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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第5話 食わず嫌いの青魚サンド

 翌日の現町は、朝から晴れていた。


 雨上がりの商店街は、軒先のトタンから落ちる水滴まで、昨日より一音ずつ明るい。青鞄電子堂の前では、ガニーロが折り畳み式の台車へ測量用の巻き尺、白いチョーク、防水のメモ帳、古い水位標の写真を入れた紙袋を積んでいた。


 レトリスは役所から歩いてきた。蒼い鞄は今日も肩にある。昨日の騒ぎ以来、鞄の留め具には仮の金具がつき、勝手に開く心配は減った。けれど、彼女は時々、鞄の横腹を手で押さえる。中からまた妙な紙が吐き出されるのではないかと警戒しているのが、顔を見なくてもわかった。


 「遅れていませんね」


 レトリスは腕時計を見て言った。


 「集合五分前」


 「ぎりぎりです」


 「五分前はぎりぎりじゃないと思う」


 「私の基準では、十年前から遅刻常習者扱いです」


 ガニーロは台車の取っ手を握ったまま、返す言葉を一つ飲み込んだ。そういう時の彼は、工具箱の中から細い部品を探す時と同じ顔になる。急いで手を突っ込まない。余計な音を立てない。壊れそうなものの位置を確かめてから、ゆっくり触る。


 レトリスはその沈黙が気に入らないようで、視線を横へ逃がした。


 「今日の確認範囲は、商店街の北側、海風通りから旧市場裏の水路までです。十年前の記録では、海風通りは軽微な冠水扱いになっています。でも昨日、アリシャーさんから借りた排水ますの一覧では、旧市場裏へ流れ込む水が集まりやすい配置でした」


 「うん。あの辺りは、見た目より低い」


 「なぜそれを先に言わなかったんですか」


 「昨日は、鞄とポエムと青魚サンド未遂で忙しかったから」


 「青魚サンドは未遂ではありません。私は食べません」


 言い切った瞬間、青鞄電子堂の隣の路地からオリーンが飛び出してきた。両手に紙袋を二つ抱えている。白い紙袋の端から、揚げ物の香ばしい匂いと、酢の効いた青魚の匂いが一緒に広がった。


 「はい、現町名物、青魚サンドです!」


 レトリスは一歩下がった。


 「なぜ今」


 「現地確認には腹ごしらえが必要です。ヒルドバーグさんが、空腹の人間は段差よりも自分の機嫌につまずくって言ってました」


 「朝です」


 「朝ごはんを食べた人にも、昼ごはんの予約という考え方があります」


 オリーンは胸を張った。紙袋の中には、現町の港で揚がった青魚を酢で締め、軽く焼いてから、刻み玉ねぎと甘い味噌だれを挟んだサンドが入っている。商店街では昔から売られている品だが、店ごとに味が少しずつ違う。喫茶ペアカップのものは、魚の皮をぱりっと焼き、パンを少し厚めに切る。


 ガニーロは紙袋を一つ受け取り、台車の上に置いた。


 「ありがとう。昼に食べる」


 「だめです。温かいうちに一口」


 「今日の確認は長いよ」


 「長いからこそ一口です」


 オリーンはもう一つの紙袋をレトリスへ差し出した。レトリスは、差し出されたものを見て、まるで雨で膨らんだ古い扉でも見るように眉を寄せる。


 「私は結構です」


 「アレルギーですか」


 「違います」


 「骨が苦手ですか」


 「違います」


 「青いからですか」


 「食品を色で判断するほど短絡的ではありません」


 「では、食べられますね」


 オリーンはにこりとした。


 レトリスは口を閉じた。ガニーロが台車の紐を結び直している。笑ってはいない。けれど、耳だけはこちらを向いている。


 「食べたことがないものを、食べられると断定しないでください」


 その場の空気が、ちょうどよく止まった。


 オリーンの目が輝いた。


 「食べたことがないんですか」


 「ありません」


 「ないのに嫌いなんですか」


 「嫌いです」


 「どうしてですか」


 「名前がもう、無理です」


 「名前で」


 「青魚が悪いわけではありません。サンドにされる覚悟が私にないだけです」


 オリーンは真剣な顔でうなずいた。


 「つまり、レトリスさんの心の中で、青魚さんがパンに挟まれる許可をまだ取っていないんですね」


 「そんな会議は開いていません」


 ガニーロが、ほんの少しだけ肩を揺らした。


 「笑いましたね」


 「台車の車輪が引っかかった」


 「舗装面は平坦です」


 「心の舗装が」


 「それ以上言うと、今日の確認項目に青鞄電子堂の言動危険度を追加します」


 ガニーロは黙った。


 オリーンはサンドを紙の上で半分に切った。断面から、白いパン、焼き目のついた魚、淡い紫の玉ねぎ、薄い緑の香草がきれいに重なって見えた。湯気がまだ少し立っている。


 「半分じゃなくて、四分の一にしますか」


 「量の問題ではありません」


 「では八分の一」


 「刻めばいいというものではありません」


 「粉にします?」


 「それは食べ物への冒涜です」


 「食べない人に怒られました」


 オリーンが笑う。


 その笑い声に、商店街の朝の音が重なった。シャッターを上げる音、新聞を束ねる音、遠くの港から届く汽笛。昨日の雨で濡れた路面に、青空がところどころ映っている。レトリスは、断面のきれいなサンドを見たまま、視線を落とした。


