第23話 ロシルドゥアの休む練習
ロシルドゥアは、朝の商店街で三度、手帳を落とした。
一度目は、魚屋の前だった。濡れてもいない石畳につま先を取られ、開いたページから小さな付箋が風に散った。付箋には、独居の老人の名、足の悪い夫婦の部屋番号、雨の日に杖が滑る坂道、耳の遠い人の玄関チャイムの位置まで細かく書かれていた。
二度目は、坂の途中だった。郵便受けに新しい連絡票を入れようとして、手帳の角を門柱へぶつけた。紙がばさりと鳴り、ロシルドゥアは慌てて拾おうとしたが、膝に手をついたまま、少しだけ動かなかった。
三度目は、喫茶「ペアカップ」の前だった。
そのときは、手帳だけではなく、本人まで店先のベンチに座り込んだ。
「私は座ったのではありません。靴ひもを確認しているだけです」
ロシルドゥアは、ほどけていない靴ひもを見つめながら言った。
すぐそばで、ガニーロが落ちた付箋を拾い集めていた。レトリスは名簿の紙を風から守り、オリーンは店の扉を開けたまま、湯気の立つスープの匂いを外へ逃がしている。
ヒルドバーグは、店の奥から乾いた布巾を持って出てきた。
「靴ひもなら、ほどけてから見ればいいよ」
「ほどける前に見るのが窓口職員の務めです」
「靴ひも係まで背負うんじゃない」
ヒルドバーグはそう言って、ロシルドゥアの肩へ布巾をかけた。濡れてもいないのに布巾をかけられたロシルドゥアは、きょとんとする。
「私は濡れていません」
「顔色が冷えている」
「顔色は拭けません」
「拭けないものほど、温めるんだよ」
言い返そうとしたロシルドゥアの前に、オリーンが椅子を置いた。椅子には、なぜか小さな紙が貼られている。
「本日の特別席です。座るだけで世界に貢献できます」
「大げさです」
「では、現町に貢献できます」
「それも大げさです」
「では、ペアカップの床を踏み抜かずに済みます」
「それは私の体重の話ですか」
「違います! 比喩です! 床も心も支え合いです!」
オリーンの声が店内に跳ね、常連の老人が新聞の陰で笑った。
ロシルドゥアは唇を結んだが、立ち上がろうとはしなかった。立ち上がろうとして、膝がほんの少し遅れたからだ。本人が気づくより早く、ガニーロが足元に置いた鞄を引いた。
「通路、空けます」
「助けは求めていません」
「求められる前に邪魔を減らしただけです」
ロシルドゥアは、反論の言葉を探した。けれど、見つけたのはため息だった。
「……五分だけです」
「十分」
ヒルドバーグが言った。
「五分で十分です」
「それは言葉が似ているだけだよ」
ヒルドバーグは店に入り、まず自分の湯飲みに茶を注いだ。ロシルドゥアは、その手順を見て眉を上げる。
「私より先に、ご自分の分ですか」
「そうだよ」
「お客様が先では」
「私は、この店を倒れさせないための一人目だからね」
湯飲みを両手で包み、ヒルドバーグはゆっくりと一口飲んだ。急がなかった。誰かを待たせている顔もしなかった。
その間に、オリーンがロシルドゥアの前へ温かい茶を置いた。湯気が眼鏡の縁を曇らせる。ロシルドゥアは手帳を膝に置いたまま、湯飲みに手を伸ばさない。
「今飲むと、次の家に遅れます」
「次の家は、どちらですか」
レトリスが訊ねた。
「坂上のミリアさんです。雨の日は玄関の段差が危ないので、避難時の声かけ順を確認します。その後、裏通りのナタンさん。耳が遠いので紙を大きくします。それから港側の――」
「一人で全部ですか」
「今朝の分は、私が把握しています」
レトリスは、ロシルドゥアの手帳を開いた。許可を取る前に開いたので、ロシルドゥアの目が一瞬きつくなる。だが、レトリスはその視線を正面で受けた。
