第3話 青鞄電子堂の赤字修理
翌日の昼、喫茶「ペアカップ」の窓際には、雨上がりの光が薄く伸びていた。
商店街の石畳はまだ乾ききっていない。通りを渡る人の靴裏が、ぺた、ぺた、と水を踏む音を残していく。喫茶店のドアベルが鳴るたび、湿った外気と、焼いたパンの匂いと、古い木の棚に染みついたコーヒーの香りが混ざった。
レトリスは一番奥の席に座っていた。
役所の昼休みは、あと三十六分。机の上には蒼い鞄、白い封筒、現町の古い地図、そして赤いペンが一本。彼女はガニーロが来るまでに、今日の作業条件を三行で書いておいた。
一、留め具だけを見る。
二、基板には触れない。
三、余計なことをしない。
自分で書いておいて、三行目に力が入りすぎていると気づいた。紙の裏まで赤がにじんでいる。
厨房から顔を出したオリーンが、盆を両手で持ったまま首を傾げた。
「その赤い紙、試験ですか」
「作業条件よ」
「わあ。昼休みに出したら、胃に悪そうな紙ですね」
「余計なことをしないための紙だから、胃には関係ない」
「余計なことをしない人は、紙に書かなくても余計なことをしません」
レトリスは赤ペンのキャップを閉めた。
「それを、本人に言って」
その本人は、ちょうど店の前に現れた。
ガニーロは肩から工具鞄を下げていた。片手には小さな箱、もう片方の手には昨日の赤い傘。赤い傘の柄には、濡れないよう紙札が巻かれている。持ち主の名前を書いたのだろう。字は細かく、しかし雨でも読めるように濃かった。
彼は喫茶店へ入る前、入口の傘立ての水を一度外へ捨てた。
レトリスは窓越しにそれを見て、眉間を押さえた。
頼んでいない。
まだ店へ入ってもいないのに、もう一つ増えている。
ドアベルが鳴る。
「遅れてない」
ガニーロが言った。
「遅れる前に言い訳するのは、遅れた人の癖よ」
「時計、二分進んでる」
「この店の時計は正しいわ」
壁の振り子時計が、こつ、こつ、と鳴った。レトリスが見ると、針は確かに役所の時計より二分早い。
ヒルドバーグがカウンターの中で湯を注ぎながら言った。
「店の時計は、客が急ぎすぎないよう二分だけ先へ行かせてある」
「正しくないじゃないですか」
「間に合う時計だ」
ガニーロは納得した顔でうなずいた。レトリスは納得しなかったが、反論している時間が惜しかった。
彼女は赤い紙をテーブルの中央へ置いた。
「読むこと」
ガニーロは紙を手に取り、三行目で少し止まった。
「余計なことって、たとえば」
「留め具以外を見ること。基板に触ること。鞄の中身を勝手に動かすこと。古い傷に勝手に名前をつけること。持ち主が頼んでいないのに、防水布を足すこと」
「最後は、もう材料を持ってきた」
「帰って」
オリーンが盆を置き、二人の前に水を出した。
「ご注文は、喧嘩を薄める水でよろしいですか」
「水だけでいい」
「私の分は、濃いめで」
ガニーロが真面目に言うので、オリーンは一瞬だけ言葉を失った。それから、笑いを噛み殺して厨房へ戻った。
レトリスは蒼い鞄をテーブルに置いた。留め具は昨日よりひどくなっている。閉じたはずなのに、少し押すだけで口が浮く。内側に包んである木箱が、布越しに固く当たっていた。
「昼休み中に終わる?」
「応急なら」
「完全には?」
「店にある古い留め具を削れば合う。ここの工具だけだと、鞄の布を傷める」
「青鞄電子堂へ連れて行こうとしている?」
「鞄を連れて行く」
「言い方を変えても同じよ」
ガニーロは留め具を指で押さえ、蝶番の軸を見た。小さな金属棒がわずかに曲がっている。錆びた部分は昨日の雨で膨らみ、布の縫い目を引っ張っていた。
「無理に閉じると、布のほうが裂ける」
「脅しているの」
「今、閉めてみる?」
レトリスは鞄の口を押した。
ちり、と嫌な音がした。
すぐに手を離す。
ガニーロは何も言わなかった。言えば刺さると分かっている顔だった。だから余計に腹が立つ。
「……今日の仕事が終わってから、十分だけ」
「三十分」
「十五分」
