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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第35話 赤面ポエム、最後の大暴走

 翌日の喫茶ペアカップは、開店前から紙の匂いがした。


 雨はあがっていたが、商店街の石畳には雲の色がまだ薄く残っている。軒先の布看板は水気を含んで重く垂れ、道の端に寄せられた鉢植えの葉から、忘れたころに雫が落ちた。店の入口には、昨日より少し奥へ寄せられた椅子と、青い休憩所札がある。札の灯りは朝の光の中では目立たない。それでも、低い位置で小さく光っているだけで、そこに座れる場所があるとわかる。


 レトリスは店内の一番広い卓に、説明会用の紙を並べていた。


 危険情報は削らない。


 行動、理由、助けの順に並べる。


 住民の言葉を残す。


 聞く前に、整えない。


 昨夜書いた四行は、今朝の紙の上で少しだけ堅く見えた。書いた時は正しいと思えた言葉も、実際に住民へ配る紙へ移すとなると、手が止まる。危険と書けば怖がる人がいる。大丈夫と書けば逃げ遅れる人がいる。どちらも嫌で、どちらも避けられない。


 隣の席では、ロシルドゥアが避難支援名簿の余白に、鉛筆で小さな印をつけていた。


 「この方は電話より、隣の玄関を叩いた方が早いです。耳が遠いので」


 「名簿には、電話番号しかありません」


 「だから、隣の方の了承を取ってから、連絡順に一行足します」


 ロシルドゥアの鉛筆は急がなかった。一人の名前の横に、暮らしの癖が少しずつ増えていく。レトリスはその手元を見て、自分の資料がまだ薄いことを思った。地形の数字、道路幅、段差の高さ。必要なものばかりだが、人の暮らしは数字だけでは曲がり角を曲がれない。


 カウンターでは、ヒルドバーグが湯を沸かしている。今日は眠る日ではないらしい。けれど無理に動いている様子もなく、自分の湯飲みへ先に茶を注ぎ、それから人数分のカップを棚から出した。


 「開店前から会議室にされるとは思わなかったよ」


 「会議室ではありません。休憩所の使用確認です」


 レトリスが答えると、ヒルドバーグは湯飲みを持ったまま、わずかに目を細めた。


 「そう言うなら、全員一回ずつ休憩しな。休憩所の使用確認なら、座る人間が必要だ」


 「今は資料の整理を」


 「整理した紙は逃げない。人間は倒れる」


 それ以上言い返せず、レトリスは湯飲みを受け取った。


 青魚サンドの匂いが、厨房からかすかに漂ってくる。オリーンが試作だと言って、朝から何かを焼いているのだ。焦げた匂いはしない。代わりに、玉ねぎと酢の甘い匂いが鼻をくすぐる。


 「今日は特別です。雨上がりの防災資料作成応援サンドです」


 「名前が長い」


 「では、がんばれサンド」


 「急に雑になった」


 アリシャーが、入口近くで巻き尺を畳みながら言った。彼の靴底には、まだ外の泥が少しついている。朝のうちに、商店街の端から喫茶店までの水たまりの残り方を見てきたらしい。テーブルに置かれた紙には、昨夜の雨がどこへ流れ、どこで止まったかが、細い線で書かれていた。


 ガニーロは奥の席に工具箱を置き、蒼い鞄の基板を小さな布の上に載せていた。


 赤面ポエム印字機。


 そう呼ばれてからというもの、誰も正式な名前を思い出せなくなっている。元は、迷子にならない鞄の案内基板だった。音を拾い、短い文字を光に変え、避難先までの目印を知らせる。そういうはずだった。ところが、古い録音、伝言メモ、定型文カードを勝手につないで、芝居がかった紙を吐き出すようになってしまった。


 昨日、レトリスは使用停止を命じた。


 人の気持ちを勝手に晒すように見えるものを、住民の前で動かすわけにはいかない。たとえ心を読んでいなくても、紙に出た言葉を誰かが自分の本音だと受け取ってしまえば、傷つく人が出る。


