第28話 オバイン、町を出る準備を隠す
青鞄電子堂の朝は、いつもよりねじの音が少なかった。
ガニーロは作業台の上で、勝手に鳴らさない箱の留め金を確認していた。昨日、エメットが貼った紙は、夜の湿気で少し端が浮いている。丸い字の「勝手に鳴らさない箱」は、見れば見るほど役所の正式な保管箱には向いていなかったが、誰も剥がそうとはしなかった。
レトリスは店の入口で、傘立ての隙間に差し込まれていた白い紙袋を見つけた。
「ガニーロ」
「はい」
「これはあなたのですか」
ガニーロは振り向いた。紙袋には、町工場で使う油の匂いではなく、新しい布の匂いがしていた。端から紺色の靴下がのぞいている。
「違います」
「では、店先に靴下が自生したのですね」
「現町の土壌は豊かですが、そこまでは」
奥から、棚の裏に身を隠していたオバインが顔を出した。
「それ、俺のじゃない」
レトリスは紙袋を持ち上げた。
「名前が書いてあります」
「同姓同名の可能性がある」
「オバイン・工場跡取り・靴下三足様」
「うちの母さん、余計なことを書きすぎだろ」
ガニーロは思わず工具を置いた。オバインは笑っていた。いつもと同じように、口の端だけで軽く逃げる笑い方だった。だが、その笑いの後ろに、昨夕のかばんと同じ影が残っている。
青鞄電子堂のシャッターは半分だけ上がっていた。朝の商店街からは、喫茶ペアカップのコーヒー豆を挽く音と、オリーンが常連に挨拶する声が流れてくる。今日も、町はいつもの速度で動こうとしていた。
けれど、オバインの足だけが、どこか遠い駅へ向かう人のように見えた。
「いつですか」
レトリスが訊いた。
オバインは棚の上の古いラジオに目をやった。
「何が」
「町外の会社に行く日です」
「まだ行くって決めてない」
「では、決めていないのに靴下三足を店に置いたのですね」
「靴下は決断の象徴じゃないだろ」
「少なくとも、泊まりがけの匂いはします」
オバインは言い返そうとして、やめた。作業台の端に置かれた小型探索機サブマリンの胴体を、指先で軽く叩く。まだ片側のカバーは外れていて、内部の配線が肋骨のように見えていた。
「向こうの会社から、見に来ないかって言われてる」
ガニーロは、相手が話し終えるまで手を動かさなかった。
「水路点検用の機械を作ってるところ。うちの工場で作ってる部品も、そこの仕事に関係がある。見学じゃなくて、たぶん面接に近い」
「すごいじゃないですか」
そう言ったのは、店の外から顔を出したエメットだった。手には修理途中の避難灯を抱えている。おそらく、開店前から来ていたのだろう。
オバインは反射的に軽口を作った。
「すごいだろ。俺が世界へ進出する日が近い」
「世界は広いですか」
「たぶん。俺が知らないくらいには」
エメットは目を輝かせた。しかし、その目がすぐサブマリンへ移る。
「でも、これ、まだ完成してません」
「そこなんだよな」
オバインは笑ったまま、サブマリンの胴体を両手で包んだ。水路を調べるために作った小さな機械。失敗して逆走し、排水溝に吸い込まれかけ、サポナーラを転ばせ、オリーンに「泳げない潜水艦」と名札をつけられた機械。
けれど、旧地下避難施設の排水口を映し、青い鞄の絵を見つけ、閉じた場所へ向かう目になってくれた機械でもあった。
「こいつを途中で置いていくのは、なんか、逃げみたいでさ」
店内の空気が、少し静かになった。
ガニーロは首を横に振った。
「逃げとは違う」
「そう言うと思った」
「でも、置いていくのが嫌なら、完成までの作業を書いていけばいい。誰がどこを見ればいいか、誰でも分かるように」
「俺の雑な配線図を、誰でも分かるように?」
「そこは反省してください」
レトリスがすぐに言った。