「留め具を削るだけなら十五分。布を守る当て革まで入れるなら二十五分」
「当て革はいらない」
ガニーロは蒼い鞄の角を見た。
擦れて白くなった帆布の端。雨を含むと、そこからじわりと水が入る。レトリスも知っていた。知っていて、見ないふりをしていた。
ヒルドバーグがカウンターから言った。
「鞄は、持ち主が意地を張っても濡れる」
「今、店主としての助言ですか」
「濡れた床を毎日拭く者としての感想だ」
レトリスは水を一口飲んだ。冷たい水が喉を通る。頭の熱が少しだけ下がる。
「二十五分。基板には触れない」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
「昨日もそういう顔をして、紙を出した」
「昨日は、鞄が鳴った」
「鞄のせいにしないで」
ガニーロは口を閉じた。そこで反論しないから、また空気が妙なところへ沈む。
オリーンが厨房から、わざと明るい声を飛ばした。
「午後のおやつは、まだ鳴らない焼き菓子です」
「まだ鳴らないって何」
「昨日から、紙を出すものはだいたい鳴るのかなと思って」
「焼き菓子が鳴ったら保健所案件よ」
レトリスは鞄を抱え直した。木箱が内側で小さく揺れる。
昨日の白い封筒は、胸ポケットに入れたままだった。何度も捨てようとして、まだ捨てていない。自分でも腹立たしいほど、紙一枚が重かった。
その日の夕方、役所の窓から見える空は、薄い鉛色に戻っていた。
勤務時間が終わると同時に、レトリスは資料を机の端に揃え、蒼い鞄を抱えて外へ出た。役所の玄関には、昨日より多くの傘が並んでいる。誰かが倒れた傘を起こして、濡れた先を外へ向けていた。
字の細かい紙札が一つ、柄に巻かれている。
ガニーロが昼のうちに置いていった赤い傘だった。
「本当に余計なことを増やす」
つぶやいた声は、雨の匂いに混ざって消えた。
青鞄電子堂は、商店街の端にあった。
看板は、青い鞄の形をしている。木で作られた古い看板で、持ち手の部分に小さな電球が三つ埋め込まれていた。夕方になると、電球は一つずつ灯るらしい。今は真ん中の一つだけがついていて、残り二つは眠っているように暗い。
店のガラス戸には、手書きの札が貼ってあった。
ラジオ直します。
時計、鳴りすぎるものも直します。
防災ライト、点かない理由を一緒に探します。
最後の一行だけ、商売の札ではない。レトリスはそこを指でなぞりかけ、すぐ手を引っ込めた。
戸を開けると、金属と油と乾いた木の匂いがした。
店内には棚が三方にあり、古いラジオ、目覚まし時計、手回しライト、懐中電灯、壊れた小型扇風機、見覚えのない丸い機械が並んでいた。値札の代わりに、紙片が貼られている。
スピーカー断線。音は出る。
針遅れ。朝だけ強気。
電池液漏れ。持ち主は捨てる気なし。
レトリスは最後の紙片で足を止めた。
「持ち主は捨てる気なし、って何」
「持ち主がそう言った」
「修理内容じゃない」
「大事な情報だから」
作業台の上には、今日使うらしい工具が布の上に並んでいた。小さなやすり、細いペンチ、針、糸、革の切れ端、白い布、そして蒼い帆布に合う青い糸。
準備はできている。
そのことが、レトリスの胸を小さく突いた。
彼女はすぐに別の場所へ視線を動かした。動かした先で、もっと大きく眉を寄せることになった。
「この延長コード」
「それは」
「床を横切っている。しかも入口から作業台まで。客が足を引っかける。雨の日なら濡れた靴で踏む。奥の棚のコードも束ねすぎ。熱がこもる。あの紙箱の横に半田ごて。あれは論外」
ガニーロは口を開けたまま、彼女の指す先を追った。
「今、鞄を直す時間で」
「火が出たら鞄どころではないでしょう」
「火は出ないように」
「願望を配線しないで」
レトリスは蒼い鞄を作業台の一番乾いた場所へ置き、近くにあった空の木箱を足でそっと寄せた。延長コードを壁際へ移す。紙箱を半田ごてから遠ざける。棚の下に丸まっていた布を拾い、濡れていないか確かめる。
ガニーロが何か言いかけた。
