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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第25話 エメットの記憶の穴

 午後の青鞄電子堂には、乾いた金属の匂いがしていた。


 開け放した入口から、商店街の声が薄く流れ込んでくる。八百屋の店先で木箱を動かす音。喫茶「ペアカップ」の鈴が遠くで鳴る音。古い避難所看板の下を自転車が通ると、泥よけに当たった小石が、ちいさく跳ねる音。


 エメットは作業台の前で、両手を膝に置いていた。


 目の前には、防災ライトが三つ並んでいる。第十三話で彼が初めてはんだごてを持った日から、ガニーロは練習用の壊れたライトを少しずつ出してくれるようになった。最初は、持ち方から直された。次は、熱した先端を置く位置。今日は、接触の悪い線を見つけ、切れた部分に小さな銀色の橋をかける練習だった。


 「焦げた匂いがしたら、手を止める」


 ガニーロが言う。


 「煙が出たら、窓を開ける」


 エメットが復唱した。


 「指が熱かったら?」


 「声を出す」


 「我慢しない」


 「はい」


 横で見ていたサポナーラが、手帳に大きく書いた。


 声を出す練習、無料。


 レトリスが、その文字をのぞき込む。


 「販売台本にしないでください」


 「売りません。注意書きとして貼ります」


 「貼らないでください」


 「では、裏に」


 「裏でもだめです」


 サポナーラは、しゅんとする代わりに別のページを開いた。失敗した文句の隣に、さらに小さく「裏も不可」と書き足す。その手つきが妙に真剣なので、エメットはつい笑いそうになった。


 ガニーロは、そんな二人を見てから、エメットの前に小さな部品皿を置いた。


 「今日は、点かない理由を一つずつ消していく」


 「はい」


 「電池、端子、線、スイッチ。順番を飛ばさない」


 「順番を飛ばすと、何が悪いかわからなくなるから」


 「そう」


 ガニーロは軽くうなずいた。


 彼はいつも、手順を書き出してから作業を始める。作業台の端には、手書きの紙が何枚も貼ってあった。はんだごてを置く位置。火傷した時の冷やし方。子どもが来た時の工具のしまい方。地震が来た時、どの棚を先に押さえるか。


 用意が多すぎると笑われることもある。けれど、エメットはその紙を見ると、胸の奥が少し楽になった。何をすればいいかわからない時間が、彼は苦手だった。言われたことについていくのは得意だ。誰かの背中が前にあると、足が動く。


 ただ、なぜそうなのかは、わからなかった。


 エメットは防災ライトを裏返し、電池蓋を外した。端子に白い粉が少しついている。


 「腐食しています」


 「よく見つけた」


 ガニーロが、古い歯ブラシと布を渡す。


 エメットは慎重にこすった。白い粉が落ち、金属の色が戻る。ライトの中から、かすかに湿った匂いがした。


 ほんの少しだけ、手が止まる。


 「どうした?」


 「いえ」


 エメットは首を振った。


 匂いは、すぐに消えた。たぶん、古い電池のせいだ。水を吸った段ボールや、濡れたタオルや、雨の日に閉じた靴箱のような匂い。そう言えばいいのに、言葉にすると別のものが一緒に出てきそうで、エメットは黙った。


 レトリスが、作業台の反対側で蒼い鞄を開けていた。中には古いハザードマップ、補助鍵の束、赤面ポエム基板を包んだ布、そして破らずにしまわれた青魚サンドの紙が入っている。


 「その紙、まだ残していたんですか」


 ガニーロが言った。


 「証拠品です」


 「何の?」


 「鞄が勝手に印字する不具合の」


 オリーンが入口から顔を出した。


 「好きの証拠では?」


 レトリスは蓋を閉めた。


 「帰ってください」


 「お茶を持ってきただけです!」


 オリーンは盆を持ち上げた。カップが人数分、きれいに並んでいる。いちばん端には、片方だけ金継ぎの線があるカップが置かれていた。


 ガニーロの目が、ほんの一瞬だけそこに留まる。


 レトリスも気づいたが、何も言わなかった。


 エメットは、布で端子を拭きながら、湿った匂いを追い払おうとした。けれど、鼻の奥に残ったそれは、ゆっくり別の感覚を連れてくる。


 背中。


 誰かの背中だ。


 ぬれた服が頬に当たる。耳のそばで、荒い息がする。腕を首に回すと、相手が「落ちない」と言った。水が足もとを打つ音がした。人の声が遠くで重なって、雨の音なのか泣き声なのか、わからなかった。


