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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第19話 ペアカップは割れていない

 喫茶ペアカップの閉店後、棚の前だけが、まだ昼の名残を持っていた。


 窓の外では、商店街のアーケードに吊られた防災週間の旗が、夜風に小さく揺れている。昼間にサポナーラが笑わせ、住民たちが懐中電灯を確かめ、ラジオのざらついた声に耳を傾けたテーブルは、すでに拭かれていた。


 それでも、誰もすぐには帰らなかった。


 ヒルドバーグが、棚の奥にかけられていた白い布へ手を伸ばしたからだ。


 オリーンは皿を抱えたまま、ぴたりと足を止めた。エメットは椅子の背に手をかけ、サポナーラは湯飲みを持ち上げた姿勢で固まった。ガニーロは、古いラジオの裏ぶたを閉めるために持っていたねじを、指先でつまんだままだった。


 レトリスは何も言わずに、蒼い鞄の持ち手を握り直した。


 ヒルドバーグは布を外した。


 棚の奥から現れたのは、白地に細い青線が走るカップだった。線は海の波にも、川の流れにも見える。持ち手の根元から口縁へ、細い金色の線が一本、ゆるやかに上がっていた。


 割れた跡だった。


 けれど、割れたままではない。


 金色の線は、傷を隠さず、むしろそこに光を集めていた。


 オリーンが息をのんだ。


 「わあ……」


 その声が大きくなりそうになった瞬間、ヒルドバーグは皿を置く時と同じ静かな動きで、オリーンの方へ視線を向けた。


 オリーンは口を両手で押さえた。


 「小さな、わあ、です」


 「十分大きい」


 「では、心の中で盛大に祝っています」


 「祝う前に、皿を洗いなさい」


 オリーンは「はい」と言いながら、なぜか一歩も動かなかった。


 サポナーラが首を伸ばす。


 「これ、売ったら高いですか」


 レトリスの目がすっと細くなった。


 「今、その台詞を言う必要がありますか」


 「価値を確認しただけです」


 「価値を金額だけで確認する人に、雨合羽講座を任せた私の判断を見直します」


 「撤回します。これは売れません。売ってはいけない光り方をしています」


 「言い直せば済むと思わないでください」


 サポナーラは湯飲みを両手で持ち、小さくなった。


 エメットだけが、まっすぐカップを見ていた。


 「金色のところ、直したところなんですか」


 「そうだよ」


 ヒルドバーグが答えた。


 「割れたところを、漆でつないで、金粉を置いた。急いで直せるものじゃない。乾かして、待って、また塗って、また待つ」


 「待つの、長いですか」


 「長い」


 「じゃあ、直るまでに、忘れたりしませんか」


 ヒルドバーグは、少しだけ口元をゆるめた。


 「忘れないように、見える場所へ置かないこともある」


 レトリスの指が、蒼い鞄の留め具に触れた。


 その鞄の中には、欠けた片割れがある。十年前から、紙に包まれ、何度も引っ越しの荷物に入れられ、捨てられず、しまい直されてきたものだ。


 レトリスは、一歩だけ棚に近づいた。


 「見せてください」


 ヒルドバーグは、カップを両手で持ち、テーブルへ運んだ。


 古い木の卓上に置かれると、白い陶器は店の灯りを受け、金継ぎの線だけが細く燃えるように見えた。


 ガニーロは動かなかった。


 その場にいる全員が、それに気づいていた。


 普段の彼なら、誰より先に椅子を引く。湯飲みが空なら茶を足す。エメットが少し前に出すぎていれば、机の角にぶつからないよう手を添える。


 けれど今は、ねじを持った指先だけが、ほんの少し震えていた。


 レトリスは、彼の方を見ないまま言った。


 「これと同じ柄です」


 ヒルドバーグはうなずいた。


