第15話 愛し方を知らないまま
青鞄電子堂の床は、昼間に見るより夜のほうが危なかった。
店の天井から下がる丸い電灯は、修理待ちのラジオや時計の影を、床の上にいくつも落としている。入口から作業台までの通路には、ガニーロが本人なりに「よけやすい向き」にそろえたつもりの工具箱が並んでいた。けれど、レトリスの目には、それらすべてが、足を引っかけるために置かれた罠に見えた。
「これは通路ではありません」
レトリスは、メモ帳に太い字で書き込んだ。
「ええと、通れる幅はあります」
「蟹なら通れます」
「人間も、横向きなら」
「避難時に全員を蟹にする予定ですか」
ガニーロは、工具箱を一つ抱え上げた。
「すぐ移動します」
「すぐ、ではなく、今です」
「今、すぐ移動します」
「言葉を足しても危険は減りません」
レトリスが指した先で、古い延長コードが棚の脚に絡みついていた。赤いテープで補修され、さらに黄色いテープが重ねられ、その上に「あとで直す」とガニーロの字で書いた紙が貼られている。
レトリスはその紙をはがした。
「いつの『あとで』ですか」
ガニーロは少し考えた。
「去年の秋です」
「去年の秋は、もう過去です」
「はい」
「返事が良ければ済むと思わないでください」
「はい」
「いま、済むと思いましたね」
「少しだけ」
作業台の下から、エメットが顔を出した。手には小さな懐中電灯を持っている。さっきまで、低い位置の段差を照らして調べる係として、床の近くを這うように動いていたのだ。
「レトリスさん、この奥にもコードがあります」
「奥とは、どこですか」
「ガニーロさんが『触ると棚が泣くから触らないで』と言ったところです」
レトリスは、ゆっくりガニーロを見た。
ガニーロは、別の工具箱を抱えたまま、棚の角へ視線を逃がした。
「あれは、棚が本当に鳴るんです」
「鳴る棚は、避難所には向きません」
「店です」
「人が逃げ込む可能性があるなら、店も避難の途中にある場所です」
その言葉に、ガニーロの手が少し止まった。
レトリスはメモ帳から目を上げなかった。けれど、彼女の筆圧だけが、ほんの少し弱くなった。
喫茶ペアカップでオリーンから渡された確認表は、蒼い鞄の外ポケットに入っている。そこに書かれた「座る場所」「声をかける人」「祝う理由」という三つの項目が、レトリスの頭の中で、普通の防災資料にはない重さを持ち始めていた。
青鞄電子堂は、地図上ではただの小さな修理店だ。だが、昼には高齢者がラジオを持ち込み、夕方には子どもが手回しライトを覗き込み、雨が降れば誰かが軒先へ駆け込む。危険箇所だけを書けば赤い印になる。けれど、誰かが座れる椅子と、乾いたタオルと、二本目の傘があれば、そこは逃げ道の途中にある休憩場所にもなる。
レトリスは、入口から作業台までの幅を測った。
「ここは棚を十センチ下げれば、人が二人並べます」
「十センチですか」
「十センチです」
「棚の後ろに、古い部品箱が」
「では部品箱を移動してください」
「その下に、古い工具箱が」
「では工具箱も移動してください」
「その工具箱が、父のものです」
そこで、空気の色が少し変わった。
エメットが作業台の下から完全に出てきた。懐中電灯の光が、床から壁へ、壁から棚へと揺れる。ガニーロは抱えていた工具箱をそっと下ろし、店の奥へ目を向けた。
棚の一番下。古い布をかぶせられた、深緑色の箱があった。金具は曇り、持ち手の革は黒ずんでいる。箱の角には、何度もぶつけた跡があった。
「開けたことは」
レトリスは、言いかけて止めた。
ガニーロは小さく首を振った。
「水害の後、一度だけ。中を乾かして、それきりです」
「点検しないと、危険物が入っているかもしれません」
「そうですね」
返事はしたが、ガニーロはすぐには動かなかった。
レトリスは、その箱を見た。古い金具のくすみよりも、布のかけ方の丁寧さが目に残った。しまい込んだものではない。毎日、目に入る場所に置きながら、触れないようにしてきたものだ。
店の入口の鈴が鳴った。
「まだ開いてるかい」
ヒルドバーグが入ってきた。片手に布包み、もう片方に小さな水筒を持っている。閉店後の喫茶ペアカップから、そのまま歩いてきたのだろう。白い前掛けは外していたが、袖口にはコーヒーの薄い染みが残っていた。
