第13話 エメット、はじめてのはんだごて
午後の説明会は、終わったあともしばらく廊下に声を残していた。
商店街の店主たちは、赤く塗られた低い通りを見て眉を寄せ、青く丸をつけられた軒先や外灯の位置を見て、また眉の形を変えた。怒りだけではない。納得だけでもない。水に濡れた紙を乾かす途中のように、誰の顔にも、まだ波打った跡が残っていた。
ブルグリンデは最初に立ち、危険区域が広がることへの不安を自分の言葉で話した。声はいつもより硬かったが、最後まで小さくならなかった。
「けれど、店も逃げ道の一部になれるなら、話を聞いてほしい」
そう言った時、会場の奥に座っていた魚屋の主人が腕を組み直した。靴屋の老夫婦は小さく顔を見合わせ、豆腐屋の女将は「うちの前、夜も明かりつけとくかね」と隣に言った。
レトリスはそのあと、危険な場所を隠さず話した。
声が強くなりかけるたび、机の端に置いた赤鉛筆と青鉛筆が視界に入った。赤だけでは、帰る場所が泣く。青だけでは、危ない足元が笑う。腹立たしいほど妙な紙の文句が、なぜか喉の奥でつっかえ棒になった。
ガニーロは余計なことを言わなかった。
本当に言わなかった。
そのせいで、レトリスはかえって何度も横を見た。彼は壁際に立ち、地図台が揺れないよう片手で支え、聞き取りにくそうな高齢者がいると地図の向きを少し変える。誰かが資料を落とせば拾い、子どもが退屈して椅子を鳴らせば、手元の小さな防災ライトを光らせて見せる。
喋らないのに、いちいち動く。
それがまた、少し腹立たしかった。
説明会が終わったころ、青鞄電子堂の前には薄い夕日が差していた。雨は止んだが、軒先からはまだ水滴が落ちている。通りの石畳は、昼間の騒ぎを吸い込んだあとみたいに黒く光っていた。
ガニーロは店の鍵を開け、最初に窓を開けた。
「換気ですか」
レトリスが聞くと、彼は作業台の上を見ながらうなずいた。
「今日は、はんだごてを使うので」
「誰が」
「エメット君が」
「聞いていません」
「この話には続きがあって……」
「使うなと言いました」
「はい。昨日の説明会のあと、エメット君が来て、自分で避難灯を作ってみたいと言いました」
レトリスは店の奥を見た。
作業台の上には、古い新聞紙が敷かれ、小さな部品が皿に分けて置かれていた。豆粒みたいな抵抗、黒くて丸いスイッチ、透明な小型ライト、電池ケース。そばには、まだ使われていない細い工具がきれいに並んでいる。
きれいに並びすぎている。
ガニーロの予定表は、白板に細かく書かれていた。
窓を開ける。
水を作業台から遠ざける。
コードの被覆を確認する。
はんだごての置き場所を決める。
触っていい所と、触ってはいけない所を分ける。
煙が出たら、まず手を止める。
最後に、なぜか小さく「サポナーラさんを近づけない」と書いてあった。
「最後の項目は何ですか」
「昨日、懐中電灯を三本同時に点けようとしたので」
「妥当です」
レトリスは素直に認めた。
ちょうどその時、店の戸が遠慮がちに鳴った。エメットが立っていた。両手で古い手回しライトを抱え、靴先をそろえすぎて、かえって不安定な姿勢になっている。
「こんばんは」
「こんばんは、エメット君」
ガニーロが笑うと、エメットは少しだけ肩の力を抜いた。
レトリスを見ると、また背筋を伸ばす。
「レトリスさんも、いるんですか」
「危険な作業があると聞いたので」
「危険……」
エメットの目が、はんだごてへ向いた。
まだ冷たい金属の棒が、作業台の上で静かに横たわっている。それだけで、少年の喉がこくりと動いた。
「危険だから、覚える意味があります」
レトリスが言うと、エメットは目を丸くした。
「触らないほうがいいって、言われると思いました」
「触り方を知らないまま触るのが危ないんです」
ガニーロが、小さく笑った。
「今日は、触り方からです」
エメットは作業台の前に座った。椅子の高さが少し合わず、足が床から離れかける。ガニーロはすぐに小さな踏み台を持ってきた。何も言わず、少年の足元に置く。
エメットは一度ガニーロを見た。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
レトリスは、作業台の端に消火用の水が置かれていないことを確認した。代わりに濡らした布、金属の受け皿、耐熱の台がある。
「水は近くに置かないんですね」