 「そうだね」


 「私の鞄に入っているものと」


 「そうだね」


 「いつから、ここにありましたか」


 店内の空気が、一段静かになった。


 外を通る自転車のベルが、遠くで鳴った。誰かが商店街のシャッターを下ろす音がして、それもすぐに途切れた。


 ヒルドバーグは、カップの持ち手を指でそっとなぞった。


 「水害のあと。泥をかぶったものを片づけていた日の夕方」


 レトリスのまつ毛が、わずかに揺れた。


 「誰が持ってきたんですか」


 誰も答えなかった。


 オリーンが皿を抱えたまま、目を伏せた。サポナーラは湯飲みを置く場所を探すように視線を泳がせ、結局、自分の膝の上で抱えた。エメットは、息をする音まで小さくした。


 ガニーロは、ねじを机の上に置いた。


 小さな音だった。


 それでも、レトリスには、雷の前に窓が震える音のように聞こえた。


 「僕です」


 ガニーロの声は、濡れた布を絞ったあとみたいに低かった。


 「僕が、持ってきました」


 レトリスは、すぐには顔を上げなかった。


 彼女はカップだけを見ていた。


 金の線。


 割れたところ。


 つながれたところ。


 十年前、雨の音の中で待っていた自分の手の中には、もう片方があった。蒼い鞄の内側で、紙に包んでいた。二人で交換するはずだった。喫茶ペアカップの窓際で、同じ飲み物を入れて、どちらが青でどちらが白かで言い合う予定だった。


 予定だった。


 そんな小さな言葉が、胸の奥で水を含んだ。


 「あなたが、持っていたんですね」


 「はい」


 「十年前に」


 「はい」


 「じゃあ、来るつもりはあったんですね」


 ガニーロは唇を結んだ。


 その沈黙が、肯定のように落ちた。


 レトリスは、ようやく彼を見た。


 「なら、なぜ来なかったんですか」


 ガニーロの肩が、ほんの少し下がった。


 ヒルドバーグが、何か言おうとして、やめた。自分の湯飲みに茶を注ぎ、まず一口飲んだ。けれど、いつものように誰かへ差し出すことはしなかった。


 レトリスの声は、昼間の会議で聞くものとは違っていた。強い。けれど、押し切るための強さではない。雨の中で何度も呼んだ名前が、まだ喉の奥に残っている人の声だった。


 「十年前、私は待っていました」


 「……知っています」


 「知っているなら、なぜ」


 ガニーロは、視線をカップへ落とした。


 白地の青線が、彼の目に映っている。金色の傷も、そのまま映っているはずだった。


 「この話には続きがあって……」


 レトリスの目が、少しだけ見開かれた。


 その言葉を聞くたびに、彼は肝心な場所で止まる。


 現町の危険な坂を指差した時も。


 二本の傘を持っている理由を問われた時も。


 父の工具箱から、水害当日の点検メモが出てきた時も。


 いつも、続きは雨の向こう側に消えていく。


 「またですか」


 レトリスは言った。


 「また、そこで黙るんですか」


 ガニーロは答えなかった。


 答えなかったが、逃げもしなかった。


 それが余計に、レトリスを揺らした。


 怒鳴ればよかった。


 そうすれば、いつもの自分でいられる。


 危険な場所は危険と言う。間違いは間違いと言う。古いハザードマップに空白があれば、赤く囲んで、理由を書いて、修正を求める。


 けれど、人の沈黙には、赤ペンを入れられない。


 レトリスは蒼い鞄を開けた。


 布で包まれた小さなものを取り出す。


 オリーンの皿が、かすかに鳴った。


 「私の方は、割れていません」


 レトリスは布を開いた。


 そこには、同じ柄のカップがあった。白地に青い線。金色の線はない。けれど、口縁の近くに、小さな欠けがあった。欠けは磨かれて丸くなっており、長い間、指で触れられてきたことがわかる。