「店内点検と聞いたからね。甘くないものを持ってきたよ」
オリーンなら大きな皿を抱えて駆け込んできただろうが、ヒルドバーグは小さな布包みを作業台へ置くだけだった。中には、塩を少し利かせたおにぎりが四つ並んでいた。
「ありがとうございます」
ガニーロが頭を下げると、ヒルドバーグは彼の顔をちらりと見た。
「その箱を開けるんだろう」
「……はい」
「なら、先に食べな。空っぽの腹で昔のものを開けると、余計な音まで聞こえる」
レトリスは、手にしたメジャーを下ろした。
「昔のものに、余計な音が入っていることもあります」
「あるね。だから噛むんだよ。ご飯の音を自分の中に入れてから聞くんだ」
ヒルドバーグは水筒の蓋を外し、湯気の立つ番茶を紙コップに注いだ。まず自分の分を注ぎ、それを一口飲んでから、残りを三つに分けた。
エメットがそれを見て、少し不思議そうにした。
「ヒルドバーグさん、先に飲むんですね」
「毒見じゃないよ。自分が落ち着かないと、人に落ち着けとは言えないからね」
レトリスは、その手つきを黙って見ていた。
湯気が、作業台の上でゆっくりほどける。古い金属と油の匂いの中に、番茶の香りが混ざった。青鞄電子堂の夜が、少しだけ喫茶ペアカップの席に似てくる。
レトリスは紙コップを受け取り、口をつけた。
熱さはちょうどよかった。熱すぎず、ぬるすぎず、舌の上に長く残る。母がよく淹れていた茶の温度に似ている、と気づいた瞬間、彼女は紙コップを持つ指に力を入れた。
十年前の朝を、急に思い出した。
雨は、まだ普通の雨だった。
家の窓を細い線で濡らし、母は台所で蒼い鞄の中身を確認していた。タオル、懐中電灯、笛、小さなメモ帳、透明な袋に入った乾電池。レトリスはそれを見ながら、早く喫茶ペアカップへ行きたくて、玄関を何度も振り返っていた。
「今日じゃなくてもいいでしょう」
母の声は、雨の音の間から低く聞こえた。
「今日じゃないとだめなの」
幼いレトリスは、蒼い鞄の肩紐をぎゅっと握っていた。
「ガニーロと約束したの。ペアカップを交換して、鞄を完成させるの」
「川の水が増えてる」
「少しだけだもん」
「少しだけが怖いの」
母は蒼い鞄の内ポケットに何かを入れた。金属が布に当たる、ごく小さな音がした。
「何を入れたの」
「お守り」
「子ども扱いしないで」
「子どもだから言ってるんじゃない。大事だから言ってる」
その言葉に、幼いレトリスはむきになった。
「お母さんは、何でも危ないって言う。何でも止める。私の約束なんて、どうでもいいんでしょう」
母の手が、蒼い鞄の留め具の上で止まった。
その時の顔を、レトリスは覚えていない。覚えないようにしてきたのかもしれない。けれど、手だけは覚えている。濡れてもいないのに、指先が冷えていた。
「どうでもいいものを、こんなに確認しないよ」
母はそれだけ言った。
レトリスは返事をしなかった。玄関へ向かい、靴のかかとを踏むようにして外へ出た。母の「待って」という声は聞いた。聞こえたのに、振り返らなかった。
そこまで思い出して、レトリスは紙コップを作業台へ置いた。
番茶の表面が、わずかに揺れている。
「熱かったかい」
ヒルドバーグが尋ねた。
「いいえ」
レトリスは、少し遅れて答えた。
「温度は適切です」
「そうかい」
ヒルドバーグは、それ以上聞かなかった。
ガニーロは、父の工具箱の前に膝をついた。錆びた留め金に指をかける。金具は一度抵抗し、乾いた音を立てて外れた。
箱のふたが開くと、古い油と紙の匂いが立ち上がった。
中には、きれいに巻かれたドライバー、黒ずんだペンチ、布で包まれた測定器、束ねたコード、そして透明な袋に入った紙片が入っていた。工具はどれも、使う人の手の形を覚えたように角が丸くなっている。
エメットが少し身を乗り出した。
「すごい。古いのに、並び方がきれいです」
ガニーロは、小さく息を吐いた。
「父は、片づけだけは厳しかったので」
「だけは?」
レトリスが聞くと、ガニーロは箱の中を見たまま言った。
「修理の料金は、よく取り忘れていました」
「親子ですね」
「そこは否定したいです」
「否定するなら、まず請求書を書いてください」
