいだに、彼は水の中で子どもを背負っていた。


 それを知っても、待っていた時間が消えるわけではない。


 泣いた自分が馬鹿だったことにもならない。


 怒っていた自分が、全部間違いになるわけでもない。


 けれど、彼を責める言葉は、今の喉を通らなかった。


 「ガニーロ」


 レトリスの声に、彼が顔を上げる。


 「私は、まだ全部を整理できません」


 「うん」


 「十年待ったことも、十年嫌いと言い続けたことも、簡単に片づけられません」


 「うん」


 「でも」


 レトリスは、蒼い鞄を胸の前へ引き寄せた。


 基板は止まっている。


 紙は出ない。


 だから、自分で言わなければならなかった。


 「あの日、あなたがエメットを背負ったことは、責めません」


 ガニーロの目元が、ほんの少しだけ歪んだ。


 それは笑いではなかった。泣きそうな顔でもない。ずっと閉めていた引き出しの取っ手に、誰かが触れたときのような顔だった。


 サポナーラが鼻をすすった。


 全員がそちらを見る。


 「違う、埃です」


 「涙が出るほど掃除してくれて、ありがとうございます」


 オリーンが言う。


 「だから埃です」


 「じゃあ、埃記念日です」


 「やめろ。俺の失敗販売台本にまた一行増える」


 小さな笑いが起きた。


 エメットの母も、目元を拭きながら少し笑った。買い物袋の葱がまた揺れる。日常が、詰所に戻ってきた。十年前の紙束を前にしても、今日の昼ごはんの支度はある。そのことが、妙に救いのようだった。


