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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第17話 レトリスの批判リスト

 役所の第三会議室は、朝から紙の匂いでいっぱいだった。


 長机の上には、現町の地図が三枚広げられている。川沿いの低地を示したもの。商店街の細い路地を拡大したもの。坂道と避難所までの距離を書き込んだもの。どの地図にも、レトリスの赤い付箋が貼られていた。


 貼られていた、というより、埋め尽くされていた。


 川沿いの道には「冠水の恐れ」。


 古いアーケードの端には「強風時、看板落下の可能性」。


 喫茶ペアカップの裏路地には「夜間、街灯不足」。


 青鞄電子堂の前には「店主が頼まれていない修理を始め、避難開始が遅れる可能性」。


 ガニーロはその一枚だけ、少し長く見つめた。


 「これは、危険箇所でしょうか」


 「十分に危険です」


 「たしかに、過去に何度か」


 「何度もです」


 レトリスは、手元の確認表にペンを走らせた。白い紙に、赤い線が迷いなく増えていく。会議室の壁際では、商店街の住民たちが椅子に座っていた。八百屋の主人、花屋の老婦人、豆腐屋の夫婦、学童の付き添いをしている母親たち。みな、最初は熱心に地図をのぞき込んでいた。


 けれど、十分もたつころには、背中の角度が変わっていた。


 花屋の老婦人は膝の上で指を組み、八百屋の主人は胸ポケットから眼鏡を出したりしまったりしている。豆腐屋の夫婦は同じタイミングで水を飲み、学童の母親の一人は、赤い付箋を見るたびに肩を小さくすくめた。


 レトリスは気づいていない。


 いや、正確には、気づいていても止まれない顔をしていた。


 「次です。大雨の日、商店街南側の排水ますは落ち葉で塞がりやすいです。清掃周期の見直しが必要です。それから、旧衣料品店前の段差。避難時に足を取られます。夜間は特に危険です。さらに、ペアカップ前の軒先は雨宿りに使えますが、椅子の配置次第では通行幅が狭くなります。ヒルドバーグさん、営業中の配置を変えてください」


 ヒルドバーグは、湯飲みを持ったまま静かにうなずいた。


 「変えるよ。だけど、座る場所も少しは残す」


 「残す場合は、幅を八十センチ以上確保してください」


 「測っておく」


 「測るだけでは駄目です。図に反映します」


 「なら、ガニーロに巻き尺を借りる」


 ガニーロは工具箱から巻き尺を出そうとして、レトリスに見られ、そっと手を引っ込めた。


 「今ではありません」


 「はい」


 オリーンが後ろで口元を押さえた。笑いをこらえているのは一目でわかるのに、こらえきれず肩が震えている。


 その横で、ロシルドゥアは住民たちの顔を順番に見ていた。彼女の手元には、独居高齢者や足の悪い人が使いやすい道をまとめた紙がある。レトリスほど赤くはない。代わりに、緑の小さな丸印がいくつもついていた。


 レトリスはさらに紙をめくった。


 「そして、商店街中央の掲示板です。掲示物が多すぎます。避難案内が目立ちません。古い祭りの写真、閉店した店の案内、去年の清掃当番表は外してください」


 八百屋の主人が、首を縮めた。


 「あれは、うちの親父が写ってる写真でな」


 「避難案内の視認性を下げています」


 「いや、わかるんだけどよ。親父が若いころ、みんなで川掃除した写真なんだ」


 「写真の価値は否定しません。ですが、避難時に必要な情報ではありません」


 会議室の空気が、薄く張りつめた。


 レトリスの言っていることは正しい。ガニーロにも、それはわかる。古い写真が貼られすぎた掲示板は、たしかに見づらい。避難所の矢印が、端の方で半分隠れているのも事実だった。


 ただ、その写真を外される八百屋の主人の手は、机の下で少し丸まっていた。


 ガニーロは口を開きかけた。


 その前に、ロシルドゥアが紙を一枚、机の中央へ置いた。


 「レトリスさん」


 「はい」


 「指摘だけだと、動けない人が出ます」


 レトリスのペンが止まった。


 「危険を危険と言わなければ、もっと動けません」


 「それはそうです」


 ロシルドゥアは否定しなかった。声も荒げなかった。ただ、紙の端を指で押さえ、住民たちの方へ少し向けた。


 「でも、危険が十個並ぶと、どこから手をつけたらいいのかわからなくなります。全部できない人は、自分には無理だと思ってしまいます」


 「優先順位は、最後に整理します」


 「今、聞いている人には、最後まで息が続かないかもしれません」


 レトリスの眉が寄った。


 ガニーロは、工具箱の留め金をそっと押さえた。余計な音を立てないためだった。オリーンも笑うのをやめている。サポナーラは椅子の上で背筋を伸ばしすぎて、逆に不自然な姿勢になっていた。


