第1話 世界で一番嫌いな人、現町に帰る
春の雨は、現町の坂道をゆっくり光らせていた。
海から吹く風はまだ冷たく、川沿いの古い商店街では、軒先の赤い布看板が湿った音を立てて揺れている。閉店した金物屋の前には、濡れた段ボールが二つ積まれていた。魚屋の前では、店主が魚箱を持ち上げるたび、足元の水たまりに白い空が割れて映った。
レトリスは、現町役所の防災担当と書かれた封筒を鞄の奥へ押し込んだ。
蒼い鞄だった。
古い帆布でできていて、角は少し擦れている。右の留め具は閉じたつもりでも、歩くたびにかすかに鳴った。ちり、と小さな金属音がするたび、彼女は肩紐を握り直した。
十年ぶりに戻った現町は、知らない店が増えたのに、嫌になるほど昔の匂いを残していた。雨に濡れた石段。川から上がる泥の匂い。坂の途中で息を切らす人の声。商店街のアーケードにぶら下がった、くすんだ防災標語。
――早めの避難が命を守る。
その下を、買い物袋を抱えた老婦人がゆっくり通った。足元は濡れていて、段差には小さな水の筋が走っている。レトリスは一度、役所へ向かう足を止めかけた。だが、老婦人の横へ商店の若い男が出てきて、何も言わずに袋を半分持った。
レトリスは唇を結び、再び歩き出した。
今日の午後二時、商店街会館の二階で、古いハザードマップ見直しの住民説明会が開かれる。役所から渡された資料には、十年前の集中豪雨以降も更新されていない区域がいくつも残っていた。川沿いの低地、商店街裏の細い通路、古い排水路につながる坂下の小道。どれも彼女の記憶の中では、雨の日に水が溜まる場所だった。
役所の机で資料を受け取った時、上司は「まずは穏やかに」と言った。
穏やかに、で人が逃げ遅れるなら、そんな言葉は紙の重しにもならない。
商店街会館は、喫茶「ペアカップ」の向かいにあった。白い外壁はところどころ雨染みが残り、入口の掲示板には、町内清掃、防犯見回り、古道具市、防災説明会の紙が斜めに重なっている。レトリスが二階へ上がると、すでに住民たちの話し声が廊下へこぼれていた。
「役所の人が来るんだって」
「新しい地図って、うちの店が危ない区域に入るのかしら」
「観光客が戻ってきたばかりなのに、赤い色で塗られたら困るよ」
レトリスは足を止めなかった。会議室の扉を開くと、湿った紙の匂いと、淹れたてのコーヒーの匂いが混ざっていた。
長机が四列。前方の壁には、十年前から使われている現町のハザードマップが貼られている。色あせた青い線は川の氾濫想定を示し、赤い点は避難所を示していた。ただし、その赤い点のうち一つは、すでに閉鎖された旧地下避難施設「サブマリン」の場所だった。
レトリスはその点を見て、眉を寄せた。
誰も、消していない。
「レトリスさん、こちらへ」
土木担当のアリシャーが、前方の席から手を上げた。彼は細い雨粒のついた眼鏡を拭きながら、壁に貼った地図の端を押さえている。机の上には、雨水ますの位置を記した図面と、古い航空写真が重ねて置かれていた。
「資料、濡れましたか」
「少しだけです。中身は読めます」
「それはよかった。今日、反対意見は出ます」
「出るでしょうね」
レトリスが答えると、アリシャーは眼鏡をかけ直し、短くうなずいた。慰めも励ましもない。その無駄のなさは悪くなかった。
会議室の後ろでは、喫茶「ペアカップ」のオリーンが紙コップを並べていた。明るい黄色のエプロンをつけ、まだ誰も頼んでいないのに、「砂糖は右、ミルクは左、気まずい沈黙にはクッキーです」と声を張っている。その横で、店主のヒルドバーグが黙って湯気の立つポットを置いた。
レトリスは会釈だけして、資料を広げた。
その時、会議室の入口で小さなざわめきが起きた。
誰かが、濡れた傘を二本持って入ってきた。一つは自分の傘。もう一つは、入口で困っていた老人に渡していたらしい。男は濡れた袖を軽く振り、会議室の隅の空席へ向かおうとして、壁際の延長コードにつまずきかけた紙箱を片手で受け止めた。
