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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第26話 サブマリンの中の落書き

 翌朝の現町は、昨日までの雨をまだ体のどこかに残していた。


 商店街の石畳は乾ききらず、魚屋の軒先には、夜のうちに落ちた雨粒が小さく光っている。川はいつもより少し太く見えた。水面は穏やかな顔をしていたが、橋の下のコンクリートには濡れた跡がくっきり残り、昨夜どこまで水が来ていたのかを、黙って示していた。


 レトリスは橋の上で立ち止まり、蒼い鞄の肩紐を握り直した。


 古い帆布は朝の湿気を含んで、いつもより重い。右の留め具が、歩くたびにちり、と鳴る。その音は、これまでなら苛立ちを呼んだ。今は少し違った。何かを思い出せと言われているようで、腹立たしいのに、聞かずにはいられない。


 「早いな」


 後ろから声がした。


 振り向くと、ガニーロが工具箱と防災ライトを両手に持って立っていた。いつものように手順を紙に書いたらしく、胸ポケットから折りたたんだメモの角がのぞいている。そこに、細い字で「濡れた床で走らない」「勝手に開けない」「オリーンを先頭にしない」と書かれていた。


 「三つ目は本人に見せましたか」


 「見せたら先頭を譲ると言って、さらに前へ出る気がする」


 「正しい判断です」


 レトリスがうなずくと、ガニーロは少しだけ肩の力を抜いた。


 二人は橋を渡り、坂下の旧地下避難施設へ向かった。


 旧地下避難施設は、商店街会館の裏手、古い石段の下にある。今は常時開放されておらず、入口には錆の浮いた鉄扉と、役場が取りつけた新しい南京錠が並んでいた。十年前の水害のあと、排水設備に不安が残るとして使用が止められ、倉庫のように扱われてきた場所だ。


 入口前には、すでに数人が集まっていた。


 役場の担当者が書類ばさみを抱えて立ち、アリシャーが測量用の巻尺を肩にかけている。エメットは昨日直した防災ライトを胸の前で大事そうに持ち、オバインは膝まである長靴姿で、なぜか小さな模型のサブマリンを抱えていた。サポナーラは首から笛を下げ、手帳を二冊持っている。


 そしてオリーンは、誰よりも明るい声で言った。


 「おはようございます! 地下に入れる朝です!」


 「祝いません」


 レトリスは即座に言った。


 「まだ入っていませんし、入ること自体は目的ではありません」


 「では、入口まで無事に来られた朝です!」


 「それを大声で祝う必要もありません」


 サポナーラが手帳に何かを書こうとしたので、レトリスは視線を向けた。サポナーラはすばやく手帳を閉じ、首の笛を胸元に押し込めた。


 「私は何も鳴らしていません」


 「今後も鳴らさないでください。地下で笛は反響します」


 「反響する失敗を未然に防げました」


 「言い方で勝とうとしないでください」


 オバインが、抱えていたサブマリンの模型を掲げた。丸い缶を改造したもので、横に小さなプロペラがついている。


 「念のため、こいつも連れてきた。地下に水が残っていたら、浮かべて進路を確認できる」


 「人が乗れない大きさです」


 「人は乗れないが、希望は乗る」


 「希望は乾いたところを歩いてください」


 オバインは一瞬だけ真面目な顔をして、それから模型を胸に抱き直した。


 「了解。希望、待機」


 エメットが小さく笑った。彼の笑い声は、まだ慎重だった。昨日、蒼い鞄に触れてから浮かんだ匂いと音が、ずっと胸に残っているのだろう。だが、逃げるようには見えなかった。防災ライトを抱える手には、震えよりも力があった。