 レトリスは、住民たちの顔を見た。


 ようやく、見た。


 八百屋の主人は、掲示板の写真のことをまだ考えている顔だった。花屋の老婦人は、付箋だらけの地図を見て、目を細めている。豆腐屋の夫婦は、どちらが最初に話すか迷うように、互いを見ていた。


 学童の母親が、おずおずと手を挙げた。


 「あの、すみません。全部、大事なのはわかるんです。でも、うちの子が学校から帰る時間に雨が強くなったら、まずどこを通らせないようにすればいいんでしょう」


 レトリスはすぐに答えようとした。


 答えはある。危険な道はわかっている。低い通り、街灯のない路地、排水ますの詰まりやすい場所。それを言えばいい。


 けれど、口を開いた瞬間、言葉が多すぎることに気づいた。


 危険な道を三つ。避ける理由を三つ。代わりの道を二つ。学校側への連絡、保護者同士の確認、夜間の見守り。


 すべてを一度に出せば、また机の上が赤い付箋で埋まる。


 学童の母親は、答えを求めている。講義ではなく、明日の雨で子どもの足をどちらへ向ければいいかを知りたいだけなのだ。


 レトリスの喉が、ほんの少し詰まった。


 ガニーロが、机の隅から白い紙を一枚取った。


 「レトリスさん、少し書いてもいいですか」


 「……内容によります」


 「避難に関係する内容です」


 「頼まれていない修理ではないですね」


 「紙なので、たぶん修理ではありません」


 「たぶんが気になります」


 住民たちの間に、小さな笑いが走った。


 ガニーロはペンを取り、紙の上に大きく三つの丸を書いた。


 一つ目の丸に、「まず、通らない道」と書く。


 二つ目の丸に、「次に、向かう場所」と書く。


 三つ目の丸に、「最後に、連絡する人」と書いた。


 それから、レトリスの赤い付箋を三枚だけ選び、紙の横へ置いた。


 「学童の帰り道なら、まず南側の低い通りは避けます。次に、雨が強い日は喫茶ペアカップ前の広い軒先に寄る。ヒルドバーグさんが店にいる時間なら、そこで待てます。最後に、学校と保護者と、見守りの人に連絡する。細かいことは後で足せます。でも、最初に覚えるのはこの三つでどうでしょう」


 学童の母親が、紙をじっと見た。


 「三つなら、子どもにも言えそうです」


 「地図には、レトリスさんがもっと正確に書いてくれます」


 ガニーロはそう言って、ペンをレトリスへ戻した。


 自分の手柄にしない渡し方だった。


 レトリスは、渡されたペンを見る。赤い付箋に囲まれた机の上で、ガニーロの白い紙だけが、妙に余白を残していた。


 「……正確さを落とすのは、危険です」


 「はい」


 「けれど、最初に動くための紙としては、悪くありません」


 「ありがとうございます」


 「褒めていません」


 「悪くない、は青鞄電子堂では褒め言葉に分類しています」


 「分類を修正してください」


 今度は、ヒルドバーグまで笑った。


 レトリスは顔をそらし、白い紙の上に赤ペンで一行だけ書き足した。


 「雨が降る前に、家で一度歩いてみる」


 それを見たロシルドゥアが、ゆっくりとうなずいた。


 「その言い方なら、動けます」


 会議は、少しずつ形を変えた。


 レトリスが危険箇所を一つ挙げる。ガニーロが、最初にすることを短く書く。ロシルドゥアが、支援が必要な人に合わせた言い方へ直す。ヒルドバーグが、店でできることを加える。オリーンが、文字が多い場所に勝手に小さな絵を描く。


 その絵は、なぜか雨合羽を着た青魚だった。


 「これは何ですか」


 レトリスが問うと、オリーンは胸を張った。


 「青魚サンドくんです。低い道に行くと、お腹まで水に浸かります」


 「食べ物を歩かせないでください」


 「では、泳がせます」


 「もっと駄目です」


 サポナーラが勢いよく手を挙げた。


 「では、雨合羽を着た俺の絵ならどうでしょう」


 「避難案内の信用が下がります」


 「即答が鋭い!」


 「避難時に迷わせる絵は不要です」


 「俺の存在が迷いの原因に」


 「そこまでは言っていません」


 会議室に、さっきよりも温度のある笑いが戻った。


 けれど、レトリスの胸は少し重かった。


 笑いが戻ったのは、危険が消えたからではない。言葉の置き方が変わったからだった。自分の赤い付箋は、間違っていない。どれも必要な指摘だ。誰かを怖がらせるために書いたものではない。