ヒルドバーグが、ふっと笑った。
「ガニーロの父親も、うちのミルを直したとき、代金の代わりにコーヒーを三杯飲んで帰ったよ」
「それは、代金になっていません」
レトリスが即座に言うと、ヒルドバーグは湯飲みを揺らした。
「本人は、たいそう満足していた」
「商売としては不成立です」
「そういう不成立で、商店街は何年も動いてきたんだよ」
レトリスは口を閉じた。
不成立。たしかに、それは正しい言葉ではないのかもしれない。だが、この町には、正しくないまま誰かの手元に残ったものが多すぎる。払われなかった修理代。返されなかった傘。渡せなかったペアカップ。言えなかった「待って」。届かなかった「あとで追いつく」。
それらは帳簿には載らない。
けれど、災害の日には、帳簿に載らない手のほうが、誰かの肩を支えることもある。
ガニーロは、透明な袋に入った紙束を取り出した。紙は湿気を吸った跡があり、角が少し波打っている。表の一枚には、父の字で「水害当日 点検」と書かれていた。
レトリスの目が、その文字に止まった。
「それは」
「……見た覚えがありません」
ガニーロは袋の口を開けようとして、手を止めた。
ヒルドバーグが布巾を差し出した。
「指を拭いてからにしな。古い紙は、今の汗にも負ける」
ガニーロは素直に手を拭いた。エメットもなぜか自分の手を拭いた。レトリスも、蒼い鞄から薄い手袋を取り出した。
「保存状態はよくありません。写真を撮ってから開きます」
「はい」
ガニーロは、作業台の上を片づけた。
レトリスはスマートフォンで紙を撮影し、ゆっくり一枚目を開いた。そこには、町内の施設名と、短い点検結果が並んでいた。
商店街北口、排水ます詰まりあり。
旧橋下、路面低く、夕方以降冠水の恐れ。
喫茶ペアカップ裏、避難時の通行可。椅子二脚、休憩用に利用可能。
青鞄電子堂予定地、当時空き店舗。電源設備古い。使用時注意。
レトリスは、指で行を追った。
父の点検メモは、公式の書類ではなかった。印鑑もなく、きれいな図面でもない。けれど、そこに書かれた言葉は、ガニーロの手書き地図に似ていた。人が歩くところを見て、雨が落ちる場所を見て、数字にならない危なさを拾っている。
「あなたの手書き地図は、お父さんの書き方に似ています」
ガニーロは、紙から顔を上げなかった。
「自分では、覚えていないんですけどね」
「見て覚えたんでしょう」
「見ていたのかな」
「見ていない子どもは、同じ場所に同じ丸をつけません」
ガニーロの喉が、小さく動いた。
彼は何か言おうとして、やめた。代わりに、次の紙をめくる。
そこには、太い線で囲まれた項目があった。
旧地下避難施設「サブマリン」北側排水口。
逆流確認。扉膨張。誘導灯未接続。
子ども用防災鞄の光誘導案、接続できれば補助になる可能性。
レトリスは息を止めた。
ガニーロも、エメットも、ヒルドバーグも、その一行を黙って見た。
子ども用防災鞄。
光誘導案。
それは、レトリスの蒼い鞄の中で眠っていた未完成基板のことではないのか。
レトリスは蒼い鞄を膝の上に置いた。外側の布は何度も直されている。留め具も昨日、ガニーロが修理したばかりだ。内ポケットには、まだ彼女自身も正体を見ていない金属の感触がある。
十年前、母は何を入れたのか。
お守り、と言った。
子ども扱いしないで、と言い返した。
大事だから言ってる、と母は言った。
レトリスは鞄を開けようとして、指を止めた。
今開ければ、何かがわかるかもしれない。けれど、青鞄電子堂の夜は、すでに父のメモだけでいっぱいだった。過去を一度に広げすぎると、どれが今の足元を濡らしている水なのか、わからなくなる。
ヒルドバーグが、静かに番茶を注ぎ足した。
「大人はね、守りたいものが多いと、言葉が減るんだよ」
レトリスは顔を上げた。
ヒルドバーグは、父の工具箱と蒼い鞄を交互に見ていた。
「言わなくてもわかるだろう、って顔になる。言えば心配させる、って黙る。叱った形にして、抱えきれないものを隠す。そうしてるうちに、子どもには、止められたことだけが残る」
店の外を、夜風が通った。看板の青い鞄が、かすかに揺れる。