「すみません。急ぎます」
ページには、細かい文字がびっしり並んでいた。時間、住所、支援内容、本人の希望、家族への連絡、杖の置き場所、薬の袋の色。正確だった。だからこそ、ひとりの肩に載せるには重かった。
ガニーロは、テーブルの端に白紙を置いた。
「支援先を減らすのではなく、支える人を増やす表にしましょう」
「増やせるなら、とっくに増やしています」
「人数だけではなく、仕事を分けます。玄関確認、連絡票、声かけ、移動補助、休憩確認。全部を一人が持たないように」
ロシルドゥアは湯飲みを見つめた。
「細かく分けるほど、連絡漏れが出ます」
その言葉に、アリシャーが店の入口から顔を出した。いつからいたのか、手には雨水ますの位置を書き込んだ図面を持っている。
「漏れは、表で塞ぐ」
「突然入ってきて、排水溝みたいに言わないでください」
オリーンが言うと、アリシャーは真顔でうなずいた。
「排水溝は大事だ」
「そこを認めてほしいわけではありません」
店内にまた小さな笑いが起きた。
アリシャーは、白紙の横に自分の図面を広げた。
「高齢者宅の位置と、十年前に水が早く来た道を重ねる。移動補助が必要な家を色で分ける。連絡だけなら、近所の人でもできる。移動は、段差を知っている人に任せる。役所の人間だけで背負うと、道が詰まる」
「人を物みたいに言わないでください」
ロシルドゥアの声に、力が戻った。アリシャーは少しだけ目を伏せる。
「悪かった。人が動ける道を作る話だ」
ロシルドゥアは、湯飲みに触れた。指先が温まると、肩の力がほんの少し落ちる。
「……近所の人に頼むと、相手の負担になります」
「頼む内容を小さくすればいい」
ヒルドバーグが、自分の湯飲みを置いた。
「『全部お願い』じゃなくて、『雨の日に玄関灯をつける時間だけ見て』なら、できる人がいる。『避難所まで連れて行って』じゃなくて、『角まで一緒に歩いて』なら、できる人がいる。助ける側にも、重さを選ばせるんだよ」
ロシルドゥアは、何かを言いかけて止めた。
彼女の手帳には、誰が困るかばかり書いてあった。誰なら少し助けられるかは、空白のままだった。
ガニーロは、白紙の上に線を引いた。
「避難支援名簿を、四つに分けませんか。連絡、玄関確認、同行、休憩確認」
「休憩確認?」
ロシルドゥアが聞き返す。
「支える人が、ちゃんと座ったか見る係です」
「そんな係、必要ですか」
ヒルドバーグは自分の湯飲みを軽く持ち上げた。
「必要だよ。支える人が倒れたら、支えられる人も困る」
その言葉は、店の奥に置かれたカップの棚へ静かに届いた。
ロシルドゥアは湯飲みを持ち上げた。飲む前に、いつものように時間を確認しようとして、手帳へ伸ばした指を止める。
茶を一口飲んだ。
熱すぎず、ぬるくもない。急いで飲み込むには惜しい温度だった。
「……これは、休む練習です」
誰に言うでもなく、ロシルドゥアはつぶやいた。
「練習なら失敗してもいいですね!」
オリーンがすぐに身を乗り出す。
「最初の課題は、十分座ることです。次の課題は、茶菓子を一つ食べることです。上級課題は、ヒルドバーグさんのまかないを遠慮せず食べることです」
「いきなり上級まで出さないでください」
「では、補習として青魚サンドを半分」
「それはレトリスさんの課題です」
レトリスが、紙から顔を上げた。
「なぜ私の課題になっているんですか」
「前回、好きそうな顔で食べていました」
「好きそうな顔ではありません。検証していただけです」
「検証二回目、必要ですね」
「不要です」