オバインは肩をすくめる。
「厳しいな、防災担当」
「褒めています。あなたの配線図は、本人にしか読めません」
「それは褒めてない」
「本人には読める、という部分が褒め言葉です」
エメットが小さく笑った。
その笑いにつられたように、オバインも息を吐いた。昨夕から隠していたものが、靴下三足によって強引に店内へ転がり出た。もう、かばんを足で隠すことはできない。
昼前、喫茶ペアカップに皆が集まった。
オリーンは何も聞かず、テーブルに四人分の水を置いたあと、勝手に五人目の椅子を引いた。
「オバインさん壮行会ですか」
「まだ行くと決めてないって言ってるだろ」
「では、決めていない会です」
「会にするな」
ヒルドバーグがカウンターの奥から、厚いトーストを切りながら言った。
「行くかどうか迷っている人間には、甘いものを出す。腹が空いていると、行きたいのか逃げたいのかも分からなくなる」
「店主、俺、甘いものより肉が」
「迷っている人間が注文をつけるな」
「はい」
オバインはすぐ引き下がった。
オリーンはその様子を見て、なぜか大きくうなずいた。
「成長です。以前なら三回は言い返していました」
「俺を観察日記に書くな」
「題名は『靴下三足と未来』です」
「やめろ」
レトリスがコップを両手で包んだ。
「町外に行きたい理由は、何ですか」
その訊き方は鋭かったが、責める響きはなかった。オバインも、それを感じたのか、ふざけた顔を少しだけしまった。
「もっと大きい水路とか、地下の点検とか、そういう機械を作ってる現場を見たい。うちの工場だけだと、できることが見えてる気がしてた。外で覚えたら、ここでも使えるかもしれない」
「現町を出ることと、現町を捨てることは違います」
レトリスは言った。
「あなたが外で覚えたことを、現町へ持ち帰る道もあります。戻らなくても、図面や部品や助言でつながる道もあります」
オバインは驚いたように彼女を見た。
「止めるかと思った」
「止める理由がありません」
「サブマリン、途中だぞ」
「途中なら、途中だと分かる形で残してください。危険なのは、未完成そのものより、未完成だと分からないまま使うことです」
ガニーロが静かにうなずいた。
「その通りです」
オバインは、テーブルの木目を指でなぞった。そこには、長年の客がつけた小さな傷がいくつもある。ヒルドバーグはそれを直しすぎない。割れたカップと同じで、残った跡にも使い道があると知っているからだ。
「俺、町を出たら、誰かに怒られると思ってた」
オバインの声は、いつもより低かった。
「親父にも、工場の人にも、商店街の人にも。おまえは跡取りなのに、って。ガニーロにも、こんな時に行くのかって思われるかと思った」
ガニーロは水を一口飲んだ。
「思いません」
「即答かよ」
「はい」
「少しは寂しがれ」
「寂しいです」
オバインが言葉を失った。
ガニーロは、まっすぐに続けた。
「でも、寂しいから止めるのは違うと思います」
オリーンが、手に持っていた皿をそっと置いた。彼女にしては珍しく、茶化す言葉を差し込まなかった。
ヒルドバーグは、焼き色のついたトーストに蜂蜜をかけた。
「寂しがられない出発は、少し寒い。寂しがられすぎる出発は、少し重い。ちょうどいい寂しさを持っていけ」
「店主、それ、持ち物に入ります?」
「靴下三足の横に入れろ」
「また靴下か」
ようやく、テーブルに笑いが戻った。
午後、青鞄電子堂ではサブマリンの引き継ぎ作業が始まった。
オバインは紙を広げた。最初に描いた配線図は、レトリスが三秒見て眉を寄せたため、すぐに却下された。
「これは川ですか」
「配線」
「蛇行しています」
「芸術性」
「避難機械に不要です」
