第30話 この話には続きがあって、君を待たせた
雨合羽講座の片づけが終わるころ、商店街の石畳には、夕方の光が薄く伸びていた。
魚屋の軒先に吊るした透明な合羽が、風を受けてかすかに鳴る。まるで小さな波が並んでいるようだった。青鞄電子堂の前では、エメットが反射板の箱を両手で抱え、オリーンが「成功祝いの予備祝い」をすると言って、まだ何も決まっていない祝詞を練習している。
「予備祝いって、何を祝うんですか」
レトリスが聞くと、オリーンは胸を張った。
「祝うことが起きた時、すぐ祝えるように、祝う練習を祝います」
「言葉が迷子です」
「迷子にならない鞄を作っている人たちのそばなら、言葉も帰ってきます」
ガニーロは工具箱を持ち上げかけて、少し笑った。笑いかけたまま、ふいに視線をそらす。店の奥には、黒い布をかけた箱があった。箱の上には、レトリスの字で大きく「印字禁止」と書かれている。
蒼い鞄の基板は、そこに入っていた。
停止命令を出したのはレトリスだった。紙に出た言葉が誰かの助けになることもある。けれど、助けになる前に、誰かを裸足で人前に立たせることもある。その判断は、彼女自身が一番よく知っていた。
ガニーロは布の端を指で押さえた。
「今日は、箱から出しません」
「当然です」
レトリスはすぐ答えた。けれど、声は少しだけ柔らかかった。
「あなたは、止めると言ったら止める人です。その点だけは、信じています」
「その点だけですか」
「ええ。店の床を片づける件は、まだ信じていません」
「それは努力します」
「努力ではなく、今日中です」
オリーンが店先から顔を出した。
「はい、青鞄電子堂、床片づけ達成の予備祝いも追加で」
「達成してからにしてください」
レトリスが言い、エメットが真面目な顔でうなずいた。
「片づけは、達成が見えると祝いやすいです」
「エメットまで厳しい」
ガニーロは苦笑しながら、反射板の箱を店の中へ運んだ。工具台の上には、雨合羽講座で使った濡れた紐、失敗した説明札、サポナーラが置いていった黄色い袖の切れ端が並んでいる。
レトリスはそれを見て、無言で箱を一つ引き寄せた。
「濡れた物。紙。金属。道具。混ぜないでください」
「はい」
「はい、ではなく、手も動かしてください」
ガニーロは従った。
外のにぎやかな声が、少しずつ遠のいていく。オリーンはエメットを連れて喫茶ペアカップへ向かい、ブルグリンデは雨合羽の置き場所を確認すると言って商店街の奥へ歩いていった。サポナーラの「袖は二つあるから迷うんだ」という声だけが最後まで残り、やがてそれも角を曲がって消えた。
店の中には、レトリスとガニーロの手元の音だけが残った。
紙を箱へ入れる音。
ねじを小皿へ落とす音。
濡れた紐を絞る音。
十年前も、こういう音があった気がした。雨戸を閉める音。遠くのサイレン。誰かが階段を駆け上がる音。けれど記憶の中では、それらがいつも水音に負けてしまう。
レトリスは、説明札の束をそろえながら言った。
「この前の録音」
ガニーロの手が止まった。
「はい」
「あなたの声でした」
黒い布をかけた箱が、店の奥で黙っている。
レトリスは、そこを見なかった。
「あの声は、私に向けたものではなかった。そこまでは、わかっています」
ガニーロは、返事を探すように、ねじの皿を見つめた。小さな銀色の輪が、夕方の光を受けて鈍く光っている。
「でも、あなたは言いました。先に逃げて。あとで追いつく、と」
「言いました」
「誰に」
店の奥で、古い時計が一度だけ鳴った。修理途中のものだから、時刻は合っていない。今鳴る理由も、誰にもわからない。
ガニーロは息を吸った。
「わかりません」
レトリスの手元で、紙の角がずれた。
「わからない?」
「顔を、はっきり覚えていないんです」
ガニーロは、作業台の端に置いた布巾を握った。握りしめすぎて、布の端がねじれる。
「あの日、僕は約束の場所へ行くつもりでした。ペアカップを持って、蒼い鞄の部品も持って。あなたが怒る前に着くつもりで、いつもより早く家を出ました」
「早く?」
「はい。あなたは、五分遅れただけで、十年後まで覚えていそうだったので」
