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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第18話 サポナーラの失敗販売台本

 翌朝の商店街は、雨上がりの匂いをまだ軒先に残していた。


 アーケードの透明な屋根には細かな水滴が並び、日が差すたびに、古い看板の文字が少しだけ明るく見えた。喫茶ペアカップの前には、折りたたみ机が三つ並んでいる。机の上には、手回しライト、乾電池、笛、携帯用の水袋、雨合羽、滑り止めの付いた軍手が置かれていた。


 その中央で、サポナーラが赤い布を肩に掛けていた。


 防災用品の説明をする服装ではなかった。


 どう見ても、古道具市で怪しい壺を売るときの服装だった。


 「さあさあ、現町の皆様。こちらにございますのは、闇を裂き、雨を恐れず、あなたの未来を照らす奇跡の手回しライトでございます」


 レトリスは、資料を持ったまま目を細めた。


 「サポナーラさん」


 「はい、防災の天使サポナーラです」


 「その肩の赤い布を外してください」


 「これは注目を集めるための大切な布です」


 「防災用品より先に、あなたへの不信感が集まっています」


 商店街の靴屋の主人が、遠巻きに手回しライトを見た。


 「あれ、買わされるやつか」


 魚屋の奥さんも、腕を組んだまま言った。


 「前に古い鍋を『一生焦げない』って言って売ってた人でしょう。一回目で焦げたわよ」


 「焦げは料理人の情熱です」


 「鍋の底に穴が開いたわ」


 「それは通気性です」


 「返品したわよね」


 「はい、深く反省しております」


 言いながら、サポナーラは胸に手を当てた。ところが手が当たったのは、胸ではなく、首から下げていた笛だった。ぴぃ、と情けない音が鳴る。


 近くで見ていた子どもたちが笑った。


 ブルグリンデは、店先からその様子を見て、眉間にしわを寄せた。


 「だから言ったでしょう。防災用品の説明は、落ち着いた人に任せるべきなのよ。町の人がまた警戒してしまうわ」


 「でも、足は止まっています」


 ガニーロは、折りたたみ机の脚に紙を挟みながら言った。雨で路面が少し傾いているせいで、机がかたかた揺れている。


 「止まっているだけでは駄目です。聞いてもらえなければ意味がありません」


 レトリスの声は硬かった。


 サポナーラは、その硬さに気づかないふりをして、台本を広げた。紙には太い字で、いくつもの言葉が書き込まれている。


 絶対安心。


 一家に一台で全方位安全。


 買わないと後悔。


 レトリスは無言で、その三行に赤ペンを走らせた。


 「全部、使わないでください」


 「えっ。では何を言えば」


 「何ができて、何ができないかを言ってください」


 「地味です」


 「命に関わる話を、派手に盛らないでください」


 サポナーラは唇を尖らせたが、すぐに笑顔へ戻した。


 「では、気を取り直して。こちらの手回しライトは、なんと一分回せば十時間――」


 「点きません」


 ガニーロが机の端から言った。


 「え」


 「この型は一分回して、明るさを落とせば数十分です。十時間は箱に小さく書いてある待機表示の話です」


 住民たちの視線が、一斉にサポナーラへ向いた。


 サポナーラは笑顔のまま固まった。


 「数十分です」


 レトリスが繰り返した。


 「はい、数十分です。十時間という言葉は、今、川へ流しました」


 「流さないでください。訂正してください」


 「訂正します」


 サポナーラは深く頭を下げた。


 「こちらの手回しライトは、一分回せば、夜道で足元を確かめるくらいの明かりがしばらく続きます。だから、暗くなってから初めて回すのではなく、明るいうちに少しずつ回しておくと役に立ちます」