 アリシャーは拾った受付票を保護用の透明袋に入れた。


 「この記録は、役所の保管資料に移します。原本は劣化が進んでいます。必要なら、複写して関係者に渡せるようにします」


 ブルグリンデは頷いた。


 「捨てるつもりだったものです。……いいえ、捨てずに見ないふりをしていたものです。お願いします」


 ロシルドゥアはエメットの母に椅子を勧めた。


 「少し休んでください。話すのは疲れます」


 「平気です」


 「平気でも、座れます」


 ヒルドバーグの言葉と似ていた。


 エメットの母は、少し驚いてから椅子に座った。買い物袋を膝に乗せる。その隣へ、エメットが腰かけた。親子はすぐに話し出さなかった。ただ、肩が触れる距離にいた。


 ガニーロは棚の奥へ視線を戻した。


 「まだ、ほかにもあるかもしれない」


 「ええ」


 レトリスは頷く。


 「でも今日は、ここまでで一度止めます」


 「止める?」


 「人の記憶を掘る作業です。掘りすぎると崩れます」


 ガニーロは物差しを見た。さっき紙を浮かせるために使った、折れた物差しだ。


 「紙と同じか」


 「人間のほうが、もっと面倒です」


 「知ってる」


 レトリスは彼をにらんだ。


 「あなたが言うと、少し腹が立ちます」


 「ごめん」


 「すぐ謝るところも腹が立ちます」


 「じゃあ、どうすれば」


 「今は、立っていてください」


 ガニーロは素直に立っていた。


 その姿がおかしくて、レトリスは目を逸らした。笑ってしまうと、何かがほどけすぎる気がした。


 オリーンが戸口から顔を出す。


 「えっと、こういう時に言うのもあれなんだけど」


 「言わなくていい予感がします」


 レトリスが先に釘を刺す。


 「お昼、帰ってこいサンドでいい?」


 「なぜそれを定着させようとするんですか」


 「帰ってきたから」


 オリーンは、詰所の中を見回した。


 エメット。エメットの母。ガニーロ。レトリス。古い受付票。青い鞄。棚の奥から戻ってきた、十年前の声にならなかった紙。


 「今日、いろいろ帰ってきたから」


 誰も、すぐには反論しなかった。


 サポナーラが手を挙げる。


 「俺、帰ってこいサンド大盛り」


 「あなたは箱を落としたので、普通盛りです」


 レトリスが言うと、サポナーラは項垂れた。


 「重力にも減点を」


 「重力は毎日まじめに働いています」


 ブルグリンデがそう言い、初めて少しだけ口元を緩めた。


 詰所の空気が、ゆっくり今日へ戻っていく。


 ガニーロは、エメットの前にしゃがんだ。


 「エメット」


 「はい」


 「ありがとうって言われると、どうしたらいいかわからない」


 「はい」


 「だから、返事が遅くなる」


 「はい」


 「でも、聞こえてる」


 エメットは頷いた。


 「僕も、言えました」


 「うん」


 「今度は僕が、誰かを先に歩かせます。背負えるかどうかは、まだわかりませんけど」


 ガニーロはエメットの肩を軽く叩いた。


 「背負わなくていい時は、手を引けばいい。手を引けない時は、声をかければいい。声が届かない時は、明かりを置けばいい」


 エメットの目が、サブマリンの小さなライトへ向いた。


 「避難灯、もっと作ります」


 「作ろう」


 「失敗しても?」


 「失敗したら、サポナーラさんの講座に入る」


 「俺を失敗の単位にするな」


 サポナーラの抗議に、今度は皆が笑った。


 レトリスはその笑いの中で、蒼い鞄を見下ろした。


 十年前の未完成基板。


 勝手に言葉を拾い、勝手に紙へ出してしまう困った道具。


 でも、今日は止まっていた。


 止まっていたからこそ、人が自分の口で話した。


 それで十分だった。


 いや、十分ではない。


 まだ、胸の奥に残っているものがある。


 待っていた雨の日。


 来なかった背中。


 でも、来なかったのではなく、別の背中を背負っていた少年。


 その事実を、どう受け止めればいいのか、まだわからない。


 レトリスはガニーロを見た。


 彼はエメットとサブマリンのライトを点検している。背中を丸め、床に膝をつき、指先で小さな接点を直している。十年前に水の中を歩いた少年は、今も誰かの足元の明かりを気にしていた。


 世界で一番嫌いな人。


 その言葉は、今日、喉のところまで来なかった。


 言えないことが、こんなに心細いとは思わなかった。


 詰所の外では、商店街の昼前の匂いが濃くなっている。パン屋の焼きたての香り、八百屋の濡れた段ボール、喫茶ペアカップから漂ってくる青魚を焼く匂い。


 オリーンがもう厨房へ戻ったらしい。


 帰ってこいサンド。


 変な名前だ。


 けれど、今日は誰もその名前を直さない気がした。


 レトリスは傘立てに置いた青い持ち手の傘を取った。もう空は明るい。それでも、帰り道に一本持っていてもいい。雨のためではなく、手に持つものが必要な時もある。


 ガニーロが顔を上げた。


 「傘、いる?」


 「持っています」


 「晴れてるけど」


 「持っていたいんです」


 ガニーロは、それ以上聞かなかった。


 その聞かなさが、また少し腹立たしく、少しだけありがたかった。


 レトリスは詰所の戸口に立ち、振り返った。


 古い紙は袋に入り、白い笛は机の上に置かれ、エメットの母は息子の隣で温かい茶を受け取っている。ブルグリンデは棚の札を書き直し、アリシャーは保管番号を振り、ロシルドゥアは誰が何を持ち帰るかを小さな字で記録していた。サポナーラは箱の底を補強している。補強しながら、今度こそ落とさないと何度も呟いている。


 十年前は、誰もがばらばらに走っていた。


 今は、同じ部屋で同じ紙を見ている。


 それでも、過去は簡単にほどけない。


 ほどけないまま、今日の昼を食べる。


 たぶん、それでいい。


 レトリスは、まだガニーロを許すと言えない。


 でも、今日だけは、彼を責める言葉を持たずに歩ける。


 それが救いなのか、次の苦しさの始まりなのか、まだわからない。


 喫茶ペアカップの入口で、オリーンの声が弾んだ。


 「帰ってこいサンド、焼けました!」


 レトリスは青い傘を握り直した。


 ガニーロが後ろから来る足音がする。


 その足音を、待っている自分がいる。


 それに気づいて、彼女は小さく息を吐いた。


 嫌いと言えない日は、思ったより面倒だ。


 けれど、空は晴れている。


 濡れた商店街の石畳に、二人分の影が並び始めていた。



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