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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第22話 ブルグリンデ、黙って看板を拭く

 翌朝、商店街のシャッターはまだ半分以上閉じていた。


 雨は上がっていたが、石畳の目地には細い水が残り、軒先から落ちる滴が、ぽつ、ぽつ、と錆びた雨樋を叩いている。青鞄電子堂の前に置かれた古いプランターでは、土が水を吸いすぎて黒く沈み、昨日の午後にオリーンが勝手に挿した赤い小旗が斜めになっていた。


 その小旗には、太い字でこう書かれている。


 『水位を見に行く人は、サンドを持って行かない』


 レトリスは昨日それを見つけた瞬間、無言で抜いた。だがオリーンは、いつの間にかもう一本立てていたらしい。


 早朝の商店街を歩いていたオリーンは、両手に雑巾の入ったバケツを提げていた。昨夜、ペアカップの床を拭いたあと、勢いで「明日の朝、避難所看板もピカピカにしましょう」と言い出したのだが、誰も返事をしなかった。返事がないことを、オリーンは賛成と受け取った。


 「おはようございまーす。看板さん、十年分の汚れ、今日から減らされる覚悟はできていますか」


 誰もいない道でそう言い、角を曲がったところで、オリーンは足を止めた。


 旧集会所へ続く細い坂の入口に、古い避難所看板が立っている。白地だったはずの板は雨風で灰色になり、矢印の青は半分ほど薄れていた。文字の上に泥が跳ね、下の方には、何年も前に貼られた防犯ポスターの糊跡が残っている。


 その看板の前に、ブルグリンデがいた。


 深緑の前掛けをつけ、髪を低い位置でまとめ、右手に雑巾、左手に小さな霧吹きを持っている。花屋の開店前にしては少し早い。しかも、彼女は看板の文字を一つずつ指でなぞるように拭いていた。


 オリーンは、息を吸った。


 「ブ――」


 言い切る前に、ブルグリンデが振り向いた。目だけで「大声を出したら、この霧吹きで水をかける」と言っていた。


 オリーンは、口を両手で押さえた。バケツの柄が肘に当たり、かこん、と間の抜けた音が鳴る。


 「……おはようございます」


 「おはよう」


 ブルグリンデは短く返し、何事もなかったように看板へ向き直った。


 オリーンは、そろそろと近づいた。


 「その、見間違いでなければ、避難所看板を拭いていますね」


 「見間違いではないわね」


 「反対していたのに」


 「看板が汚いことと、あの人たちが店先に危険箇所の紙を貼ろうとすることは、別」


 「でも、避難所看板をきれいにすると、避難路見直しの紙が目立ちます」


 「だからって、汚いままでいいとは言っていない」


 ブルグリンデは雑巾を絞った。ぎゅ、と音がして、濁った水がバケツの底に落ちる。オリーンのバケツよりずっと小さなバケツだった。花屋で切り花の茎を洗う時に使うものだろう。底に、淡い緑の葉が一枚貼りついていた。


 オリーンは自分のバケツを地面に置いた。


 「手伝います」


 「いらない」


 「雑巾、二枚あります」


 「いらないと言っているでしょう」


 「霧吹きは一本ですね」


 「そこを数えなくていい」


 オリーンは少し考えてから、自分の雑巾を一枚だけ差し出した。


 ブルグリンデは受け取らなかった。


 しばらく、二人の間に、軒先から落ちる水の音だけが入った。商店街の奥では、パン屋の煙突から薄い湯気が上がり始めている。まだ焼き立ての匂いは届かない。けれど、湿った朝の空気の中に、少しだけ温かい気配が混じった。


 ブルグリンデは看板の角を拭きながら言った。


 「昨日、アリシャーさんが見せた地図、見たわ」


 「はい」


 「低い道、本当に低かったのね」


 「数字で見ても、靴で歩いても、低かったです」


 「十年前も、そうだったのね」


 オリーンは、手元の雑巾を見た。


 ブルグリンデの声はいつもと同じ高さだった。花の値段を伝える時も、虫食いの葉を見つけた時も、気に入らない飾り付けを注意する時も、だいたい同じ調子で話す。けれど今は、言葉の終わりだけが、看板の裏に隠れるみたいに小さくなっていた。


