第16話 サブマリン、地下へ潜る
翌朝の現町は、雨上がりの匂いを低いところへ残していた。
商店街の石畳は乾き始めていたが、側溝のふちには細い水の筋が光っている。空は雲の切れ目を見せているのに、川のほうから吹く風だけは、夜の雨をまだ背負っていた。
レトリスは役所の腕章をきっちり留め、古い避難路の北側排水口の前に立っていた。手には許可書の写し、危険箇所の確認表、立入範囲を書いた紙、緊急連絡先の一覧。鞄の肩紐には、昨日から何度も指が触れている。
内ポケットの奥の金属は、まだ見ていない。
見ていないのに、存在だけで肩が重い。
「本日の確認事項を読み上げます」
レトリスが声を出すと、排水口の前に集まった面々は一斉に姿勢を正した。
正した、ように見えた。
オバインは小型探索機を載せた台車の横で、胸を張っている。台車の上には、銀色の丸い機体が鎮座していた。小さな車輪、前面のライト、防水ケースに入ったカメラ。胴体の横には白い塗料で、堂々と名前が書かれている。
サブマリン二号。
その下に、小さく「一号は心の中にいます」と添えられていた。
レトリスは、そこを指さした。
「これは何ですか」
「弔いです」
オバインが真顔で答えた。
「一号は壊れていません。修理中です」
ガニーロが、工具箱を抱えたまま補足した。
「じゃあ復帰祈願です」
「機体に余計な文字を書くと、住民説明で資料写真に使いにくくなります」
「大丈夫です。反対側には、もっと格好いい文字を書いてあります」
オバインが機体を回そうとした瞬間、レトリスが手を上げた。
「今は見せなくて結構です」
「なぜですか」
「嫌な予感がします」
「鋭い」
サポナーラが小声で感心した。彼は長い柄の網を抱えている。昨日、ガニーロが持っていく道具を確認した時、頼んでもいないのに自宅から持ってきたものらしい。網の柄には紙が巻かれ、「救出係」と書かれている。
レトリスは目を細めた。
「その紙も外してください」
「なぜです。役割が明確になります」
「小型探索機を入れるだけで、劇団の旗揚げではありません」
「旗は持ってきていません」
「持ってきていたら没収です」
サポナーラは胸元を押さえた。どうやら本当に、どこかに畳んだ布を隠していたらしい。
エメットは、排水口から二歩下がった位置で両手を握っていた。昨日ガニーロから、今日は中へ入らない、触らない、覗き込みすぎない、と三度言われている。そのたびに「はい」と返事をしていたが、足の爪先は少しずつ前へ出ていた。
レトリスはその靴先を見て、線を引くように地面を指した。
「エメットさんは、ここまでです」
「はい」
「見たい場合は、モニターを見ます」
「はい」
「排水口に顔を近づけません」
「はい」
「はいのたびに、一センチ進まないでください」
エメットは慌てて後ろへ下がった。ガニーロが小さく頷き、彼の足元に古い木箱を置いた。
「ここに座ると見やすいです」
「ありがとうございます」
「座っているあいだは、勝手に前へ進めません」
エメットは腰を下ろしてから、ようやく自分が固定されたことに気づいた。
オリーンは喫茶ペアカップの紙袋を抱えてやって来た。中には温かいお茶と、細く切った青魚サンドが入っている。レトリスは袋を見た瞬間に眉を寄せたが、何も言わなかった。
何も言わないまま、紙袋が風で倒れない位置へ置き直した。
ガニーロはそれを見て、笑いかけた。
レトリスは視線だけで止めた。
「本日の確認事項を続けます。排水口から旧地下避難施設内部へ、人は入りません。小型探索機のみを投入します。コードの長さは二十五メートル。映像記録は私とアリシャーさんが確認します。水位が上がった場合、即時中止。異臭、濁りの急変、動物の気配、機体の引っ掛かりがあった場合も中止。よろしいですね」
オバインが親指を立てた。
「了解。サブマリン二号、現町の闇へ参ります」