「触られるのが嫌なら、最初から安全にしておいて」
「嫌じゃない」
「なら黙って留め具を直して」
「はい」
彼は素直に返事をし、鞄の留め具へ向き直った。
その時、店の入口で小さなベルが鳴った。
「こんばんは」
入ってきたのは、まだ制服姿の少年だった。髪の先が少し湿っていて、両手で古い手回しライトを抱えている。ランドセルほどではないが、肩から提げた鞄が体に対して少し大きい。
少年はレトリスを見ると、足を止めた。
「えっと、今日は、だめですか」
「だめじゃない」
ガニーロが顔を上げた。
「エメット、そこ濡れてる。タオル使って」
少年は入口横の籠からタオルを取り、靴の先を丁寧に拭いた。それから手回しライトを胸の高さに持ち上げた。
「昨日、回したら、鳴りました」
「点いた?」
「鳴りました」
「音だけか」
「はい。すごく頑張っている音でした」
レトリスは思わずライトを見た。
黄色いプラスチックの外側は傷だらけで、持ち手の部分に黒いテープが巻いてある。防災用品としては古い。けれど捨てられずに残ってきた形をしていた。
「預かる。今日は鞄の修理が先だから、見るだけなら」
「見ます」
エメットはすぐに作業台の横へ来た。ガニーロは小さな丸椅子を一つ引き、少年の足元に置いた。
「座るならここ。手は台の線より前に出さない。半田ごては今日は使わないけど、熱いものは熱い顔をしていないことがある」
「はい」
レトリスはその説明を聞きながら、棚の上の紙箱をさらに奥へ押した。
「熱いものは熱い顔をしていない、は良い説明ね。でも半田ごての置き場は悪い」
「直します」
「今」
「はい」
ガニーロは半田ごて台を金属板の上へ移した。エメットがじっとそれを見る。レトリスも、見ていないふりで見た。
蒼い鞄の留め具は、思ったより細かな作業になった。
曲がった軸を抜き、錆びた粉を布で取る。古い金具の穴に合わせて、別の留め具から削った細い棒を通す。ガニーロの指は、急がない。けれど無駄に止まらない。布を傷めそうなところでは、針の先を一度引き、角度を変える。
エメットは息を止めて見ていた。
「今、どうして戻したんですか」
「このまま押すと、布の穴が広がる」
「穴が広がると」
「次の雨で水が入る」
「水が入ると」
「中の大事なものが困る」
ガニーロの視線が、鞄の内側に包まれた木箱を避けた。
レトリスは、手にしていた雑巾を強く握った。
「中身の話は禁止」
「困る、までにした」
「十分踏み込んでいる」
エメットが二人を交互に見た。
「この鞄、すごく大事なんですか」
「普通の鞄よ」
レトリスは即答した。
ガニーロは何も言わなかった。
沈黙の長さで、普通ではないことがばれた。
エメットは余計な質問をしなかった。代わりに、自分の手回しライトを膝に置き、ハンドルを一度だけ回した。ぎ、ぎぎ、と苦しそうな音が出る。
「それ、無理に回さない」
ガニーロがすぐに言った。
「中の歯車が欠ける」
「はい」
「貸して」
「鞄は?」
「糸を休ませる。革をなじませる時間がいる」
「糸を休ませるって何ですか」
「今考えた」
レトリスは雑巾を持ったまま、作業台の端を見つめた。
「作業理由を詩にしないで」
「詩じゃない」
「昨日のせいで、全部怪しく聞こえるの」
エメットは事情を知らない顔で首を傾げた。ガニーロは手回しライトのネジを外し、小さな受け皿に並べた。ネジの位置を紙に描いて記録する。古いプラスチックの蓋が開くと、中から埃と錆の匂いがふわりと出た。
レトリスは反射的に窓を少し開けた。
「換気」
「ありがとう」
「礼を言う前に、最初から開けて」
「はい」
エメットはライトの中を覗いた。
「黒いです」
「端子が焼けてる。ここに電気が通りにくくなって、回しても充電できない。音だけ頑張る」
「すごく頑張っている音は、だめな音だったんですね」
「だめというより、助けてと言ってる音」
ガニーロは焦げた端子を綿棒で拭き、細い紙やすりをエメットへ見せた。
「強く削ると、使えるところまで削る。軽く。表面だけ」