 「一口だけです」


 オリーンは声を出さずに両手を上げた。勝利宣言をしないために、口をぎゅっと結んでいる。


 ガニーロは何も言わない。サンドを一切れ取って、自分も同じ大きさに割った。


 「なぜあなたも同じ大きさにするんですか」


 「一人だけ食べると、裁判みたいになるから」


 「裁かれる心当たりが多すぎるからでは」


 「今は青魚の裁判だと思う」


 レトリスはサンドを指先で持った。パンは思ったより柔らかかった。表面に薄く塗られた味噌だれが、指につかないぎりぎりの量で収まっている。魚の匂いは強いと思っていたが、酢と焼き目の香りのほうが先に来た。


 彼女は一度、息を吸った。


 そして、一口かじった。


 玉ねぎの歯ざわりが軽く鳴り、香草の青い香りが鼻へ抜ける。魚は生臭くない。酸味があって、味噌の甘さがすぐ後ろから来る。パンの柔らかさが、思ったよりも全部をまとめている。嫌いになる準備をしていた舌が、行き場を失って立ち尽くした。


 レトリスは黙った。


 オリーンは前のめりになる。


 「どうですか」


 「……評価には、複数回の確認が必要です」


 「おかわりですね」


 「確認です」


 「二口目です」


 「確認です」


 レトリスはもう一口かじった。今度は少し大きい。


 ガニーロは笑わなかった。


 それが、かえってレトリスの胸に残った。彼なら、十年前なら、きっと笑ったはずだ。いや、笑った後で、自分の半分を差し出したかもしれない。彼は、誰かが初めて何かを口にする時、隣で待つのが昔からうまかった。急かさない。褒めない。からかわない。相手が自分で言葉を見つけるまで、皿の端を指で押さえている。


 それを覚えている自分に、レトリスは腹が立った。


 「おいしいなら、おいしいと言っていいんです」


 オリーンが言う。


 「おいしいとは言っていません」


 「では、まずいですか」


 「まずくはありません」


 「普通ですか」


 「普通ではありません」


 「じゃあ、何ですか」


 レトリスは三口目を見つめた。


 「現町の味です」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 ガニーロが台車の取っ手から手を離した。ほんの一瞬だけ、彼の目が細くなる。笑みというほど形にはならない。けれど、雨上がりのガラスに光が戻るような変化だった。


 「それは、かなり高評価だね」


 「勝手に採点しないでください」


 「じゃあ記録しない」


 「記録はしてください。現町名物として、避難所の非常食には向かない可能性があります。匂いで好き嫌いが分かれますから」


 「食べながら仕事に戻った」


 「当然です」


 オリーンは大きくうなずき、紙袋を台車の端に固定した。


 「昼の分もあります。確認用に二つ」


 「なぜ増えているんですか」


 「現町の味ですから」


 レトリスは反論しようとして、口の中に残った味噌だれの甘さに負けた。


 そのまま三人は商店街の北側へ向かった。


 海風通りは、名前のとおり海からの風がまっすぐ抜ける道だった。左右には干物屋、古い金物店、靴修理の小さな店が並んでいる。店先のすだれが乾ききらない音を立てて揺れ、側溝には昨日の雨水がまだ細く流れていた。


 レトリスはメモ帳を開き、排水ますの位置を一つずつ確認した。ガニーロはチョークで歩道の端に小さな印をつけ、写真の水位標と実際の段差を見比べる。オリーンは紙袋を抱えたまま、通りすがりの店主へ声をかけて回った。


 「昨日の雨で、ここまで水が来ましたか」


 「その鉢植えの下まで」


 「十年前は」


 「腰まで。いや、あの日は考えたくないね」


 店主の声は、そこで小さくなった。


 レトリスは顔を上げた。強く聞き返すことはできた。何時頃か、どの向きから水が来たか、避難所へ向かえたか。必要な問いはいくらでもある。けれど、店主の手が、鉢植えの縁をつかんだまま動かないことに気づいた。


