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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第24話 食わず嫌い二皿目

 昼の喫茶「ペアカップ」は、朝より少しだけ客が多かった。


 入口の鈴が鳴るたび、壁のカップがかすかに震える。二つ一組で並んだそれらは、形も色もばらばらなのに、並べて見ると妙に落ち着いて見えた。片方だけ欠けた皿、金継ぎの線が入った湯飲み、取っ手の色だけ違うマグカップ。どれも、ここに置かれてから長い顔をしている。


 レトリスは、その棚を横目で見ながら、カウンターの前に立った。


 「青魚サンドを一つ」


 オリーンは、注文票を持つ手を胸の高さで止めた。


 「一つ、ですね」


 「一つです」


 「先日、検証のためと言っていました」


 「今日も検証です」


 「検証は、だいたい二度目で好物に名前が変わります」


 「変わりません」


 レトリスは財布を出し、硬貨を皿に置いた。硬貨が鳴った音に合わせて、奥の厨房からヒルドバーグが顔を出した。


 「パンは少し焼くかい」


 「通常でお願いします」


 「玉ねぎは」


 「通常で」


 「ソースは」


 「通常で」


 ヒルドバーグは、ふっと目を細めた。


 「よく知ってるね」


 レトリスは、財布を閉じる手をほんの少し遅らせた。


 「店の掲示に書いてあります」


 「玉ねぎの量までは書いてないよ」


 「前回、見えました」


 「よく見てる」


 「防災担当なので」


 「サンドイッチの断面も防災に入るのかい」


 「入る可能性はあります」


 隣の席で新聞を広げていたサポナーラが、すぐに顔を上げた。


 「避難時に片手で食べやすい携帯食としての研究ですね」


 「違います」


 「では、魚の骨による咀嚼訓練」


 「骨は抜かれています」


 「青魚嫌い克服講座、第二回」


 「そこまで言ったら出入り禁止にします」


 サポナーラは新聞で顔を隠した。だが、紙の上端が小刻みに揺れている。笑っているのが見えた。


 ガニーロは窓際の席で、ロシルドゥアと避難支援表の余白を確認していた。昨日作った表には、休憩確認の欄が増えている。赤い線は乾き、黒い文字は読みやすく並んでいた。


 レトリスが青魚サンドを注文した瞬間、ガニーロは顔を上げた。しかし、何も言わなかった。言わずに、手元の紙を一枚ずらしただけだった。


 その仕草が、レトリスには見えた。


 「何ですか」


 「何も」


 「今、何か言いかけました」


 「言ってない」


 「表情が言っていました」


 「表情までは管理できない」


 「では、今後の会議で表情も議事録に残します」


 「それはやめてほしい」


 オリーンが水の入ったグラスを二つ運んできた。ひとつをレトリスの席へ、もうひとつをなぜかガニーロの前へ置く。


 「検証には比較対象が必要です」


 「私は頼んでいない」


 ガニーロが言うと、オリーンは注文票を見せた。


 「半分残す係、予約済みです」


 「いつ予約された?」


 「私の心の中で、今日の朝八時に」


 「その予約は無効だと思う」


 「心の中の予約は、キャンセル料が笑顔です」


 ヒルドバーグが奥からパンを焼く香りを連れて出てきた。


 「ガニーロ。半分なら食べるだろう」


 「食べますけど」


 「じゃあ有効」


 「店主判定が早い」


 レトリスは椅子に腰を下ろした。蒼い鞄を足もとに置く。鞄の金具が椅子の脚に当たって、かちりと小さく鳴った。その音を聞くと、店の空気が一瞬だけ静かになる。


 この鞄から、何度も余計な言葉が出た。十年前の雨音も、紙片に残った幼い字も、誰かが言えなかった一文も、突然ここへ持ち込まれた。


 レトリスは、鞄の蓋を手で押さえた。


 「今日は動かないでください」


 ガニーロが困ったように笑った。


 「鞄に言ってる?」


 「あなたにも言っています」


 「僕はまだ何もしてない」


 「余計な配線を黙って直す人は、余計な一言も黙って準備します」


 「それは偏見」


 「過去の実績に基づく判断です」


 ヒルドバーグが皿を置いた。


 青魚サンドは、前より少しだけ綺麗に切られていた。焼き目のついたパンの間に、ほぐした青魚と玉ねぎ、薄く切ったきゅうりが挟まっている。酸味のあるソースの香りが、湯気の少ない昼の空気に広がった。


