第4話 超絶赤面ポエム第一号
喫茶ペアカップの窓は、雨の日ほどよく曇る。
昼前の商店街は人通りが少なく、魚屋の軒先から落ちる水滴だけが、一定の間隔で敷石を叩いていた。店の看板には、二つ並んだカップの絵が描かれている。白い湯気が向かい合うように伸びていて、子どもが見れば仲直りしているカップだと思い、大人が見れば少し照れくさいと思う。そんな看板だった。
レトリスは、その看板を見上げて足を止めた。
「私は、ここに入る理由がありません」
蒼い鞄を両腕で抱えたまま、彼女はきっぱり言った。抱え方は、資料を守っているというより、鞄の中の何かに口止めしているように見える。
ガニーロは傘を畳み、入口脇の傘立てに二本とも差した。
「役所へ戻る前に、紙を乾かした方がいい」
「乾かす紙はありません」
「布の隙間から見えてた」
「見ていないことにしてください」
「見えたものを見なかったことにするには、少し練習がいる」
「あなたは十年も練習していそうですね」
言い返した瞬間、ガニーロの手が止まった。
レトリスは、言葉が鋭く入りすぎたことに気づいた。けれど謝るには、まだ喉の奥が固い。雨で濡れた髪の先から、水滴が一つ、鞄の布へ落ちた。
そのとき、店内から明るい声が飛んできた。
「いらっしゃいませ! 雨の日限定、転ばず入店できたお客様に拍手を送る喫茶ペアカップです!」
オリーンがカウンターの内側で両手を高く掲げた。拍手は彼女一人分なのに、店の奥まで妙に響く。常連客らしい老人が新聞の向こうから片手だけ上げ、拍手の続きなのか、ただの挨拶なのかわからない動きをした。
ヒルドバーグはカウンターの端で、湯気の立つポットを布巾で包んでいた。濡れた床を見て、何も言わずに足元へタオルを投げる。タオルはレトリスの靴先でぴたりと止まった。
「拭いてから入りな」
責める声ではなかった。ただ、濡れた靴のまま歩く未来を許さない声だった。
レトリスは無言で靴裏を拭いた。
ガニーロも同じように拭く。エメットは店先で一度止まり、二人の足元を見てから、自分の靴を念入りにタオルへこすりつけた。青鞄電子堂からここまでついてきた少年は、手回しライトを胸に抱えたままだった。完成したばかりの小さな明かりは、彼にとって入店許可証のようだった。
「ガニーロ、また赤字で何か直した顔してるね」
オリーンが言う。
「顔で会計を判断しないでほしい」
「じゃあ財布を見せて」
「顔で合ってる」
エメットが小さく吹き出した。
レトリスは笑わなかった。笑わないようにした、という方が近い。蒼い鞄の中で、さっきから紙送りの音が時々鳴っている。店へ入れば、誰かに聞かれる。聞かれれば、説明しなければならない。説明すれば、昨日の紙のことまで出てくる。
嫌いと言うほど、目で追っている。
あの文字が頭に浮かんだだけで、耳の奥が熱くなる。
ガニーロが、四人掛けの席の椅子を引いた。
「座って。鞄は机の上に置かなくていい」
「置きません」
「膝で抱えたままだと、熱が逃げない」
「なぜ熱がある前提なんですか」
「さっき、布の端が少し温かそうだった」
「布の気持ちまで察しないでください」
オリーンが目を輝かせた。
「布の気持ち! 今日のおすすめメニューにしたい!」
「しないで」
「布の気持ちサンド。具は何がいいかな」
「布を挟まないで」
エメットが手回しライトを机に置き、真剣な顔で考えた。
「布っぽい具なら、薄焼き卵とかですか」
「エメットまで参加しない」
レトリスの声が店内に少しだけ高く響いた。老人が新聞を下げ、何事かという顔でこちらを見る。ヒルドバーグは湯飲みに茶を注ぎ、レトリスの前へ置いた。
「飲みな。怒るにも喉がいる」
レトリスは湯飲みを見つめた。湯気が曇った窓の光を拾い、白く揺れている。
「怒っていません」
「じゃあ冷ますために飲みな」