 サポナーラが、息を吸った。


 「二つ並ぶと……」


 「値段の話をしたら、外に出します」


 「言いません。絶対に言いません。これは、値札をつけたら罰が当たる並びです」


 「少し黙っていてください」


 「はい」


 サポナーラは本当に黙った。


 二つのカップが、同じテーブルに置かれた。


 十年前に並ぶはずだったものが、十年遅れて並んだ。


 ヒルドバーグは、棚から小さな布を取り出し、金継ぎされた方の下に敷いた。次に、レトリスのカップの下にも、同じ布を敷いた。


 「片方だけ特別扱いすると、もう片方がすねる」


 オリーンが、今度こそ小さな声で笑った。


 「カップってすねるんですか」


 「ここに置かれるカップは、だいたい持ち主に似る」


 「では、レトリスさんのカップは、きりっと立って、たまに青魚サンドをにらみますね」


 「オリーン」


 「はい、皿を洗います」


 ようやくオリーンは厨房へ向かった。けれど、顔だけは何度もこちらを振り返った。


 ガニーロは椅子に座らなかった。


 立ったまま、二つのカップを見ている。


 レトリスは、その向かいに立った。


 「あなたは、これを捨てなかった」


 「捨てられませんでした」


 「直すことは、できたんですね」


 「僕じゃありません」


 ガニーロは、ヒルドバーグを見た。


 「僕は、割れたまま持ってきただけです。泥もついていました。箱も破れて、紙もふやけていました。僕は、これをどうしたらいいか、わからなかった」


 ヒルドバーグは、湯飲みを両手で包んだまま言った。


 「持ってきた人がいたから、直せた」


 「でも、渡せなかった」


 「それは、私の仕事じゃない」


 短い言葉だった。


 ガニーロの顔に、うっすらと苦笑が浮かんだ。笑うための表情ではない。痛いところに、そっと布を当てられた時の顔だった。


 レトリスは、胸の奥にたまっていた言葉を、ひとつずつ選んだ。


 「私は、十年前、あなたが私との約束を忘れたのだと思いました」


 「忘れていません」


 「私より大事なものができたのだと思いました」


 ガニーロは、そこで息を止めた。


 レトリスは続けた。


 「あなたが、この町に残って、私だけが知らない場所で、私だけが知らない大人になっていくのだと思いました」


 エメットが顔を上げた。


 子どもには難しい話のはずだった。けれど、待つ人の声だけは、年齢に関係なく届く。


 「だから私は、あなたを嫌うことにしました」


 ガニーロは、何かを言いかけた。


 レトリスは、手で制した。


 「最後まで聞いてください」


 「……はい」


 「嫌いと言えば、思い出しても腹が立つだけで済みます。嫌いと言えば、心配していた時間を認めずに済みます。嫌いと言えば、あなたが無事かどうか、毎年雨の季節に現町のニュースを探した自分を、笑わずに済みます」


