第29話 サポナーラの雨合羽講座
現町商店街のアーケードには、朝から色とりどりの雨合羽が吊るされていた。
赤、黄、紺、透明。魚屋の軒先には子ども用の小さなものが並び、古道具市で使っていた折り畳み机の上には、大人用の雨合羽、長靴、軍手、濡れた傘を入れる細長い袋まで置かれている。喫茶ペアカップの前には、オリーンが手書きした看板が立っていた。
――濡れない練習、ただし笑って覚える日。
レトリスは、その看板を見た瞬間、眉間に皺を寄せた。
「防災説明の表題としては、少し軽すぎます」
「重くすると、みんな来る前に濡れた顔になりますから」
オリーンは、両手に湯気の立つ紙コップを持ちながら答えた。紙コップの中身は、ヒルドバーグが朝から煮出した生姜湯だ。五月の雨上がりにしては少し蒸し暑いが、商店街の石畳にはまだ夜の雨が残っていて、足先から冷えが上がってくる。
今日の説明役は、サポナーラだった。
本人は胸を張っている。胸を張りすぎて、着ている雨合羽の前身頃がぱつんと鳴った。
「皆さん。本日は、雨合羽の正しい着方を学びます。正しい雨合羽は、あなたの肩を守り、背中を守り、財布の中の領収書まで守ります」
並んだ子どもたちから、すぐに手が上がった。
「領収書ってなに?」
「大人があとで困る紙です」
「じゃあ守らないと怒られるやつだ」
「その通り。よくわかっています」
サポナーラは大きくうなずき、得意そうに袖を上げた。
その袖の先から、なぜか左手ではなく、右手が出た。
見守っていたガニーロが、工具箱を置いたまま固まった。
「サポナーラさん」
「はい、先生」
「袖、逆ではありませんか」
サポナーラは自分の両腕を見た。右へ伸ばしたはずの腕が左から出ている。左へ伸ばしたはずの腕は、背中側で妙な角度に曲がっている。
「……これは、悪い見本です」
子どもたちが一斉に笑った。
レトリスは額に手を当てた。
「始まって三十秒で悪い見本にしないでください」
「三十秒で記憶に残ったので、成功です」
オリーンが拍手した。子どもたちも真似して拍手する。
アリシャーは商店街の柱にもたれ、無表情のまま手帳に何かを書き込んでいた。
「今の何を記録しているんですか」
レトリスが低い声で尋ねると、アリシャーは手帳を少し傾けた。
「前後を確認してから着る。袖を通す前に内側を見る。子どもには、正解だけより間違いも一つ見せる」
「最後の一文は削ってください」
「削りません。実際に全員が笑って見ました」
レトリスは反論しようとして、子どもたちを見た。
確かに、全員が見ていた。魚屋の前で退屈そうに靴の先を鳴らしていた男の子も、喫茶店の壁にもたれていた女の子も、サポナーラの腕の行方を目で追っている。
サポナーラは雨合羽を脱ごうとした。だが袖がねじれて、今度は頭が抜けなくなった。
「落ち着いてください。急いで脱ぐと余計に絡みます」
ガニーロが近づく。
「助けてくれ。視界が黄色い」
「黄色い合羽ですから」
「哲学を言うな」
エメットが小走りに駆け寄った。手には小さなクリップと、青鞄電子堂で作った簡易ライトがある。
「内側を照らします。ここ、ひっかかってます」
ライトの白い光が、合羽の中でぼんやり透けた。サポナーラの頭の輪郭が、黄色い布越しに丸く浮かぶ。
「俺、これ、避難中だったら困るやつだ」
布の中から、少しくぐもった声がした。
笑っていた子どもたちの声が、少し小さくなる。
サポナーラは、絡んだ袖をガニーロとエメットにほどいてもらいながら、布の下で続けた。
「昔な、俺は売り場に雨合羽を積んでいたのに、着方を説明しなかった。防水です、丈夫です、安いです、ってそればっかり言ってた。買った人が、いざという時にうまく着られるかなんて、考えなかった」