 それでも、さっき住民たちの肩が縮んだのは事実だった。


 昼前、会議が終わると、住民たちは紙を持って帰っていった。八百屋の主人は掲示板の写真について、避難案内の横ではなく、店の中に飾ると言った。花屋の老婦人は、店先の植木鉢を雨の日だけ少し内側へ寄せると話した。豆腐屋の夫婦は、配達の道順をアリシャーに相談するらしい。


 学童の母親は、最後にレトリスへ頭を下げた。


 「怖いことを言ってくれて、ありがとうございます。でも、三つに分けてもらえると、助かります」


 レトリスは返事が遅れた。


 ありがとうございます、と言われたのに、胸が少し痛んだ。


 「……次から、先に三つにします」


 「はい。子どもにも伝えてみます」


 母親が出て行ったあと、会議室には紙の山と、飲み残しの茶と、赤い付箋が残った。


 レトリスは椅子に座らず、地図を見下ろしたまま動かなかった。


 ロシルドゥアが隣に立つ。


 「怒っていますか」


 「怒っていません」


 「それなら、よかったです」


 「納得もしていません」


 「それも、いいと思います」


 レトリスは横目で彼女を見た。


 ロシルドゥアは、疲れた人を責めない目をしていた。けれど、何も見逃さない目でもあった。


 「私は、危険を曖昧にしたくありません」


 「曖昧にしなくていいです」


 「怖がらせたいわけでもありません」


 「わかります」


 「でも、怖い顔をしていましたか」


 ロシルドゥアは少しだけ考えた。


 「怖い顔というより、橋を落とす前に全員を怒鳴って渡らせようとしている顔でした」


 「かなり怖いです」


 「でも、橋が落ちることを知っている人の顔でした」


 レトリスは、返す言葉をなくした。


 ロシルドゥアは、自分の緑の丸印がついた紙を重ねた。


 「危険を知っている人は必要です。でも、その人が一人で叫び続けると、聞く側も、叫ぶ側も疲れます」


 「……叫んだつもりはありません」


 「声ではなく、赤い付箋が叫んでいました」


 机の上の赤い付箋が、急にやかましく見えた。


 レトリスは一枚、そっと剥がした。粘着が弱くなっていて、紙の角が少し丸まっている。そこには「街灯不足」とだけ書いてあった。


 不足。


 危険。


 不適切。


 要修正。


 自分の字なのに、刃物のように並んでいる。


 レトリスは、それを胸ポケットへしまった。


 夕方、役所から青鞄電子堂へ向かう道は、雲が低かった。


 雨はまだ降っていない。けれど、空気には水の匂いが混じっている。商店街のアーケードはところどころ錆び、風が吹くたびに薄い金属音を鳴らした。


 レトリスは、午前中に指摘した場所を歩き直した。


 旧衣料品店前の段差。たしかに足を取られやすい。掲示板。避難案内は見えにくい。ペアカップ前の椅子。通行幅は、混む時間には狭くなる。


 何も間違っていない。


 なのに、道がいつもより少し冷たく見えた。


 花屋の前で足を止めると、老婦人が植木鉢を動かしていた。大きな鉢を持ち上げようとして、腰に手を当てる。


 レトリスは反射的に駆け寄った。


 「それは一人で持たないでください。鉢の底が濡れると滑ります。持つなら両側から。できれば台車を使って」


 老婦人は、びくりと肩を揺らした。


 その一瞬を、レトリスは見てしまった。


 老婦人はすぐ笑った。


 「ああ、そうだね。危ないものね」


 けれど、最初の一瞬は消えない。


 レトリスの言葉に、相手が身をすくめた。


 雨が降っていないのに、胸の内側に冷たい水が入ってくるようだった。


 「……すみません」


 「え?」


