第14話 オリーンの勝手に祝う会
翌日の喫茶ペアカップは、朝から妙に甘い匂いがした。
店の窓はいつもより早く開けられ、春の湿った風が、焼き上がったばかりの小さな菓子の香りを通りへ押し出している。入り口の黒板には、白いチョークで大きく文字が書かれていた。
――祝・避難灯の部品が一つついた日。
その下に、オリーンらしい丸い字で、さらに一行。
――今日の青魚サンドは、希望の半分切り。
レトリスは黒板の前で、しばらく言葉を探した。役所へ向かう途中だった。片手には資料、肩には蒼い鞄。鞄の留め具は昨日の修理でようやく閉まるようになったが、閉まるようになったところで、中身が大人しくなるわけではない。
「……部品が一つついた日、とは何ですか」
横から、工具箱を持ったガニーロが顔を出した。彼もまた、店先の黒板を見て足を止めている。目の下には、夜更かしの薄い影があった。
「昨日、エメット君の避難灯に抵抗が一つつきました」
「ええ、見ていました」
「そのことでは」
「わかっています。だから聞いています」
店の奥から、鈴よりも先にオリーンの声が飛び出した。
「レトリスさん、ガニーロさん、ちょうどいいところに! 主役が来る前に、席の配置を確認してください!」
レトリスは扉の取っ手に手をかけたまま、入っていいのか逃げていいのか一瞬迷った。けれど、ガニーロがごく自然に扉を押さえたせいで、彼女は店内へ足を踏み入れる形になった。
喫茶ペアカップの中は、いつもの二倍ほど賑やかだった。
窓際の席には、小さな紙旗が並んでいる。旗には「焦げても前進」「銀色の点、未来の点」「換気は大事」と書かれていた。カウンターの上には、青い紙ナプキンを敷いた皿が置かれ、その中央に、小さな丸い菓子が山のように積まれている。菓子の一つ一つには、白い砂糖で小さな点が描かれていた。
「これは、何ですか」
レトリスが尋ねると、オリーンは胸の前で両手を合わせた。
「はんだ菓子です!」
ガニーロが工具箱を落としそうになった。
「食べられますか」
「食べられます! ちゃんと小麦粉です! 焦げ目は演出です!」
「食べ物にその名前をつける勇気だけは、町の防災力に足してもいいかもしれません」
「ありがとうございます!」
「褒めていません」
ヒルドバーグはカウンターの中で、厚手の湯飲みに茶を注いでいた。オリーンの後ろで、ひとりだけ慌てていない。茶の湯気が、店のざわめきをゆっくり薄めるように立ちのぼる。
「祝いたいと言うから、台所は貸したよ。火の番だけは私がした」
「英断です」
レトリスは即座に言った。
「私もそう思った」
ヒルドバーグは淡々とうなずいた。
店の奥の丸いテーブルには、すでにサポナーラが座っていた。なぜか紙の冠をかぶっている。冠には「見学席」と書かれていた。
「俺は今回、はんだごてに近づかない役を任された」
「それは役ではなく、安全対策です」
レトリスの言葉に、サポナーラは胸を張った。
「安全対策にも適任が必要だ。俺ほど説得力のある人間はいない。なにしろ近づくと危ない」
「自覚があるのは前進です」
「今日も褒められたな」
「褒めていません」
ガニーロは工具箱を足元に置き、カウンター横の空いた席に目をやった。そこには、透明な箱に入れられた昨日の避難灯が置かれていた。まだ豆粒ほどの抵抗が一つ付いただけの、未完成の小さな基板。けれど、透明な箱の中で、それはなぜか店の主役のように見えた。
白い紙には、オリーンの字でこう書かれている。
――エメット君の一歩目。さわる時は手を洗ってから。サポナーラさんは眺めるだけ。
「後半が厳しいな」
サポナーラがつぶやく。
「昨日の実績に基づいています」
レトリスは、紙を少し傾けて読んだ。
「このような集まりを開くと、本人が気を遣います。避難灯はまだ完成していません。抵抗一つでここまで大げさにする必要はありません」
オリーンは笑顔のまま、しかしすぐに言い返さなかった。代わりに、皿の上のはんだ菓子を一つつまみ、レトリスの前の小皿へ置いた。