エメットが横から覗き込む。
「ここ、赤い線が二本あります」
「一本は予備」
「どっちが予備ですか」
「気分」
「気分で電気を流さないでください」
レトリスが即座に言うと、ガニーロは別紙を差し出した。
「では、機能ごとに分けましょう。モーター、ライト、カメラ、通信。色も決めて」
「なんか、俺の機械が急に真面目になるな」
「水の中でふざける機械は困ります」
「それはそう」
オバインは素直に書き直し始めた。
彼の字は大きく、線は勢いがあった。最初は読みにくかったが、ガニーロが横で項目をそろえ、レトリスが危険な使い方を赤字で足し、エメットが「ここは触らない」と丸で囲むうちに、だんだんと他人にも読める紙になっていった。
サポナーラが途中で顔を出した。
「聞いたぞ、オバイン。町を出るんだってな」
「まだ決めてない」
「じゃあ、決めてない旅立ち祝いに、古道具市の売れ残りトランクを」
「いらない」
「持ち手が取れやすいだけだ」
「もっといらない」
「失敗から学べる」
「旅先の駅前で学びたくない」
そのやり取りを聞きながら、エメットが笑い、ガニーロが小さく肩を揺らした。
レトリスは、勝手に鳴らさない箱を棚の上へ戻す。箱は今日も沈黙していた。誰かの言えない言葉を先に印字しない。ただ、本人が言葉を選ぶ時間を守っている。
夕暮れ前、オバインは完成した引き継ぎ表を作業台に置いた。
サブマリン未完成箇所一覧。
水密パッキン交換。
カメラ固定具の補強。
通信途切れ時の回収手順。
水路で犬を見つけても、勝手に追いかけない。
最後の一行を読んで、レトリスが顔を上げた。
「これは何ですか」
「未来の俺への注意」
「まだ起きていない失敗を予防する姿勢は評価します」
「褒めた?」
「褒めました」
オバインは少しだけ照れたように、鼻の頭を指でこすった。
「行くかどうか、ちゃんと決める。決めたら、先に言う。靴下でばれる前に」
「もうばれています」
「次からは、靴下より先に言う」
ガニーロは、サブマリンの胴体に外れていたカバーを仮止めした。
「どこへ行っても、これは現町の水路を見た一号機です」
「かっこいい言い方するな」
「でも、失敗作でもあります」
「そこは言わなくていい」
「失敗作だから、次を作れます」
オバインは黙ってサブマリンを見た。
小さな機械は、まだ完全には潜れない。まっすぐ進む保証もない。けれど、暗い水路の向こうを映した。閉じた扉の奥を見せた。誰かが忘れていた線を、もう一度つなげた。
人も、たぶん同じなのだろう。
まだ行き先をはっきり決められなくても、今いる場所を嫌いにならなくても、遠くを見たいと思うことはできる。
店の外で、喫茶ペアカップの灯りがついた。
オリーンの声が聞こえる。
「決めてない会、第二部始めますよー!」
オバインは頭を抱えた。
「やっぱり会になってる」
レトリスは、ほとんど表情を変えずに言った。
「名前が悪いです」
「俺のせい?」
「旅立ち前相談会、くらいなら許容範囲です」
「だから旅立つって決めてないんだって」
ガニーロはシャッターを下ろす準備をしながら、二本の傘を手に取った。
一本をオバインへ差し出す。
「雨は降ってません」
オバインが言う。
「でも、荷物があります」
「靴下三足だけだぞ」
「未来も少し」
オバインは目を丸くし、それから笑った。
「重い言い方するなあ」
それでも、傘は受け取った。
蒼い鞄は鳴らなかった。
サブマリンも動かなかった。
ただ、青鞄電子堂の作業台には、誰でも読めるようになった配線図と、行くかもしれない場所の名前が書かれた紙が並んでいた。
まだ決めていない未来は、隠すものではなく、皆で濡らさないように持つものになり始めていた。