 ガニーロもそれに反対しなかった。


 だから今朝の基板は、電池を抜かれ、配線も外され、印字用の小さな紙も横に避けられている。


 はずだった。


 「……ガニーロ」


 レトリスは湯飲みを置いた。


 「今、動きましたか」


 「動かしてない」


 ガニーロは即答し、基板をのぞき込んだ。


 小さな緑の灯りが、布の上で一度だけ瞬いた。


 店内の空気が止まる。


 サポナーラが入口から半身だけ顔を出していた。両手に雨合羽の見本を抱えている。昨日の講座で使ったものを、今日も持ってきたらしい。


 「おはようございます。ええと、今の光は、見なかったことにしていいやつですか」


 「よくないやつです」


 レトリスが言うと、サポナーラはそっと一歩下がった。


 「では、僕は外で待機を」


 「入ってください。外へ逃げても、あなたの声が一番拾われやすいです」


 「なぜですか」


 「大きいからです」


 サポナーラは、雨合羽を抱えたまま口を閉じた。


 基板の灯りが、もう一度瞬く。


 ガニーロは工具を取らず、まず周囲を見た。紙、録音機、伝言メモ、定型文カード、古い喫茶店の伝票。拾われそうなものが多すぎる。喫茶ペアカップは、誰かの言葉を置き忘れるには最適すぎる場所だった。


 「電池は抜いてある。主電源も切ってる。残っているのは、コンデンサのわずかな電気か……」


 「わずかな電気で、また詩を作るんですか」


 レトリスの声は低い。


 ガニーロは眉を寄せた。


 「普通は無理だ。でも、前に接続した時に、内部メモリへ読み込みだけ残っている可能性がある。印字まではしないと思うけど」


 その言葉を待っていたように、基板の横に置いてあった小さな印字機が、ちり、と音を立てた。


 誰も触れていない。


 細い紙が、数センチだけ吐き出される。


 オリーンが厨房から飛び出してきた。


 「出ましたか。出ましたね。読んでいいですか」


 「読まないでください」


 「でも、止めるにも内容確認が必要では」


 「必要な時は私が読みます」


 レトリスが紙をつかむ前に、ヒルドバーグが静かに手を出した。


 「全員で読まなくていい。まず、当人だけで見な」


 ヒルドバーグの声には、店の湯気より熱いものがあった。オリーンは両手を胸の前で止め、サポナーラも雨合羽の袖を口元まで上げて黙った。


 紙には、古いインクのように薄い文字が並んでいた。


 まいごになったら、青いかばんを見て。


 レトリスは息を止めた。


 それは詩ではなかった。幼い文字を、機械がそのまま拾ったような短い文だった。


 ガニーロも紙をのぞき込み、まばたきを忘れた。


 「これ……」


 「私の字です」


 レトリスはそう言ったが、声は自分のものではないように聞こえた。


 幼い頃、彼女は字を丸く書いていた。特に「か」の二画目が長く伸びる癖があった。紙に印字された文字は機械の字なのに、その癖までなぞったように見える。たぶん、古いメモを画像として読み込んで、文字に変換したのだ。理屈はそうだ。けれど、目の前に出された紙は、十年前の自分が、いま喫茶店のテーブルへ小さな手を伸ばしたようだった。


 「基板の中に、まだ読み込んでいないメモがあるんですね」


 アリシャーが言った。


 「あるいは、以前読み込んだまま、出力されていなかった断片です」


 ガニーロは頷きかけて、途中で止まった。


 印字機が、また音を立てる。


 今度は長い。


 ちりちりちり、と小さな虫が紙を食べるような音がして、白い帯がテーブルの端まで伸びた。


 レトリスが手を伸ばすより早く、オリーンが反射的に押さえた。


 「すみません、押さえただけです。読みません。目に入った分は、たぶん、目ではなく心の事故です」


 「事故でも読まない」


 「はい」


 紙は一枚では終わらなかった。


 次の紙には、喫茶ペアカップの古い伝言メモらしい文が出た。


 コーヒー豆、火曜に二袋。


 その次。


 青いカップ、棚の奥。割れた方、捨てない。


 ヒルドバーグの手が、湯飲みの縁で止まった。


 レトリスはその文字を見て、棚の奥にある金継ぎのカップを思い出した。ガニーロが十年前に持っていた片方。割れたけれど、捨てられなかったもの。ヒルドバーグが、黙って直していたもの。


