第27話 超絶赤面ポエム公開停止命令
現町役所の小会議室は、窓を開けても紙の匂いが抜けなかった。
朝の地下避難施設調査で持ち帰った記録用紙、壁の落書きを写した写真、管理用の小部屋で見つかった避難誘導ライトの部品表。それらが長机の上に並び、湯気の出ない紙コップの茶が端に追いやられている。
レトリスは、蒼い鞄を机の真ん中に置いた。
置いただけなのに、サポナーラが椅子ごと半歩下がった。
「どうしました」
「いや、今、鞄の口がこっちを向いた気がして」
「向いていません」
「でも、あの鞄は人の心の柔らかいところを紙にして出すじゃないですか」
「そういう言い方をやめてください。余計に危険な道具に聞こえます」
レトリスは鞄の留め具に指をかけ、ぱちんと開けた。
中には、布で包んだ基板、小さな感熱紙の残り、欠けたペアカップの片割れ、そして旧地下避難施設の補助鍵が入っていた。物だけ見れば、修理店に持ち込まれた古い荷物と変わらない。けれど、この鞄は何度も人を赤くさせ、黙らせ、笑わせ、時には泣かせかけてきた。
レトリスは布包みを取り出し、机に置いた。
「本日正午をもって、この基板による自動印字を停止します」
会議室の空気が、紙の束ごと止まった。
オリーンが、手を挙げた。
「質問です」
「どうぞ」
「正午までは、何枚くらい出してもいいですか」
「一枚も出しません」
「では、さよなら朗読会は」
「ありません」
「惜別のケーキは」
「基板を惜別しないでください」
オリーンは、少し考えてから、持っていた紙袋を足元に置いた。袋の中には、明らかに菓子箱らしい角が見えていた。
「じゃあ、これは普通のおやつにします」
「それは構いません」
サポナーラが、恐る恐る手を挙げた。
「質問です」
「どうぞ」
「停止するということは、過去に出た紙も無効になりますか」
「紙は消えません」
「では、私が『雨合羽の袖を逆に通した者こそ、未来の袖を正しく通す』と出された件は」
「事実です」
「無効にしてほしいです」
「できません」
「せめて、役所の記録からは」
「入れていません」
「入ってないんですか」
「入れたいんですか」
「悩ましいです」
アリシャーが黙って資料の端をそろえた。その手つきがあまりにも無言で、サポナーラはそっと口を閉じた。
ガニーロは、机の反対側で基板を見ていた。小さな部品の間には、十年前の水染みのような黒ずみが残っている。どこかを修理すれば今より安定して動くだろう。どこかを切れば、もう二度と鳴らなくなるかもしれない。
そのどちらも、すぐには選べなかった。
レトリスは、全員を見渡した。
「この基板は、心を読む道具ではありません。古い録音、短文メモ、定型文、周囲の会話の断片を組み合わせて、文章を出しています」
オバインが、椅子の背に腕をのせた。
「つまり、たまたま刺さる言葉を勝手に組み立てる機械ってことか」
「そうです」
「それ、心を読むより厄介じゃないか」
レトリスは、否定しなかった。
「だから止めます。本人が言うつもりのない言葉、持ち主以外が置いたメモ、誰かの古い録音。それらを勝手に紙へ出すのは、危険です。笑いで済む時もあります。でも、笑えない時もあります」
ヒルドバーグは、紙コップの茶に口をつけた。もう冷めているはずなのに、顔をしかめず飲んだ。
「人の湯飲みを勝手にのぞくようなもんだね」
「はい」
「それも、本人が忘れた茶渋まで見せる」
「……たとえとしては少し独特ですが、近いです」
ブルグリンデは腕を組んでいた。商店街の説明会で赤面ポエムが出た時、彼女も無関係ではいられなかった。自分の言葉を書き換える癖、自分の恐れを隠す癖を、紙が勝手に照らしかけたからだ。
「停止には賛成です」
彼女は短く言った。
「ただし、完全に壊すのは反対です」
レトリスが目を向ける。
「理由を聞かせてください」
「この鞄が何を拾ってきたのか、まだ分かっていないからです。十年前の録音が残っているなら、当時の避難の空白を埋める手がかりになります。……もちろん、誰かをさらし者にしない形で」
最後の一言だけ、少し低かった。
レトリスはその声を聞き、すぐに返さなかった。ブルグリンデが口先だけで取り繕っている時と、言いにくいことを飲み込みながら出している時では、言葉の重さが違う。
ロシルドゥアが、膝の上の名簿を閉じた。
「止めることと、調べることを分ければいいと思います」
「具体的には」
「普段は動かさない。調べる時は、誰が、何を、何のために確認するのかを紙に書く。誰かの名前や私的な言葉が出そうな時は、本人に先に聞く。本人がいない場合は、見せる相手を絞る」
アリシャーが、そこで初めて口を開いた。
「封印記録を作る」
「封印記録?」
オリーンが首を傾げる。