 そして、鞄の匂い。


 青い布。泥。濡れた金具。内側にしまった紙がふやける匂い。


 エメットは、歯ブラシを置いた。


 「エメット?」


 ガニーロの声が近くなる。


 「大丈夫です」


 そう答えたのに、手は動かなかった。


 幼い頃の水害の話になると、周りの大人は決まって声を落とす。エメットは、そこで困る。覚えていないからだ。記憶がないと言うと、かわいそうにという顔をされる。覚えているふりをすると、胸の中に小石が入る。


 彼の中に残っているのは、いくつかの感覚だけだった。


 水の冷たさ。人の肩の固さ。顔にかかった雨。背負われて揺れる時の、胸の下の苦しさ。どこかで鳴っていた、低い鈴の音。


 名前も、場所も、順番もない。


 穴だらけの紙のようなものだった。


 「覚えていないんです」


 エメットは、誰に言うともなく口にした。


 オリーンが盆を持ったまま動きを止める。サポナーラの鉛筆も止まった。レトリスは鞄の蓋に置いた手を、少しだけ緩めた。


 「水害の時のことです。みんな、あの日は大変だったと言います。でも、僕はほとんど覚えていません。ただ……誰かに背負われた気がします」


 ガニーロが、目を伏せた。


 エメットは続けた。


 「その人が誰だったのかも、わかりません。家族だったのか、近所の人だったのか。覚えていないのに、背中だけ残っているんです。変ですよね」


 「変ではありません」


 レトリスの声は早かった。


 エメットが顔を上げると、彼女は蒼い鞄の持ち手を握っていた。指に力が入りすぎて、革の古い皺が深くなっている。


 「記憶は、全部が文章で残るわけではありません。匂いだけ残ることもあります。音だけ残ることもあります。……嫌な顔だけ、妙にはっきり残ることも」


 最後の言葉だけ、少し苦かった。


 ヒルドバーグが、いつの間にか入口に立っていた。喫茶店から様子を見に来たのだろう。手には、濡らした布巾と小さな砂糖入れを持っている。


 「穴があるなら、無理に埋めなくていい。落ちないように、縁に印をつけておけばいい」


 サポナーラが、ほっとしたように息を吐く。


 「縁に印。いいですね」


 「売るな」


 ヒルドバーグが即座に言う。


 「まだ言ってません」


 「顔が言っている」


 店内に小さな笑いが起きた。


 エメットも笑おうとした。けれど、その時、蒼い鞄が作業台の上で、かちりと鳴った。


 全員の目が向く。


 レトリスが蓋を押さえるより早く、内側の基板が、短い紙片を吐き出した。


 じじ、という音。


 紙はゆっくり伸び、最後に少し曲がって止まった。


 レトリスは渋い顔でそれを引き出す。


 「また勝手に……」


 言いかけて、彼女は黙った。


 紙には、かすれた濃さで一行だけ印字されていた。


 小さな背中は、誰かの未来を運ぶ。


 青鞄電子堂の音が、消えた。


 外では、相変わらず商店街の声がしている。誰かが野菜の値段を聞き、誰かが笑い、どこかの引き戸が閉まる。けれど店の中だけ、古い地下のように静かだった。


 エメットは紙を見つめた。


 「小さな背中……」


 自分が背負われていたのなら、小さかったのは自分だ。そう思った。けれど、印字は少し違う。小さな背中が、未来を運ぶ。まるで、背負った方も子どもだったような言い方だ。


 ガニーロが、作業台の角に手を置いた。


 指先が白い。


 「ガニーロさん?」


 エメットが呼ぶと、彼はすぐに笑おうとした。けれど、口の端だけが動いて、声が出ない。


 レトリスは紙から目を離さずに言った。


 「あなた、何か知っていますね」


 「……確かめていないことを、知っているとは言えない」


 ガニーロの声は、いつもより低かった。


 「便利な逃げ方です」


 「そうかもしれない」