「危ないですよ。これ、足元に置くなら、せめて壁側に寄せたほうが」
声は穏やかだった。誰かを責める前に、紙箱を移動させる手が先に動いていた。
レトリスは、その横顔を見た。
十年という時間は、人の背を伸ばす。声も低くする。子どもの頃に細かった手は、工具を握る手に変わる。けれど、困っている物や人を見ると、先に手が出る癖までは変わらない。
青鞄電子堂の看板を背負ったような、くすんだ青の作業上着。
ガニーロだった。
彼は前方の地図へ視線を向け、それからレトリスに気づいた。目が合った瞬間、彼の手が止まった。傘から落ちる水滴だけが、床に小さく跳ねた。
「レトリス」
その呼び方に、会議室の湿った空気が少しだけ昔へ戻った。
レトリスは、机の端を指で押さえた。紙が濡れているせいで、端が少し波打っている。
ガニーロは何か言いかけた。謝罪か、挨拶か、言い訳か。十年前に聞けなかった言葉が、今さら口から出てくるのかもしれなかった。
レトリスはその前に、はっきり言った。
「世界で一番嫌いな人」
紙コップを並べていたオリーンの手が止まった。アリシャーの眼鏡が、鼻筋からほんの少し下がった。後ろの席で誰かが咳払いをしたが、次の音が続かなかった。
ガニーロは、反論しなかった。
ただ、視線を一度だけ床へ落とし、持っていた二本の傘を入口の傘立てに差した。傘立てはすでにいっぱいで、一本が外へ倒れそうになった。彼はそれを直し、他人の傘の向きまで揃えた。
その動作が、レトリスの胸の奥を余計に乱した。
怒らせたいわけではなかった。傷つけたいわけでもない。ただ、十年前から置きっぱなしになっている言葉を、どこかに叩きつけなければ、今日の説明を始められない気がした。
「……久しぶり」
ガニーロが言った。
「その言葉を返されるほど、私は暇じゃないわ」
「うん」
「うん、じゃなくて」
レトリスが言いかけたところで、前方の壁から地図を留めていた磁石が一つ落ちた。古いハザードマップの右下がめくれ、閉鎖済みの旧地下避難施設を示す赤い点が大きく揺れた。
ガニーロが一歩動いた。
レトリスも同時に手を伸ばした。
二人の指先が地図の端でぶつかり、レトリスは思わず手を引いた。ガニーロは何も言わず、地図を押さえた。袖口から雨水が落ち、レトリスの資料に小さな丸い染みを作った。
「あ」
ガニーロは慌てて、自分の鞄から薄い布を取り出した。
「触らないで」
「でも、資料が」
「触らないでと言ったの」
声が強くなった。会議室の全員がこちらを見ているのが分かった。それでもレトリスは、引けなかった。
ガニーロは布を持ったまま止まり、それから、資料そのものには触れず、机の端に染みていく水だけをそっと拭いた。
ずるい、とレトリスは思った。
そうやって、言われたことだけは守る。けれど、放っておけない部分には手を出す。昔からそうだった。約束の場所へ来なかった日だって、きっとどこかで何かに手を出していたのだろう。そう考えてしまう自分が、いちばん嫌だった。
「説明会を始めます」
レトリスは前を向いた。
声が震えないように、資料の一枚目を両手で持つ。紙は湿って少し重かった。
「本日、午後二時から、現町商店街会館二階で、古いハザードマップの見直しについて説明します。十年前の集中豪雨以降、地形や店舗、避難先が変わっているにもかかわらず、現在使われている地図には修正されていない箇所があります」
住民たちがざわめいた。
「危険区域を増やすってことか」
「うちの店が入ったら困る」
「観光案内所に置けなくなるじゃないか」
レトリスは、反論を飲み込まずに受け止めた。
「困ることは分かっています。ですが、危険な場所を地図から消しても、水はそこを避けてくれません」
会議室の空気が固くなる。