黄色い合羽がふわりと持ち上がり、サポナーラの顔が出た。髪はぺたんと額に貼りつき、鼻の頭だけが赤い。
「道具は、持ってるだけじゃ助けてくれない。使い方を、先に体に入れておかないとだめなんだ」
子どもたちは静かになった。
商店街の軒先で、ブルグリンデが腕を組んで立っていた。今日は説明会の備品係として来ている。最初は、雨合羽を吊るした商店街の見た目を気にして、何度も位置を直していた。色がばらばらだ、通りが催し物会場のように見える、観光客が見たらどう思うか。そう言いかけて、結局何も言わなかった。
今は、黄色い合羽から顔を出したサポナーラをじっと見ている。
サポナーラは息を吸い、今度こそ正しい向きで雨合羽を広げた。
「では改めて。雨合羽を着る時は、まず周りを見ます。雨が強い時に道の真ん中で着ようとすると、後ろから来た人とぶつかります。入口の横、屋根の下、壁際。止まれる場所で広げましょう」
ガニーロが、チョークで石畳に小さな丸を描いた。
「ここが止まる場所です。人が通る真ん中ではありません」
「次に、荷物を先に整えます。鞄を背負ったまま着るなら、大きめの合羽。小さい合羽で無理やり覆うと、背中だけ濡れます」
サポナーラは、エメットのリュックを借りて背負った。今度は合羽がきれいにリュックまで覆った。
エメットが、子どもたちへ向かって言う。
「ランドセルを背負ってる人は、後ろも見てください。背中の下だけ出ると、ノートが濡れます」
「宿題が濡れたら?」
男の子が目を輝かせる。
レトリスがすかさず答えた。
「乾かして提出です」
「えー」
「濡れた宿題を言い訳に使う訓練ではありません」
笑いが戻った。
オリーンは看板の横に新しい紙を貼った。
――宿題は守る。命はもっと守る。
レトリスはその紙を見て、口を開きかけ、閉じた。
間違ってはいない。少し変ではあるが、子どもたちは読んでいる。
サポナーラの説明は続いた。
フードは先に紐を緩めておくこと。強く締めすぎると横が見えなくなること。傘と合羽を一緒に使う時は、風にあおられて傘が視界をふさぐことがあること。長靴は便利だが、深い水に入ると中に水が入り、重くなること。
サポナーラは、失敗を一つずつ自分の体で見せた。
フードを締めすぎて横のレトリスを見失い、「役所の方が消えた」と叫ぶ。
長靴に水を入れすぎて歩きにくくなり、魚屋の前でぺちゃぺちゃと妙な音を立てる。
傘を開いた瞬間、風の代わりにオリーンが団扇であおぎ、傘が横へ流れて喫茶店の看板にぶつかる。
「団扇の力が強すぎます!」
「風の再現です!」
「台風を再現しないでください!」
子どもたちは笑いながらも、サポナーラの足元、手元、視界の向きを見ていた。
ロシルドゥアは、後ろのベンチに高齢者を座らせ、休憩を入れるタイミングを見ていた。ずっと立っていられない人には、着る練習より先に座れる場所が要る。彼女は喫茶ペアカップの前に椅子を二つ増やし、魚屋の奥さんに頼んで、軒下にも休める箱を置いてもらった。
「これ、地図に載せましょう」
レトリスが言った。
ロシルドゥアは、少しだけ目を丸くした。
「休める箱もですか」
「避難途中に息を整えられる場所です。大事です」
ロシルドゥアはうなずき、鉛筆で名簿の端にメモした。
その横で、ブルグリンデが黙っていた。
彼女の視線は、吊るされた雨合羽ではなく、笑いながら袖を通す子どもたちに向いている。
魚屋の息子が、黄色い合羽を着たまま、年下の女の子に教えていた。
「ほら、こっちが前。ここ、ぺらぺらしてるほう。さっきサポナーラ兄ちゃんが失敗したところ」
「頭が抜けなくなる?」