 ガニーロが、台車から白いチョークを一本取り、店先の段差を指した。


 「ここ、昨日も水が溜まったなら、次に雨が降った時は、土のうを置く場所を少し変えたほうがいいかもしれません。排水ますをふさがないように」


 店主は、ほっとしたように肩を落とした。


 「ああ、それなら話せる。十年前のことより、次の雨のことなら」


 レトリスはメモ帳を見た。紙の上には、聞くべき過去の欄が空いたまま残っている。空欄は嫌いだ。けれど、その空欄を埋めるために、今目の前の人の声を折ってしまっては意味がない。


 彼女はペン先を少し動かし、欄の名前を書き換えた。


 次の雨に必要なこと。


 ガニーロがちらりと見た。


 「何ですか」


 「いや。いい欄だと思って」


 「あなたの許可は不要です」


 「うん」


 「でも、参考にはします」


 ガニーロは小さくうなずいた。


 海風通りを抜けると、旧市場裏の水路に出た。低い石垣の向こうで、濁りの残った水がゆっくり流れている。水路沿いの道は狭く、古い荷下ろし場の段差がいくつも残っていた。晴れているのに、足元だけがひんやりしている。


 レトリスはしゃがみ込み、水路の縁を見た。苔の線が二本ある。昨日の雨で上がった線と、もっと古い、黒ずんだ線。


 「これ、十年前の水位痕でしょうか」


 「たぶん」


 ガニーロは声を低くした。


 「この奥に、旧避難路へ抜ける扉があった。今は閉まってる」


 「地図では、ここは避難経路に入っていません」


 「十年前の地図には、細い線で載ってた」


 「消されたんですか」


 「閉鎖されたから、最新版では抜けたんだと思う」


 レトリスは水路の奥を見た。薄暗い通路の先に、錆びた金属の角が少しだけ見える。昨日の赤面ポエムとは違う種類の音が、胸の奥で鳴った。古いものが、まだ終わっていないと告げる音。


 その時、蒼い鞄が小さく震えた。


 レトリスは反射的に鞄を押さえた。


 「鳴らないで」


 しかし、鞄は控えめに、短い電子音を一つだけ出した。昨日のような紙は出ない。代わりに、内ポケットの奥で何か固いものがずれた感触があった。


 オリーンが紙袋を抱え直す。


 「今の、青魚サンドへの感想ですか」


 「そんな機能はありません」


 「では、二口目を求める音」


 「違います」


 ガニーロは水路の奥と、レトリスの鞄を交互に見た。何かを言いかけて、やめる。


 レトリスはその顔を見逃さなかった。


 「言いたいことがあるなら言ってください」


 「この話には……」


 「続きがある、ですか」


 ガニーロは困ったように息を吐いた。


 「今日は言わない。まだ、確かめることがある」


 「またそれですか」


 「うん。ごめん」


 謝られると、責めづらい。レトリスは水路へ目を戻した。


 旧市場裏の水は、晴れた空を映さない。暗い通路の奥で、錆びた扉だけが静かに待っている。十年前、誰かがそこを通ろうとしたのか。通れなかったのか。まだ、何もわからない。


 オリーンが、半分残っていた青魚サンドを紙で包み直した。


 「レトリスさん」


 「何ですか」


 「残り、昼まで取っておきますね」


 「……確認のためです」


 「はい。確認のために、温め直します」


 レトリスは否定しなかった。


 ガニーロも笑わなかった。けれど、台車の端に置いた紙袋が落ちないよう、そっと位置を直した。


 レトリスはその手つきを見て、昔、半分に割った菓子パンを彼が自分の皿へ先に置いた日のことを思い出した。あの日も、彼は笑わなかった。ただ、食べるかどうかを決める時間を、黙って渡してくれた。


 嫌い。


 胸の中で、いつもの言葉を置いてみる。


 けれど今日のそれは、青魚サンドを食べる前に用意していた感想に少し似ていた。名前だけで決めたもの。中身を知らないまま、舌の上にのせる前から拒んでいたもの。


 レトリスはその考えごとを、すぐにメモ帳の表紙で押さえ込んだ。


 「次に行きます。旧市場裏の段差、排水ます、水路の水位痕。全部記録します」


 「了解」


 「それと」


 レトリスは、紙袋のほうを見ずに言った。


 「昼に、残りを捨てないでください」


 オリーンの目がまた輝いた。


 「もちろんです!」


 「祝わないでください」


 「心の中だけで小さく拍手します」


 「音が出ています」


 「すみません、心が立ち上がりました」


 ガニーロが、今度こそ少しだけ笑った。


 レトリスは睨んだ。けれど、その睨み方は昨日よりほんの少しだけ弱かった。


 水路の向こうで、海からの風が古い扉をなでる。錆びた金属の匂いと、紙袋の中に残る青魚サンドの匂いが、奇妙に混ざった。


 現町の味は、まだ口の中に残っている。


 そして、蒼い鞄の奥では、何か固いものがもう一度、小さく位置を変えた。



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