 それは、先ほどまでよりずっと短い説明だった。


 けれど、靴屋の主人が一歩近づいた。


 「電池は入れっぱなしでいいのか」


 「種類によります。液漏れすることがあります。半年に一度は開けて見てください」


 ガニーロが、すっと予備の乾電池を置いた。


 「入れる向きも、今日は確認できます」


 エメットが小さな箱を抱えて走ってきた。


 「古い電池を入れる袋、持ってきました」


 ロシルドゥアが横から紙を差し出す。


 「一人暮らしの方は、電池のふたを自分で開けられるかも確認したほうがいいです。指が痛い日は、開かないものがあります」


 レトリスはすぐに資料の余白へ書き込んだ。


 買う前に、開けられるか。


 明るいうちに、使えるか。


 誰が持つか。


 誰の分まで必要か。


 サポナーラは、赤い布を外し、折りたたんで机の下に置いた。


 見ていた子どもが、少し残念そうにした。


 「赤いの、もうやめちゃうの」


 「やめる。今の僕は、布より反省をまとう男だ」


 「それ、かっこいいの」


 「わからない。僕も今、初めて着た」


 子どもたちがまた笑った。


 その笑いが少し広がり、遠巻きだった住民たちが机の前へ寄ってきた。サポナーラは雨合羽を広げた。袖を通そうとして、右手を左袖に入れた。


 「これが、避難時に慌てた人間の実例です」


 「今のはわざとですか」


 レトリスが聞く。


 「半分です」


 「残り半分は」


 「本気です」


 オリーンが喫茶店の入口で腹を抱えて笑った。


 「でも、覚える! 袖が逆だと走れないって、すごく覚える!」


 「笑い事ではありません」


 そう言いながら、レトリスも雨合羽の裾が長すぎる子どもの足元を見て、はさみではなく洗濯ばさみを持ってきた。裾を一時的に留める。子どもはその場で足踏みをした。


 「走れそう」


 「避難時は走らない。急ぐ時ほど、転ばない歩き方をします」


 「歩く」


 「そうです」


 子どもが頷くと、サポナーラはすぐに台本の裏へ書いた。


 急ぐほど歩く。


 その文字は曲がっていたが、大きくて見やすかった。


 その時、杖をついた年配の男性が、机の端に置かれた懐中電灯を手に取った。


 「十年前もなあ、こういうのがあればよかったんだよ」


 その言葉で、サポナーラの手が止まった。


 さっきまで軽く跳ねていた声が、胸の奥でつかえたように沈む。


 「……ありました」


 住民たちが、彼を見た。


 サポナーラは、手回しライトの箱を一つ、まっすぐに置き直した。


 「少なくとも、店の帳簿には、懐中電灯の在庫があることになっていました。十年前の水害の少し前です。僕は古道具市の手伝いを始めたばかりで、倉庫に残っている数を確かめず、帳簿だけ見て、まだありますと言いました」


 靴屋の主人が、口を開きかけてやめた。


 「雨が強くなってから、買いに来た人がいました。家に一本もない、子どもが怖がっているからと言われました。でも、倉庫を開けたら、箱だけでした。中身は別の売り場へ動かした後で、電池も足りませんでした」


 サポナーラは、笑わなかった。


 「僕は、すみませんと言いました。だけど、すみませんで暗い部屋は明るくなりませんでした。その人は別の店へ走っていきました。水が足首まで来ていました。僕は追いかけませんでした。倉庫の奥で、濡れていない箱を数え直していました。もう間に合わない箱を」


 アーケードの屋根から、水滴が一つ落ちた。


 ぽたり、と机の端で跳ねる。


 「だから、今日ここで売りたいのは、ライトではありません。僕がやらなかった確認です」


 サポナーラは、台本を破らずに裏返した。


 そこへ、太い字で書く。


 家にあるか。


 点くか。


 電池は合うか。


 誰が持つか。


 暗い中で使えるか。


 それから、誰かに渡せる余分があるか。


 「買うなら買ってください。でも、家にあるものが使えるなら、それを使ってください。僕は数を確認します。電池の向きを見ます。ふたが固ければ開けます。売る前に、今ある明かりを一つでも使えるようにします」