 彼は否定しなかった。


 オリーンが盆を作業台に置こうとして、カップを一つ鳴らした。金継ぎの線があるカップが、他のカップに軽く当たる。ちん、と小さな音がした。


 その音を聞いた瞬間、エメットの胸に、もう一つだけ浮かんだ。


 低い鈴の音。


 水の中で聞いたと思っていたそれは、鈴ではなかったのかもしれない。カップか、工具か、鞄の金具か。何かが揺れて、ぶつかる音。


 エメットは蒼い鞄にそっと触れた。


 濡れていないはずなのに、指先に冷たさが戻った。


 「この鞄の匂いです」


 彼は言った。


 「僕が覚えているの、この匂いです。泥と、雨と……紙が濡れた匂い」


 レトリスの顔色が変わった。


 彼女は鞄を自分の方へ引き寄せる。その動きは隠すためではなく、落とさないために見えた。


 「この鞄は、母のものです」


 「はい」


 「水害の日に、私が持っていました」


 「はい」


 「でも私は、その日あなたに会った記憶がありません」


 エメットはうなずいた。


 「僕も、誰に会ったか覚えていません」


 言葉にしてみると、少しだけ楽になった。覚えていないことは、役に立たない穴ではないのかもしれない。穴の形がわかれば、そこに風が通る。そこから、匂いや音が入ってくる。


 ガニーロは、作業台に置いた手をゆっくり離した。


 「旧地下避難施設の内部調査、明日の朝に許可が出た」


 急に話が変わったようで、誰もすぐには反応できなかった。


 彼は棚から封筒を取り出した。役場の印が押してある。


 「管理用の小部屋までは、立ち会いがあれば入れる。排水口と壁の状態を確認することになっている」


 レトリスは封筒と、蒼い鞄を交互に見た。


 「なぜ今、それを言うんですか」


 「順番を飛ばさないため」


 「答えになっていません」


 「答えを出す前に、見る場所がある」


 レトリスは、反論しかけて唇を結んだ。


 エメットには、二人の間に置かれたものが見える気がした。言えない過去。責められた記憶。持ち主を変えながら残った鞄。誰かを背負った小さな背中。


 サポナーラが、恐る恐る手を挙げた。


 「明日、私も行っていいですか。失敗した時の記録係として」


 「失敗前提で来ないでください」


 レトリスが言う。


 「では、成功しない可能性も見守る係で」


 「言い換えても同じです」


 オリーンが、すぐ隣で手を挙げた。


 「私は成功したら祝う係で!」


 「まだ成功する内容がありません」


 「では、入れたことを祝います」


 「地下で大声を出さないでください」


 ヒルドバーグが、砂糖入れを作業台に置いた。


 「戻ってきてから祝えばいい。戻るのが先だ」


 その一言で、店の空気が少し落ち着いた。


 ガニーロは防災ライトを一つ手に取った。エメットが端子を磨いたものだ。電池を入れ、スイッチを押す。


 白い光が、作業台の上にまっすぐ伸びた。


 エメットは息をのむ。


 「点きました」


 「点いた」


 ガニーロが、今度はちゃんと笑った。


 オリーンが小声で拍手をした。レトリスは大声禁止と言いかけたが、その拍手は本当に小さかったので、何も言わなかった。サポナーラは手帳に「小声拍手は可」と書き、すぐレトリスに横目で見られて、線を引いて消した。


 エメットは、防災ライトの光を見つめた。


 記憶の穴は、まだ空いたままだ。誰に背負われたのかも、どこからどこへ運ばれたのかも、わからない。


 けれど、穴の向こうに、光が少しだけ差した。


 その光のそばで、蒼い鞄は静かに閉じている。


 まるで、明日の朝まで続きをしまっておくように。



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