レトリスは一瞬だけ眉を上げた。
「実際、覚えています」
「やっぱり」
「茶化さないでください」
「すみません」
ガニーロは小さく頭を下げた。それから、ゆっくり続けた。
「駅裏の細い道を通りました。商店街を回るより早いと思って。雨は強かったけれど、まだ走れました。水も、足首くらいで」
レトリスは、紙の束を持ったまま動かなかった。
「その時、声が聞こえたんです」
ガニーロの視線は、店の床ではなく、そこにはない路地を見ていた。
「泣いている声でした。水の音に混じって、短く。最初は猫かと思いました。でも、もう一度聞こえて、人だとわかった」
レトリスは唇を結んだ。
「あなたは、行った」
「はい」
「約束の場所ではなく」
「はい」
はっきりした返事だった。
言い訳の形をしていない。ただ、その日の足跡を一つずつ置いていくような声だった。
「路地の奥に、低い塀がありました。水がそこで渦を巻いていて、長靴が片方だけ浮いていた。声は、その向こうからでした。誰かが、木箱みたいなものにつかまっていました。小さくて、濡れていて、顔に泥がついていて」
ガニーロはそこで言葉を止めた。
レトリスは、先を急かさなかった。
「僕は、鞄を塀の上に投げました。ペアカップも入っていました。投げた時、変な音がして、たぶんその時に割れたんだと思います」
「……それで」
「水に入りました」
レトリスの指が、紙の端を強く押さえた。
「あなた、子どもだったでしょう」
「子どもでした」
「泳げたんですか」
「人に自慢できるほどでは」
「自慢する場面ではありません」
「はい」
彼の返事があまりに素直で、レトリスは怒るために用意していた息を、どこへ出せばいいのかわからなくなった。
ガニーロは、作業台の上の小さな傷を指でなぞった。
「水の中で足を取られて、その子も僕も何度か転びました。僕は、何度も同じことを言いました。先に逃げて。あとで追いつく。たぶん、怖がらせないために。たぶん、自分にも言っていたんです」
「あとで、追いつく」
レトリスが同じ言葉を繰り返すと、店の空気が少し重くなった。
十年前、彼女が待っていた場所にも、その言葉は届いていなかった。
「避難所まで行ったんですか」
「近くの高い家の玄関までです。大人の人がいて、その人にその子を渡しました。そこから戻ろうとした時には、もう道が変わっていました」
「道が変わる?」
「水が来て、段差が見えなくなって、知っている道なのに、知らない場所みたいになっていました。僕は、戻る道を間違えました。何度も」
レトリスは、アリシャーが示した古い等高線を思い出した。十年前の避難経路が、途中で水没していたこと。地図と現実のずれが、人を迷わせたこと。
言葉で知るのと、その迷いの中にいた人の声で聞くのとでは、まるで違った。
「それでも、戻ろうとしたんですね」
「はい」
ガニーロは、すぐには次を言わなかった。
店の外で、雨合羽がまた小さく鳴った。
「でも、戻れませんでした」
短い言葉だった。
十年分の沈黙よりも、短かった。
レトリスは顔を伏せた。怒りが消えたわけではない。消えてしまえば楽なのに、そんな簡単なものではなかった。彼が誰かを助けていたことを知っても、自分が待っていた時間は消えない。濡れた靴の冷たさも、喫茶店の窓に映った自分の顔も、母と言い合った声も、今さら水に流せない。
ガニーロは、布巾を作業台に置いた。
「僕は、あなたを待たせました」
レトリスの肩が、わずかに揺れた。
「約束を、守れませんでした」
ガニーロは深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
謝罪は、店の中に静かに落ちた。
赤面ポエムのように大げさではなく、古い録音のように途切れもしない。ただの言葉だった。だから逃げ場がなかった。
レトリスは紙の束を置いた。
「ずるいです」
「はい」
「ここで素直に謝られると、私は怒りにくい」
「怒っていいです」
「許す準備もできていません」
「はい」
「責めたい気持ちも、あります」
「はい」