「はい」
「やってみる?」
エメットの肩が跳ねた。
「僕がですか」
「僕が横で持つ」
レトリスはすぐに口を挟んだ。
「保護眼鏡」
「出す」
「手袋」
「細かい作業だから、指先が使える薄いもの」
「台の下に落ちたネジを踏まないよう、床を片づける」
「今やる」
「あなたはライトを持つ。床は私がやる」
言ってから、しまったと思った。
ガニーロがこちらを見た。エメットも見た。
「何」
「いや」
「散らかっているから危ないだけ」
「うん」
「うん、じゃない」
レトリスは棚の下に散らばったネジ箱を拾い、種類ごとに重ねた。丸いネジ、平たいネジ、よく分からない金具、何かのバネ。箱にはラベルがない。彼女は近くにあった白い紙を切り、赤ペンで仮の名前を書いた。
小ネジ。
平ネジ。
バネ。
正体不明。踏むな。
エメットが「正体不明」と書かれた箱を見て、小さく笑った。
「分かりやすいです」
「分からないものを分からないまま置く時は、せめて危ないかどうか書くの」
「役所の書き方みたいです」
「役所にも、たまに役に立つ書き方があるわ」
ガニーロは笑わなかった。けれど、作業台の端にその紙箱をそっと置き直した。
エメットは保護眼鏡をかけ、端子の焦げを少しずつ削った。手が震えるたび、ガニーロは手首を支えるだけで、紙やすりを取り上げない。削りすぎそうになると、作業台を指先で一度叩く。それだけで、エメットは手を止めた。
外では、また細い雨が降り始めていた。
屋根のどこかから、ぽた、と水の落ちる音がした。
レトリスは顔を上げた。
ぽた。
作業台から少し離れた棚の前。天井の板の継ぎ目から、雨水が一滴落ちている。下には、古いラジオの箱があった。
レトリスは店の奥にあったバケツを見つけ、無言で置いた。
ぽたん。
水はバケツの底を叩いた。
ガニーロが振り向いた。
「ありがとう」
「雨漏りくらい直して」
「屋根屋に頼むと高い」
「ラジオを一台無料で直すより、屋根を直すほうが先」
「無料じゃない。部品代はもらう」
「手間賃は?」
「次に困った時、早めに持ってきてもらう代」
「商売をして」
レトリスはバケツの位置を少しずらした。水滴がきちんと真ん中に落ちる。
エメットがライトの端子を磨き終えた。ガニーロが銅線を一本だけ入れ替え、接点を整え、蓋を閉める。ハンドルをゆっくり回すと、今度は苦しそうな音が少し薄くなった。
「押して」
ガニーロがエメットへライトを渡した。
少年はスイッチを押した。
小さな光が、作業台の上に落ちた。
明るい、とは言えない。昼間の店なら、頼りないほどの白い点だった。それでも、埃の粒がその光の中で浮いた。さっきまでただの傷だらけの箱だったものが、足元を照らす道具に戻っていた。
エメットはライトを両手で包んだ。
「点いた」
「点いたね」
「本当に、点いた」
ガニーロはうなずき、修理票に小さく書いた。
端子清掃。銅線交換。ハンドル部、次回確認。
その下に、部品代だけの金額を書く。
レトリスは横から覗いた。
「安すぎる」
「古い銅線だから」
「あなたの時間は古くない」
ガニーロのペン先が止まった。
エメットは二人を見た。レトリスは自分の言葉が、思ったよりまっすぐ出たことに気づき、すぐ視線を逸らした。
「……赤字修理ばかりしていたら、この店が先に避難することになると言っているの」
「店は歩けない」
「そういう返しはいらない」
ガニーロは修理票を少し見つめ、それから金額の横に小さく追記した。
見学料、次回は店の床掃き五分。
エメットが目を丸くした。
「僕、払えます」
「払えるなら頼む」
「はい」
レトリスは何も言わなかった。
お金ではない。けれど、ただ受け取るだけではない形にしたことは、悪くなかった。
蒼い鞄の留め具も、その頃には直っていた。
ガニーロは革の当て布を内側へ入れ、針目を目立たないよう青い糸で押さえていた。留め具を閉じると、ちり、という嫌な音はしなかった。代わりに、かち、と乾いた音がする。
レトリスは鞄を持ち上げた。