 役場の担当者が、鉄扉の前に立った。


 「今日は、管理用通路と小部屋、排水口の目視確認までです。床の状態が悪い場合は、すぐ戻ります。勝手に奥へ進まないでください」


 全員がうなずいた。


 担当者が新しい南京錠を開ける。鉄扉の古い鍵穴には、別の小さな鍵が必要だった。担当者が役場の束を出して順に差し込んだが、どれも奥で止まるだけで回らない。


 「おかしいですね。記録では、ここの鍵は役場保管のはずなんですが」


 アリシャーが石段の端にしゃがみ込み、扉の下を見た。


 「この鍵穴、途中で交換されていません。古いままです。役場の束にないなら、当時の現場責任者が予備を持っていた可能性があります」


 レトリスの肩が、かすかに強張った。


 現場責任者。


 十年前、雨の日に避難誘導をしていた母の姿が、曇ったガラスの向こうの影のように浮かぶ。母は、誰かを急がせる時でも、声を荒げなかった。けれど、手はいつも早かった。濡れた書類を束ね、子どもの靴紐を結び、避難所の入口で転んだ人を起こし、それからレトリスの肩に鞄を掛け直した。


 ――これ、絶対に離しちゃだめ。


 ふと、そんな声が耳の奥で鳴った。


 レトリスは蒼い鞄を見た。


 「レトリス?」


 ガニーロが呼ぶ。


 「内ポケットを見ます」


 彼女はそう言って、鞄の口を開けた。内側の布は何度も乾かされた跡があり、古い水染みが地図のように広がっている。普段使っているポケットのさらに奥、縫い目に沿って指を入れると、硬いものが触れた。


 薄い革の小袋だった。


 これまで何度も鞄を使っていたのに、気づかなかった。内布と同じ色で、底にぴったり張りつくように縫われている。小袋の口を開けると、そこから古い鍵が一本出てきた。


 小さな真鍮の鍵だ。丸い頭には、青い塗料がわずかに残っている。


 誰も声を出さなかった。


 鉄扉の前で、朝の風だけが細く流れた。


 「それを、試してもいいですか」


 役場の担当者が丁寧に言った。


 レトリスは鍵を渡そうとして、指を止めた。


 自分で差し込みたかった。なぜそう思ったのかはわからない。母の持ち物だったからか。十年前、何も知らないまま離してしまった何かを、今度は自分の手で確かめたかったからか。


 「私が」


 短く言うと、担当者はうなずいて一歩下がった。


 鍵は、驚くほど素直に入った。


 レトリスがゆっくり回すと、扉の奥で、かちり、と乾いた音がした。


 右の留め具の音とは違う。金継ぎのカップの音とも違う。それでも、エメットが息をのむのがわかった。


 「この音……」


 彼は防災ライトを持つ手に力を込めた。


 ガニーロは、扉に手をかける前に全員を見た。


 「開ける。後ろへ下がって」


 その言い方に、いつもの遠慮はなかった。押しつけるのではなく、全員を転ばせないための声だった。


 鉄扉が開いた。


 中から、冷たい空気が流れ出した。湿った土、錆びた金属、古い紙、そして長い間閉じ込められていた水の匂い。レトリスの胸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。


 通路は狭かった。


 両側の壁はコンクリートで、ところどころ白い粉を吹いている。床には薄く泥が残り、壁際の排水溝には枯葉が詰まっていた。十年前の水がそのまま残っているわけではない。けれど、水が来た場所は、色でわかる。腰の高さより少し下、壁を横切るように、うっすら茶色い線が走っていた。


 アリシャーがライトを当て、巻尺を伸ばした。


 「地上の石段三段目とほぼ同じ高さです。前の地図だと、ここは水が来ない扱いになっていました。でも、実際にはこの高さまで来ています」


 「地図と現実のずれ」


 レトリスがつぶやく。


 アリシャーはうなずいた。


 「たぶん、十年前も今も、紙の上では安全でした」


 安全だった。


 紙の上では。


 その言葉は、誰も責めていないのに痛かった。誰かが怠けたからではない。誰かが悪意で隠したからでもない。ただ、古い紙が現実に追いついていなかった。その紙を信じた人が迷い、紙に載らない水が足を濡らし、声が届かない場所で誰かが誰かを背負った。