 誰もすぐには拍手しなかった。


 けれど、魚屋の奥さんが、バッグから小さな懐中電灯を出した。


 「これ、たぶん点かない」


 サポナーラは受け取った。


 「見ます」


 靴屋の主人も店へ戻り、古いラジオを持ってきた。


 「これは関係あるか」


 「あります。音が出れば、情報が聞けます」


 ガニーロが工具箱を開ける。


 「接点を磨きます」


 エメットが椅子を出し、ロシルドゥアが名前を書く紙を並べる。オリーンは店内から温かい茶を運び、ヒルドバーグは「濡れた品は直接机に置かない」と言って古いタオルを投げた。


 ブルグリンデは、その様子を黙って見ていた。


 防災用品の説明は、販売の場ではなくなっていた。


 使えるものを探す場になっていた。


 失敗を責める声もあったが、サポナーラは逃げなかった。謝る時は頭を下げ、わからない時はガニーロへ回し、無理な言い切りをしそうになるたびに、レトリスの赤ペンをちらりと見た。


 昼前、蒼い鞄の内側で、かすかな電子音が鳴った。


 レトリスはすぐに鞄を押さえた。


 「今はやめなさい」


 もちろん、鞄は返事をしなかった。


 細い紙が、するすると出てくる。


 サポナーラは身構えた。


 「僕の秘密ですか」


 「秘密にするほどのものが、あなたにありますか」


 「ひどい」


 紙には、妙に芝居がかった文字で印字されていた。


 ――売れ残りの言い訳を並べるより、灯りの数を数え直す男であれ。


 サポナーラはしばらく黙り、それから紙を胸の前に掲げた。


 「採用します」


 「何にですか」


 「新しい台本の一行目に」


 「長いので削ってください」


 レトリスが赤ペンを構えると、住民たちが笑った。


 サポナーラも笑った。


 けれど、その笑い方は、朝のものとは少し違っていた。失敗をごまかすためではなく、失敗を机の上に置いた人の笑い方だった。


 夕方、机の上には、点くようになった懐中電灯が八本、音の出るラジオが二台、電池の向きを大きく書いた紙が十枚残った。


 売れた新品は、思ったほど多くない。


 それでも、帰る人たちはそれぞれ何かを手にしていた。


 確認済みの明かり。


 開けられるふた。


 誰かに渡す予備の電池。


 そして、次の雨までに一度使ってみようという、小さな約束。


 サポナーラは片づけの途中で、喫茶ペアカップの棚を見上げた。


 二つ一組のカップが、夕方の光を受けて並んでいる。


 「割れたものって、直るんですかね」


 何気ない声だった。


 ヒルドバーグが、棚の奥へ視線を向けた。


 「直るものもある」


 「跡は残りますよね」


 「残る。だから、どこを大事にしてきたか見える」


 ガニーロの手が、古いラジオのねじを持ったまま止まった。


 レトリスも、その一瞬を見逃さなかった。


 棚の奥。


 他のカップより少し暗い場所に、白い布をかけられたものがある。


 ヒルドバーグは、今日はそれ以上何も言わなかった。


 ただ、湯飲みに茶を注ぎ、自分で一口飲んでから、サポナーラの前へ置いた。


 「失敗を話した人は、喉が渇く」


 サポナーラは、両手で湯飲みを受け取った。


 「次は、在庫を数えてからしゃべります」


 「次は、台本を見せてからしゃべってください」


 レトリスが言う。


 「厳しい」


 「必要です」


 「では、最初の一行だけ相談します。『皆様、これは奇跡ではありません』」


 「採用です」


 サポナーラは目を丸くした。


 「え、いいんですか」


 「続きがまともなら」


 「そこが一番難しい」


 オリーンが笑い、エメットがラジオのつまみを回した。


 ざらついた音の中から、夕方の天気予報が聞こえてくる。


 明日は、晴れ。


 けれど、晴れている日にこそ、雨の日の準備をする。


 サポナーラは、破らずに残した派手な台本を畳み、裏面に書いた確認表を上にして、鞄へしまった。


 失敗談が、誰かの足を止めることがある。


 そして、足を止めた人が、自分の家の明かりを確かめに帰ることもある。


 それを知った夕方、商店街の水たまりには、点検を終えた懐中電灯の光がいくつも小さく揺れていた。



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