軽くなったわけではない。中には木箱も、ペアカップの片割れも、昨日の紙も、十年前から閉じ込めているものもある。それなのに、肩にかけた時、鞄の口がきちんと閉じているだけで、少しだけ歩きやすい気がした。
「いくら」
レトリスが財布を出す。
ガニーロは紙に金額を書いた。
やはり安い。
「当て革の代金が入っていない」
「端材だから」
「糸代」
「前に買った」
「時間」
「エメットのライトも見たから、まとめて店の片づけが進んだ」
「あなた、計算をしたことがある?」
「予定表は作る」
「収支表を作って」
レトリスは財布から紙幣を一枚出し、修理票の上に置いた。ガニーロが返そうとする前に、赤ペンで余白へ書く。
鞄留め具修理。
当て革。
糸。
作業時間二十五分。
安全指導料は相殺。
「安全指導料って」
「延長コード、紙箱、半田ごて、雨漏り。四点指摘したから、本来は高いわよ」
エメットが保護眼鏡を外しながら、少しだけ笑った。
「相殺なら、ちょうどいいんですか」
「ちょうどよくはない。でも、今日はこれでいい」
レトリスは蒼い鞄を肩にかけた。
帰ろうとして、店の床に置いたバケツの音を聞いた。ぽたん。ぽたん。雨漏りはまだ続いている。棚の上には、壊れたラジオが濡れないよう少しずらされていたが、次の強い雨では足りない。
彼女は作業台にあった白い紙を一枚取り、赤ペンで大きく書いた。
屋根修理。先延ばし禁止。
それをバケツの横へ置く。
「命令?」
「注意書き」
「誰に」
「読める人に」
ガニーロは紙を見下ろした。
エメットがライトを抱えて、入口で靴を履く。小さな光を一度だけ床に向け、コードの位置を確かめてから歩き出した。
レトリスはそれを見た。
ついていくだけの足取りではなかった。自分で足元を照らしてから進んでいる。
店の外に出ると、雨は霧のように細かかった。商店街の灯りが、濡れた石畳に長く伸びている。青鞄電子堂の看板では、真ん中の電球だけがまだ点いていた。
「残り二つ、切れているの」
レトリスが聞いた。
「片方は接触不良。もう片方は、部品待ち」
「店の看板くらい、先に直して」
「明日やる」
「予定表に書いて」
「もう書いてある」
ガニーロは店内の壁を指さした。そこには大きな紙の予定表があり、明日の欄に細かい文字が並んでいる。
看板右電球。
喫茶ペアカップのコーヒーミル。
雨漏り確認。
赤い傘の持ち主探し。
レトリスは黙った。
予定表の一番下に、小さく「蒼い鞄、様子を見る」と書いてあるのが見えた。
「消して」
「どれ」
「蒼い鞄」
「留め具の様子を見るだけ」
「消して」
ガニーロはペンを取り、予定表の文字の横に線を引いた。完全に消すのではなく、別の言葉へ書き換える。
青い留め具、様子を見る。
「同じでしょう」
「鞄じゃない」
「そういう問題じゃない」
言いながら、レトリスは鞄の肩紐を握り直した。
留め具は、もう鳴らなかった。
けれど店の奥で、布に包まれた木箱が、ほんのかすかに熱を持った気がした。
レトリスは足を止めた。
「今、何か」
ガニーロの顔から、ゆるい空気が消えた。
「鞄?」
「触らないで」
「触らない」
蒼い鞄の中で、小さな紙送りの音がした。
昨日より短い。けれど確かに、何かが動いた音だった。
エメットが、店先から振り返る。
「鳴りました?」
「鳴ってない」
レトリスは即答した。
鞄の奥で、ち、ち、と細い音が続く。
ガニーロは何も言わず、作業台の上の乾いた布を取った。差し出すだけで、鞄には触れない。
レトリスはその布を奪うように受け取り、蒼い鞄を包んだ。
その瞬間、布の隙間から白い紙の端が一ミリだけのぞいた。
印字は、まだ最後まで出ていない。
見えたのは、たった四文字だった。
あなたを――
レトリスは鞄を抱え込んだ。
ガニーロも、エメットも、何も聞かなかったことにしたように黙っている。
青鞄電子堂の看板では、接触不良のはずの左の電球が、一瞬だけ灯った。
すぐに消えた。
雨の細い音だけが、三人の間に残った。