「完成した時だけ祝うと、完成しなかった人が、ずっと何ももらえないじゃないですか」
レトリスは口を閉じた。
オリーンは次に、ガニーロの前にも菓子を置いた。
「一つ部品がついたなら、その一つは今日しかありません。明日になったら、二つ目に追い抜かれちゃいます」
ガニーロは、置かれた菓子を見つめた。焦げ目に見せた茶色い焼き色が、作業台に残る小さな跡に似ている。
「たしかに、一つ目は一つ目の時にしか祝えませんね」
「ほら、ガニーロさんも言っています」
「あなたが言ったんです」
レトリスが横目でにらむと、ガニーロは小さく頭を下げた。
「借りました」
「返してください」
「言葉は返却先が難しいです」
「便利な修理屋みたいに言わないでください」
その時、扉の鈴が鳴った。
エメットが立っていた。制服の上に薄い上着を羽織り、両手で小さな紙袋を抱えている。店内を見た瞬間、彼の足は入り口で止まった。
「……何ですか、これ」
レトリスは、今朝の自分と同じ声だと思った。
オリーンが両手を広げる。
「エメット君、昨日の抵抗一つ、おめでとうございます!」
ぱちぱち、と拍手が起きた。
最初に手を叩いたのはオリーンで、次がヒルドバーグ。その次にサポナーラが大げさに叩き、ガニーロが静かに合わせた。常連の豆腐屋の女将まで、湯飲みを置いて手を叩いている。魚屋の主人は、少し遅れてから、照れ隠しのように二回だけ叩いた。
エメットは紙袋を胸に抱いたまま、顔を真っ赤にした。
「まだ、抵抗一つです」
「それはもう、レトリスさんが言いました!」
オリーンが元気よく答える。
「俺も心の中で言った」
サポナーラが手を挙げる。
「言わなくていいです」
レトリスに切られ、サポナーラは素直に手を下ろした。
エメットは逃げ道を探すように店内を見た。しかし、窓際には紙旗、カウンターには菓子、奥には透明な箱。どこを向いても自分の昨日が置かれている。彼は困った顔でガニーロを見た。
ガニーロは何も言わず、椅子を少し引いた。
エメットは小さく息をつき、そこへ座った。紙袋を膝に置き、視線を透明な箱へ向ける。
「持って帰ろうと思ったんです。昨日、家で見せたら、母さんが、店に何か持っていけって」
紙袋の中から出てきたのは、小さなみかんだった。袋の底で転がっていたらしく、いくつかはへたが斜めを向いている。
「わあ、差し入れですか!」
オリーンが両目を輝かせた。
「うち、あんまり大したものなくて」
「大したものです。みかんは手が汚れていても、洗えば皆で分けられます。しかも丸い。今日の点に合います」
「点に合うって、何ですか」
「今日の趣旨です」
「趣旨があるんですか」
「今作っています!」
レトリスは額に手を当てた。
ヒルドバーグはみかんを受け取り、さっと水で洗った。店の奥からざるを出し、一つずつ布巾で拭く。その動きは、祝いの騒がしさとは別の場所で、しっかりと落ち着いていた。
「食べ物が増えたなら、茶も増やそうか」
彼女がそう言うと、常連たちは自然に席を詰めた。誰かが上着を椅子の背にかけ、誰かが小皿を回す。狭い店の中で、人の動きがぶつからないように、少しずつずれていく。
レトリスはそれを見ていた。
地図に線を引く時、彼女はいつも、道の幅や段差や曲がり角を数字で見ようとする。だが今、目の前の人たちは、数字にしにくい間隔で動いていた。豆腐屋の女将は足の悪い常連のために椅子を引き、魚屋の主人はサポナーラの冠がみかんのざるに落ちないよう押さえ、オリーンは誰の皿にも菓子が一つは乗るように、無意識に配っている。
逃げる時にも、こういう隙間がいるのかもしれない。
危険を示す赤い線だけでは、人は足を動かせない。どこで一息つけるか、誰が声をかけてくれるか、何を持っていけば手がふさがらないか。そういう細かなものが、実際の歩幅を決める。
ガニーロが、透明な箱を少しエメットの方へ寄せた。