言いながら、レトリスの視線は店の黒板へ向かった。そこには、今日の軽食として青魚サンドと書かれている。ガニーロは何も言わず、メニュー表をそっと裏返した。裏にも青魚サンドと書いてあった。
「なぜ両面に書いているんですか」
「逃げ道を塞いだわけではありません」
「塞いでいます」
ロシルドゥアは、湯飲みを持ったまま少し笑った。声にはならない笑いだったが、頬のこわばりがほどけた。
その笑いを見て、レトリスは白紙に新しい表を書き始めた。
ミリア宅。玄関確認、花屋の夫。連絡票、役所。同行、隣家の娘。休憩確認、ペアカップ。
ナタン宅。玄関灯確認、向かいの時計店。大きな紙、ロシルドゥアではなく、ガニーロが印刷。同行、消防団経験者の常連。休憩確認、本人の孫へ電話。
ロシルドゥアは、最初は黙って見ていた。やがて、自分の手帳から一枚ずつ付箋を剥がし、白紙へ移し始める。
「ミリアさんは、花屋のご主人とはよく話します。ただ、遠慮します。頼み方は『避難の手伝い』ではなく、『鉢を玄関からどかすついでに声をかける』がいいです」
「書きます」
「ナタンさんは、時計店の鐘の音なら聞こえます。避難開始の合図に、店先の古時計を鳴らせるか確認してください」
「確認します」
「それから、私の休憩確認は要りません」
ヒルドバーグが茶を注ぎ足した。
「いる」
「では、短く」
「十分」
「五分で」
「十分」
「七分」
「十分」
「交渉の余地がありません」
「命に関わるものは、値切らない」
ロシルドゥアは、湯飲みを見つめ、それから小さくうなずいた。
「十分、座ります」
オリーンが両手を上げかけたので、レトリスがすぐに止めた。
「祝う声は小さく」
「小さく祝います」
オリーンは口を両手で押さえ、椅子の上で足だけぱたぱたさせた。小さくない。だが、声は出ていない。
ガニーロは、笑いをこらえながら表の端に赤い線を引いた。
支える人も、支えられる人に含める。
その一文を見たロシルドゥアは、しばらく目をそらさなかった。
「……この表なら、使えます」
「名前を入れましょう」
レトリスが言うと、ロシルドゥアは手帳を閉じた。
「私の名前も入れてください。休憩確認の欄に」
店内が、ふっと静かになった。
ヒルドバーグは何も言わず、茶菓子の皿をロシルドゥアの前へ置いた。オリーンは今度こそ声を出さずに、両手を胸の前で握った。ガニーロは表をにじませないよう、インクの乾きを待った。
レトリスは、ロシルドゥアの名前を丁寧に書いた。
その文字は、名簿の隅に押し込むための文字ではなかった。誰かを助けるために、誰かに助けられていい人の名前だった。
十分後、ロシルドゥアは立ち上がった。足取りはまだ軽いとは言えない。けれど、手帳は胸に抱えず、ガニーロが作った新しい表を半分だけ持っている。
「残り半分は、役所で共有します」
「全部持って行かないんですか」
オリーンが訊くと、ロシルドゥアは店の扉の前で振り返った。
「一人で抱えない練習です」
ヒルドバーグは満足そうにうなずいた。
「上出来」
「まだ練習初日です」
「初日に倒れなかったなら、上出来だよ」
ロシルドゥアは、今度は少しだけ声にして笑った。
店の外では、朝の雲が薄くなり始めていた。商店街の看板の青い矢印が、昨日よりもはっきり見える。坂の上へ向かう道には、まだ直すべき段差も、濡れれば滑る石畳もある。
それでも、道の途中に座れる椅子があることを、今日のロシルドゥアは知っている。
レトリスは、黒板の青魚サンドの文字をもう一度見た。
「……検証は、昼にします」
ガニーロは、何も言わずにうなずいた。
オリーンは、額縁を探しに行く顔をしていた。




