第2話 蒼い鞄は勝手に鳴る
雨は、説明会が終わってからのほうが強くなった。
商店街会館の窓は白く曇り、向かいの喫茶「ペアカップ」の看板も、湯気の向こうに沈んだようにぼやけている。会議室の床には、濡れた傘から落ちた水がいくつも丸を作っていた。オリーンがモップを抱えて右へ左へ走り、そのたびに紙コップの山が揺れた。
「気まずい沈黙にはクッキーって言いましたけど、怪しい電子音には何を出したらいいですか。シナモンですか。塩ですか」
「黙る、という選択肢はないの」
レトリスが低く言うと、オリーンは口を両手でふさいだ。けれど目だけは、蒼い鞄へ向けられている。部屋の隅にいたアリシャーも、図面をまとめる手を止めていた。ヒルドバーグは何も言わず、濡れた床へ新しいタオルを置いた。
蒼い鞄は、レトリスの膝の上で小さく震えていた。
ちり、ちり。
音は弱い。だが、金具の鳴る音ではない。薄い金属板を針でつついたような、短い電子音だった。
ガニーロは、まだ一歩も近づいていなかった。彼は自分の作業上着の袖を軽く握り、濡れた床に靴跡を増やさないよう、壁際に立っている。
「古い電子ブザーの音に似てる」
「似てるだけよ」
「電池が残っているなら、熱を持つことがある。鞄の中を出したほうがいい」
「役所の資料と私物が入っているの。人前で広げるものじゃない」
「じゃあ、役所の人だけ残して」
「あなたは役所の人じゃない」
言い返すと、ガニーロは少し困った顔をした。その顔が、レトリスの腹立たしさを余計に引き上げる。怒鳴り返せばいいのに。十年前のことを先に言えばいいのに。黙ってこちらの都合だけを考えようとするから、言葉の置き場所がなくなる。
「レトリスさん」
アリシャーが、机の上の図面を端へ寄せた。
「安全確認だけなら、私も残ります。熱源かもしれません。紙資料と一緒にしておくのは避けたほうがいい」
淡々とした声だった。責めない。急かさない。ただ、必要なことだけを置く。
レトリスは鞄を抱いたまま、窓の外を見た。雨粒がガラスに細い道を作って下りていく。十年前も、窓の外はこんなふうに歪んでいた。待っている相手が来ない時、音は何でも大きく聞こえる。雨。人の足音。遠くのサイレン。自分の呼吸。
ちり。
鞄の底が、もう一度鳴った。
「……見るだけよ。触るのは、私が許可したところだけ」
「うん」
「その、うん、が腹立つの」
「じゃあ、はい」
「それも腹立つ」
オリーンが口をふさいだまま肩を震わせた。ヒルドバーグが彼女の背中にタオルをかけた。笑うならせめて湯気で隠せ、という無言の合図に見えた。
レトリスは長机の上に鞄を置いた。蒼い帆布は雨を吸って色が濃くなっている。右側の留め具は、たしかに少し歪んでいた。何度も無理に閉めたせいで、金具の爪が内側へ曲がっている。
ガニーロは腰をかがめ、手を出さずに覗き込んだ。
「留め具が斜めに噛んでる。閉じるたびに、中の布を少し巻き込んでると思う」
「だから鳴るの」
「留め具だけなら、ちり、じゃなくて、きし、かな」
「音の表現を訂正しないで」
「ごめん」
また謝る。レトリスは息を詰め、鞄の口を開いた。
最初に出したのは、今日配った資料の控えだった。次に、役所の名札。濡れたハンカチ。小さな筆箱。古いノート。母の字が残った封筒。指先が封筒へ触れた時、レトリスは一瞬だけ手を止めたが、何も言わず脇へ置いた。
その下に、布に包まれたものがあった。
白地に青い線の入った、欠けたカップの片割れ。
会議室の空気が、少しだけ変わった。
ガニーロの視線が、カップに吸い寄せられた。彼はすぐ目をそらそうとしたが、間に合わなかった。見た、と分かるほど、表情が硬くなっている。
「それ」
「私のよ」
「うん」
「何か言いたいなら、言えば」
ガニーロは口を開き、閉じた。
レトリスは布ごとカップを引き寄せた。割れた縁は、指を切らないよう薄い和紙で包んである。十年前から、何度も捨てようとして、捨てられなかった。腹が立つ日は、なおさら捨てられなかった。
「来なかった人に見せるために持っていたわけじゃない」
「……うん」
「だから、その、うん、をやめて」
「はい」
「今度は素直すぎる」
オリーンがとうとう小さく吹き出した。
「すみません。今の会話、コーヒーに入れる砂糖より甘いのに、本人たちだけ塩を振っています」
「オリーン」