 レトリスは、皿を見つめた。


 嫌いな匂いではなかった。むしろ、朝から歩き回った胃に、まっすぐ届く匂いだった。


 だが、好きだと言うには問題があった。


 まず、前回あれだけ嫌いだと言った。次に、ガニーロがこの店でよく頼む。さらに、オリーンが祝う準備をしている。ここで素直に美味しいと言えば、喫茶店の壁に「レトリス青魚記念日」と書かれかねない。


 レトリスは、サンドを半分持ち上げた。


 「検証します」


 「はい」


 オリーンが姿勢を正した。


 「声に出して記録しなくて結構です」


 「目で記録します」


 「目も閉じてください」


 「それでは見守れません」


 「見守らなくて結構です」


 レトリスは一口かじった。


 パンの表面が少しだけ音を立て、内側の柔らかさが舌に触れる。青魚の油は重すぎず、玉ねぎの辛みがあとから追いかけてきた。きゅうりの歯ざわりが、その間に逃げ道を作る。


 腹立たしいほど、よくできていた。


 「どうですか」


 オリーンが両手を握る。


 「欠点はあります」


 「どこですか」


 「食べやすいです」


 「それは長所です」


 「長所にも欠点はあります。食べやすいと、早く減ります」


 サポナーラが新聞の陰で吹き出した。


 ヒルドバーグは腕を組み、満足そうにうなずいた。


 「もう半分も食べるかい」


 「検証は一口で十分です」


 レトリスは皿を少し押し、残りの半分をガニーロの前へ寄せた。


 ガニーロは、何も言わなかった。


 本当に、何も言わなかった。


 ただ、紙ナプキンを一枚取り、皿の端に添えた。そこには、レトリスがかじった方とは別の半分が残っている。ガニーロはそれを自分の皿に移さず、レトリスの手が届く位置に置いたままにした。