 サポナーラが手帳を開きかけ、また閉じた。


 「今のは、後で書きます」


 レトリスは何も言わなかった。


 通路を進むと、左手に小さな扉があった。管理用の小部屋だ。ここにも同じ形の鍵穴がある。レトリスが真鍮の鍵を差し込むと、少し重く回った。


 扉の向こうは、畳二枚ほどの狭い部屋だった。


 棚は壁に固定され、古い懐中電灯、紙の腕章、ひびの入ったプラスチック箱が置かれている。床には砂が薄く積もり、隅には折りたたみ椅子が横倒しになっていた。天井近くの換気口から、外の光が細い線になって差し込んでいる。


 オリーンが思わず一歩前へ出た。


 「入れましたね!」


 「小声で」


 「入れましたね」


 彼女は両手を握り、小声で言い直した。その顔があまりにも真剣だったので、レトリスは注意を続けられなかった。


 オバインがサブマリンの模型を棚の上にそっと置いた。


 「希望、仮置き」


 「そこは埃があります」


 「希望、移動」


 彼はすぐに模型を抱き直した。


 ガニーロは室内の壁を順に照らしていた。彼のライトが、右奥の低い位置で止まる。


 「これ」


 その声に、全員が振り向いた。


 壁の下の方、しゃがまなければ見えない高さに、鉛筆の跡があった。湿気で薄くなり、ところどころかすれている。子どもの字だった。大きさはばらばらで、線は曲がり、最後の方は狭い場所に無理やり詰め込まれている。


 レトリスは膝をついた。


 埃がスカートにつくのも気にならなかった。ライトの光が震えないように、ガニーロが横から照らす。エメットももう一本のライトを向けた。


 壁には、こう書かれていた。


 ――ガニーロと、まいごにならないかばんをつくる。


 字の横には、四角い鞄の絵があった。持ち手が大きすぎて、鞄というより小さな家のように見える。その横に、棒のような足の人間が二人描かれていた。一人は髪が長く、もう一人は前髪がぎざぎざに跳ねている。二人の間には、線が一本引かれていた。たぶん、手をつないでいるつもりなのだろう。


 レトリスは、喉の奥が痛くなった。


 覚えていない。


 この字を書いた記憶も、この部屋に入った記憶もない。けれど、字はたしかに自分の癖を残していた。幼い頃の彼女は、「ま」の最後をやけに長く伸ばした。母に何度も直されたのに、その癖がここに残っている。


 「私の字です」


 声が、思ったより小さく出た。


 ガニーロは何も言わない。


 レトリスは、壁の言葉をもう一度読んだ。


 ――迷子にならない鞄。


 蒼い鞄が、肩からずり落ちそうになった。彼女は慌てて押さえた。留め具が、ちり、と鳴る。


 その音に重なるように、エメットが言った。


 「この部屋、知っています」


 全員の視線が彼に集まった。


 エメットは壁際に立ち、片手で自分の肩を抱くようにしていた。


 「知らないはずなんです。でも、ここで……誰かの背中から下ろされた気がします。床が冷たくて、足がつかなかった。怖くて、泣きそうで。でも、誰かが鞄を鳴らして、ここにいるって言ってくれた」


 ガニーロの横顔がこわばった。


 レトリスは、その変化を見逃さなかった。


 「あなたですか」


 問いは鋭くなった。


 ガニーロはすぐには答えなかった。


 オリーンが口を開きかけ、ヒルドバーグがそっと首を振る。いつの間にか、喫茶店からここまで来ていたヒルドバーグは入口の外に立っていた。手には温かい麦茶の入った水筒を持っている。中へは入らず、ただ戻り道を塞がない位置で見守っていた。