「十年前の大人たちが、みんな正しかったとは言わないよ。間違えたことも、遅れたことも、言い逃したこともある。でも、守ろうとしていたものまで、全部なかったことにしなくていい」
レトリスは、母の冷えた指を思い出した。
どうでもいいものを、こんなに確認しないよ。
あの言葉を、当時の自分は聞かなかった。聞こえていたのに、受け取らなかった。母は止めたかったのではなく、持たせたかったのかもしれない。逃げるための道具を。戻れるための鍵を。誰かに見つけてもらうための光を。
ガニーロは、父のメモを両手で押さえたまま、目を伏せていた。
「父も、何も言いませんでした」
「何をだい」
「危ない場所を見に行くな、とも。店を継げ、とも。町を離れるな、とも。何も言わないまま、工具だけ残しました」
ヒルドバーグは、ゆっくりうなずいた。
「言わなかったせいで、残ったものもある。言ったほうがよかったこともある。どっちも同じ箱に入ってるんだろうね」
エメットが、工具箱の中を覗いた。
「ガニーロさんのお父さんは、このメモ、誰に渡すつもりだったんでしょう」
ガニーロは答えられなかった。
レトリスは、紙束の最後に小さな封筒があることに気づいた。封筒は工具の下に挟まれていて、角だけが見えている。表には何も書かれていない。ガニーロが慎重に取り出すと、中から、小さな紙片と一枚の薄い写真が出てきた。
写真には、まだ看板のない空き店舗の前で、二人の大人が立っていた。
一人は、若い頃のガニーロの父だろう。工具箱を足元に置き、困ったような顔で笑っている。
もう一人は、雨合羽姿の女性だった。手には、蒼い布と小さな基板を持っている。
レトリスの指先が冷えた。
「……母です」
ガニーロが、はっと彼女を見た。
写真の裏には、二人分の字があった。
光る鞄、子ども用には大きすぎる。小さくする。
音はやさしく。警報ではなく、道案内にする。
ヒルドバーグは写真を覗き込み、目を細めた。
「二人で、何か作ろうとしていたんだね」
レトリスは、喉の奥がつまった。
母とガニーロの父。
会話をした記憶はほとんどない。役所の会合で顔を合わせる程度だったと思っていた。けれど写真の二人は、互いの手元を見ている。笑っているわけではない。だが、同じものを守ろうとする人間の近さがあった。
「知らなかった」
レトリスの声は、自分でも驚くほど小さかった。
ガニーロは写真を見つめたまま、ゆっくり言った。
「僕もです」
沈黙を破ったのは、蒼い鞄だった。
かちり、と留め具が鳴る。
続けて、内側から短い電子音がした。
レトリスは反射的に鞄を押さえた。
「今はだめです」
だが、鞄は聞かなかった。作業台の上に置いてあった小さな印字機が、いつの間にか細いケーブルで基板につながっている。誰がつないだのか。エメットが「あ」と声を漏らしたところを見ると、床の点検中に、コードの行き先を確かめようとして差し込んでしまったらしい。
「すみません、抜き忘れました」
「抜いてください」
「今抜くと紙が詰まります」
「紙を詰まらせるか、心を詰まらせるかの二択ですか」
ガニーロが真面目な顔で言った。
「紙のほうが、直しやすいです」
「あなたは黙っていてください」
印字機が、じじじ、と音を立てた。
紙が一行ずつ吐き出される。
――愛し方を知らないまま、
そこまで出たところで、全員が黙った。
続きが出る。
――茶の温度だけを覚えている。
さらに、紙が進む。
――止める手は、行かせない手ではなく、
――帰ってこいと結ぶ手だった。
レトリスは息を吸った。
怒りたいのに、怒るための言葉が出てこない。勝手に出力された紙を破れば済むはずだった。だがそこに並んだ文は、あまりに母の手の温度に近かった。
エメットが、恐る恐る言った。
「これは、誰の言葉なんでしょう」
「誰の言葉でもありません」
レトリスは、紙から目を離さずに答えた。
「古い録音と、紙片と、定型文が混ざっただけです」
ガニーロは、印字された紙の端を押さえた。
「でも、混ざる材料は、どこかに残っていたんですね」
レトリスは、答えなかった。
ヒルドバーグが、紙を覗いて肩をすくめた。
「相変わらず、恥ずかしい文章を出すねえ」
「そこですか」
「そこだよ。泣きそうな時に、恥ずかしさが混ざると、人は少し呼吸ができる」