「でも、あなたがあの日、誰かを助けたことを、責めることはできません」
ガニーロは頭を下げたまま、動かなかった。
レトリスは、胸の奥で絡まっていた糸を一本ずつ見るように、ゆっくり息をした。
「それでも、私は待っていたんです」
ガニーロの指が、作業台の縁に触れた。
「はい」
「怖かった。雨の音も、川の音も、人の声も、全部同じに聞こえました。あなたが来ない理由を、私は知らなかった。知らないから、何度も考えました。嫌われたのか。忘れられたのか。約束なんて、私だけが大事にしていたのか」
「違います」
「今なら、少しはわかります」
レトリスは顔を上げた。
目は赤かったが、声は崩れなかった。
「でも、十年前の私は知りませんでした」
ガニーロは、ようやく顔を上げた。
「はい」
「だから、すぐには片づきません。あなたの店の床より、ずっと散らかっています」
ガニーロは、ほんの少しだけ口元を動かした。
「その言い方は、僕の店が相当ひどいという意味ですか」
「はい」
「そこは迷わないんですね」
「迷いません」
二人の間に、小さな笑いが落ちた。
笑ったからといって、過去が薄くなるわけではない。それでも、その笑いは、濡れた靴を脱ぐための椅子くらいにはなった。
その時、店の奥で、かすかな音がした。
黒い布をかけた箱の中からではない。作業台の下、古い工具箱のほうからだった。
ガニーロがしゃがみこむと、床に落ちていた小さな紙片が、送風機の風で震えていた。紙片には、雨合羽講座で使った説明札の裏に、誰かの古い字が薄くにじんでいる。
レトリスも隣にしゃがんだ。
「これは」
ガニーロは慎重に拾い上げた。
水染みで文字は欠けている。
けれど、かろうじて読める部分があった。
――あとで追いつく。
――だから、待ってて。
レトリスは息を止めた。
ガニーロの顔から、血の気が引いていく。
「僕の字です」
「十年前の?」
「たぶん」
レトリスは紙片を見つめた。
届かなかった言葉。
渡されなかった紙。
けれど、捨てられずに、工具箱の底か、濡れた部品の隙間か、どこかに残っていた小さな続き。
「あなた」
レトリスは言いかけて、言葉を止めた。
ガニーロが、先に小さく言った。
「この話には続きがあって……」
いつもの口癖だった。
けれど今回は、逃げるためではなかった。
ガニーロは、紙片を両手で持ったまま続けた。
「まだ、思い出せていないことがあります。誰を助けたのか。どうしてこの紙がここにあるのか。僕が、どこまで戻ろうとしたのか」
レトリスは、彼の手元を見た。
「全部、今すぐ言えますか」
「言えません」
「でしょうね」
彼女は、少しだけ息を吐いた。
「では、言えるところまででいいです。ただし」
「ただし?」
「次からは、言えないまま十年置くのは禁止です」
ガニーロは、紙片を見つめたまま、深くうなずいた。
「はい」
外では、商店街の灯りが一つずつともり始めていた。魚屋の軒先の透明な合羽が、その灯りを受けて淡く光る。雨の日のために置かれたものが、晴れた夕方に、次の雨を待っている。
レトリスは立ち上がり、作業台の上の箱を一つ持った。
「片づけを続けます」
「はい」
「紙片は、乾かしてから保管します。勝手に基板へ読ませないでください」
「しません」
「それと」
レトリスは、店の入口へ視線を向けた。
「あなたが約束の場所へ向かったことは、聞きました」
ガニーロは、何も言わなかった。
「でも、私は待っていた。そこも、忘れないでください」
「忘れません」
「なら、今日はそれでいいです」
それでいい。
許したわけではない。
終わったわけでもない。
ただ、十年前から止まっていた針が、ぎこちなく、ほんの少しだけ動いた。
青鞄電子堂の床には、まだ紙もねじも散らばっている。
それでも二人は、同じ場所にしゃがみ込み、同じ箱へ、濡れたものと乾いたものを分けて入れていった。
片づけるには、まず、何がそこにあるのかを見なければならない。
レトリスは、古い紙片を乾いた布の上に置いた。
その文字は、夕方の光の中で、まだ頼りなくにじんでいた。
けれど、消えてはいなかった。




