表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/45

第13話 エメット、はじめてのはんだごて

 午後の説明会は、終わったあともしばらく廊下に声を残していた。


 商店街の店主たちは、赤く塗られた低い通りを見て眉を寄せ、青く丸をつけられた軒先や外灯の位置を見て、また眉の形を変えた。怒りだけではない。納得だけでもない。水に濡れた紙を乾かす途中のように、誰の顔にも、まだ波打った跡が残っていた。


 ブルグリンデは最初に立ち、危険区域が広がることへの不安を自分の言葉で話した。声はいつもより硬かったが、最後まで小さくならなかった。


 「けれど、店も逃げ道の一部になれるなら、話を聞いてほしい」


 そう言った時、会場の奥に座っていた魚屋の主人が腕を組み直した。靴屋の老夫婦は小さく顔を見合わせ、豆腐屋の女将は「うちの前、夜も明かりつけとくかね」と隣に言った。


 レトリスはそのあと、危険な場所を隠さず話した。


 声が強くなりかけるたび、机の端に置いた赤鉛筆と青鉛筆が視界に入った。赤だけでは、帰る場所が泣く。青だけでは、危ない足元が笑う。腹立たしいほど妙な紙の文句が、なぜか喉の奥でつっかえ棒になった。


 ガニーロは余計なことを言わなかった。


 本当に言わなかった。


 そのせいで、レトリスはかえって何度も横を見た。彼は壁際に立ち、地図台が揺れないよう片手で支え、聞き取りにくそうな高齢者がいると地図の向きを少し変える。誰かが資料を落とせば拾い、子どもが退屈して椅子を鳴らせば、手元の小さな防災ライトを光らせて見せる。


 喋らないのに、いちいち動く。


 それがまた、少し腹立たしかった。


 説明会が終わったころ、青鞄電子堂の前には薄い夕日が差していた。雨は止んだが、軒先からはまだ水滴が落ちている。通りの石畳は、昼間の騒ぎを吸い込んだあとみたいに黒く光っていた。


 ガニーロは店の鍵を開け、最初に窓を開けた。


 「換気ですか」


 レトリスが聞くと、彼は作業台の上を見ながらうなずいた。


 「今日は、はんだごてを使うので」


 「誰が」


 「エメット君が」


 「聞いていません」


 「この話には続きがあって……」


 「使うなと言いました」


 「はい。昨日の説明会のあと、エメット君が来て、自分で避難灯を作ってみたいと言いました」


 レトリスは店の奥を見た。


 作業台の上には、古い新聞紙が敷かれ、小さな部品が皿に分けて置かれていた。豆粒みたいな抵抗、黒くて丸いスイッチ、透明な小型ライト、電池ケース。そばには、まだ使われていない細い工具がきれいに並んでいる。