「昨日の続き、少しだけ見ますか」
エメットの目が上がる。
「ここでですか」
「はんだごては使いません。今日は見取り図だけです」
「じゃあ、サポナーラさんも近づけますか」
サポナーラが立ち上がりかけた。
「俺の名が出たな」
「座ってください」
レトリス、ガニーロ、ヒルドバーグの三人の声が重なった。
サポナーラは紙冠を押さえながら、すとんと座り直した。
「三方向から止められると、町に守られている感じがする」
「危険物扱いされているだけです」
レトリスはそう言いながら、鞄からメモ帳を出した。今日の予定は役所の資料整理だったはずなのに、いつの間にか、彼女のページには店内の座席と人の動きが描かれ始めている。
入口からカウンターまでの通路。
足の悪い常連が座りやすい席。
雨の日に滑りやすい床板。
店の奥から裏口へ抜ける経路。
それから、菓子を配るオリーンの動線。
自分で書いてから、レトリスは眉を寄せた。
「何を笑っているんですか」
視線だけで問うと、ガニーロは首を横に振った。
「笑っていません」
「口の端が上がっています」
「地図が増えたと思って」
「これはただの店内メモです」
「店内も、雨の日は町の一部です」
レトリスは返す言葉を探した。けれど、店の奥から漂う茶の香りと、窓際の紙旗のゆるい揺れが、反論の角を少し丸くした。
エメットは透明な箱の中の基板を見ながら、紙ナプキンの端に鉛筆で線を引いている。ガニーロが隣で、電池から抵抗、抵抗から光る部品へ向かう道筋を、迷路のように描いてやっていた。
「ここを通るんですか」
「はい。電気も、人も、通りやすい道を選びます。ただし、近道がいつも安全とは限りません」
「水が来る道と似ていますか」
ガニーロの手が、ほんの少し止まった。
レトリスも顔を上げた。
エメットは気づかず、鉛筆の先で紙をつついた。
「低いところに行くなら、止めるところを考えないといけないんですよね」
アリシャーなら喜びそうな言い方だった。数字で説明する前に、エメットは昨日の失敗と、今日の菓子と、店の中の人の動きから、それを感じ取っている。
ガニーロはゆっくりうなずいた。
「よく見ています」
エメットは耳を赤くし、菓子に手を伸ばしてごまかした。
「甘い」
「はんだ菓子ですから!」
「はんだは甘くないです」
レトリスが即座に訂正した。
「レトリスさん、そこは夢を残すところです」
「安全に関わる名前に夢を混ぜないでください」
「じゃあ、抵抗クッキー」
「食欲が抵抗します」
魚屋の主人が吹き出し、豆腐屋の女将が「上手いねえ」と笑った。店の空気が丸くふくらむ。
その時、カウンターの下で、小さな音がした。
ちり、と紙を裂くような電子音。
レトリスは反射的に蒼い鞄を押さえた。だが音は鞄からではなかった。昨日から安全のために外しておいた基板の一部、ガニーロが透明な箱の横へ置いていた小さな試験用の印字装置が、勝手に動いていた。
「止めてください」
レトリスが低く言う。
ガニーロはすぐに手を伸ばしたが、ヒルドバーグがそれより早く、濡れていない布巾で印字装置の下を押さえた。
「熱はないね」
「電源は切っていたはずです」
ガニーロは眉を寄せ、配線を確認する。
細い紙が、じりじりと吐き出されていく。
店内の笑い声が少しずつ静まった。オリーンが手を胸の前で止め、エメットは鉛筆を持ったまま固まる。サポナーラでさえ、紙冠のずれを直す手を止めた。
レトリスは紙の先を見た。
文字が出ている。
――誰かの小さな成功を祝える町は、逃げる時も手を離さない。
誰もすぐには声を出さなかった。
印字装置は、それきり沈黙した。紙の端だけが、かすかに揺れている。
オリーンは、目を丸くして紙を見つめていた。いつものように「額縁に入れましょう」とは言わなかった。彼女の指先には、砂糖の白い粉がついている。その粉が、ゆっくり握られた手の中へ隠れた。
「……今の、私が言いましたか」
彼女は小さな声で尋ねた。