サポナーラならここで大げさに読み上げただろう。オリーンなら額縁を探しただろう。けれど今夜ここにいるのは、古い箱を開けたばかりの四人だった。誰も笑い飛ばせない。ただ、少しだけ口元がゆるみ、喉の奥に詰まっていたものが動いた。
ガニーロは、父のメモをもう一度確認した。
「旧地下避難施設の北側排水口。扉膨張。誘導灯未接続」
レトリスはメモ帳を開いた。
「明日、アリシャーさんに確認します。正式な許可が出るまでは、中へは入りません」
「排水口の外側なら、オバインさんの小型探索機で見られるかもしれません」
エメットが言うと、ガニーロはうなずいた。
「サブマリンですね」
「名前がややこしいです」
レトリスは、すぐに指摘した。
「旧地下避難施設もサブマリン。小型探索機もサブマリン。現場で混乱します」
「では、探索機のほうを小サブマリンに」
「混乱が小さくなるだけです」
「サブマリン一号」
「二号が生まれる前提で話さないでください」
エメットが小さく笑った。ヒルドバーグも紙コップを口に運びながら、目だけで笑った。
レトリスはため息をつき、メモ帳に書いた。
旧地下避難施設「サブマリン」北側排水口。
オバインの小型探索機で外部確認。
ガニーロ父の点検メモと照合。
蒼い鞄の内ポケット、未確認。
最後の一行を書いたところで、ペン先が止まった。
未確認。
それは危険箇所の表記と同じだ。見ていないから安全とは言えない。知らないからなかったことにはできない。母が入れたものも、父が残したものも、今はまだ未確認のまま、彼女たちの足元に置かれている。
ガニーロは、工具箱の中へ工具を戻し始めた。だが、メモと写真だけは戻さず、透明な袋へ入れ直して作業台の上に置いた。
「そこへ置くんですか」
「はい。しまうと、また十年開けない気がするので」
レトリスは何も言わなかった。
代わりに、作業台の端へ置かれていた古い布を取り、工具箱の蓋を軽く拭いた。埃が布に移り、金具の色が少しだけ見えた。
ガニーロはその手元を見ていた。
「ありがとうございます」
「点検です」
「はい」
「礼を言う場面ではありません」
「それでも、言います」
レトリスは、布を畳んだ。
「そういうところが、危険です」
「店内のどの位置ですか」
「あなたの口です」
エメットが吹き出した。ヒルドバーグは、わざとらしく咳払いをした。
蒼い鞄は、もう鳴らなかった。
印字機から出た紙は、レトリスの手の中にある。破ることも、しまうこともできる。彼女はしばらく迷い、結局、メモ帳の間に挟んだ。保存のためではない。今破ると、母の手まで破ってしまう気がした。
店の外へ出ると、夜の商店街は静かだった。喫茶ペアカップの灯りはすでに落ち、遠くの川のほうから、湿った風だけが流れてくる。道の低いところに雨水はない。けれどレトリスは、昨日と同じように足元を確認しながら歩いた。
ガニーロが、店の鍵を閉めた。
「明日、オバインさんのところへ行きます」
「役所の許可を取ってからです」
「はい」
「勝手に排水口へ小型探索機を入れたら、没収します」
「オバインさんが泣きます」
「大人なので泣かないでしょう」
「サポナーラさんが代わりに泣きます」
「なぜですか」
「小型探索機に、もう名前をつけているので」
レトリスは額に手を当てた。
「明日、名前の管理から始めます」
ガニーロは、少しだけ笑った。
その笑い方が、写真の中の父親に似ているのかどうか、レトリスにはわからなかった。ただ、店の前で工具箱を抱えた大人と、蒼い布を持った母の姿が、今夜の二人の背後に薄く重なって見えた。
愛し方を知らないまま。
その言葉は、恥ずかしいほど大げさで、紙に印字されるには湿っぽすぎた。
けれど、知らなかったなら、これから覚えればいい。
止める手が帰ってこいと結ぶ手だったのなら、今度は、帰る道を地図に書けばいい。
レトリスは蒼い鞄の肩紐を握り直した。内ポケットの奥で、まだ確かめていない金属が、ほんの少しだけ指先に触れた。
明日、旧地下避難施設サブマリンの北側排水口を見る。
母が入れたお守りの正体は、そのあとでいい。
そう決めると、胸の奥で絡まっていた十年前の雨音が、少しだけ遠ざかった。