 きれいに並びすぎている。


 ガニーロの予定表は、白板に細かく書かれていた。


 窓を開ける。


 水を作業台から遠ざける。


 コードの被覆を確認する。


 はんだごての置き場所を決める。


 触っていい所と、触ってはいけない所を分ける。


 煙が出たら、まず手を止める。


 最後に、なぜか小さく「サポナーラさんを近づけない」と書いてあった。


 「最後の項目は何ですか」


 「昨日、懐中電灯を三本同時に点けようとしたので」


 「妥当です」


 レトリスは素直に認めた。


 ちょうどその時、店の戸が遠慮がちに鳴った。エメットが立っていた。両手で古い手回しライトを抱え、靴先をそろえすぎて、かえって不安定な姿勢になっている。


 「こんばんは」


 「こんばんは、エメット君」


 ガニーロが笑うと、エメットは少しだけ肩の力を抜いた。


 レトリスを見ると、また背筋を伸ばす。


 「レトリスさんも、いるんですか」


 「危険な作業があると聞いたので」


 「危険……」


 エメットの目が、はんだごてへ向いた。


 まだ冷たい金属の棒が、作業台の上で静かに横たわっている。それだけで、少年の喉がこくりと動いた。


 「危険だから、覚える意味があります」


 レトリスが言うと、エメットは目を丸くした。


 「触らないほうがいいって、言われると思いました」


 「触り方を知らないまま触るのが危ないんです」


 ガニーロが、小さく笑った。


 「今日は、触り方からです」


 エメットは作業台の前に座った。椅子の高さが少し合わず、足が床から離れかける。ガニーロはすぐに小さな踏み台を持ってきた。何も言わず、少年の足元に置く。


 エメットは一度ガニーロを見た。


 「ありがとうございます」


 「どういたしまして」


 レトリスは、作業台の端に消火用の水が置かれていないことを確認した。代わりに濡らした布、金属の受け皿、耐熱の台がある。


 「水は近くに置かないんですね」


 「電気を使いますから。濡れた手でも触りません」


 「手洗いのあとも、完全に拭くこと」


 「はい」


 ガニーロが答える前に、エメットが返事をした。


 声が少し大きすぎた。


 緊張が、返事の形をして飛び出したようだった。


 ガニーロは部品を一つずつ示した。


 「これは電池ケース。ここに電池を入れると、こっちへ電気が流れます」


 「はい」


 「これはスイッチ。明かりをつけたり消したりします」


 「はい」


 「これはライト。足元を照らします」


 「はい」


 「これは抵抗。ライトに無理をさせないための部品です」


 「無理をさせない」


 エメットはその言葉を繰り返した。


 小さな抵抗を指先でつまむ。茶色の胴に細い色の線が巻かれている。彼はそれを、まるで虫を逃がさないように、けれど潰さないように見つめた。


 「こんなに小さいのに、無理しないようにしてくれるんですか」


 「そうです」


 「人にもつけたいですね」


 エメットがぽつりと言った。


 ガニーロの手が、部品皿の上で止まった。


 レトリスは少年を見た。エメットは自分で言ったことに気づいていないのか、まだ抵抗を見つめている。


 その横顔に、今日の説明会で見た何人もの顔が重なった。危険を聞いて身構えた店主。反対する人の前に立ったブルグリンデ。地図台を押さえていたガニーロ。誰も彼も、小さな部品をどこかに挟めたら、少し楽になりそうだった。