「闇ではありません。排水確認です」
「現町の排水確認へ参ります」
「よろしいです」
ガニーロが膝をつき、排水口の格子を確認した。昨日のうちにアリシャーが錆の具合を見ており、外せるボルトと触らないほうがいいボルトに印をつけていた。ガニーロは触る順番をメモで確かめ、一本ずつ静かに回していく。
古い金属が低く鳴った。
その音に、レトリスの肩がほんの少し動いた。
「大丈夫です」
ガニーロは顔を上げずに言った。
「まだ、開けていません」
「音に驚いただけです」
「はい」
「私が驚くと思って先に言うところが、少し腹立たしいです」
「次から、驚いた後に言います」
「もっと腹立たしいです」
エメットが木箱の上で口を押さえた。オリーンは紙袋から湯気の立つ紙コップを出しながら、肩を震わせている。
格子が外れると、奥から湿った空気が流れてきた。
泥と鉄と、長く閉じられていた場所の匂い。
それは地下へ向かう風というより、十年前に置いていかれたものが、細く息をしたようだった。
レトリスは無意識に蒼い鞄を押さえた。鞄の内側で、未完成の基板が小さくこすれる感触がある。今日は電源を切ってある。ガニーロが念のために絶縁シートで包み、勝手に印字しないようにした。
それでも、鞄は黙っているのに黙っていない。
ガニーロがサブマリン二号のカメラを拭き、ライトを点けた。白い光が排水口の縁を照らす。オバインは操作盤を抱え、真剣な顔つきで親指を置いた。
「では、潜航開始」
「車輪で進むので、潜航ではありません」
「地上を忘れる旅立ちです」
「排水口を忘れないでください」
レトリスの声を合図に、機体はゆっくり奥へ入った。
モニターには、コンクリートの壁が映った。苔の筋。古い水の跡。右側に詰まった落ち葉。ライトが当たるたび、小さな虫が影のように逃げる。
ガニーロはケーブルを少しずつ送り出し、オバインは機体を慎重に動かした。
「右へ三度」
アリシャーが、図面を見ながら言った。
「三度って、感覚でいいですか」
オバインが尋ねた。
「角度です」
「感覚では駄目ですか」
「駄目です」
「三度の男になります」
操作盤の上で、オバインの親指が震えた。機体は右へ曲がりすぎ、壁にこつんと当たった。
レトリスは記録用紙に、冷静に書き込む。
操作時、三度を詩的に解釈しないこと。
ガニーロがその文字を横目で見て、唇を噛んだ。
「笑う場面ではありません」
「はい」
「笑ったら、その行も清書してもらいます」
「我慢します」
機体はしばらく、狭い排水管の中を進んだ。
途中で小さな段差があり、前輪が浮いた。オバインが息を止める。サポナーラが網を構えた。排水口の奥まで届くはずもないのに、彼の目だけは本気だった。
「まだ出番ではありません」
レトリスが言う。
「心の準備です」
「心より網の距離を確認してください」
サポナーラは柄を伸ばし、先端が排水口の入口にすら届かないことを知った。
「今、気づきました」
「記録しますか」
「やめてください」
オリーンが、紙コップを差し出した。
「気づけた祝いに、お茶飲みます?」
「祝いの基準が優しい」
「うちの店は、失敗から立ち上がる人に甘いんです」
サポナーラは湯気を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
モニターの中で、排水管が広くなった。
機体のライトが暗い空間を照らす。そこは、旧地下避難施設へつながる点検通路の端だった。壁の下半分には、十年前の水位を示すような汚れが横一線に残っている。剥がれた掲示の紙片が、湿気で壁に貼りついていた。
レトリスは息を止めた。
ガニーロの手も、ケーブルの上で止まった。
「止めないでください。映像だけ、ゆっくり」
アリシャーの低い声が、二人を現場へ戻した。
オバインが機体をほんの少し前へ動かす。