「そう。抜けなくなったら、エメット兄ちゃんのライトで照らす」
「ライトない時は?」
「落ち着く。引っぱらない。誰か呼ぶ」
サポナーラの失敗が、もう子ども同士の言葉になっていた。
ブルグリンデは小さく息を吐き、吊るしてあった紺色の合羽の裾を直した。さっきまで見栄えを気にして揃えていた手つきとは違う。子どもの身長でも手に取りやすいように、少し低く掛け直した。
オリーンがその動きを見逃さなかった。
「低いほうが取りやすいですね」
「……見た目は少し悪くなります」
「でも、手は届きます」
ブルグリンデは返事をしなかった。
代わりに、透明の合羽を一枚取り、背の低い女の子へ差し出した。
「前を閉める時は、下から順番に留めると曲がりにくいわ。上だけ先に留めると、歩いている間に裾が開きます」
女の子は素直にうなずいた。
「おばちゃん、着たことあるの?」
ブルグリンデの眉がぴくりと動いた。
「おばちゃんではなく、商店街振興会の――」
ヒルドバーグが店の中から声を飛ばした。
「その長い名札を着せる前に、合羽を着せてあげな」
子どもたちがまた笑った。
ブルグリンデは口を結び、それから、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……着たことは、あります。十年前にも」
その言葉に、近くにいた大人たちの表情が変わった。
ブルグリンデは続けなかった。けれど、透明の合羽の前を丁寧に留め、フードの紐を指二本分だけ余裕を持たせて結んだ。
「横が見えるくらいにしておきなさい。怖い時ほど前だけ見てしまうから」
レトリスはその横顔を見た。
商店街の評判を守りたいと強く言った人。危険区域を広げることに反対した人。けれど、看板を拭き、子どもの手に届く位置へ合羽を下げ、横が見えるように紐を結ぶ人。
一つの言葉だけでは、誰のことも書ききれない。
ハザードマップも同じなのかもしれない。
危険区域を赤く塗るだけでは、そこに暮らす人の顔が消える。安全と書くだけでは、細い水路や暗い段差が見えなくなる。どこで止まり、どこで着替え、どこで誰かを待てるのか。そこまで書かなければ、実際の足は動かない。
レトリスは資料用のクリップボードを開き、今日の欄に新しく書いた。
雨合羽着用場所。子どもが手に取れる高さ。休憩椅子。視界確保。失敗例を笑って覚える。
最後の一文で、少し手が止まった。
レトリスは、そっと線を引き直した。
――間違えた時に助けを呼べる空気。
そのほうが、ずっと必要な言葉に思えた。
説明の最後に、サポナーラは子どもたちを二列に並ばせた。合羽を着たまま、商店街の端から喫茶ペアカップの前まで歩く練習をする。走らない。前の人の裾を踏まない。水たまりを見つけたら、後ろへ声をかける。
「水たまり、あります!」
「段差、あります!」
「サポナーラ兄ちゃん、また紐がほどけてます!」
「それは声をかけなくていい!」
「危ないから言ったほうがいいです」
エメットが真顔で言うと、サポナーラは黙って紐を結び直した。
ガニーロはその様子を見ながら、作業台から持ってきた小さな反射板を雨合羽の背中に貼っていた。夜道で少しでも見えやすいようにするためだ。
「これ、全部に付けるんですか」
オバインが問う。
「付けられる分だけ」
「また赤字修理店になるぞ」
「今日は店ではなく、商店街です」
「言い方を変えただけだ」
レトリスが横から言った。
「費用は、防災啓発用品として申請できるか確認します」
ガニーロとオバインが同時に振り向いた。
「申請できるんですか」
「確認しますと言いました。できますとは言っていません」
「役所の言葉だ」
「現実の言葉です」