 「人間用の抵抗を作ったら、売れますかね」


 入口から声がした。


 サポナーラだった。


 レトリスは即座に白板を指した。


 「近づかないでください」


 「まだ何もしてない!」


 「白板に書かれています」


 「俺、作業の前から出入り禁止なのか!」


 「近づかないで、と書かれているだけです。出入り禁止より柔らかいです」


 「柔らかいのに痛い!」


 サポナーラは入口のマットの上で胸を押さえた。その後ろからオリーンが顔を出す。紙袋を抱えている。


 「差し入れです。手が汚れる前に食べられる、小さい焼き菓子です」


 「手が汚れる前提なんですか」


 レトリスが言うと、オリーンはにっこりした。


 「心も少し汚れるかもしれません。初めての作業は、思ったよりできなくて悔しいので」


 エメットの肩が小さく揺れた。


 オリーンはすぐに袋を作業台から遠い棚へ置いた。


 「食べるのは休憩の時です。ガニーロさん、これなら安全ですか」


 「はい。棚なら大丈夫です」


 「やった。安全なお菓子です」


 サポナーラが一歩だけ店内に入ろうとした。


 ガニーロ、レトリス、エメットの三人が同時に白板を見た。


 サポナーラは両手を上げ、入口の外へ戻った。


 「わかった。俺はここで応援する。エメット、はんだごては熱いぞ!」


 「知っています」


 「煙が出たら慌てるな!」


 「白板に書いてあります」


 「失敗しても、俺ほどじゃなければ大丈夫だ!」


 エメットは初めて、少し笑った。


 「それは、安心していいんですか」


 「安心しろ。俺の失敗は広い」


 「広さで誇らないでください」


 レトリスが言うと、オリーンが棚の前で肩を震わせた。


 作業が始まった。


 ガニーロは、まず冷たいままのはんだごてをエメットに持たせた。鉛筆のように握りそうになった手を、そっと止める。


 「こっちを持ちます。先の金属は、熱くなったら触れません」


 「はい」


 「置く時は、必ずこの台に戻します。机に直接置かない。膝の上にも置かない。持ったまま振り向かない」


 「振り向かない」


 「誰かに呼ばれたら、まず台に置きます」


 「はい」


 エメットは一つずつ繰り返した。言葉を口の中で固定してから、手を動かす。ガニーロは急かさない。次の説明へ行く前に、少年の指先が落ち着くのを待つ。


 レトリスは窓の開き具合を見た。風は入るが、部品が飛ぶほどではない。作業台の横には、やけどをした時に冷やすための清潔な布と保冷剤が置かれている。


 「準備は細かいんですね」


 「細かいほうが、慌てないので」


 「店の配線も、このくらい細かく見てください」


 「見ます」


 「今日ではなく」


 「はい」


 ガニーロは素直に返事をし、エメットへ向き直った。


 はんだごての電源が入る。


 店の中に、わずかに熱の匂いが立った。金属と埃と、古い時計の裏側みたいな匂い。エメットは息を止めかけたが、ガニーロが自分の肩を上下させて見せると、ゆっくり吸って、ゆっくり吐いた。