古い掲示板が映った。
文字の多くは読めない。けれど、赤い丸で囲まれた矢印、雨合羽を着た人の絵、避難所と書かれた紙の端は残っていた。子どもの手で描かれたと思われる小さな絵が、その隅に貼られている。
青い四角。
肩紐のような線。
脇に、小さな光を表す黄色い丸。
それを見た瞬間、レトリスの指が鞄の肩紐を握った。
ガニーロは、ケーブルを持つ手に力を入れすぎ、白い被覆が指の跡で少しへこんだ。
「青い、鞄」
エメットが木箱の上で、ぽつりと言った。
レトリスは返事をしなかった。
声を出せば、喉の奥に引っ掛かっている何かまで出てしまいそうだった。
絵の下には、幼い字がある。水染みと画面の揺れで、すべては読めない。それでも、いくつかの文字がライトに浮かぶ。
まいごに、ならない。
かばん。
ガニーロ。
最後の文字は、濁った筋に隠れていた。
レトリスは、目の前のモニターではなく、十年前の指先を見ていた。
喫茶ペアカップの隅の席。テーブルに広げた色鉛筆。青い鞄の絵を描いたのは、どちらだっただろう。ライトの丸を黄色にしたのは誰だっただろう。ガニーロが「夜でもわかるように」と言い、レトリスが「昼でも役に立つように」と言い返した気がする。
記憶は、水に濡れた紙のように端が曖昧なのに、色だけが妙にはっきり残っていた。
「続けますか」
アリシャーが尋ねた。
事務的な声だった。けれど、急かしてはいなかった。
レトリスは一度だけ目を閉じた。
「続けます。映像記録を止めないでください」
オバインが頷いた。
サブマリン二号は、掲示板の前をゆっくり横切った。床には古い木片や紙くずが沈むように残っている。水は今は引いているが、湿気で床は黒ずんでいた。奥のほうに、丸い扉の一部が見える。住民たちがサブマリンと呼ぶ理由になった、潜水艦のハッチに似た扉だ。
モニター越しでも、その丸い輪郭は異様だった。
地下にあるのに、海へつながっているように見える。
エメットが身を乗り出しかけ、木箱がぎしりと鳴った。
「エメットさん」
「はい」
「木箱ごと前に進まないでください」
「はい」
エメットは耳まで赤くした。オリーンがさっと紙袋を持ち上げ、青魚サンドを一本差し出す。
「座って見守る人用です」
「ありがとうございます」
「食べると、前に行きたくても口が忙しくなります」
エメットは真面目に頷き、青魚サンドを両手で持った。
サブマリン二号は、丸い扉の手前で止まった。そこから先は、床に泥がたまっている。車輪が空回りする可能性があった。
「ここまでですね」
ガニーロが言った。
「もう少し行ける」
オバインは操作盤を握り直した。
「車輪の音が変わりました。泥に入っています」
ガニーロの声は穏やかだったが、指はケーブルの張りを確かめていた。
「戻せなくなったら、今日の確認は終わりです」
レトリスが言った。
「それに、許可範囲もここまでです」
オバインは丸い扉を見つめたまま、少しだけ黙った。
彼の横顔には、前へ進みたい気持ちがそのまま出ている。けれど、親指は動かなかった。軽口を言うために開いた唇が、一度閉じる。
「了解。戻します」
サブマリン二号は、ゆっくり後退を始めた。
その時だった。
画面の端を、小さな白いものが横切った。
「待って」
レトリスの声に、全員が止まる。
オバインが機体を停止させた。ライトの角度を少し変える。丸い扉のそば、泥の上に、白い陶器の欠片のようなものが見えた。
丸みのある縁。
青い線。
レトリスの鞄の中にあるペアカップの片割れと、よく似た色だった。
ガニーロが何かを言いかけたが、声にならなかった。
レトリスも、何も言わなかった。
それが何なのか、今は決められない。カップの欠片かもしれないし、ただの古いタイルかもしれない。画面越しの濁った光で、十年前の答えを拾い上げるには早すぎる。
けれど、そこに何かがある。
その事実だけで、胸の奥がきつくなった。