 「そう、みたいです」


 「誰かが怠けたんじゃない。誰かが意地悪したんじゃない。そういうことに、なるのね」


 「たぶん」


 「たぶん、じゃ困るわ」


 「でも、十年前の全部を一枚の地図で言い切ったら、また誰かを間違えて責めるかもしれません」


 ブルグリンデの手が止まった。


 オリーンは、自分でも少し驚いた。いつもなら「たぶん全部大丈夫です」と言っていたかもしれない。けれど昨日、レトリスが机の上に置いた青い付箋を見た。別の道を探す。その短い文字が、オリーンの胸の中で、朝まで残っていた。


 ブルグリンデは雑巾を畳み直した。


 「あなた、たまにまっすぐ刺してくるのね」


 「え、刺しましたか。すみません、花屋さんの前で刺すのは営業妨害でした」


 「そういう意味ではないわ」


 「では、心の剣ですか」


 「濡れ雑巾で口をふさぐわよ」


 オリーンは急いで一歩下がった。けれど、ブルグリンデの口元がほんの少しだけ動いたのを見逃さなかった。


 坂の下から、ガニーロとレトリスが歩いてきた。ガニーロは折り畳み式の脚立を肩にかけ、レトリスは蒼い鞄を斜めにかけている。二人とも、朝の会議用の資料を持つには早すぎる格好だった。


 レトリスは看板の前で止まり、ブルグリンデの手元を見た。


 「おはようございます」


 「おはよう」


 ブルグリンデは、何も言われる前に雑巾を動かした。


 「これは、店の前が汚れていると気になるのと同じ。別に、あなたたちの避難路見直しを認めたわけではないから」


 「はい」


 「危険箇所の紙を貼るなら、花屋の売り場の真ん前はやめて」


 「はい」


 「人の目が行くところには貼って。けれど、花を買いに来た人が暗い気持ちになる文面はやめて」


 「はい」


 「赤い太字で『浸水注意』だけ大きく書かないで。花束を持っている人が、今すぐ川へ流されるみたいに見えるから」


 「はい」


 ガニーロは脚立を静かに置き、手帳を出した。


 「文面案、作り直します。花屋さんの前は『雨の日に足元を見やすくする目印』という言い方にします」


 「ぼかしすぎ」


 「では、『この角は水がたまりやすいので、雨の日は右側の高い歩道へ』」


 「それなら読める」


 レトリスが横から紙を出した。


 「こちらに、低い道、段差、夜間に見えにくい場所を分けてあります。店ごとに貼る内容を変えます」


 ブルグリンデは紙を受け取らず、目だけで読んだ。


 「商店街の地図に、危険な店みたいな印をつけるのはやめて」


 「危険な店、とは書きません」


 「あなたの筆だと、危険な店に見えるのよ」


 レトリスは一瞬だけ目を細めた。


 「私の筆圧に対する評価ですか」


 「いいえ。遠慮のなさに対する評価」


 「受け取ります」


 「受け取るのね」


 「必要な指摘なので」


 ブルグリンデは、今度こそ雑巾を止めた。レトリスは、怒らず、反論せず、紙の右上に小さく書き足した。


 店ごとに言い方を変える。


 ガニーロはそれを見て、手帳の同じ箇所に同じ言葉を書いた。二人が別々の紙へ同じことを書く様子を、オリーンは横で見ていた。少し前なら、レトリスはブルグリンデの言葉を跳ね返し、ガニーロは間に立って謝りすぎていたかもしれない。