 「まず、練習用の板でやります」


 「本物じゃないんですか」


 「いきなり本物でもいいですが、失敗した時に何が起きたか分かりにくいです」


 「じゃあ、練習がいいです」


 エメットはすぐに言った。


 ガニーロはうなずき、穴の開いた小さな練習板を置いた。


 「部品の足を穴に通して、裏で少し開きます。落ちないように」


 エメットは抵抗を穴に通した。手が震えて、二度、部品が跳ねた。三度目でようやく入る。


 「入った」


 声が、思わず漏れた。


 オリーンが棚の前で両手を上げかけた。


 レトリスが視線だけで止める。


 オリーンは音を立てない拍手に切り替えた。指先だけをふわふわ動かす。その姿が妙におかしくて、エメットの口元がまた少しゆるんだ。


 「次に、はんだを少し当てます」


 ガニーロは見本を見せた。


 銀色の細い線が、熱でふっと溶け、小さな水滴のように部品の足元へ流れる。すぐに固まり、鈍く光った。


 「きれいですね」


 エメットが言った。


 「きれいに見える時は、だいたいちゃんとついています。でも、見た目だけでは分からないこともあります」


 「人みたいですね」


 今度は、ガニーロが少し笑った。


 「そうですね」


 エメットの番になった。


 はんだごてを持つ手が硬い。肩まで力が入っている。ガニーロはその手に上から触れず、作業台の端を指で軽く叩いた。


 「ここに肘を置くと、少し楽です」


 エメットは肘を置いた。


 手の震えが少し小さくなる。


 銀色の線を近づける。熱い先を当てる。だが、焦って離しすぎたせいで、はんだは丸く玉になり、部品の足元ではなく、板の上にぽとりと転がった。


 「あっ」


 「大丈夫です。熱いので触らない」


 ガニーロの声は変わらなかった。


 エメットの顔だけが、みるみる赤くなる。


 「すみません」


 「謝らなくていいです。今のは、はんだごての先と部品の足が一緒に温まっていなかったからです」


 「一緒に」


 「はい。片方だけ温めても、うまく流れません」


 レトリスはその説明を聞きながら、少しだけ目を伏せた。


 片方だけ温まっても、流れない。


 誰かの言葉も、そんなふうに固まることがある。言った側だけ熱くなって、聞く側まで届かず、机の上に転がる。十年前から、何度も見た形だった。


 エメットは二度目を試した。


 今度は、部品の足とはんだごての先を近づけすぎた。細い煙が、ふっと上がった。


 「煙!」


 入口のサポナーラが叫んだ。


 「慌てない!」


 レトリスが即座に言い返した。


 エメットはびくりとしたが、はんだごてを台に戻した。ガニーロが練習板を少し離し、窓の方へ風を通す。


 「手は?」


 「触ってません」


 「痛いところは?」


 「ないです」


 「では大丈夫です。焦げたのは、当てる時間が少し長かっただけです」


 エメットは唇を噛んだ。


 オリーンが棚の前で、焼き菓子の袋を抱え直した。祝いを出すには早く、慰めを出すにも早い。彼女は言葉の代わりに、袋の口をそっと閉じた。


 「僕、向いてないかもしれません」


 エメットの声は、作業台の上へ落ちた。


 サポナーラが入口で何か言いかけた。レトリスは横目で止めた。今、軽い励ましを投げたら、少年の悔しさが笑いの下に隠れてしまう。


 ガニーロは練習板をエメットの前に戻した。


 「向いているかどうかは、まだ分かりません」


 「でも、煙が」


 「煙が出たら、どうするんでしたか」


 「まず、手を止める」


 「できました」


 エメットは顔を上げた。


 「玉になったら、どうするんでしたか」


 「触らない」


 「できました」


 「でも、ちゃんとついてないです」


 「だから、次に直せます」


 ガニーロは、失敗した部分を指で示した。


 「ここを見ると、何が足りなかったか分かります。失敗が残っているから、次の手が決められるんです」


 エメットは、焦げた跡をじっと見た。


 黒い点。


 銀色の玉。


 少し曲がった部品の足。


 きれいではない。


 けれど、そこには何が起きたのかが残っている。


 「地図みたいですね」


 エメットが言った。


 レトリスは瞬きをした。


 ガニーロも、同じように少しだけ目を開いた。


 「危ないところが残っているから、次は避けられる」


 エメットは自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。


 「消しちゃったら、また同じ所で転びます」


 入口の外で、サポナーラが黙った。


 オリーンは今度こそ、音のしない拍手をした。


 レトリスは作業台の上の練習板を見た。小さな焦げ跡が、今日の商店街の地図に見えた。赤く塗った場所。青く丸をつけた場所。失敗を消すのではなく、次に誰かが通るための印にする。


 「その考え方は、悪くありません」


 レトリスが言うと、エメットは少し背筋を伸ばした。


 「悪くない、ですか」


 「良い、です」


 言い直すと、少年の顔に小さく明かりが灯った。


 ガニーロは三度目の準備をした。


 「次は、僕が横で数えます。急がなくていいです」


 「はい」


 エメットは、またはんだごてを持った。今度は持つ前に、台の位置を自分で確認した。肘を置き、部品の足を見て、息を吸う。


 「一」


 ガニーロが小さく数える。


 はんだごての先が、部品の足と板に触れた。


 「二」


 銀色の線が近づく。


 「三」


 はんだが溶けた。


 小さな光が、足元へ流れる。


 「離します」


 エメットは自分で言い、はんだを離し、次にはんだごてを離し、台に戻した。


 銀色の盛り上がりは少し大きすぎた。見本ほど滑らかではない。けれど、部品の足にしがみつくように固まっている。


 「ついた」


 エメットが言った。


 今度は、オリーンが我慢できなかった。


 両手を上げ、声は出さずに、口だけで「おめでとう」と大きく動かす。


 サポナーラは入口の外で、両腕を広げて謎の勝利姿勢を取った。通りかかった豆腐屋の女将が、それを見て一歩後ずさった。


 「サポナーラさん」


 レトリスが呼ぶと、彼はびくりとした。


 「はい」


 「通行人が困っています」


 「俺はただ、少年の成長を全身で表現していただけです」


 「半径を小さくしてください」


 「成長表現の半径!」


 エメットがとうとう笑った。


 その笑いで、店の中の熱が少しやわらいだ。


 練習を終えるころ、エメットの練習板には、大小さまざまな銀色の点が並んでいた。焦げたところもある。丸まったままの失敗もある。けれど、最後の三つは、ちゃんと部品の足元で固まっていた。