「回収はしません」
レトリスは、自分に言い聞かせるように言った。
「今日は映像記録だけです。位置を記録して、後日、安全確認の手順を組みます」
「はい」
ガニーロが答えた。
いつものように軽くはない。短く、深い返事だった。
アリシャーが地図に印をつける。排水口からの距離、機体の向き、丸い扉との位置関係。彼の鉛筆の音が、現実を少しずつ紙へ戻していく。
サブマリン二号は、引き返した。
戻る途中、掲示板の青い鞄の絵がもう一度映った。今度は一瞬だけ、絵の横に貼られた別の紙も見える。そこには、子どもの字で二つの名前が並んでいた。
ガニーロ。
レトリス。
その下に、少し歪んだ矢印と、笑っているような丸い顔。
エメットが青魚サンドを持ったまま、小さく息をのんだ。
オリーンは何も言わず、紙袋の口を閉じた。サポナーラも網を下ろしていた。冗談を言う場所を間違えない程度には、彼も場の空気を読んでいるらしい。
機体が排水口から戻ってくると、オバインは両手でそっと受け止めた。泥で汚れたサブマリン二号を見て、彼は少しだけ目を細めた。
「お帰り」
「機械に言いましたか」
レトリスが聞いた。
「言いました」
「そうですか」
「戻ってきたので」
レトリスは、何も注意しなかった。
戻ってきたものに、お帰りと言う。
それは、今日の現町では正しい気がした。
ガニーロは機体のライトを切り、外した格子を元に戻す準備をした。ボルトの順番を間違えないように並べ、錆びた部分を小さな布で拭く。その手つきは、壊れたものを責めない。
レトリスは、記録用紙に結果を書き込んだ。
北側排水口より旧地下避難施設点検通路を確認。
水位は低いが、床面に泥と障害物あり。
丸扉手前に白色陶器片またはタイル片らしきものを確認。
掲示板に子どもの絵、青い鞄、避難誘導に関する文字あり。
後日、安全確認の手順を組むこと。
最後の一行を書いたあと、ペン先が止まった。
彼女は少し迷い、欄外に小さく書き足した。
迷子にならない鞄の記録の可能性。
その文字を、ガニーロが横から見ていた。
「消しますか」
彼が尋ねた。
「なぜですか」
「個人的なことかもしれないので」
レトリスはペンを握ったまま、顔を上げなかった。
「ハザードマップを直すための確認です」
「はい」
「でも、町の記録の中に、私たちの落書きが残っていたなら、それも現町の記録です」
ガニーロは、静かに頷いた。
それ以上言うと、また何か言えないものに触れてしまうとわかっているようだった。
オバインはサブマリン二号の泥を拭きながら、いつもの軽い調子を取り戻そうとしていた。
「しかし、サブマリンをサブマリンへ入れるのは、ややこしいな」
「その名前にしたのはあなたです」
レトリスが言う。
「施設のほうが先です」
「だから、小型探索機の名前を変えれば済みます」
オバインは真剣に考えた。
「では、サブマリン・オバイン号」
「長くなっただけです」
「略して、オバマリン」
「やめてください」
サポナーラが横から手を上げた。
「救出係としては、サブマリン二号を推します。胸に響きます」
「救出していません」
「気持ちのうえでは三回しました」
「記録に残しません」
オリーンが笑った。エメットも、ようやく口元を緩めた。
重くなりすぎた空気に、小さな穴が開く。
そこから、温かいお茶の湯気と、青魚サンドの匂いが入り込んだ。
レトリスは紙コップを受け取り、一口飲んだ。熱すぎず、ぬるすぎない。ヒルドバーグが淹れたのだとすぐにわかる味だった。
「レトリスさん」
エメットが木箱の上から声をかけた。
「はい」
「あの絵、見に行ける日、来ますか」
レトリスは、排水口の格子を見た。
今すぐ開けて走り込みたい気持ちがないと言えば、嘘になる。絵の下に書かれていた名前を、指でなぞりたい。白い欠片を拾い上げたい。丸い扉の向こうに何があるのか、確かめたい。