 紙はまだ出る。


 避難所に毛布、十枚足りない。


 裏口の段差、夜に見えない。


 青魚、骨を抜く。子ども用。


 「ちょっと待ってください」


 サポナーラが雨合羽を抱き直した。


 「僕の講座で使える情報まで出ています。これは便利なのか、危険なのか、判断に困ります」


 「便利だから危険なんです」


 レトリスは紙をまとめながら言った。


 「誰かが忘れた伝言を、誰かの許可なく出している。必要な情報もありますが、出し方が違います」


 「確かに」


 ロシルドゥアが、出てきた紙の一枚を見つめる。


 そこには、古い文字で「佐田さん、雨の日は右足が痛む」とあった。


 「これは支援に必要な情報です。でも、本人が知らない場所で読まれるものではありません」


 彼女は紙を伏せた。


 基板は、まるでその言葉に抗議するように小さく鳴った。


 ちりちりちり。


 今度は、文字が妙に大きい。


 雨の日の心は、靴下から濡れる。


 サポナーラが胸を押さえた。


 「それは、僕です。昨日、靴下が濡れると心も濡れると言いました」


 「言っていましたね」


 「採用されてしまった」


 「誇らないでください」


 レトリスが紙を伏せた途端、次の紙が出た。


 傘を忘れた人は、忘れたのではない。誰かに渡した人だ。


 オリーンが「あ」と声を上げかけ、両手で口を塞いだ。


 ガニーロの耳が赤くなる。


 「……それは、たぶん定型文カードの組み合わせだ」


 「定型文に、そんな面倒な気遣いがありますか」


 レトリスが見ると、ガニーロは工具箱の中を探すふりをした。


 彼の傘は、いつも二本ある。


 前に基板が「言えない男は傘を二本持つ」と印字した時、皆で笑った。けれど、今はその笑いの後ろに、十年前の雨が見える。約束の場所へ向かう途中、彼は何を持っていたのか。誰に渡したのか。どこで、何を諦めたのか。


 レトリスは息を吸い、紙の束を整えた。


 「ガニーロ、停止できますか」


 「やってみる」


 ガニーロは基板の端に触れようとして、指を止めた。


 また紙が出ていた。


 今度は、いつもの大げさな見出しがついている。


 超絶赤面ポエム。


 あなたを想う時間。


 店内の誰もが動けなくなった。


 その題名は、何度も断片だけ出てきた。レトリスの幼い言葉、ガニーロの言えない謝罪、十年前の約束。どれもそこへ向かうのに、最後の紙だけがまだ出てこない。


 印字機は、題名の下へ一行を吐き出した。


 あなたを想う時間は、雨が降る前から始まっていて。


 次の行。


 嫌いと言った口は、帰ってくる足音を数えていて。


 オリーンが両目を潤ませながら、しかし口元だけは必死に笑いをこらえている。


 サポナーラは雨合羽を頭からかぶり、透明なフード越しに紙を見ていた。


 「泣いているんですか」


 アリシャーが尋ねる。


 「いいえ、フードの内側が曇っただけです」


 「室内で雨合羽を着るからです」


 「心の雨が」


 「脱いでください」


 レトリスは、いつもなら止めるところで何も言えなかった。


 紙から目が離れない。


 次の行が出る。


 待っていた椅子は冷えて、カップは片方だけ残って。


 さらに次。


 それでも、青い鞄の中で、光るはずだった道は――


 そこで止まった。


 印字機の音が途切れる。


 紙の先は白いままだった。


 ガニーロが、息を止めたまま基板を見下ろしている。


 レトリスは紙を持つ手に力を入れた。


 「続きは」


 誰も答えない。


 基板の緑の灯りは、弱く瞬いたまま、消えそうで消えない。


 ガニーロは印字機の蓋を開け、紙詰まりを確認した。詰まってはいない。インクの熱も足りている。出力を止める理由は機械側には見当たらない。


 「データが足りない」


 彼は低く言った。


 「今の文章は、いくつかの断片をつないでる。ここまでは、レトリスのメモ、喫茶店の伝言、定型文カード、周囲の会話で作れてる。でも、この先に必要な当日の記録がない」


 「当日の記録」


 レトリスは、白い余白を見つめた。


 十年前の雨音。


 幼いガニーロの声。


 先に逃げて。あとで追いつく。


 あの録音だけでは、まだ足りなかった。


 「つまり、この紙が完成するには、まだ見つかっていない声か、メモが必要なんですね」


 ロシルドゥアが言った。


 「たぶん」


 ガニーロは基板を布の上へ戻した。


 「それがないと、機械は勝手に続きを作れない。作らない方がいい。足りないところを想像で埋めたら、それこそ、誰かの言葉を勝手に整えることになる」


 その言葉に、ブルグリンデが店の入口で立ち止まった。


 いつから来ていたのか、彼女は濡れていない傘を手にしている。外の雨はもうやんでいたから、傘は昨日から持ち越したものだろう。資料の修正版を届けに来たのか、腕には薄茶色の封筒を抱えていた。