ヒルドバーグが短く名前を呼ぶと、オリーンは両手でモップを抱えて直立した。
「床を拭きます」
「そうして」
レトリスはカップを資料の上から離し、さらに鞄の底を探った。
古い布の奥に、薄い木箱があった。手のひらより少し大きい。表面には、子どもの頃に書いたような丸い文字で、「まいごにならない」とだけ書かれている。下のほうは水染みでにじみ、続きは読めなかった。
ガニーロの喉が、小さく上下した。
レトリスは木箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、緑色の小さな基板だった。端に豆粒ほどのスピーカー、細い銅線、古いボタン電池の金具、黒い記録用の部品らしいものが付いている。半田は不揃いで、ところどころ丸く盛り上がっていた。子どもの手で作りかけたものを、大人が途中で保護するように、透明の薄い板が一枚かぶせてある。
ちり。
音は、その基板から鳴った。
オリーンがモップを持ったまま一歩下がった。
「鞄、鳴るんじゃなくて、中身が鳴ってました」
「見れば分かるわ」
「でも、鞄が勝手に鳴るほうが、題名っぽいです」
「何の題名よ」
「町内会の回覧板とか」
「怖すぎるでしょう」
ガニーロは、笑わなかった。基板から目を離さず、ゆっくり片膝をつく。
「これ、覚えてる」
「私は覚えていないわ」
「嘘をつく時、早い」
レトリスは返事に詰まった。腹立たしいことに、その指摘は当たっていた。
覚えている。
青い鞄を背負っても迷子にならないように、光と音で避難所まで案内する。子ども二人で考えた、無謀で、真剣な道具。ガニーロは地図を描き、レトリスは危ない場所に赤丸をつけた。二人とも、町を守るという言葉の重さを知らないまま、台所のテーブルで部品を並べていた。
完成する前に、雨の日が来た。
「電池、抜いたはずなのに」
レトリスは小さく言った。
「ボタン電池は空かもしれない。でも、別の蓄電部品が残っているかも。水分で接点がつながって、鳴っている可能性がある」
「直せるの」
「直す前に、止める。熱くなったら危ないから」
「壊さないで」
自分で言ってから、レトリスは唇を噛んだ。壊れているのだから止めるべきだ。危ないならなおさら。そう判断するのが防災担当の仕事だった。
それでも、壊さないで、と口が先に言った。
ガニーロは、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。
「壊さない。約束する」
約束。
その言葉が、机の上に落ちた瞬間、レトリスの肩がこわばった。
ガニーロも気づいたのだろう。すぐに目を伏せた。
「……ごめん。今のは」
「触っていいところを言うわ。透明板の上だけ。銅線は動かさないで。箱から出す時は、私が持つ」
「はい」
レトリスは基板を木箱ごと机の中央へ出した。ガニーロは作業上着の胸ポケットから、小さな布と折りたたみ式の工具を取り出した。商店街の説明会へ来るだけなのに、どうして工具が出てくるのか。言おうとして、やめた。彼なら持っている。そういう人間だった。
彼はまず、基板の端を布で押さえ、透明板の上についた水滴を拭いた。触れ方は驚くほど静かだった。壊れたものを急がせない手つき。子どもの頃、壊れた目覚まし時計を分解して、戻せなくなった時と同じ目をしている。
「留め具も、ついでに見ていい」
ガニーロが聞いた。
「基板と関係あるの」
「直接はない。でも、鞄が閉まらないと、また濡れる」
「……透明板を戻してから」
「分かった」
ガニーロは、基板の側面を見た。
「記録用の部品がある。古い音声を少しだけ残せるものだと思う。それと、紙を送る小さな機構……いや、プリンターと言うには簡単すぎるけど、感熱紙みたいなものを出す部品がある」
「紙を出す?」
「たぶん」
その瞬間、基板の下で、かすかな摩擦音がした。
じ、じじ。
レトリスは反射的に手を引いた。木箱の底に隠れていた細い隙間から、薄い紙が少しずつ出てくる。古いレシートより幅が狭く、端は水でふやけたように波打っていた。
オリーンが、モップを抱きしめる力を強めた。
「出ました。鞄から、紙が出ました。今日の回覧板は本当にこれでいけます」
「いけません」
レトリスは即座に言ったが、目は紙から離せない。
じじ、じ。
紙は、途中で一度止まり、また動いた。インクではなく熱で文字が浮かぶように、灰色の線がゆっくり現れる。