 ガニーロは、壁の落書きを見た。


 それから、レトリスを見た。


 「この部屋までは来た」


 「誰と」


 「エメットを背負って」


 エメットが息を止めた。


 レトリスの指が、鞄の肩紐を強く握る。


 「では、なぜ私を待たせたんですか」


 声が震えた。怒りだけではなかった。十年間、胸の奥で同じ形を保っていた問いが、急に別の水を含み、重さを変えた。


 「私に、あとで追いつくと言ったんですか」


 「違う」


 「では誰に」


 ガニーロは、唇を結んだ。


 答えはある。レトリスにはわかった。ないから黙っているのではない。言えば何かが崩れると思って、彼は黙っている。


 その沈黙が、昔から嫌いだった。


 レトリスはさらに言葉を重ねようとした。


 その時、オバインの腕の中でサブマリンの模型が、ぴ、と小さく鳴った。


 「……希望が鳴った」


 「なぜ鳴る機能をつけたんですか」


 レトリスが振り向く。


 オバインは真剣な顔で模型の底を見た。


 「水に触れたら知らせる仕組みだ。今、床の隅に水が溜まっている」


 全員が足元を見た。


 小部屋の奥、棚の下に、細い水の筋がある。壁のひびから、ほんの少しずつ水が染み出していた。大きな危険ではない。だが、放置すれば、また誰かが紙の上の安全を信じてしまう。


 アリシャーがすぐにしゃがみ、ライトを当てた。


 「排水溝への勾配が逆です。ここ、床が沈んでいます」


 サポナーラが手帳を開いた。


 「小部屋奥、床沈下。水の筋あり。希望、鳴る」


 「最後の一文は必要ありません」


 「でも、一番早く気づいたのは希望です」


 オバインが少し誇らしげに模型を撫でた。


 レトリスは反論しようとして、やめた。


 今、この場所で必要なのは、過去を言い負かすことではない。目の前の水の筋を見落とさないことだった。


 「写真を撮ります。壁の落書きも、床の水も。役場の確認資料に入れてください」


 彼女が担当者を見ると、相手はすぐにうなずいた。


 「はい。今日の確認内容として記録します」


 「落書きは消さないでください」


 自分で言ってから、レトリスは驚いた。


 なぜそんなことを口にしたのか、一瞬わからなかった。けれど、壁の文字を見ればわかる。これは、ただの子どものいたずらではない。幼い自分が、誰かと離れないために考えた方法だった。役には立たなかったかもしれない。完成もしなかったかもしれない。それでも、なかったことにはしたくなかった。


 ガニーロが、静かに言った。


 「消さない」


 「あなたが決めることではありません」


 「そうだな」


 彼は一度うなずき、役場の担当者を見た。


 「記録保存を申請してください。十年前の避難経路確認にも関わる場所です」


 担当者は書類ばさみを抱え直した。


 「検討します。少なくとも、今日の作業では触りません」


 レトリスは壁に手を伸ばしかけ、すんでのところで止めた。鉛筆の跡は薄い。触れれば消えてしまいそうだった。


 かわりに、蒼い鞄を壁の近くに置いた。


 青い鞄の古い帆布と、壁の鉛筆線が、ライトの中で並んだ。


 幼い自分が作ろうとしたものは、たぶん完成しなかった。迷子にならない鞄は、十年も人を迷わせた。けれど、その鞄が今、鍵を出し、落書きを見つけ、水の跡を示している。


 役に立つのが遅すぎた。


 そう思った直後、ヒルドバーグの声が入口から届いた。


 「遅くても、持ってきたなら使える」


 まるで心を読まれたようで、レトリスは顔を上げた。


 ヒルドバーグは、部屋の外で水筒の蓋を開けていた。


 「冷える。長居しないで、一度外へ出な」


 ガニーロが時計を見た。


 「予定の十五分を過ぎている。戻ろう」


 「まだ話は終わっていません」


 レトリスは言った。


 「終わらせないために戻る」


 ガニーロはライトを下げた。


 「ここで詰めると、足元を見落とす」


 レトリスは、床の水の筋を見た。


 悔しいが、正しかった。


 全員が一列になって通路を戻った。オリーンは声を出さず、両手を胸の前で握っていた。おそらく心の中で、入れたこと、見つけたこと、戻ることを全部祝っている。サポナーラは転ばないように手帳を閉じ、エメットは防災ライトを最後尾に向けている。オバインのサブマリンは、彼の腕の中でおとなしくしていた。