「電気を使いますから。濡れた手でも触りません」
「手洗いのあとも、完全に拭くこと」
「はい」
ガニーロが答える前に、エメットが返事をした。
声が少し大きすぎた。
緊張が、返事の形をして飛び出したようだった。
ガニーロは部品を一つずつ示した。
「これは電池ケース。ここに電池を入れると、こっちへ電気が流れます」
「はい」
「これはスイッチ。明かりをつけたり消したりします」
「はい」
「これはライト。足元を照らします」
「はい」
「これは抵抗。ライトに無理をさせないための部品です」
「無理をさせない」
エメットはその言葉を繰り返した。
小さな抵抗を指先でつまむ。茶色の胴に細い色の線が巻かれている。彼はそれを、まるで虫を逃がさないように、けれど潰さないように見つめた。
「こんなに小さいのに、無理しないようにしてくれるんですか」
「そうです」
「人にもつけたいですね」
エメットがぽつりと言った。
ガニーロの手が、部品皿の上で止まった。
レトリスは少年を見た。エメットは自分で言ったことに気づいていないのか、まだ抵抗を見つめている。
その横顔に、今日の説明会で見た何人もの顔が重なった。危険を聞いて身構えた店主。反対する人の前に立ったブルグリンデ。地図台を押さえていたガニーロ。誰も彼も、小さな部品をどこかに挟めたら、少し楽になりそうだった。
「人間用の抵抗を作ったら、売れますかね」
入口から声がした。
サポナーラだった。
レトリスは即座に白板を指した。
「近づかないでください」
「まだ何もしてない!」
「白板に書かれています」
「俺、作業の前から出入り禁止なのか!」
「近づかないで、と書かれているだけです。出入り禁止より柔らかいです」
「柔らかいのに痛い!」
サポナーラは入口のマットの上で胸を押さえた。その後ろからオリーンが顔を出す。紙袋を抱えている。
「差し入れです。手が汚れる前に食べられる、小さい焼き菓子です」
「手が汚れる前提なんですか」
レトリスが言うと、オリーンはにっこりした。
「心も少し汚れるかもしれません。初めての作業は、思ったよりできなくて悔しいので」
エメットの肩が小さく揺れた。
オリーンはすぐに袋を作業台から遠い棚へ置いた。
「食べるのは休憩の時です。ガニーロさん、これなら安全ですか」
「はい。棚なら大丈夫です」
「やった。安全なお菓子です」
サポナーラが一歩だけ店内に入ろうとした。
ガニーロ、レトリス、エメットの三人が同時に白板を見た。
サポナーラは両手を上げ、入口の外へ戻った。
「わかった。俺はここで応援する。エメット、はんだごては熱いぞ!」
「知っています」
「煙が出たら慌てるな!」
「白板に書いてあります」
「失敗しても、俺ほどじゃなければ大丈夫だ!」
エメットは初めて、少し笑った。
「それは、安心していいんですか」
「安心しろ。俺の失敗は広い」
「広さで誇らないでください」
レトリスが言うと、オリーンが棚の前で肩を震わせた。
作業が始まった。
ガニーロは、まず冷たいままのはんだごてをエメットに持たせた。鉛筆のように握りそうになった手を、そっと止める。
「こっちを持ちます。先の金属は、熱くなったら触れません」
「はい」
「置く時は、必ずこの台に戻します。机に直接置かない。膝の上にも置かない。持ったまま振り向かない」
「振り向かない」
「誰かに呼ばれたら、まず台に置きます」
「はい」
エメットは一つずつ繰り返した。言葉を口の中で固定してから、手を動かす。ガニーロは急かさない。次の説明へ行く前に、少年の指先が落ち着くのを待つ。
レトリスは窓の開き具合を見た。風は入るが、部品が飛ぶほどではない。作業台の横には、やけどをした時に冷やすための清潔な布と保冷剤が置かれている。
「準備は細かいんですね」
「細かいほうが、慌てないので」
「店の配線も、このくらい細かく見てください」
「見ます」
「今日ではなく」
「はい」
ガニーロは素直に返事をし、エメットへ向き直った。
はんだごての電源が入る。
店の中に、わずかに熱の匂いが立った。金属と埃と、古い時計の裏側みたいな匂い。エメットは息を止めかけたが、ガニーロが自分の肩を上下させて見せると、ゆっくり吸って、ゆっくり吐いた。
「まず、練習用の板でやります」
「本物じゃないんですか」
「いきなり本物でもいいですが、失敗した時に何が起きたか分かりにくいです」