 ガニーロは、いよいよ本番用の小さな基板を出した。


 「今日は、ここまででもいいです」


 エメットは迷った。


 指先は疲れている。肩もこわばっている。けれど、目はまだ作業台から離れない。


 「一つだけ、本物をつけたいです」


 「分かりました。一つだけ」


 レトリスは時計を見た。


 「一つだけです。疲れた手で続けるのは危険です」


 「はい」


 エメットはまっすぐ返事をした。


 本番用の基板には、小さなライトがつく予定だった。停電した時、床に置くと足元だけを照らす。強い光ではない。目立つ看板にもならない。ただ、暗い廊下で次の一歩を見せるための明かりだ。


 エメットは抵抗を差し込んだ。


 部品の足を少し開く。


 はんだごてを持つ。


 店の外の水滴が、ぽたり、と落ちた。


 ガニーロは数えなかった。


 エメットは自分で息を整え、自分でタイミングを見た。


 「一」


 少年自身の声だった。


 「二」


 熱が伝わる。


 「三」


 銀色が流れる。


 「離します」


 台に戻す音が、小さく鳴った。


 部品は、ついていた。


 少し斜めだった。


 でも、ついていた。


 エメットはしばらくそれを見つめ、手を膝の上で握った。


 「できた」


 その声は、さっきよりずっと小さかった。


 小さいのに、店の奥まで届いた。


 オリーンが棚から焼き菓子の袋を持ち上げた。


 「休憩です。今度は本祝いです」


 「一つ部品をつけただけです」


 エメットが慌てて言うと、オリーンは首を振った。


 「一つ目は、一つ目の時にしか祝えません」


 その言い方に、誰も反論できなかった。


 ガニーロははんだごての電源を切り、先が熱いままの道具に札を立てた。レトリスは窓をもう少し開け、作業台の上に散らばった細かい切れ端を紙へ集めた。サポナーラは入口の外から「祝っていいか」と手で尋ね、レトリスが小さくうなずくと、なぜか小声で万歳した。