どちらへ進んでも飲まされる言い方だった。
レトリスが湯飲みに手を伸ばしたとき、蒼い鞄の中で、ち、と音がした。
今度は全員が聞いた。
オリーンの両目が丸くなる。エメットは机の上のライトを両手で押さえた。ガニーロは何も言わず、鞄から一歩分だけ距離を取った。触らないと約束した者の距離だった。
「今の、鞄ですか?」
エメットが小声で聞く。
「違います」
レトリスは即答した。
ち、ち、ち。
「違わない音が三回しました」
「現町の古い建物は、雨の日にいろいろ鳴ります」
ちちちちち。
「ずいぶん几帳面な建物ですね」
ガニーロが困った顔で言った。
レトリスは鞄を抱え直す。すると、布の隙間から白い紙がさらに押し出されてきた。小さな感熱紙のような紙だった。端は少し丸まり、古い水染みの茶色い輪がついている。
オリーンが椅子から半分立ち上がった。
「え、何それ。注文票?」
「違います」
「じゃあ恋文?」
「もっと違います」
「否定が速い方が怪しいって、うちの常連さんが言ってました」
「その常連さんに今すぐ謝らせてください」
新聞の老人が、そっと新聞を上げて顔を隠した。
紙は、レトリスの抵抗など知らないように出続ける。ガニーロは視線だけで紙の長さを測り、手を出さない。ヒルドバーグはカウンターから動かず、目を細めていた。
最後に、ち、と小さな音が鳴って、紙送りが止まった。
白い紙の先に、細い文字が並んでいた。
レトリスは一瞬で紙を丸めようとした。
けれど、オリーンの反射神経は、熱いコーヒーを倒しそうな客を救うために鍛えられている。彼女は音もなく横から手を伸ばし、紙の端をつまんだ。
「あっ」
「読みます!」
「読みません!」
「題名だけ!」
「題名こそ読みません!」
オリーンは紙を頭上へ掲げた。レトリスが立ち上がる。椅子がぎいっと鳴る。エメットはライトを抱えて席の隅へ避難し、ガニーロはなぜか机の上の湯飲みを先に守った。
オリーンの声が、店内に高く響いた。
「あなたを想う時間、ただし憎しみ扱い!」
喫茶ペアカップの時計が、ちょうど十一時を打った。
重なった音のせいで、店の空気が一拍だけ固まった。
レトリスの顔から、色が消えた。次の瞬間、戻ってきた色が耳まで駆け上がる。
「返しなさい」
「待って、題名の完成度が高い。憎しみ扱いって何。感情の領収書?」
「返しなさい」
「ガニーロ、これ返品できますか」
「購入履歴がない」
「会話に参加しないでください」
レトリスは紙へ手を伸ばす。オリーンはひょいと身をかわした。かわした先にカウンターがあり、その向こうにヒルドバーグがいる。ヒルドバーグは逃げ場をふさぐでもなく、手元のポットを置いた。
「オリーン」
「はい」
「客の紙は読むな」
「題名は読んじゃいました」
「二行目からは読むな」
オリーンはしゅんとした顔を作った。作っただけで、目はまだ紙を読みたがっている。
レトリスは紙を取り返すと、胸の前でぎゅっと握った。薄い紙がしわになる。けれど破れない。濡れたことのある紙は、乾くと妙に粘る。
ガニーロが小さく息を吸った。
「レトリス、少しだけ見せてほしい」
「嫌です」
「内容じゃなくて、紙と印字の状態だけ」
「それも嫌です」
「鞄の中で熱が出ているなら、止めないと危ない」
その言い方には、からかいがなかった。
レトリスは紙を握ったまま黙る。ガニーロがこちらへ踏み込まないのもわかっている。手を伸ばして奪う人ではない。昨日も、今朝も、触らないと言ったら触らなかった。
そのせいで、余計に断りづらい。
レトリスは紙を机に置いた。ただし、内容の文字が自分の方を向くように置く。
「紙だけです。読み上げたら、この町の雨どいを全部点検させます」
「雨どいは大事だから、それは罰にならない」
「では、青魚サンドを十皿食べさせます」