その時、後ろの席で、年配の女性が小さくくしゃみをした。ガニーロが自分の席を立ち、入口近くに置かれていた予備の膝掛けを取って渡した。女性が驚いて礼を言うと、彼は少し頭を下げただけで席へ戻った。
レトリスは見ないふりをした。
「今日確認したいのは、危険を誰かの責任として押しつけることではありません。次に雨が強く降った時、どの道を通り、どこで休み、誰に声をかけるかです」
言いながら、彼女は壁の地図を指した。
「この赤い点、旧地下避難施設サブマリンは、現在閉鎖されています。にもかかわらず、避難先として残っています。まず、ここから直します」
前列に座っていた商店街振興会のブルグリンデが、ゆっくり顔を上げた。
「直す、という言い方は簡単ね。赤い点を消したら、近くの住民は不安になります。商店街に来る人も減る。危険ばかり強調して、町を守れるの」
「危険を隠して、町は守れません」
「隠すとは言っていないわ。伝え方の話をしているの」
ブルグリンデの言葉に、何人かがうなずいた。レトリスは次の資料をめくった。そこには、十年前の浸水範囲と現在の店舗配置を重ねた図がある。だが、濡れた角が貼りつき、うまくめくれなかった。
指先に力が入りすぎる。
紙が破れかけた瞬間、横から新しい資料が差し出された。
ガニーロだった。
「予備、持ってきてると思って」
「どうしてあなたが」
「説明会の案内に、資料が足りない場合があるって書いてあったから」
「普通、参加者は予備を持ってこない」
「うん。そうだね」
また、うん、だった。
レトリスは受け取らないつもりだった。だが、壁の地図の前で固まっている時間はない。彼女は資料を引ったくるように受け取り、すぐ前を向いた。
その紙は、端がきれいに揃えられていた。左上に小さく、雨で濡れても開きやすいよう、角が丸く切られている。
腹が立つほど、使いやすかった。
説明会は一時間半続いた。
危険区域を広げる話になるたび、住民から声が上がった。アリシャーは雨水ますの位置と勾配を淡々と説明し、ブルグリンデは商店街の評判を守るための言い回しを求めた。オリーンは気まずくなるたびに「クッキー、今なら割れているので罪悪感も半分です」と配り歩き、ヒルドバーグは濡れた靴の人へ黙ってタオルを投げた。
ガニーロは、ほとんど発言しなかった。
ただ、住民が「夜の坂道は暗い」と言うと、手帳に何かを書いた。「排水溝の蓋が浮く」と聞けば、場所を尋ねた。「橋の下が怖い」と小学生がつぶやけば、背を低くして目線を合わせた。
レトリスはそれを、視界の端で何度も見た。
説明会が終わる頃、雨は強くなっていた。窓を叩く音が会議室の会話を薄くしていく。住民たちは不満と不安を抱えたまま、それでも配られた資料を鞄へ入れて帰っていった。
最後に残ったのは、役所の職員と、商店街の数人と、ガニーロだけだった。
レトリスが資料をまとめていると、蒼い鞄の留め具が、ちり、と鳴った。
彼女はすぐに手で押さえた。
また鳴った。
今度は、金属音ではなかった。
ちり、ちり、という小さな電子音。
ガニーロが顔を上げた。
「その鞄」
「触らないで」
「触らない。ただ、音が」
「古いからよ」
「古いだけの音じゃない」
レトリスは鞄を抱き寄せた。蒼い帆布の底が、かすかに震えている。そんなはずはなかった。この鞄には、古いノートと、母の残した鍵と、欠けたカップと、使えない小さな基板しか入っていない。
使えないはずのものしか。
ちり。
小さな音が、雨の会議室に落ちた。
ガニーロは一歩も近づかなかった。ただ、濡れた資料の角を押さえるために置いていた指をゆっくり離し、まっすぐレトリスの鞄を見ていた。
「レトリス」
「何」
「この話には続きがあって……」
彼はそこまで言って、口を閉じた。
レトリスの胸の奥で、十年前の雨音が一瞬だけ跳ねた。
その沈黙を破るように、蒼い鞄の底から、三度目の電子音が鳴った。