 「……足りないところを、勝手に整えない」


 ブルグリンデは小さく繰り返した。


 レトリスは彼女を見る。


 昨日、資料の言い回しを書き換えた人。危険をやわらかい言葉に置き換え、住民の不安を小さく見せようとした人。けれど、その奥にあったのは、責められることへの怖さだった。


 ブルグリンデは封筒を卓の端に置いた。


 「修正版です。危険の言葉は戻しました。私が足した説明は、どこをどう避けるかの欄へ移しました」


 レトリスは封筒を開く。


 赤い線は消えていない。


 その横に、黒い文字で、避ける時間帯、休める場所、店主が声をかけられる時間が書かれている。昨日の資料より読みにくい。けれど、昨日よりずっと歩ける。


 「ありがとうございます」


 レトリスが言うと、ブルグリンデは顎を引いた。


 「礼を言われることではありません。勝手に消したものを、戻しただけです」


 「戻すのは、簡単ではありません」


 ブルグリンデは少しだけ口を結び、基板の紙へ視線を移した。


 「その紙も、戻したがっているように見えます」


 「戻す先がまだ見つかっていません」


 ガニーロが答える。


 ブルグリンデはカウンター奥の古い掲示板を見た。喫茶ペアカップには、昔から客が置いていった伝言メモが貼られている。すでに色あせたものも多い。常連の買い物メモ、祭りの手伝い募集、忘れ物の知らせ、誰かへの短い謝罪。ヒルドバーグは捨て時を逃したと言うが、たぶん捨てる気がなかったのだろう。


 「十年前のものなら、店だけではないかもしれません」


 ブルグリンデが言った。


 「商店街の詰所にも、当時の伝言板が残っています。水に濡れたものは捨てたはずですが、掲示板の裏に紙を挟んでいた店もありました。避難の連絡、鍵の受け渡し、足りない物資のメモ……」


 ヒルドバーグが湯飲みを置いた。


 「詰所の奥の棚かい」


 「はい。昨日まで開けるつもりはありませんでした。古い話を掘り返しても、誰かを責めるだけだと思っていたので」


 ブルグリンデの指が、封筒の角を押さえる。


 「でも、足りないところを想像で埋めるよりは、残っているものを見た方がいい」


 レトリスは頷いた。


 「見ます」


 「私も行きます」


 ロシルドゥアが名簿を閉じた。


 「支援に関わる個人情報が出てくるかもしれません。扱いは決めてからにしましょう」


 「俺も行く」


 オバインが、いつの間にか外から入ってきていた。手には小型探索機サブマリンのケースがある。工場から持ってきたらしく、靴の先に鉄粉がついている。


 「詰所の棚、たぶん歪んでる。無理に開けると崩れるぞ。あと、サブマリンのカメラを使えば、奥に挟まった紙も見える」


 「まだ町にいるんですか」


 サポナーラが聞く。


 「まだってなんだ」


 「いえ、未来へ向かう男の背中が、朝から見えなかったので」


 「部品を取りに行ってただけだ」


 オバインはケースを置き、ガニーロの基板を一瞥した。


 「その大暴走、止められるのか」


 「止める。けど、完全に止める前に、どこから拾ったかは確認したい」


 「なら、拾う場所をこっちが決めればいい。勝手に拾わせるな」


 オバインの言葉に、ガニーロが小さく笑った。


 「それ、俺が言うべきだったな」


 「お前は昔から、拾ってから悩む」


 「返す言葉がない」


 基板が、ぴ、と小さく鳴った。


 全員が一斉に振り向く。


 印字機が、短い紙を一枚だけ出した。


 拾ってから悩む人は、たいてい二本目の傘を持っている。


 ガニーロは無言で紙を裏返した。


 オリーンがとうとう吹き出した。


 「すみません。これは笑っていい紙だと思います」


 「笑わなくていい」


 「でも、傘のところが」


 「笑わなくていい」


 レトリスは、口元を押さえた。


 笑うつもりはなかった。けれど、喉の奥が震えた。紙の余白はまだ痛い。未完成の「あなたを想う時間」は、胸の奥を濡らしたままだ。それでも、傘を二本持つ男がまた機械にからかわれていることだけは、どうしても少しおかしかった。