ガニーロが初めて少し迷った顔をした。
オリーンが横から身を乗り出す。
「青魚サンドはおいしいですよ」
「私は食べません」
「食べたことあります?」
「ありません」
「それはもう、明日の議題ですね」
「議題にしないで」
話が横へ逃げたことで、レトリスの肩が少し下りた。
ガニーロは紙の端を指先で押さえ、印字部分を読まない角度にして眺めた。紙の裏側、端の変色、印刷のかすれ。彼の目は、言葉ではなく部品を見る時のものになっている。
「新しい紙じゃない」
「そう見えますか」
「感熱紙にしては古い。端に水染みがある。昨日出た紙も、同じくらい古かった」
ヒルドバーグがカウンターから近づいてきた。
「見せな」
レトリスは少し迷ったが、彼女には紙の裏だけを向けた。
ヒルドバーグは、紙の茶色い輪を見て、眉をほんのわずかに寄せた。ほとんど表情を変えない人の、そのわずかさだった。
「この染み、雨だけじゃないね」
「わかるんですか」
エメットが聞く。
「店の伝票も、古い水に浸かるとこうなる。乾かした後、端だけ硬くなる。十年前、棚の下から拾った紙もこんなだった」
十年前。
その言葉が、テーブルの真ん中へ落ちた。
オリーンも口を閉じた。エメットはガニーロを見た。ガニーロは紙から目を離さない。
レトリスは、握った鞄の肩紐に力を入れた。
十年前の水害の日、蒼い鞄は濡れていた。母が何かを入れた気がする。避難所の床の冷たさ。人の足音。誰かが名前を呼ぶ声。そこまでは覚えているのに、その先がいつも霧のように薄い。
ガニーロが、静かに言った。
「この基板、たぶん今、何かを作ってるんじゃない。前に入っていた紙を、少しずつ送り出してる」
「前に?」
「鞄の内側に、小さな紙送りの機構が残ってる。昨日見えた。未完成のままなら、紙だけ挟まっていてもおかしくない」
「でも、題名が」
オリーンが言いかけて、ヒルドバーグに見られて口を閉じる。
ガニーロは続けた。
「文字は、古い短文メモか、音声を文字にする部品の断片かもしれない。完全な仕組みじゃないから、変なつながり方をしてる。だから題名が」
「言わないで」
「言わない」
レトリスは紙を裏返した。
自分だけが見える角度で、本文に目を落とす。
文字はかすれ、ところどころ抜けていた。それでも、読める部分がある。
あなたを想う時間、ただし憎しみ扱い。
雨の日に、青い鞄が濡れる。
待っているのは腹が立つ。
来ない人を考えるのは、もっと腹が立つ。
だからこれは心配ではない。
これは立派な怒りです。
怒りなので、何度名前を呼んでも問題ありません。
ガニーロ。
ガニーロ。
ガニーロ。
最後の三行を見た瞬間、レトリスは紙を閉じた。
閉じたと言っても、紙は本ではない。両手で挟んだだけだ。それでも本人にとっては鉄の扉を閉めたつもりだった。
オリーンが、見たくてたまらない顔をしている。エメットは見ないように、自分のライトを磨いている。ヒルドバーグは湯飲みに茶を足している。ガニーロだけが、まっすぐ紙を見ず、レトリスの手元の少し外を見ていた。
「読んだんですか」
「読んでない」
「本当に?」
「文字の向きが逆だった」
「逆でも読める人がいます」
「僕は配線図なら逆でも読めるけど、怒られる文章は読まない」
レトリスは返す言葉を探した。怒っているのに、少しだけ助けられた気がする。その気分がまた腹立たしい。
ヒルドバーグが、紙を指さした。
「捨てるのかい」
「当然です」
レトリスは即答した。
けれど、手は動かなかった。
紙には自分の筆跡ではない文字が並んでいる。基板が出した文字だ。だから自分の言葉ではない。そう言い切ることはできる。
それなのに、最後の三行だけは、どこかで聞いた自分の声に似ていた。
ガニーロが、店の紙ナプキンを一枚取った。そこへ何かを書く。