けれど、十年前に間に合わなかったからといって、今あわてて同じ間違いをしていいわけではない。
「来ます」
レトリスは答えた。
「準備をして、危なくない手順を作ってからです」
「はい」
「待つのも、確認の一部です」
エメットは少し考えてから、頷いた。
「じゃあ、待つ練習をします」
ガニーロが、その言葉に目を細めた。
レトリスは見ていないふりをした。
待つ練習。
十年前の自分には、誰も教えてくれなかった言葉だった。待つことは、置いていかれることだと思っていた。待つことは、約束が破られるまでの時間だと思っていた。
でも今、エメットは木箱の上で青魚サンドをかじりながら、ちゃんと待っている。オバインは進めたい手を止めた。サポナーラは届かない網を下ろした。ガニーロは、言えない言葉を飲み込んだまま、格子を元どおりに閉めている。
待つことは、何もしないことではない。
次に間に合うため、戻る道を消さない時間なのかもしれない。
すべての道具を片づけ終えたころ、蒼い鞄の中で、かすかな音がした。
レトリスはすぐに肩紐を押さえた。
基板は切ってある。絶縁シートも巻いてある。印字機は青鞄電子堂に置いてきた。だから、紙が出てくるはずはない。
音は一度だけだった。
金属が、布の内側で小さく触れ合う音。
ガニーロが気づき、視線を向けた。
「鞄、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
レトリスは即答した。
即答したあとで、自分の声が少し強すぎたことに気づいた。
ガニーロは踏み込まなかった。ただ、工具箱の持ち手を握り直し、排水口から一歩離れた。
「では、今日はここまでですね」
「はい。映像を役所で確認します。あなたには後で必要な場面だけ共有します」
「全部ではないんですね」
「勝手に泣きそうな顔をする人には、全部見せません」
「泣きそうな顔をしていましたか」
「していません」
「では、なぜ」
「これからしそうだからです」
ガニーロは困ったように笑った。
「予測までされると、逃げ場がないです」
「避難経路は用意します」
「ありがとうございます」
「泣く場所は、喫茶ペアカップの奥の席です」
言ってから、レトリスはしまったと思った。
オリーンが目を輝かせた。
「奥の席、予約にしておきます?」
「しません」
「泣く人用のおしぼり、多めにします?」
「しません」
「青魚サンドも」
「それは二つ」
全員がレトリスを見た。
レトリスは紙コップを口元へ運び、視線をそらした。
「調査後の栄養補給です」
オリーンが、今日一番の笑顔で紙袋を抱え直した。
帰り道、ガニーロは工具箱を片手に持ち、もう片方の手で濡れた路面の段差を示した。レトリスはその手を見ないようにしながら、示された場所を確認表に書き込む。
商店街へ戻る坂の途中で、風が少し強くなった。
蒼い鞄が揺れ、内ポケットの奥の金属がまた小さく鳴った。
今度は、レトリスも逃げなかった。
指を入れれば、正体はわかる。
けれど、今日はまだ、排水口の奥で見つけた青い鞄の絵だけで胸がいっぱいだった。
まいごにならないかばん。
ガニーロとレトリス。
十年前、二人はたしかに、そんなものを作ろうとしていた。
忘れたつもりで、置き去りにしたつもりで、地下の湿った掲示板に、子どもの字は残っていた。
現町の地図を直す作業は、危険な道を見つけるだけではない。
誰かが昔、迷わないようにと願った小さな印を、もう一度拾い直すことでもある。
レトリスは、鞄の肩紐を握り直した。
今度、あの丸い扉の前へ行く時は、鍵の正体も確かめなければならない。
胸の奥で、十年前の雨音に混じって、幼い自分の声がほんの少しだけ聞こえた気がした。
迷子にならないように。
置いていかないように。
帰る場所が、光って見えるように。