「じゃあ、練習がいいです」
エメットはすぐに言った。
ガニーロはうなずき、穴の開いた小さな練習板を置いた。
「部品の足を穴に通して、裏で少し開きます。落ちないように」
エメットは抵抗を穴に通した。手が震えて、二度、部品が跳ねた。三度目でようやく入る。
「入った」
声が、思わず漏れた。
オリーンが棚の前で両手を上げかけた。
レトリスが視線だけで止める。
オリーンは音を立てない拍手に切り替えた。指先だけをふわふわ動かす。その姿が妙におかしくて、エメットの口元がまた少しゆるんだ。
「次に、はんだを少し当てます」
ガニーロは見本を見せた。
銀色の細い線が、熱でふっと溶け、小さな水滴のように部品の足元へ流れる。すぐに固まり、鈍く光った。
「きれいですね」
エメットが言った。
「きれいに見える時は、だいたいちゃんとついています。でも、見た目だけでは分からないこともあります」
「人みたいですね」
今度は、ガニーロが少し笑った。
「そうですね」
エメットの番になった。
はんだごてを持つ手が硬い。肩まで力が入っている。ガニーロはその手に上から触れず、作業台の端を指で軽く叩いた。
「ここに肘を置くと、少し楽です」
エメットは肘を置いた。
手の震えが少し小さくなる。
銀色の線を近づける。熱い先を当てる。だが、焦って離しすぎたせいで、はんだは丸く玉になり、部品の足元ではなく、板の上にぽとりと転がった。
「あっ」
「大丈夫です。熱いので触らない」
ガニーロの声は変わらなかった。
エメットの顔だけが、みるみる赤くなる。
「すみません」
「謝らなくていいです。今のは、はんだごての先と部品の足が一緒に温まっていなかったからです」
「一緒に」
「はい。片方だけ温めても、うまく流れません」
レトリスはその説明を聞きながら、少しだけ目を伏せた。
片方だけ温まっても、流れない。
誰かの言葉も、そんなふうに固まることがある。言った側だけ熱くなって、聞く側まで届かず、机の上に転がる。十年前から、何度も見た形だった。
エメットは二度目を試した。
今度は、部品の足とはんだごての先を近づけすぎた。細い煙が、ふっと上がった。
「煙!」
入口のサポナーラが叫んだ。
「慌てない!」
レトリスが即座に言い返した。
エメットはびくりとしたが、はんだごてを台に戻した。ガニーロが練習板を少し離し、窓の方へ風を通す。
「手は?」
「触ってません」
「痛いところは?」
「ないです」
「では大丈夫です。焦げたのは、当てる時間が少し長かっただけです」
エメットは唇を噛んだ。
オリーンが棚の前で、焼き菓子の袋を抱え直した。祝いを出すには早く、慰めを出すにも早い。彼女は言葉の代わりに、袋の口をそっと閉じた。
「僕、向いてないかもしれません」
エメットの声は、作業台の上へ落ちた。
サポナーラが入口で何か言いかけた。レトリスは横目で止めた。今、軽い励ましを投げたら、少年の悔しさが笑いの下に隠れてしまう。
ガニーロは練習板をエメットの前に戻した。
「向いているかどうかは、まだ分かりません」
「でも、煙が」
「煙が出たら、どうするんでしたか」
「まず、手を止める」
「できました」
エメットは顔を上げた。
「玉になったら、どうするんでしたか」
「触らない」
「できました」
「でも、ちゃんとついてないです」
「だから、次に直せます」
ガニーロは、失敗した部分を指で示した。
「ここを見ると、何が足りなかったか分かります。失敗が残っているから、次の手が決められるんです」
エメットは、焦げた跡をじっと見た。
黒い点。
銀色の玉。
少し曲がった部品の足。
きれいではない。
けれど、そこには何が起きたのかが残っている。
「地図みたいですね」
エメットが言った。
レトリスは瞬きをした。
ガニーロも、同じように少しだけ目を開いた。
「危ないところが残っているから、次は避けられる」
エメットは自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。
「消しちゃったら、また同じ所で転びます」
入口の外で、サポナーラが黙った。
オリーンは今度こそ、音のしない拍手をした。
レトリスは作業台の上の練習板を見た。小さな焦げ跡が、今日の商店街の地図に見えた。赤く塗った場所。青く丸をつけた場所。失敗を消すのではなく、次に誰かが通るための印にする。