 今朝は、どちらもしなかった。


 看板の文字は、半分ほど明るくなっている。


 オリーンは、もう一度雑巾を差し出した。


 「この部分、私が拭いてもいいですか。下のほうなら、脚立なしで届きます」


 「あなたが拭くと、勢いで文字まで消しそう」


 「文字は消しません。勢いは消せません」


 「胸を張ることではないわ」


 ブルグリンデはそう言いながら、オリーンの雑巾を受け取った。


 ガニーロは脚立を広げ、看板の上の縁を拭き始めた。レトリスはその足元に立ち、脚立が傾かないよう支える。蒼い鞄は肩から少しずれて、彼女の脇腹に当たった。中で基板が、こつん、と小さく鳴る。


 「また何か出そうですか」


 ガニーロが脚立の上から尋ねた。


 「出たら、公開しません」


 「はい」


 「ただし、役に立つなら読みます」


 「はい」


 ブルグリンデが横目で鞄を見た。


 「あの鞄、勝手に紙を出すの?」


 「たまに出します」


 「嫌な鞄ね」


 「同感です」


 レトリスが即答すると、ガニーロが脚立の上で少し肩を揺らした。


 その時、蒼い鞄の口がほんの少し開いた。レトリスはすぐに押さえたが、細い紙が一枚、控えめに顔を出していた。


 彼女はため息をつき、紙を引いた。


 『責められるのが怖い人は、責める声に早く気づく。だから看板の汚れにも早く気づく』


 レトリスは黙った。


 ガニーロも脚立から降りずに黙った。オリーンは目を丸くし、ブルグリンデは霧吹きを持ったまま固まった。


 紙は、誰かの心を当てたわけではない。


 昨日の会話と、古い防災メモと、誰かが書いた注意書きの断片が、勝手に並んだだけだ。そう説明することはできる。けれど説明したところで、今この朝にその紙が出てきたことは変わらない。


 ブルグリンデは紙を奪い取るように手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 「読んだの?」


 「はい」


 「公開するの?」


 「しません」


 「本当に?」


 「しません」


 レトリスは紙を二つに折り、さらにもう一度折った。破らず、丸めず、蒼い鞄の内ポケットにしまう。


 「これは、看板に貼る言葉ではありません」


 ブルグリンデは、何かを言おうとした。唇が動いたが、声は出なかった。代わりに、霧吹きの先から一滴だけ水が落ち、看板の支柱に丸い跡を作った。


 オリーンは、自分のバケツから新しい雑巾を出した。


 そして、ブルグリンデの方へ差し出した。


 「これ、乾いたほうです」


 「……濡れているわ」


 「心よりは乾いています」


 「あなた、さっきから言い方が変よ」


 「朝なので、まだ整っていません」


 「いつも整っているつもりだったの?」


 「そのつもりで生きています」


 ブルグリンデは雑巾を受け取った。今度は迷わなかった。


 看板の下半分を拭きながら、ぽつりと言った。


 「十年前、花屋の前にも水が来たの」


 レトリスの手が、脚立の側面で止まった。


 ブルグリンデは看板を見たまま続けた。


 「翌日から、誰がシャッターを閉めるのが遅かったとか、誰が土のうを出さなかったとか、そんな話ばかりになった。うちは鉢を外に出していたから、水の流れを邪魔したんじゃないかって言われた」


 「そんなことを」


 オリーンが言いかけたが、ブルグリンデは首を振った。


 「実際に邪魔したかもしれない。していないかもしれない。誰も測っていなかった。だから、言われても返せなかった」


 朝の光が、磨かれた看板の角に当たった。まだ全体は古いままだが、文字の縁だけが白く浮き上がる。


 「客が減るのが怖いんじゃないの。いいえ、減るのも怖いけれど、それだけじゃない。また、あの紙を見た人が『この店の前が危ないんだって』と言うのが怖い。『やっぱり花屋の前は水がたまるんだ』って言うのが怖い」