 厨房の奥で、水の音が止まった。


 オリーンが蛇口を閉めたのだろう。


 店全体が、レトリスの次の言葉を待っていた。


 「なのに、あなたはこのカップを捨てなかった」


 ガニーロは、うなずいた。


 「捨てられませんでした」


 「なら、答えてください」


 レトリスは、金色の線を指差した。


 「なぜ、渡しに来なかったんですか」


 ガニーロの目に、暗い水の色が浮かんだ。


 彼は、今度こそ口を開いた。


 けれど、言葉は出なかった。


 喉の奥で、何かが引っかかったようだった。


 サポナーラが、いつもの調子で助け舟を出そうとして、ヒルドバーグに首を横に振られた。エメットも、椅子の背を握ったまま動かない。


 ガニーロは、ゆっくり息を吐いた。


 「ごめんなさい」


 レトリスの眉がわずかに寄った。


 「謝罪は聞きました」


 「はい」


 「理由を聞いています」


 「はい」


 「答えられないんですか」


 ガニーロは、金継ぎされたカップから目を離さなかった。


 「答えたいです」


 「なら」


 「でも、今、ここで言うと、きっと足りません」


 レトリスの指が、テーブルの縁をつかんだ。


 「足りない?」


 「僕の言葉だけでは、足りません」


 その言い方が、レトリスの怒りを少しだけ止めた。


 言い訳ではない。


 逃げ道を作ろうとしている声でもない。


 ただ、何か大きな欠片を、まだ拾えていない人の声だった。


 ヒルドバーグは、自分の湯飲みに残っていた茶を飲み干した。


 「今夜は、そこまでにしな」


 レトリスが振り向いた。


 「ヒルドバーグさん」


 「割れた器を、力任せに合わせると、また割れる」


 「私は器ではありません」


 「知ってる。器の方が、口答えは少ない」


 サポナーラが吹き出しかけ、すぐに口を押さえた。


 レトリスはにらんだが、そのにらみ方は少し弱かった。


 ヒルドバーグは、二つのカップを見比べた。


 「今日は、並んだ。それだけでいい日もある」


 レトリスは反論しようとした。


 だが、言葉は出なかった。


 二つのカップが並んでいる。


 割れていない片方。


 割れた跡を持つ片方。


 どちらも、ここにある。


 それは、十年間の怒りを消すほど都合のいい奇跡ではなかった。けれど、十年間ずっと空白だった場所に、ひとつだけ印がついた。


 ガニーロは、やはり忘れていなかった。


 それを認めることは、レトリスにとって、怒りより難しかった。


 蒼い鞄が、小さく鳴った。


 全員が、反射的に鞄を見た。


 レトリスは眉をつり上げた。


 「今は本当にやめなさい」


 鞄は、まるで聞いていないように、かすかに震えた。


 細い紙は出てこない。


 代わりに、短い電子音が一度だけ鳴った。


 ガニーロが、はっとした。


 「音声側が、少し動いたかもしれません」


 「この場で分解したら怒ります」


 「しません」


 「工具を持とうとしました」


 「持っていません」


 「目が工具箱を探しました」


 「目は自由です」


 「不自由にしますよ」


 オリーンが厨房の奥から、そっと顔を出した。


 「今の言い合い、少し安心します」


 「安心しないでください」


 「はい。でも、さっきより息ができます」


 その言葉に、レトリスは何も返せなかった。


 確かに、息ができる。


 怒りも、悲しみも、まだそこにある。けれど、二つのカップが並んだテーブルの前では、十年前の雨音だけがすべてではなかった。


 ヒルドバーグは、二つのカップを片づけなかった。


 「今夜はここに置いておく」


 「危なくないですか」


 エメットが心配そうに言った。


 「危ないから、誰かが見ている」


 「僕、見ます」


 「閉店後に泊まる気かい」


 「だめですか」


 「だめだね。子どもは帰って寝る」


 エメットは少し残念そうにしたが、すぐにガニーロを見た。


 「じゃあ、明日また見に来ます」


 「うん」


 ガニーロは短く答えた。


 その声は、まだ沈んでいた。けれど、完全に閉じてはいなかった。


 サポナーラは湯飲みを返しながら、いつになく真面目な顔で言った。


 「僕、今日わかりました」


 「何をですか」


 レトリスが警戒する。


 「割れたものを直すには、まず、割れたと言わなきゃいけないんですね」


 誰も笑わなかった。


 サポナーラは少しだけ照れたように、視線を落とした。


 「いや、これ、台本に入れようかと」


 「今のままなら採用です」


 レトリスが言うと、サポナーラは目を丸くした。


 「本当に?」


 「余計な売り文句を足さなければ」


 「それが難しいんですよね」


 「難しいなら、練習してください」


 オリーンが笑い、エメットも少し笑った。


 ガニーロは笑わなかった。


 レトリスも笑わなかった。


 けれど、二人の間に置かれたカップの金色の線だけが、店の灯りを受けて、細く光っていた。


 閉店の札を裏返し、外へ出る時、商店街には夜の湿った匂いが戻っていた。雨は降っていない。それでも、遠い川の方から、冷たい風が流れてくる。


 レトリスは蒼い鞄を肩にかけた。


 ガニーロが、自分の傘立てから傘を二本取った。


 一本は自分の黒い傘。


 もう一本は、青い縁の傘。


 レトリスはそれを見て、目を細めた。


 「今日は晴れています」


 「夜は変わりやすいので」


 「便利な言い訳ですね」


 「便利です」


 「褒めていません」


 「知っています」


 ガニーロは、青い縁の傘を差し出した。


 レトリスは受け取らなかった。


 代わりに、その傘の持ち手を指先で一度だけ押した。


 「明日、理由を聞きます」


 ガニーロはうなずいた。


 「はい」


 「逃げたら、ハザードマップの赤い丸を全部あなたの店につけます」


 「それは町の安全に関係ないのでは」


 「私の安全に関係します」


 ガニーロは、ほんの少しだけ目を細めた。


 「では、逃げません」


 レトリスは背を向けた。


 数歩歩いてから、立ち止まる。


 振り返らずに言った。


 「カップは、割れていませんでした」


 ガニーロは答えなかった。


 ただ、彼女の足元に段差があることを思い出したように、店の前の小さなライトをつけた。


 白い光が、濡れてもいない石畳を照らす。


 レトリスはその光を踏んで、商店街の夜へ歩き出した。


 蒼い鞄の奥で、未完成の基板が、もう一度だけ小さく鳴った。


 今度は電子音ではなかった。


 遠い雨の録音が、ほんの一粒だけ、布の内側で跳ねたような音だった。



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