「何をしているんですか」
「保存用の封筒を作る」
「保存しません」
「じゃあ、一時保管用」
「保管もしません」
「廃棄待ち用」
「言い換えても同じです」
「でも濡れたまま握ると、文字が読めなくなる」
レトリスは、紙から手を離した。
ガニーロは紙ナプキンで封筒の形を作り、端を折った。手元は早い。修理の手つきそのものだった。余計なことを言わず、ただ紙が傷まないようにする。
レトリスは、その封筒へ紙を入れた。
自分で入れた。
それを見て、オリーンが両手を胸の前で組んだ。
「第一号ですね」
「何の」
「超絶赤面ポエム第一号」
「命名しないでください」
「でも題名がもう、超絶赤面ポエムです」
「違います」
「違うなら、別名を考えます。現町防災資料、感情漏水編」
「もっと悪くなりました」
エメットがぽつりと言った。
「でも、漏水なら、直せますよね」
皆が少年を見る。
エメットは自分の言葉に驚いたように、ライトを抱え直した。
「すみません。変なこと言いました」
「変じゃない」
ガニーロが言った。
レトリスは、机の上の封筒を見つめた。紙ナプキンに包まれた古い言葉は、今にもそこから染み出してきそうだった。
浸入される心。
そんな言葉が浮かぶ。心を読まれたわけではない。そう思いたい。けれど、しまい込んだはずのものが雨水みたいに入り込んできて、机の上に水たまりを作っている。
ヒルドバーグはカウンターへ戻りかけ、途中で振り返った。
「ガニーロ」
「はい」
「その紙、古い水を吸ってる。乾いたように見えても、急に破れることがある。扱うなら急ぐんじゃないよ」
「わかりました」
「それと、レトリス」
レトリスは背筋を伸ばした。
「はい」
「顔を冷ましたいなら、氷水がある」
オリーンが吹き出した。
エメットも笑いをこらえきれず、ライトの陰に隠れた。ガニーロは湯飲みを見つめている。肩が少し震えている。
「笑わないでください」
「笑ってない」
「肩が笑っています」
「肩の管理までは難しい」
レトリスは湯飲みを取り、一口飲んだ。熱い。氷水どころではない。けれど、湯気が顔の熱を少しだけごまかしてくれる。
窓の外では、雨が細くなり始めていた。
ガニーロが、紙ナプキンの封筒へ小さく日付を書いた。今日の日付と、場所。喫茶ペアカップ。超絶赤面ポエム第一号、とは書かなかった。書いたら、たぶん本気で怒られるとわかっている顔だった。
レトリスは封筒を鞄へ戻そうとして、手を止めた。
「それ、あなたが持っていてください」
ガニーロが目を上げる。
「僕が?」
「修理のためです。読んだら青魚サンド十皿です」
「読まない」
「裏から透かしても十皿です」
「透かさない」
「オリーンさんに読ませても十皿です」
「そこは僕の罪になるの」
「管理責任です」
ガニーロは封筒を両手で受け取った。大切な部品を預かる時と同じ持ち方だった。
オリーンが、カウンターから小さな皿を二つ持ってきた。焼き菓子が一枚ずつのっている。
「第一号発行記念です」
「記念しないで」
「では、無事に読まずに済んだ記念です」
「それなら少しだけ許します」
レトリスが皿を引き寄せると、オリーンは満足そうに笑った。
ヒルドバーグは棚の奥を見ていた。
そこには、客が置いていったペアカップが並んでいる。色も形もばらばらで、どれも片方だけでは落ち着かない顔をしている。そのさらに奥、布のかかった小さな箱があった。
レトリスは気づかなかった。
ガニーロも見なかった。
けれどヒルドバーグだけは、その箱の中身を知っている人の顔で、ゆっくり湯飲みに茶を注ぎ足した。
雨の匂いと、焼き菓子の甘い匂いが、喫茶ペアカップの中で混ざる。
蒼い鞄は、しばらく鳴らなかった。
代わりに、ガニーロの手元の封筒が、ほんの少しだけ湿った光を返していた。