 外へ出ると、朝の光が眩しかった。


 商店街の屋根の隙間から、細い青空が見えている。川の匂いはまだある。けれど、地下の冷たさから出た後では、同じ空気が少しだけ軽く感じられた。


 ヒルドバーグが麦茶を紙コップに注いだ。


 最初にエメットへ渡し、次にレトリスへ、そしてガニーロへ。レトリスは受け取った紙コップの温度に、少し驚いた。冷たい麦茶ではなかった。ぬるい。地下から出た体には、ちょうどよかった。


 オリーンが小声で言った。


 「戻ってこられました」


 「はい」


 レトリスは、今度は訂正しなかった。


 オリーンの顔がぱっと明るくなる。だが、大声を出す前に自分で口を押さえた。


 サポナーラがそれを見て、手帳に「自力で大声を止めた。大きな進歩」と書いた。レトリスは見なかったことにした。


 エメットは、紙コップを両手で包んだまま、ガニーロの前に立った。


 「僕を背負ったのは、あなたなんですね」


 ガニーロは、少し時間を置いてうなずいた。


 「そうだと思う」


 「思う、ですか」


 「全部は覚えていない。水音と、背中の重さと、鞄の音だけだ」


 エメットは紙コップを見下ろした。


 「僕は、助けてくれてありがとうと言うべきなのか、覚えていなくてすみませんと言うべきなのか、わかりません」


 「どちらも今すぐいらない」


 「では、何を言えばいいですか」


 ガニーロは、答えに迷うように見えた。


 その迷いを、レトリスは初めて、少しだけ許せた。すぐに正しい言葉が出ない時もある。黙ることでしか守れないものもある。けれど、それを永久に続けられたら、待たされる側は凍えてしまう。


 ガニーロは紙コップの縁を親指でなぞり、言った。


 「今日、転ばなかった。それでいい」


 エメットは目を丸くした。それから、ほんの少し笑った。


 「はい。転びませんでした」


 オバインがサブマリンを高く掲げかけて、レトリスの視線に気づき、胸の高さで止めた。


 「希望も転んでいない」


 「それは置いておいてください」


 「希望、置きません」


 「言い張らない」


 サポナーラが首の笛を触り、鳴らさずに離した。


 「私は笛を鳴らしませんでした」


 「それは当然です」


 「当然を達成するのは、失敗の多い人間には大切です」


 レトリスは返す言葉を探し、結局、短くうなずいた。


 「では、それも記録しておいてください」


 サポナーラは、ぱっと顔を上げた。


 「いいんですか」


 「笛を鳴らさなかった記録なら」


 「ありがとうございます。防災史に残します」


 「残しません」


 小さな笑いが、入口前に広がった。


 ガニーロはその笑いの中で、蒼い鞄を見ていた。レトリスはその視線に気づいたが、問い詰めなかった。今日、壁に言葉が一つ残っていた。鍵も見つかった。エメットの記憶の穴にも、輪郭ができた。


 それでも、まだ足りない。


 十年前の録音。


 「先に逃げて。あとで追いつく」と言った相手。


 ガニーロが、なぜペアカップの片割れを持っていたのか。


 レトリスを待たせた本当の理由。


 それらは、地下の小部屋の奥に残った水の筋のように、まだ細く続いている。


 レトリスは蒼い鞄の口を閉じた。


 留め具が、ちり、と鳴る。


 その音は、今朝、鉄扉が開いた時の音とは違う。けれど、どちらも何かを開ける音だった。


 彼女はガニーロを見た。


 「次は、基板を止める前に中身を確認します」


 ガニーロがうなずく。


 「勝手に印字させない方法を考える」


 「勝手に人の気持ちを紙に出す鞄なんて、危険です」


 「同感だ」


 「珍しく早い同意ですね」


 「今日は順番を間違えたくない」


 レトリスは、もう一度、旧地下避難施設の鉄扉を見た。


 扉は開いた。


 けれど、話はまだ閉じていない。


 サブマリンの中で見つけた落書きは、子どもの約束だった。迷子にならないための、幼い設計図だった。


 その設計図を、大人になった自分たちがどう使うのか。


 朝の光の中で、レトリスは蒼い鞄を肩に掛け直した。


 今度は、音がしても握り潰さなかった。



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