「たぶん」
ガニーロは印字装置の蓋を開け、内部を確認しながら答えた。
「店内の会話を拾った可能性があります。短文メモの定型文と混ざったのかもしれません」
「私は、そんなきれいな言い方はしてません」
オリーンは困ったように笑った。
レトリスは紙を見たまま、しばらく黙っていた。
心を読んだわけではない。機械が勝手に誰かの内側へ入ったわけでもない。古い言葉と、近くにある声と、何度も書かれた定型の文が、偶然つながっただけだ。
それでも、偶然で出てきた言葉が、いま店にいる全員の手元へ、小さな重さを置いた。
逃げる時も手を離さない。
それは、勇ましい掛け声ではなかった。今朝、オリーンが皿を配ったこと。ヒルドバーグが火の番をしたこと。サポナーラが近づかない役を引き受けたこと。常連たちが席を詰めたこと。エメットがみかんを持ってきたこと。ガニーロが椅子を引いたこと。
それらの小さな行いが、避難という言葉の下に、ひっそり並んでいた。
「大げさだと思いました」
レトリスは、紙から目を離さずに言った。
オリーンが肩を小さくすくめる。
「はい」
「抵抗一つで人を集めるなんて、本人の負担になるとも思いました」
「はい」
「今も、少し思っています」
「そこは残るんですね」
「残ります。ですが」
レトリスは、店内を見回した。
エメットはまだ赤い顔をしている。けれど、透明な箱の中の基板を、もう隠したそうには見ていない。サポナーラは紙冠を外し、なぜか背筋を伸ばしている。豆腐屋の女将は、隣の足の悪い常連にみかんをむいて渡していた。魚屋の主人は、黒板の「希望の半分切り」を見て、明日から店先の段差に板を渡そうかとつぶやいている。
「この町には、こういう場所も地図に必要です」
オリーンの顔が、ぱっと明るくなった。
「喫茶ペアカップを、地図に載せるんですか」
「避難所ではありません。休憩できる場所、声をかけられる場所、雨具を直せる場所としてです。条件が整えば、ですが」
「条件、整えます!」
オリーンはすぐにカウンターへ走り、紙と鉛筆を取って戻ってきた。
「何が必要ですか。椅子ですか。お茶ですか。みかんですか。はんだ菓子ですか」
「最後は不要です」
「名前を変えれば必要ですか」
「まず、床が濡れた時の滑り止め。入口の段差。通路の幅。高齢の方が座れる席。停電時の明かり。火を使わない飲み物。連絡先の掲示」
レトリスが言うたび、オリーンは真剣な顔で書いた。
ヒルドバーグが、カウンターの中から静かに口を挟む。
「湯を沸かせない時の飲み物も考えよう。茶ばかりではなく、水も。私が立っていなくても出せる場所に置く」
「ヒルドバーグさんが立っていない日、ですか」
オリーンが不安そうに振り向いた。
「あるよ。私にも足が二本しかない」
当たり前の言葉だったのに、店の中が少しだけ静かになった。
レトリスはメモ帳に、喫茶ペアカップの名前を書いた。その横に「一時休憩場所候補」と記す。候補、という言葉には、まだ確認すべきことがあるという厳しさがある。けれど、線を引く手は、朝よりも少しだけ迷わなかった。
ガニーロが印字装置から紙を外し、端をきれいに切った。
「この紙、どうしますか」
オリーンはしばらく考えた。
「額縁に入れたいです」
レトリスが息を吸った。
「ただし」
オリーンは急いで続ける。
「個人名は書いていませんし、恥ずかしい告白でもありません。店の奥に、小さく貼ります。避難のことを話す時だけ見える場所に」
レトリスは紙と、オリーンの顔を交互に見た。
たしかに、いつもの赤面ポエムとは違う。誰かをからかうものではない。騒ぎの中心に置けば軽くなるが、奥に貼れば、手を離さないための目印になるかもしれない。
「店の奥なら」
彼女が言うと、オリーンは両手で紙を受け取った。
「ありがとうございます」
「ただし、毎日朗読しないでください」
「週に一回は」
「しないでください」
「避難訓練の日は」