「その考え方は、悪くありません」
レトリスが言うと、エメットは少し背筋を伸ばした。
「悪くない、ですか」
「良い、です」
言い直すと、少年の顔に小さく明かりが灯った。
ガニーロは三度目の準備をした。
「次は、僕が横で数えます。急がなくていいです」
「はい」
エメットは、またはんだごてを持った。今度は持つ前に、台の位置を自分で確認した。肘を置き、部品の足を見て、息を吸う。
「一」
ガニーロが小さく数える。
はんだごての先が、部品の足と板に触れた。
「二」
銀色の線が近づく。
「三」
はんだが溶けた。
小さな光が、足元へ流れる。
「離します」
エメットは自分で言い、はんだを離し、次にはんだごてを離し、台に戻した。
銀色の盛り上がりは少し大きすぎた。見本ほど滑らかではない。けれど、部品の足にしがみつくように固まっている。
「ついた」
エメットが言った。
今度は、オリーンが我慢できなかった。
両手を上げ、声は出さずに、口だけで「おめでとう」と大きく動かす。
サポナーラは入口の外で、両腕を広げて謎の勝利姿勢を取った。通りかかった豆腐屋の女将が、それを見て一歩後ずさった。
「サポナーラさん」
レトリスが呼ぶと、彼はびくりとした。
「はい」
「通行人が困っています」
「俺はただ、少年の成長を全身で表現していただけです」
「半径を小さくしてください」
「成長表現の半径!」
エメットがとうとう笑った。
その笑いで、店の中の熱が少しやわらいだ。
練習を終えるころ、エメットの練習板には、大小さまざまな銀色の点が並んでいた。焦げたところもある。丸まったままの失敗もある。けれど、最後の三つは、ちゃんと部品の足元で固まっていた。
ガニーロは、いよいよ本番用の小さな基板を出した。
「今日は、ここまででもいいです」
エメットは迷った。
指先は疲れている。肩もこわばっている。けれど、目はまだ作業台から離れない。
「一つだけ、本物をつけたいです」
「分かりました。一つだけ」
レトリスは時計を見た。
「一つだけです。疲れた手で続けるのは危険です」
「はい」
エメットはまっすぐ返事をした。
本番用の基板には、小さなライトがつく予定だった。停電した時、床に置くと足元だけを照らす。強い光ではない。目立つ看板にもならない。ただ、暗い廊下で次の一歩を見せるための明かりだ。
エメットは抵抗を差し込んだ。
部品の足を少し開く。
はんだごてを持つ。
店の外の水滴が、ぽたり、と落ちた。
ガニーロは数えなかった。
エメットは自分で息を整え、自分でタイミングを見た。
「一」
少年自身の声だった。
「二」
熱が伝わる。
「三」
銀色が流れる。
「離します」
台に戻す音が、小さく鳴った。
部品は、ついていた。
少し斜めだった。
でも、ついていた。
エメットはしばらくそれを見つめ、手を膝の上で握った。
「できた」
その声は、さっきよりずっと小さかった。
小さいのに、店の奥まで届いた。
オリーンが棚から焼き菓子の袋を持ち上げた。
「休憩です。今度は本祝いです」
「一つ部品をつけただけです」
エメットが慌てて言うと、オリーンは首を振った。
「一つ目は、一つ目の時にしか祝えません」
その言い方に、誰も反論できなかった。
ガニーロははんだごての電源を切り、先が熱いままの道具に札を立てた。レトリスは窓をもう少し開け、作業台の上に散らばった細かい切れ端を紙へ集めた。サポナーラは入口の外から「祝っていいか」と手で尋ね、レトリスが小さくうなずくと、なぜか小声で万歳した。
焼き菓子は、ほろほろと崩れる素朴な味だった。
エメットは両手で一つ持ち、少しずつ食べた。指先に残る緊張が、甘さでゆっくりほどけていくようだった。
「ガニーロさん」
「はい」
「僕、いつも、誰かの後ろを歩いてました」
店の中が静かになった。
オリーンは菓子袋を閉じる手を止め、サポナーラは入口で背中を伸ばした。レトリスは作業台の切れ端を集めながら、顔だけを少年へ向けた。
「ついていくと、安心するんです。誰かが先に見てくれるから。危ない所も、歩いていい所も、分かるから」
エメットは、作りかけの避難灯を見た。
「でも、昨日の説明会で、地図を見る人たちを見てたら、先に歩く人がいないと困るんだって思いました」
ガニーロは何も言わなかった。
少年の言葉を、途中で支えようとしなかった。