アリシャーが身を乗り出した。
「文字ですね」
「読まないで」
レトリスの声が鋭くなった。だが、言った本人の目が、もう読んでいた。
紙の上には、たどたどしい文字でこう印字されていた。
――嫌いと言うほど、目で追っている。
会議室が止まった。
雨音まで、少し遠くなった気がした。
レトリスは紙をつかもうとして、指先を空振りした。ガニーロが先に取ったわけではない。紙がまだ熱を持っていたため、彼が工具の柄でそっと押さえただけだった。
「読んでない」
「読んだ顔をしているわ」
「してない」
「耳が赤い」
「それは、こっちの台詞だと思う」
レトリスは自分の耳に手を当てた。熱い。ひどく熱い。紙に火がついたわけでもないのに、顔の内側から燃えているようだった。
「これは違う」
「何と違うの」
「全部よ。こんな文章、私は書いていない」
「声の断片か、昔のメモを組み合わせてるのかもしれない。子どもの頃の定型文カード、覚えてる? 避難訓練の時に、短い言葉を差し替えて遊んでた」
「覚えていない」
「早い」
「黙って」
オリーンが両手を上げた。
「大丈夫です。私は何も聞いていません。嫌いと言うほど目で追っている、なんて町内の誰にも言いません」
「全部言ったわよ」
「確認のためです」
「確認しないで」
ヒルドバーグが、紙コップを一つレトリスの前に置いた。中身は温かい茶だった。
「飲みなさい。顔から湯気が出る前に」
「出ていません」
「出る前に、と言った」
レトリスは反論できず、紙コップを握った。温かさが指に移る。悔しいことに、少し落ち着いた。
ガニーロは紙を直接見ないよう、視線を基板へ落としていた。
「心を読んでいるわけじゃない」
「当たり前でしょう」
「古い記録から文章を作っているだけだと思う。今の言葉も、誰かが昔書いた短文と、録音された音が混ざったんだと思う」
「誰かって、誰」
ガニーロは答えなかった。
レトリスも、それ以上は聞かなかった。聞けば、自分の字で書いた古い紙が出てくるかもしれない。母の声が出てくるかもしれない。十年前、約束の場所で待っていた自分の、もう忘れたふりをしている言葉が出てくるかもしれない。
基板は、ようやく沈黙した。
会議室の雨音が戻ってくる。
ガニーロは透明板を元に戻し、木箱の蓋を閉めようとして、途中で手を止めた。
「熱は下がってる。今日のところは、乾いた布に包んで、紙資料と離して持ったほうがいい。留め具は応急で直せるけど、完全には店で見たほうがいい」
「青鞄電子堂に来いということ」
「来なくても、道具を持って役所に行く」
「役所に来ないで」
「じゃあ、喫茶店」
「なぜ選択肢を増やすの」
「鞄が濡れたままだと、また鳴る」
レトリスは木箱を見た。布に包まれた欠けたペアカップを見た。閉まらない留め具を見た。
どれも、放っておけばいいものではなかった。
「明日の昼」
小さく言った。
「喫茶ペアカップの隅の席。役所の昼休みの間だけ。留め具だけを見る。基板は、私が許可した時だけ」
「分かった」
「あと、今日の紙のことは誰にも言わない」
ガニーロはうなずいた。
オリーンも大きくうなずいた。大きすぎて信用できなかった。
ヒルドバーグは棚から小さな封筒を持ってきて、印字された紙を入れた。
「熱で文字が薄くなる前に、乾いたところへ」
「保存するつもりは」
「捨てるかどうかは、落ち着いてから決めればいい」
レトリスは封筒を受け取った。表には何も書かれていない。けれど、その無地の白さが、妙に重かった。
帰り際、ガニーロが会議室の入口で立ち止まった。傘立てから、また二本の傘を取る。一つは自分のもの。もう一つは、誰かが忘れていった赤い傘だった。
「置いていかないの」
「入口に置いておくと、風で倒れて折れるから。ペアカップに預ける」
「頼まれてもいないのに」
「うん」
まただ、とレトリスは思った。
けれど今度は、その言葉を責める前に、蒼い鞄の中で木箱がかすかに鳴った気がした。音ではない。記憶が動く時の、胸の内側のきしみだった。
レトリスは鞄の口を押さえ、封筒を胸ポケットへ入れた。
外では、商店街の灯りが雨に滲んでいる。
明日、喫茶ペアカップの隅の席で、彼女はもう一度この鞄を開けることになる。
十年前に閉じたままのものまで、一緒に開いてしまうかもしれないと分かっていながら。