「内容に応じて検討します」
「検討いただきました!」
「喜ぶところではありません」
笑いが戻った。
エメットが、みかんを一つ手に取った。皮をむく指先は、昨日はんだごてを握った時よりも少し落ち着いている。白い筋を丁寧に取って、彼は隣のサポナーラへ半分差し出した。
「どうぞ」
「俺にか」
「近づかない役、お疲れさまでした」
サポナーラは一瞬、何か派手なことを言いかけた。けれど、みかんを受け取ると、言葉を飲み込むように口へ入れた。
「……甘いな」
「みかんですから」
エメットが真面目に返すと、サポナーラはなぜか深くうなずいた。
「みかんは、ちゃんとみかんの仕事をするんだな」
「急に何の話ですか」
レトリスが言うと、彼は紙冠を膝の上で回した。
「いや、俺も近づかない仕事を、ちゃんとしたと思って」
「それは本当に助かりました」
レトリスがまっすぐ言ったため、サポナーラは今度こそ何も言えなくなった。
ガニーロはその様子を見て、静かに笑った。彼の笑い方は、声を立てるものではない。誰かの失敗を拾い上げる時のように、少しうつむき、指先で工具箱の取っ手を撫でる。
レトリスはそれに気づき、目をそらした。
世界で一番嫌いな人。
その言葉はまだ、彼女の内側にある。消えたわけではない。消したいわけでもない。十年分の水に濡れた言葉を、急に乾かすことはできない。
けれど、今日の喫茶ペアカップでは、嫌いという言葉だけでは説明できないものが、あまりに多くテーブルに並んでいた。
焦げ目のある菓子。
みかんの皮。
小さな抵抗が一つついた基板。
紙旗。
店の奥に貼られることになった印字紙。
そして、彼女のメモ帳に増えた、休憩できる場所の候補。
「ガニーロさん」
レトリスは、店を出る少し前に声をかけた。
「はい」
「今夜、青鞄電子堂の床の滑りやすい場所も確認します」
「店もですか」
「あなたの店も、人が集まります。工具箱、配線、段差、全部危険です」
「はい」
「嬉しそうに返事をしないでください」
「すみません」
ガニーロは謝ったが、やはり少し嬉しそうだった。
オリーンが奥から紙を持って走ってきた。
「レトリスさん、これ、店の確認表です。あとで見てください!」
差し出された紙には、勢いのある字で項目が並んでいた。
滑り止め。
段差。
明かり。
水。
座る場所。
声をかける人。
そして最後に、小さく「祝う理由」と書かれている。
レトリスはそこを指で叩いた。
「これは防災確認表に必要ですか」
オリーンは、少しだけ首をかしげた。
「逃げる前に、今日までがんばったことを思い出せたら、足が動く人もいると思います」
レトリスは返事をしなかった。
代わりに、その紙を丁寧に折り、蒼い鞄の外ポケットへ入れた。そこには昨日の、エメットの明かりについての紙も入っている。
鞄は鳴らなかった。
ただ、閉じた留め具が、かちりと小さく音を立てた。
外へ出ると、商店街には午後の光が差していた。通りの石畳は乾き、低い場所にだけ、昨日の雨の名残が薄く残っている。レトリスはそこを避け、隣を歩くガニーロの足元を一度だけ見た。
「滑ります」
彼が先に言った。
「わかっているなら、直してください」
「はい。今日の確認表に入れます」
喫茶ペアカップの窓の向こうでは、オリーンが紙旗を外しながら、常連一人一人に残りのみかんを渡していた。エメットは透明な箱を抱え、ヒルドバーグに深く頭を下げている。サポナーラは紙冠を畳み、なぜか自分の胸ポケットに大切そうにしまっていた。
小さな成功を祝える町。
その言葉は、地図のどこにもまだ載っていない。
けれどレトリスのメモ帳には、喫茶ペアカップの四角い輪郭が加わっている。赤い線でも、青い丸でもない。そこは、雨の日に手を離さないための場所として、鉛筆で薄く囲まれていた。
薄い線なら、あとで直せる。
直せる線なら、歩きながら濃くしていける。
レトリスは蒼い鞄の肩紐をかけ直し、役所へ向かって歩き出した。