「保管場所、開封者、開封時刻、確認した内容を残す。後から、勝手に見た者が分かる」
「それ、地味だけど強いですね」
オリーンが感心したように言うと、アリシャーは「地味でいい」とだけ答えた。
ガニーロは、基板に触れず、布の端だけを直した。
「自動印字は切れる。紙送りの電源を別にすれば、勝手に紙は出ない。録音断片の確認も、外部スピーカーじゃなくてイヤホンで一つずつ聞けるようにできる」
レトリスがすぐに見た。
「今すぐできますか」
「部品があれば今日中に」
「部品は店にありますか」
「あると思う」
「思う?」
「昨日、エメットが抵抗の箱を色別に並べ替えてくれた」
エメットは椅子の上で背筋を伸ばした。
「赤と茶色を間違えそうだったので、紙に書いて貼りました」
「助かる」
ガニーロが言うと、エメットは耳まで明るくなった。
だが、その瞬間、布包みの中から、ちり、と小さな音がした。
全員の視線が集まる。
レトリスは即座に手を伸ばし、基板につながった小さな電池端子を外した。
音は止まった。
サポナーラが胸を押さえた。
「今、心臓が外に出るかと思いました」
「出ていません」
「でも、何か言いかけましたよね」
「言わせません」
レトリスの声は固かった。
笑いが起きてもよさそうな場面だったが、誰も大きく笑わなかった。今の音が、誰かの古い言葉を連れてきたかもしれない。その可能性を全員が知ってしまっている。
オリーンがそっと菓子箱を開けた。中には、小さな丸い焼き菓子が並んでいた。彼女はそれを一つずつ紙皿に置き、黙って回した。
サポナーラの前にも置く。
「食べていいんですか」
「口が動いていると、余計なことを言いにくいから」
「優しさが具体的で助かります」
サポナーラは素直に食べた。
レトリスは、布包みをもう一度見た。
十年前、母がこの鞄に鍵を入れた。幼い自分は、ガニーロと迷子にならない鞄を作ると壁に書いた。ガニーロは、誰かを助けるために約束の場所へ戻れなかった。
それらは、紙にしなければ消えてしまうものではない。
けれど、紙にしたからといって、すぐ救われるものでもない。
レトリスは深く息を吸った。
「公開停止命令を出します。役所の記録名は、蒼い鞄基板の自動印字機能一時停止。保管者は私。技術確認はガニーロさん。立ち会いは、アリシャーさんとロシルドゥアさん」
「私も立ち会っていいですか」
エメットが小さく手を挙げた。
ガニーロがすぐに口を開きかけ、止まった。危ないから駄目だと言うのは簡単だった。だが、エメットはもう、ただ後ろをついてくる子どもではない。煙を出しながら避難灯を作り、抵抗の箱に紙を貼り、地下の小部屋で息を整えて立っていた。
レトリスが先に聞いた。
「なぜ立ち会いたいんですか」
エメットは少し考えた。
「ぼくのことが出るかもしれないからです」
部屋の中が静かになった。
エメットは膝の上で両手を握ったまま、続けた。
「水害の時のことを、ぼくはあまり覚えていません。でも、もしぼくの声とか、ぼくを助けた人の声が入っているなら、大人だけで先に聞かないでほしいです。怖いけど、知らないままにされるのも嫌です」
ガニーロは、机の下で手を握った。
言葉が出なかった。
レトリスはエメットを見ていた。強い言葉で押し返せば、彼はうなずくかもしれない。けれど、それは彼の足を止めることになる。
「分かりました。ただし、確認する内容によっては、一度外に出てもらうことがあります。その時は、理由を説明します」
「はい」
「怖くなったら、自分で止めてください」
「はい」
エメットは、少しだけ息を吐いた。
サポナーラがまた手を挙げた。
「私は」
「あなたは菓子を食べていてください」
「了解しました」
即答したので、今度は少し笑いが起きた。
その笑いに押されるように、ガニーロは基板を手に取った。電池端子は外れている。小さな黒い部品の角に、古い傷があった。十年前、水に濡れた時のものかもしれない。子どもの指で無理に差し込んだ時のものかもしれない。
彼は小さく言った。
「直す前に、止めるところから始める」
レトリスがうなずいた。
「はい」
「それから、出どころが分かるようにする。録音なら録音。メモならメモ。会話なら会話。混ざった時は、混ざったと分かるように」
「勝手に詩にしない」
「詩にしない」
「大げさな題名をつけない」
「つけない」
そこまで言った時、オリーンが残念そうに焼き菓子をかじった。
「『あなたを想う時間』みたいな題名、もう出ないんですね」
レトリスの指が、ぴくりと動いた。
「出ません」
「でも、最後にそれだけは見たい気もします」
「見ません」
ガニーロは基板を布で包み直しながら、レトリスの横顔を見た。