 「先に、手伝いますと言うべきでした」


 レトリスは鉢の片側へ手を添えた。老婦人は少し驚き、それから笑った。


 「じゃあ、お願いしようかね。そこ、店の中の台の上に」


 二人で鉢を運ぶと、土の匂いが近くなった。花はまだつぼみで、雨の前に少しだけ首を丸めている。


 「午前中の話、怖かったですか」


 レトリスが尋ねると、老婦人は鉢の位置を直しながら答えた。


 「怖かったよ」


 胸が沈む。


 「そうですか」


 「でも、怖い場所を知らない方が、もっと怖い」


 老婦人は、店の奥から古い布巾を取ってきて、レトリスの手についた土を拭いた。


 「ただね、年を取ると、たくさん言われると足が止まるんだよ。どっちへ行っても駄目なんじゃないかって思う。だから、一番先にやることを一つ言ってもらえると、助かる」


 一番先にやること。


 レトリスは、ガニーロの白い紙を思い出した。


 まず、通らない道。


 次に、向かう場所。


 最後に、連絡する人。


 「わかりました」


 声は小さかった。


 老婦人は、レトリスの顔をのぞき込むようにして笑った。


 「あなた、怖いことを言うけど、怖がらせたい人の手じゃないね」


 レトリスは、自分の手を見た。土が少し爪の間に入っている。会議室で赤ペンを握っていた時より、ずっと頼りない手だった。


 「そう見えますか」


 「植木鉢を落とさないように、ちゃんと下から支えた」


 老婦人の言葉は、地図よりも簡単で、赤い付箋よりも胸に残った。


 青鞄電子堂へ着くころには、商店街の灯りがぽつぽつと点き始めていた。


 店の中では、ガニーロが机いっぱいに紙を広げていた。大きな地図ではない。住民が持ち帰れる小さな紙だ。上には、レトリスが午前中に書いた危険箇所が並んでいる。


 ただし、その横に、別の字で短い言葉が添えられていた。


 「低い通りは、大雨の日に通らない」


 「暗い坂は、二人以上で歩く」


 「掲示板は、避難案内を目の高さへ」


 「軒先は、休む場所と通る場所を分ける」


 「困ったら、喫茶ペアカップか青鞄電子堂へ」


 レトリスは入口で立ち止まった。


 「あなた、勝手に何をしていますか」


 ガニーロは、驚いた顔で振り返った。口に鉛筆をくわえている。両手には紙があり、袖には鉛筆の粉がついていた。


 「勝手ではありません」


 「誰に許可を取りましたか」


 「紙に」


 「紙は許可を出しません」


 「では、机に」


 「机も出しません」


 「すみません。言い直します。あなたのリストを、住民向けの順番表に直していました」


 「それを勝手と言います」


 ガニーロは鉛筆を口から外し、まじめに頭を下げた。


 「すみません」


 レトリスは、返事をしなかった。


 店の机に近づき、紙を一枚取る。自分の赤い字が、ガニーロの丸い字に挟まれている。危険箇所が消されたわけではない。薄められたわけでもない。むしろ、何をするための危険情報なのかが、前より見えやすくなっていた。


 「……私の字が怖いです」


 自分で言って、息が止まりかけた。


 ガニーロは笑わなかった。


 「怖い場所を書いている字ですから」


 「そういう慰めは不要です」


 「慰めではありません。怖い場所は、怖く書いていいと思います。ただ、その横に、逃げる向きを書けばいいのだと思います」


 店の奥で、古いラジオが小さく雑音を鳴らした。ガニーロは手を伸ばして音量を下げる。


 「十年前、僕は怖い場所しか見えていませんでした。水が来る道、暗い路地、動けない子ども。だから、どこへ向かえばいいかを誰かが言ってくれた時、やっと足が動いたんです」