オリーンが紙コップを配りながら、楽しそうに笑った。
その時、青鞄電子堂から小さな音がした。
全員が一瞬、身構えた。
蒼い鞄の基板は、公開停止命令を受けて、勝手に鳴らさない箱の中に入っている。ガニーロが昨夜、電池を外し、接点も切っていたはずだ。
けれど、音は鞄ではなかった。
サポナーラの袖口に付けた小型の笛が、風で鳴っただけだった。
「紛らわしいです」
レトリスが言う。
「非常時の笛です。紛らわしくても、聞こえたほうがいい」
サポナーラが胸を張る。
今度は、前身頃がぱつんと鳴らなかった。
ブルグリンデが、低く言った。
「聞こえないよりは、いいですね」
レトリスはその言葉を聞き逃さなかった。
ブルグリンデは、商店街の真ん中に立っている。吊るされた合羽で、通りは少し雑然としている。色も高さもばらばらで、整った観光写真には向かない。けれど、そこには子どもが手を伸ばし、大人が直し、誰かが笑い、誰かが覚えるための形があった。
危険を隠してきれいに見せるより、少し不格好でも助かるほうがいい。
その考えが、ブルグリンデの顔に言葉より先に浮かんでいた。
説明が終わる頃、アーケードの端から薄い日差しが差し込んだ。濡れていた石畳が、ところどころ白く乾き始めている。
サポナーラは、最後の挨拶で深く頭を下げた。
「今日は、俺が何回も間違えました。皆さんは、それを笑って覚えました。もし本当に雨が強い日に間違えた人を見たら、笑う前に手を貸してください。あとで、あの時のサポナーラよりましだったと言って笑ってください」
子どもたちは拍手した。
大人たちも、少し遅れて拍手した。
ブルグリンデは拍手をしなかった。ただ、吊るされた雨合羽を一枚ずつ外し、子どもの人数分を魚屋の箱に分け始めた。
「ここに置くんですか」
レトリスが尋ねる。
「ええ。魚屋の軒先は、川側から来た時に最初に屋根があります。喫茶店にも置きます。靴屋にも二枚。青鞄電子堂には……」
「何枚でも置けます」
ガニーロが答える。
ブルグリンデは、少しだけ目を細めた。
「あなたの店は、物を置く前に床を片づけなさい」
「はい」
レトリスが即座にうなずいた。
「なぜレトリスさんが返事を」
「私も同意見だからです」
オリーンが、また拍手した。
サポナーラは黄色い合羽を脱ぎ、きちんと畳もうとして、また袖を逆に折った。
エメットがそっと直す。
「こうです」
「お前、覚えるの早いな」
「さっき、たくさん見たので」
エメットは、照れずに言った。
ガニーロはその言葉を聞いて、作業台の反射板の箱を閉じた。誰かが失敗して、誰かが見て、誰かが覚える。そうやって、次の手が少し早くなる。
十年前に足りなかったものも、たぶん特別な道具だけではなかった。
声をかける練習。
間違えた人を助ける手。
怖さを笑いに変えても、危険そのものは消さない言葉。
レトリスはクリップボードを閉じた。
「今日の内容は、新しいハザードマップの裏面に入れます」
「裏面?」
サポナーラが聞き返す。
「表は経路。裏は、動く時の注意です。雨合羽、長靴、荷物、休憩場所、声かけ」
「俺の失敗も載りますか」
「名前は載せません」
「それはそれで寂しいな」
「では、小さく『悪い見本、某古道具市手伝い』と」
「ほぼ俺だ!」
商店街に笑い声が広がった。
ブルグリンデは、その笑い声を聞きながら、最後の透明な合羽を畳んだ。
畳み目は少し曲がっていた。
けれど彼女は、畳み直さなかった。
すぐ使うものは、完璧に見せるためではなく、すぐ手に取れるために置く。
その日の商店街は、いつもより少し色が多く、いつもより少し不格好で、いつもよりずっと、雨の日の誰かに近かった。