 「食べないんですか」


 レトリスが訊くと、ガニーロは表の余白を指で押さえながら答えた。


 「仕事が終わってから食べる」


 「冷めます」


 「冷めても美味しい」


 「知っているんですか」


 「知ってる」


 「よく食べるんですね」


 「よく残されるから」


 レトリスは、返す言葉を見つけ損ねた。


 昔も、そうだった気がした。


 苦手だと言ったものを、ガニーロは横から奪わなかった。残したら食べると言って、少し離れたところに置いてくれた。食べても食べなくてもいい距離に、皿を残してくれた。


 好きになれと言われるより、その距離のほうが困る。


 レトリスは水を飲んだ。


 「……半分までは、検証します」


 「うん」


 「うん、ではなく、わかりました、です」


 「わかりました」


 「笑わない」


 「笑ってない」


 「表情が笑っています」


 「表情も議事録に残す?」


 「残します。『青鞄電子堂店主、非常に腹立たしい顔』」


 「それは正式な記録に向かない」


 その時、足もとの蒼い鞄が、こつん、と鳴った。


 レトリスは反射的に蓋を押さえた。ガニーロも顔を上げる。オリーンは、なぜかすでに額縁を持っていた。


 「なぜ持っているんですか」


 「予感です」


 「戻してください」


 「まだ何も入れてません」


 鞄の中で、古い小型プリンターが短く震えた。紙送りの音が、店内に細く響く。


 レトリスは蓋を押さえたまま、低い声で言った。


 「止まりなさい」


 止まらなかった。


 紙が一枚、内ポケットからぬっと出てきた。まるで、言いたいことが狭い場所に収まりきらなくなったみたいだった。


 ガニーロが手を伸ばそうとしたが、レトリスは先に紙を抜き取った。


 「読みません」


 「読まないの?」


 「読みません」


 「じゃあ破るの?」


 「確認してから破ります」


 「それは読むんじゃないかな」


 レトリスは紙を開いた。


 印字は、いつものように微妙に曲がっていた。古い基板と紙送りの癖が、そのまま文字の揺れになっている。


 『嫌いなものほど、また食べに来る。嫌いな人ほど、席を空けておく。』


 店内が、静かになった。


 サポナーラの新聞が、ゆっくり下がる。ロシルドゥアは表から顔を上げ、ヒルドバーグは口の端だけで笑った。ガニーロは、すぐに視線をそらした。


 レトリスは紙を持つ指に力を入れた。


 「破棄します」


 「待ってください!」


 オリーンが額縁を抱えて飛び出してきた。


 「それは本日の名言です!」


 「迷言です」


 「額装します」


 「廃棄します」


 「店の青魚サンド販促にも使えます。『嫌いなものほど、また食べに来る』。すごくいいです」


 「使った瞬間に営業停止を提案します」


 「では、『嫌いな人ほど、席を空けておく』だけを」


 「もっと駄目です」


 レトリスは紙を二つに折ろうとした。オリーンは額縁を盾のように構えた。サポナーラが立ち上がり、なぜか仲裁役の顔をする。


 「ここは公平に、抽選で保存か破棄を決めましょう」


 「あなたは絶対に保存側です」


 「では、失敗談として語り継ぐ形で」


 「語り継がない」


 ヒルドバーグがカウンターを軽く叩いた。


 「破るなら、食べ終わってからにしな」


 レトリスは動きを止めた。


 「関係ありますか」


 「空腹で破ると、あとで後悔するよ」


 「満腹なら後悔しませんか」


 「少なくとも、手元が乱れない」


 ロシルドゥアが真面目な顔でうなずいた。


 「判断前の補給は大切です」


 「あなたまで」


 「休む練習の次は、食べる練習です」


 レトリスは、店内を見回した。


 誰も、彼女を追い詰める顔をしていなかった。笑っている。けれど、その笑いは、好きだと認めろと迫る笑いではない。逃げ道をふさぐものではなく、逃げ道のそばに立っている明るさだった。


 ガニーロは、まだ残りの半分に手をつけていない。


 レトリスは紙を折り、鞄の上に置いた。


 「保存はしません」


 「額縁は?」


 オリーンが期待を捨てきれない声を出す。


 「空のまま飾ってください」


 「空の額縁ですか」


 「『破棄される予定だった名言が入るはずだった額縁』として」


 オリーンの目が輝いた。


 「それ、面白いです!」


 「面白がらないでください」


 ヒルドバーグが奥から小さな紙を持ってきて、額縁に入れた。そこには太い字で「本日は空席」と書かれている。


 「席を空けておくなら、ちょうどいい」


 ガニーロが、肩を震わせた。


 「笑いましたね」


 レトリスが睨むと、彼は首を横に振った。


 「いや、今のは店主が悪い」


 「責任転嫁です」


 「本当に」


 レトリスは残っていたサンドを見た。


 半分。いや、よく見ると、少し多く残っている。ガニーロが食べる分として置かれたはずのそれは、レトリスの席から取りやすい向きに変えられていた。


 何も言わずに、半分残しておく。


 それが腹立たしくて、ありがたくて、レトリスは紙ナプキンを取った。


 「追加検証します」


 「はい」


 オリーンが額縁を抱えたまま、声をひそめた。


 「記録は目で?」


 「今日は、口で記録します」


 店内が少しだけ前のめりになる。


 レトリスは青魚サンドをもう一口かじり、しっかり飲み込んでから言った。


 「嫌いではありません」


 オリーンが椅子から飛び上がりそうになったので、ヒルドバーグが背中のエプロン紐をつかんだ。


 「大声禁止」


 「小声で祝います!」


 「小声でも祝わないでください」


 レトリスは紙を鞄の内ポケットに戻した。破るつもりだったのに、手は勝手にしまう方を選んでいた。


 ガニーロが、ようやく自分の分を手に取る。


 「冷めてますよ」


 「うん」


 「美味しいんですか」


 「美味しい」


 「即答しないでください」


 「そこは即答でいいと思う」


 レトリスは水を飲み、窓の外へ目を向けた。


 商店街の向こうに、古い避難所看板が見える。昨日、ブルグリンデが拭いた青い矢印は、昼の光の下でまだ濡れたように光っていた。好きと言えないもの。嫌いと言い切れないもの。直したいのに、触れると痛む場所。


 それらは全部、急いで答えを出さなくてもいいのかもしれない。


 席を空けておく。皿を半分残しておく。額縁を空にしておく。


 今のところは、それで十分だった。


 足もとの蒼い鞄が、また小さく鳴った。


 レトリスはすかさず蓋を押さえた。


 「次はありません」


 鞄は、黙った。


 ガニーロが小さく笑う。


 「聞き分けがいい」


 「あなたよりは」


 「ひどい」


 「事実です」


 オリーンが空の額縁を壁にかけた。中には「本日は空席」の紙が入っている。けれどその下に、小さな付箋が貼られていた。


 青魚サンド二皿目、検証中。


 レトリスはそれを見つけ、すぐに剥がそうとした。


 オリーンは逃げた。


 ヒルドバーグは笑いながら皿を下げ、サポナーラは新聞の余白に「検証中は販促文句に使える」と書き留め、ロシルドゥアは休憩確認の欄に、自分の名前と同じくらい丁寧な字で「昼食」と書き足した。


 ガニーロは、残ったサンドを食べ終えると、避難支援表の端に一行だけ加えた。


 食べられる場所も、逃げ道になる。


 レトリスはその文字を見て、また文句を言おうとした。


 けれど、口を開く前に、青魚の後味が少しだけ残っていることに気づいた。


 嫌いではない味だった。



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