 ブルグリンデは、雑巾を握りしめた。


 「責められるのは、二度目でも慣れない」


 ガニーロは脚立から降りた。靴底が湿った石畳に触れ、軽い音がした。


 「花屋さんの前を、危ない場所としてではなく、気をつければ通れる場所として書きます」


 「言葉だけで変わる?」


 「言葉だけでは変わりません。だから、高い歩道への矢印と、夜でも見える小さな反射板をつけます。鉢を置く位置も、通路をふさがない線を一緒に引きます」


 「線を引かれるのは嫌い」


 「花鉢がきれいに見える線にします」


 ブルグリンデは、少しだけ彼を見た。


 「あなた、そういうところだけ器用ね」


 「ありがとうございます」


 「褒めていない」


 「では、記録だけしておきます」


 レトリスは紙に、反射板、鉢の位置、通路をふさがない線、と書いた。そこへオリーンが横から覗き込む。


 「花鉢避難ライン、名前がかわいいですね」


 「今つけないでください」


 「では、花を持った人が濡れずに歩ける線」


 「長いです」


 「ブルグリンデさん命名で」


 「押しつけないで」


 ブルグリンデはそう言いながら、看板の最後の泥を拭った。矢印が、思っていたよりもはっきり青く残っていた。


 オリーンは、その青を見て、ぱっと顔を明るくした。


 「まだ見えますね」


 「ええ」


 「消えていませんね」


 「ええ」


 「じゃあ、続きが書けます」


 ブルグリンデは返事をしなかった。けれど、霧吹きをオリーンに渡した。


 「上の端、乾きすぎると拭き跡が残るわ。水を少し」


 「はい!」


 「少しよ」


 「はい!」


 「少しと言ったでしょう!」


 オリーンの霧吹きは、元気よく三回鳴った。ガニーロが慌てて布で受け、レトリスが無言で噴射口を下に向けた。


 ブルグリンデは深く息を吐いた。


 「あなたたちといると、責められる前に疲れるわ」


 「それは良い疲れですか」


 オリーンが尋ねると、ブルグリンデはすぐには答えなかった。


 少しして、拭き上がった看板を見上げる。


 「少なくとも、立っていられる疲れね」


 レトリスは、その言葉を紙に書かなかった。看板に貼る言葉ではないと思ったからだ。


 代わりに、胸の奥に置いた。


 午前七時を過ぎると、商店街のシャッターが一つずつ上がり始めた。パン屋から焼き立ての匂いが流れ、青鞄電子堂の二階窓にはエメットの影が見えた。サポナーラが遠くから大きく手を振り、手に持っていた反射板の袋を落としかける。ロシルドゥアは高齢者宅へ向かう途中でこちらを見て、看板がきれいになっていることに気づくと、ほっとしたように肩を下ろした。


 ブルグリンデは、そのロシルドゥアを見て眉を寄せた。


 「あの人、また朝から歩き回っているの?」


 「高齢者宅の確認に行くそうです」


 ガニーロが答えると、ブルグリンデは濡れた雑巾をバケツへ投げ入れた。


 「顔色が悪いわ」


 レトリスも同じ方向を見た。ロシルドゥアの足取りは、いつもより少し重い。手帳を開き、何かを確認しているが、ページをめくる指が遅かった。


 オリーンは霧吹きを胸の前で止めた。


 「追いかけますか」


 「追いかける前に、花屋の前の鉢を動かす」


 ブルグリンデは前掛けの紐を結び直した。


 「それから、ペアカップに行くわ。ロシルドゥアさんに、温かいものを飲ませる。あの人は、人の家ばかり回って、自分の足元を見ていない顔をしている」


 レトリスはうなずいた。


 「午後の会議で、支援者側の休憩表も作ります」


 「表だけ作って満足しないで」


 「はい」


 「休む人の名前を、ちゃんと入れて」


 「はい」


 「自分の名前も入れて」


 レトリスは一拍遅れた。


 ガニーロが横で小さくうなずく。オリーンも、霧吹きを持ったまま何度もうなずいた。


 レトリスは、紙に一行書き足した。


 支える人の休憩時間。


 ブルグリンデはその文字を見て、ようやく雑巾をしまった。


 「その書き方なら、貼ってもいいわ」


 看板は新品にはならなかった。傷も、錆も、古い糊の跡も残っている。


 それでも、矢印は見える。


 責めるためではなく、迷わないための青が、朝の光の中で少しだけ戻っていた。



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