彼女は厳しい顔をしている。けれど、その厳しさは怒りだけではなかった。誰かが知らないうちに傷つかないように、先に線を引こうとしている。鞄が開くたび、彼女自身も一緒にのぞかれる痛みを知っているからだ。
ガニーロは、机の上の紙を一枚取った。
そこに、作業の手順を書き始める。
一、自動印字用の電源を外す。
二、感熱紙の送り機構を分離する。
三、保存された音声と短文メモの分類を行う。
四、本人確認が必要な内容は保留にする。
五、避難記録に関係する内容だけ、立ち会いのもと確認する。
レトリスは、その横に赤いペンで書き足した。
六、面白くても勝手に朗読しない。
オリーンが、胸に手を当てた。
「名指しですか」
「名指しではありません」
「でも、私の胸に届きました」
「届いたなら守ってください」
「はい」
サポナーラがのぞき込む。
「七、失敗談を必要以上に盛らない、も入れますか」
「自分で守れますか」
「守れないかもしれないので、入れます」
レトリスは少し迷い、本当に書き足した。
七、失敗談を盛りすぎない。
ブルグリンデがその紙を見て、口元を手で押さえた。
「こういう手順なら、商店街の説明にも使えますね」
「何の説明ですか」
「危険な場所を伝える時も、ただ怖がらせるのではなく、何を、誰に、どこまで伝えるかを決める。隠すのではなく、手順を決める」
レトリスは、ペンを置いた。
蒼い鞄の基板を止める話は、鞄だけの話ではなくなっていた。
ハザードマップも同じだ。危険を全部叫べばいいわけではない。評判を守るために隠せばいいわけでもない。住民が自分で動ける形にして渡さなければ、ただの紙になる。
ガニーロが言った。
「危ないものを、危ないまま渡さない」
レトリスは彼を見た。
「ええ」
「でも、なかったことにもしない」
「はい」
言葉が重なった。
そのことに気づいたのか、オリーンがにやりとした。
レトリスは先に制した。
「朗読禁止です」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っていました」
「顔の自動印字ですね」
「違います」
小さな笑いが起きた。
会議室の空気は、最初より少しだけ軽くなっていた。けれど、机の真ん中に置かれた布包みの重さは変わらない。
正午、レトリスは正式な紙を作った。
蒼い鞄基板の自動印字機能を一時停止すること。
保存内容の確認は、避難記録と安全確認に必要な範囲に限ること。
本人の私的な言葉が含まれる場合は、本人の了承を得ること。
古い録音と短文メモは、出どころを分類し、詩や推測として扱わないこと。
最後に、彼女は少し迷ってから、一文を加えた。
十年前の避難に関わる未確認記録については、関係者の心身に配慮し、段階的に確認する。
アリシャーが確認印を押した。
ロシルドゥアが、保管表を作った。
ガニーロが、基板を小さな工具箱に入れた。
エメットが、その工具箱に紙を貼った。
紙には、丸い字でこう書かれていた。
勝手に鳴らさない箱。
サポナーラが見て、深くうなずいた。
「分かりやすい」
レトリスも、否定しなかった。
夕方、青鞄電子堂に戻る頃には、商店街の影が長く伸びていた。店先には、修理待ちのラジオが一台置かれている。オバインがシャッターの横に立ち、携帯端末を片手で閉じたところだった。
「どうした」
ガニーロが声をかけると、オバインはすぐに笑った。
「別に。サブマリンの部品の見積もり」
「高かった?」
「泣くほどじゃない。笑うほどでもない」
いつもの軽口だった。
けれど、レトリスは彼の足元を見た。かばんが一つ、壁際に置かれている。中身は軽そうではない。工具の形ではなく、服のような柔らかい膨らみが見えた。
オバインはそれに気づき、足でそっとかばんを後ろへ押した。
「何ですか、その荷物」
「試作品」
「服に見えます」
「服の形をした試作品」
「無理があります」
オバインは笑ってごまかそうとしたが、すぐにやめた。
「まだ言うつもりじゃなかった」
ガニーロの手が、工具箱の持ち手を握ったまま止まる。
レトリスは何も言わなかった。
言うつもりではなかった言葉を、勝手に引きずり出す鞄は、もう箱の中で止まっている。
だから今度は、本人が話すまで待たなければならない。
オバインは空を見上げた。夕方の雲は、雨の重さをまだ持っていない。ただ、遠くへ流れる準備だけはしているように見えた。
「この話には続きがあって……って、ガニーロの口癖を借りるのは嫌なんだけどさ」
「嫌なら返してください」
ガニーロが言うと、オバインは少しだけ笑った。
「返す。もう少ししたら、自分の言葉で言う」
レトリスは、勝手に鳴らさない箱を抱え直した。
今日は、言わせないために止めた。
明日は、言えるまで待つことになるのかもしれない。
蒼い鞄は黙っていた。
その沈黙は、初めて少しだけ、役に立っているように思えた。