 ガニーロはその表情を見て、困ったように目をそらした。


 「レトリスまで笑うのか」


 「笑っていません」


 「今、口元が」


 「これは、資料作成で疲れた筋肉の反応です」


 「そんな反応あるか」


 「あります。防災担当には」


 サポナーラが雨合羽のフードを下ろしながら、深く頷いた。


 「心の筋肉痛ですね」


 「あなたは黙っていてください」


 店内に、ようやく笑いが広がった。


 笑いは、紙の白い余白を消さない。欠けているものを埋めもしない。けれど、その余白を見つめたまま息をするための、短い足場にはなる。


 レトリスは未完成の紙を、他の紙とは別に封筒へ入れた。


 表には、赤いペンで書く。


 未確認記録。十年前の当日。勝手に補わない。


 それから、もう一枚の紙を取り出し、調査の手順を書いた。


 一、商店街詰所の奥棚を確認。

 二、個人名のある紙は公開しない。

 三、防災上必要な情報は本人または家族へ確認。

 四、基板への入力は全員立ち会い。

 五、詩になっても騒がない。


 最後の行を書いた時、オリーンが手を上げた。


 「五番は難しいです」


 「努力してください」


 「努力目標でよろしいですか」


 「必須です」


 サポナーラも手を上げる。


 「もし僕の心に雨水が入った場合は」


 「外で雨合羽を干してください」


 「はい」


 ガニーロは基板の配線を、今度こそ完全に外した。小さな緑の灯りがふっと消える。店内が少し暗くなった気がしたが、窓から差し込む朝の光は変わっていない。


 止まったのは機械だけだ。


 続きは、まだ止まっていない。


 レトリスは蒼い鞄を肩にかけた。中には、未完成の紙が入っている。ペアカップの片割れと、補助鍵と、十年前の自分が書いたらしい「まいごになったら、青いかばんを見て」という言葉も一緒にある。


 重い。


 けれど、昨夜よりは持ち方がわかる。


 ガニーロが工具箱を閉じ、傘立てから二本の傘を取った。外はもう晴れかけている。


 「傘、いりますか」


 レトリスは窓の外を見た。


 雲の切れ間から、白い光が石畳に落ちている。傘はいらない。けれど、商店街の詰所へ向かう途中、庇から落ちる雫で袖が濡れるかもしれない。


 「一本で十分です」


 ガニーロは少し考え、片方を差し出した。


 「じゃあ、持ってて」


 「私は十分と言いました」


 「俺が二本持つと、また紙に書かれる」


 レトリスは差し出された傘を見た。


 青い持ち手の、古い傘だった。


 笑いそうになって、堪える。


 「世界で一番、機械に弱い人ですね」


 「そこは嫌いじゃないのか」


 「今日は保留です」


 ガニーロは、困ったように笑った。


 喫茶ペアカップを出ると、商店街の空気は雨上がりの匂いで満ちていた。古い看板の文字が濡れて濃く見え、軒先の金具には小さな水滴が並んでいる。ブルグリンデが先に歩き、詰所の鍵を取り出した。オバインがサブマリンのケースを肩に担ぎ、アリシャーが古い建物の傾きを見ながらついていく。ロシルドゥアは名簿を鞄の奥へしまい、サポナーラは雨合羽を今度こそ腕に畳んだ。


 オリーンは店の入口から手を振る。


 「戻ったら、がんばれサンド二皿目です」


 「名前は変えておいてください」


 レトリスが返すと、オリーンは真剣な顔で頷いた。


 「では、帰ってこいサンド」


 誰も訂正できなかった。


 その名前は、少しだけ胸に残った。


 商店街の詰所は、ペアカップから三軒先の細い路地にある。以前は祭りの備品置き場だった場所で、今は古い掲示板や折りたたみ椅子、使われなくなった拡声器が積まれている。ブルグリンデが鍵を開けると、湿った木と古い紙の匂いが流れ出た。


 レトリスは蒼い鞄の肩紐を握り直した。


 この中の基板は、今は止まっている。


 もう勝手には拾わせない。


 誰かの言葉を消さずに持つために、誰かの言葉を勝手に奪わない。


 その境目を、一つずつ確かめるために来た。


 棚の奥は暗い。


 オバインがサブマリンの小さなライトを点けると、床に青白い線が伸びた。


 光の先で、古い掲示板の裏に、何か薄いものが挟まっている。


 ガニーロが息をのんだ。


 レトリスは、傘を脇に立てかけた。


 帰ってこいサンド。


 変な名前が、まだ耳に残っている。


 だから、今度はきっと帰る。


 未完成の紙を、未完成のまま放っておかないために。


 十年前の雨に、もう一度、現町の朝の光を当てるために。



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