エメットは焼き菓子の最後のかけらを食べ、膝の上で手を握った。
「ついていくだけじゃなくて、いつか先に歩きたいです」
店の奥で、古い時計が一つ鳴った。
小さな音だった。
けれど、レトリスにはそれが、遠くの避難灯が一つ点いた音に聞こえた。
ガニーロは、作りかけの基板を透明な箱に入れた。
「では、次はライトをつけるところまでやりましょう」
「はい」
「ただし、次回です。今日はここまで」
エメットは少し残念そうにしたが、すぐにうなずいた。
自分の疲れた指を見て、今はやめる理由を理解したのだろう。
レトリスはその様子を見て、さっきより小さな声で言った。
「それも、先に歩くための判断です」
エメットは顔を上げた。
「続けたい時に、止まることですか」
「そうです。無理に進んで誰かに助けられるより、止まって次に備えるほうが、前に進んでいる時もあります」
ガニーロが、なぜかこちらを見た。
「何ですか」
「いえ」
「あなたにも言っています」
「はい」
返事が早すぎて、レトリスは眉を寄せた。
オリーンが笑い、サポナーラが「俺にも刺さった」と胸を押さえる。
レトリスはため息をついたが、口元は思ったほど硬くならなかった。
片づけが終わるころ、外は夜になっていた。
商店街の外灯が一つずつ灯り、濡れた石畳に細い光を落としている。喫茶ペアカップの看板も、向かいの薬局の窓も、豆腐屋の白いのれんも、夜の中で場所を知らせていた。
エメットは透明な箱を鞄に入れず、両手で抱えた。
「持って帰る時は、走らないでください」
レトリスが言う。
「はい」
「家で勝手に続きをしないでください」
「はい」
「サポナーラさんに見せびらかして、外で万歳の練習をしないでください」
「それは俺への注意では?」
入口のサポナーラが言った。
「両方です」
エメットは今度こそ声を出して笑った。
ガニーロが店の戸を開ける。夜風が入り、はんだの匂いを少しずつ外へ連れていった。
エメットは一歩、外へ出た。
その一歩は、いつも誰かの後ろについていく時の歩幅より、ほんの少し大きかった。
「また来ます」
「待っています」
ガニーロが答えた。
エメットは商店街の外灯の下を歩いていく。途中で振り向き、作りかけの避難灯が入った箱を少しだけ掲げた。サポナーラが小さな半径で万歳し、オリーンが両手を振る。
レトリスは、店の前に立ったまま、その背中を見送った。
誰かの後ろを歩いていた少年が、いつか誰かの足元を照らす。
そのための最初の銀色の点が、今、透明な箱の中にある。
ガニーロが隣に立った。
「いい明かりになりそうです」
「まだ抵抗一つです」
「一つ目は、一つ目の時にしか祝えませんから」
「オリーンさんの言葉を、勝手に便利な道具にしないでください」
「すみません」
彼は本当に少し反省した顔をした。
その顔を見ると、レトリスはなぜか怒るタイミングを失った。
店の奥で、作業台の上に置かれた蒼い鞄が、ちり、と小さく鳴った。
レトリスの体が固まる。
「今のは」
ガニーロが振り返る。
鞄の内側から、細い紙がほんの少しだけ出ていた。湿気のせいか、端がくるりと丸まっている。
レトリスは素早く近づき、紙を引き出した。
短い文だった。
――小さな明かりは、後ろから来る人のために先へ置く。
その下に、少し間を空けて、もう一行。
――でも、はんだごては台に置け。持ったまま振り向くな。
レトリスは紙を見つめた。
ガニーロは、真面目な顔でうなずいた。
「安全指導としては正しいです」
「そこを評価しないでください」
オリーンが、こらえきれずに笑った。
サポナーラも入口の外で腹を抱えた。
レトリスは紙を折り、蒼い鞄の外ポケットに入れた。捨てるには、少し惜しかった。腹立たしいのに、今のエメットに似合う言葉でもあった。
青鞄電子堂の窓から、作業台の小さなライトが外へ漏れている。
地図の赤い線も、青い丸も、銀色の失敗跡も、まだ全部が未完成だった。
けれど、未完成だから次に触れる場所がある。
レトリスは店の戸を閉める前に、作業台をもう一度見た。
焦げ跡のある練習板。
一つだけ部品のついた避難灯。
白板の「サポナーラさんを近づけない」という文字。
そして、窓の外へ続く商店街の灯り。
誰かの後ろを歩く人が、次の誰かの前に立つ。
その順番が、今夜、この小さな店で一つだけ変わった。