 焼き菓子は、ほろほろと崩れる素朴な味だった。


 エメットは両手で一つ持ち、少しずつ食べた。指先に残る緊張が、甘さでゆっくりほどけていくようだった。


 「ガニーロさん」


 「はい」


 「僕、いつも、誰かの後ろを歩いてました」


 店の中が静かになった。


 オリーンは菓子袋を閉じる手を止め、サポナーラは入口で背中を伸ばした。レトリスは作業台の切れ端を集めながら、顔だけを少年へ向けた。


 「ついていくと、安心するんです。誰かが先に見てくれるから。危ない所も、歩いていい所も、分かるから」


 エメットは、作りかけの避難灯を見た。


 「でも、昨日の説明会で、地図を見る人たちを見てたら、先に歩く人がいないと困るんだって思いました」


 ガニーロは何も言わなかった。


 少年の言葉を、途中で支えようとしなかった。


 エメットは焼き菓子の最後のかけらを食べ、膝の上で手を握った。


 「ついていくだけじゃなくて、いつか先に歩きたいです」


 店の奥で、古い時計が一つ鳴った。


 小さな音だった。


 けれど、レトリスにはそれが、遠くの避難灯が一つ点いた音に聞こえた。


 ガニーロは、作りかけの基板を透明な箱に入れた。


 「では、次はライトをつけるところまでやりましょう」


 「はい」


 「ただし、次回です。今日はここまで」


 エメットは少し残念そうにしたが、すぐにうなずいた。


 自分の疲れた指を見て、今はやめる理由を理解したのだろう。


 レトリスはその様子を見て、さっきより小さな声で言った。


 「それも、先に歩くための判断です」


 エメットは顔を上げた。


 「続けたい時に、止まることですか」


 「そうです。無理に進んで誰かに助けられるより、止まって次に備えるほうが、前に進んでいる時もあります」


 ガニーロが、なぜかこちらを見た。


 「何ですか」


 「いえ」


 「あなたにも言っています」


 「はい」


 返事が早すぎて、レトリスは眉を寄せた。


 オリーンが笑い、サポナーラが「俺にも刺さった」と胸を押さえる。


 レトリスはため息をついたが、口元は思ったほど硬くならなかった。


 片づけが終わるころ、外は夜になっていた。


 商店街の外灯が一つずつ灯り、濡れた石畳に細い光を落としている。喫茶ペアカップの看板も、向かいの薬局の窓も、豆腐屋の白いのれんも、夜の中で場所を知らせていた。


 エメットは透明な箱を鞄に入れず、両手で抱えた。


 「持って帰る時は、走らないでください」


 レトリスが言う。


 「はい」


 「家で勝手に続きをしないでください」


 「はい」


 「サポナーラさんに見せびらかして、外で万歳の練習をしないでください」


 「それは俺への注意では?」


 入口のサポナーラが言った。


 「両方です」


 エメットは今度こそ声を出して笑った。


 ガニーロが店の戸を開ける。夜風が入り、はんだの匂いを少しずつ外へ連れていった。


 エメットは一歩、外へ出た。


 その一歩は、いつも誰かの後ろについていく時の歩幅より、ほんの少し大きかった。


 「また来ます」


 「待っています」


 ガニーロが答えた。


 エメットは商店街の外灯の下を歩いていく。途中で振り向き、作りかけの避難灯が入った箱を少しだけ掲げた。サポナーラが小さな半径で万歳し、オリーンが両手を振る。


 レトリスは、店の前に立ったまま、その背中を見送った。


 誰かの後ろを歩いていた少年が、いつか誰かの足元を照らす。


 そのための最初の銀色の点が、今、透明な箱の中にある。


 ガニーロが隣に立った。


 「いい明かりになりそうです」


 「まだ抵抗一つです」


 「一つ目は、一つ目の時にしか祝えませんから」


 「オリーンさんの言葉を、勝手に便利な道具にしないでください」


 「すみません」


 彼は本当に少し反省した顔をした。


 その顔を見ると、レトリスはなぜか怒るタイミングを失った。


 店の奥で、作業台の上に置かれた蒼い鞄が、ちり、と小さく鳴った。


 レトリスの体が固まる。


 「今のは」


 ガニーロが振り返る。


 鞄の内側から、細い紙がほんの少しだけ出ていた。湿気のせいか、端がくるりと丸まっている。


 レトリスは素早く近づき、紙を引き出した。


 短い文だった。


 ――小さな明かりは、後ろから来る人のために先へ置く。


 その下に、少し間を空けて、もう一行。


 ――でも、はんだごては台に置け。持ったまま振り向くな。


 レトリスは紙を見つめた。


 ガニーロは、真面目な顔でうなずいた。


 「安全指導としては正しいです」


 「そこを評価しないでください」


 オリーンが、こらえきれずに笑った。


 サポナーラも入口の外で腹を抱えた。


 レトリスは紙を折り、蒼い鞄の外ポケットに入れた。捨てるには、少し惜しかった。腹立たしいのに、今のエメットに似合う言葉でもあった。


 青鞄電子堂の窓から、作業台の小さなライトが外へ漏れている。


 地図の赤い線も、青い丸も、銀色の失敗跡も、まだ全部が未完成だった。


 けれど、未完成だから次に触れる場所がある。


 レトリスは店の戸を閉める前に、作業台をもう一度見た。


 焦げ跡のある練習板。


 一つだけ部品のついた避難灯。


 白板の「サポナーラさんを近づけない」という文字。


 そして、窓の外へ続く商店街の灯り。


 誰かの後ろを歩く人が、次の誰かの前に立つ。


 その順番が、今夜、この小さな店で一つだけ変わった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