 レトリスは、紙から顔を上げた。


 「誰か、とは」


 ガニーロは一瞬だけ黙った。


 その沈黙が、また十年前の雨音を連れてくる。


 レトリスの胸が硬くなる。


 ガニーロは、いつものように目を伏せた。


 「この話には続きがあって……」


 「またですか」


 「はい」


 「今日こそ言う気はありますか」


 「あります」


 「では、言ってください」


 ガニーロは紙の角をそろえた。そろえすぎて、机に紙の端がこつこつ当たる。


 「まだ、うまく言えません」


 「それは、言う気がない人の返事です」


 「違います」


 ガニーロは、今度はすぐに否定した。


 その声がいつもより強く、レトリスは黙った。


 「言いたいです。でも、途中だけ言うと、あなたをまた別の場所で待たせる気がします。だから、全部確かめてから話したい」


 「私は、十年待ちました」


 「はい」


 「さらに待てと言うのですか」


 「待ってください、とは言いません」


 ガニーロは、机の上の紙を一枚、彼女へ差し出した。


 「一緒に確かめてください」


 紙には、旧地下避難施設サブマリンの排水口、青い鞄の絵、そして蒼い鞄の内ポケットの形に似た鍵穴が、簡単な線で描かれていた。


 レトリスは、その線を見つめた。


 待ってください、ではなく、一緒に確かめてください。


 似ているようで、全然違う言葉だった。


 「……順番表に、あなたの事情を混ぜないでください」


 「すみません」


 「でも、この紙は預かります」


 「はい」


 「逃げる向きを書くという発想は、悪くありません」


 「青鞄電子堂では、それも褒め言葉に」


 「分類を修正してください」


 ガニーロは小さく笑った。


 その時、店の扉が勢いよく開いた。


 サポナーラが、紙袋を抱えて入ってくる。


 「聞きましたよ! 住民向け順番表を作るんですよね! なら、俺の失敗談も入れましょう。懐中電灯を買ったのに電池を入れ忘れた男の涙の実録を」


 レトリスは即座に紙を押さえた。


 「涙の実録は別紙です」


 「別紙なら採用ですか!」


 「配布しません」


 「では、口頭で」


 「三十秒以内なら検討します」


 「三十秒! 俺の失敗人生を三十秒に!」


 ガニーロが、まじめな顔で言った。


 「サポナーラさんなら、三十秒に三つ失敗を入れられます」


 「信頼が変な方向に厚い!」


 店の空気がほどけた。


 レトリスは、手元の紙を見下ろす。危険箇所の横に、助かるための順番がある。誰かが怯えた時、最初にどこへ足を出すかが書かれている。


 自分の言葉は、怖かった。


 それでも、怖さを消してはいけない。


 怖い場所を怖いと書く。けれど、そのすぐ横に、ここへ行けばいい、この人に声をかければいい、まずこれだけすればいい、と書く。


 それなら、赤い付箋もただ叫ぶだけではなくなる。


 レトリスは鞄から、午前中に剥がした付箋を取り出した。


 「街灯不足」と書いた赤い紙。


 その下に、ガニーロの鉛筆で空白を作る。


 レトリスは赤ペンを持ち直し、少し考えてから書いた。


 「暗い坂は、一人で急がない。明るい道へ回る。困ったら近い店に入る」


 書き終えると、サポナーラがのぞき込んだ。


 「いいですね。俺なら、暗い坂で転んだらまず笑いを取ります」


 「それは助かる順番に入れません」


 「命の次くらいに大事では」


 「入りません」


 ガニーロが、付箋の横に小さく矢印を書いた。


 矢印は、低い通りではなく、アーケードの明るい側へ向いている。


 レトリスは、それを止めなかった。


 窓の外で、最初の雨粒が落ちた。


 青鞄電子堂の看板に、ぽつ、と音がする。蒼い鞄の肩紐にも、帰り道でついた湿り気が残っていた。


 レトリスは紙を束ね、鞄にしまう。


 しまう時、内ポケットの奥で、金属がまた小さく鳴った。


 鍵かもしれない。


 十年前、母が入れたものかもしれない。


 旧地下避難施設の扉につながるものかもしれない。


 けれど、今はまだ取り出さなかった。


 今日は、別のものを一つ取り出せた。


 危険を並べるだけでは、人は歩き出せない。


 でも、危険の横に最初の一歩を書けば、足は少しだけ前へ出る。


 レトリスは、店の入口で傘を開いた。ガニーロが、いつものように傘立てから二本目を取る。


 「必要ありません。自分の傘があります」


 「はい。これは、店の前の段差に置く目印です」


 「傘を目印にしないでください。風で飛びます」


 「では、重りを」


 「それより、明日、反射テープを貼ります」


 ガニーロは少し目を丸くした。


 「一緒に、ですか」


 「順番表の確認です」


 「はい」


 「勘違いしないでください」


 「していません」


 「顔がしています」


 「では、顔を修正します」


 「顔は修正対象外です」


 サポナーラが後ろから言った。


 「俺の顔は避難案内に使えますか」


 「使えません」


 即答したレトリスの声は、朝より少しだけ柔らかかった。


 雨の商店街へ一歩出る。


 赤い付箋で埋まった地図は、まだ完成していない。


 けれど、その横に白い紙が増えた。


 まず、通らない道。


 次に、向かう場所。


 最後に、連絡する人。


 そして、雨が降る前に一度歩いてみること。


 レトリスは傘の内側で、小さく息を吐いた。


 十年前の自分にも、こんな紙があればよかったのだろうか。


 どこへ行けばいいか。


 誰を待てばいいか。


 待っている間、何をすればよかったのか。


 答えはまだない。


 けれど、探す順番なら、少しだけ見え始めていた。



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