表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/52

第12話 ブルグリンデの正しい反対

 翌朝の現町は、雨が上がったばかりだった。


 商店街のアーケードには、夜のあいだに残った水滴が等間隔でぶら下がっている。魚屋の前では、青い発泡箱を洗う音がまだ眠そうに響き、古道具屋のシャッターには、細い水の筋が何本も残っていた。坂の上から差し込む朝日がそれらを照らすと、昨日の雨が町のあちこちに小さな線を引いたように見えた。


 レトリスは役所の会議室で、机いっぱいに資料を広げていた。


 古いハザードマップ。十年前の浸水範囲図。アリシャーが作った雨水ますの位置表。ガニーロの手書き地図。ロシルドゥアが書き込んだ、足の悪い住民が休める場所の一覧。


 そのすべてを並べると、現町はただの町ではなくなった。


 逃げやすい道。逃げにくい道。足元が暗くなる曲がり角。雨の日に蓋が浮きやすい側溝。急いでいると見落とす段差。杖をつく人が一度立ち止まる軒下。


 地図は、道だけを描くものではない。


 そこを歩く人の癖まで、薄い線で浮かび上がらせる。


 「危険区域の色、もっと濃くしたほうがいいです」


 レトリスは赤鉛筆を握った。


 斜線を増やそうとしたところで、向かいに座っていたアリシャーが、静かに紙を一枚差し出した。


 「濃くすると、店名が読めなくなります」


 「店名より危険箇所が優先です」


 「避難途中に店を目印にする人がいます」


 レトリスの鉛筆が止まった。


 アリシャーは、相変わらず声を荒らさない。机の上の紙も、彼の指先も、きちんと角度がそろっている。だが、淡々とした言葉は逃げない。こちらが強く出ても、すぐに引っ込まない。


 「例えば、この角の豆腐屋です。夜は看板灯が点きます。ここを目印に左へ曲がる住民が多い。危険区域の赤で全部覆うと、説明会で見せた時に目印が消えます」


 「では、危険を薄くするんですか」


 「危険は消しません。目印も消しません」


 アリシャーは、赤鉛筆の隣に青鉛筆を置いた。


 「危険な通りは赤。休める場所、目印になる店、手すりのある坂は青。そういう見せ方もあります」


 レトリスは青鉛筆を見た。


 青。


 蒼い鞄の色とは少し違う、役所の備品らしい硬い青だった。


 「青で塗ったら、安全だと誤解されませんか」


 「安全ではなく、使える場所と書きます」


 アリシャーは、あらかじめ作っていたらしい小さな凡例案を出した。


 赤――冠水しやすい道。


 黄――足元注意。


 青――雨宿り、休憩、目印になる場所。


 緑――車椅子やベビーカーが通りやすい道。


 レトリスは凡例案を見つめた。


 危険をはっきり示す。


 けれど、それだけではない。


 ブルグリンデが昨日言った言葉が、耳の奥に残っていた。


 怖がらせるだけでは、人は動けない。


 レトリスは赤鉛筆を置いた。代わりに青鉛筆を取る。


 その時、会議室の扉が二回叩かれた。


 「開いています」


 入ってきたのは、ブルグリンデだった。


 昨日と同じように背筋を伸ばし、手には商店街振興会の封筒を持っている。だが、昨日の雨傘はない。薄い灰色の上着の袖口だけが、少し濡れていた。きっと、軒下を選んで歩いてきたのだろう。


 「朝から失礼します」


 「今日の説明会は午後です」


 「知っています」


 ブルグリンデは、机の上に封筒を置いた。中から出てきたのは、商店街の店舗一覧だった。店名、営業時間、店主の名前、定休日、夜間に明かりが点くかどうか。手書きの補足が細かく入っている。


 レトリスは思わず顔を上げた。


 「これは」


 「昨日、あなたがたが帰ったあと、何軒か回りました」


 「何軒か、という量ではありません」


 「全部は回れていません」


 ブルグリンデは椅子に座らず、机の端に手を置いた。


 「危険区域の修正には、まだ反対です」


 レトリスの眉が動いた。


 アリシャーは何も言わず、紙の角を押さえている。


 「ただし、危険を調べることに反対しているわけではありません」


 「同じことでは?」


 「違います」


 ブルグリンデの声は、よく通った。商店街の朝のざわめきの中でも、聞き落とされない声だった。


 「赤く塗られた地図だけが先に広がれば、外の人はそこだけを見ます。ここは危ない町だと、簡単に言います。店の名前も、店主の顔も、毎朝掃除している人のことも見ません」


 レトリスは、返そうとした言葉を飲み込んだ。


 危ない町。


 その言い方が間違いだと、すぐには言い切れなかった。


 十年前の水害を知っている人ほど、その言葉に深く傷つく。


 けれど、危ないところを危なくないと塗るわけにはいかない。


 「だから、危険を薄めろということですか」


 「違うと言っています」


 ブルグリンデは店舗一覧の一枚を指で押さえた。そこには、喫茶「ペアカップ」の名前があった。


 「ヒルドバーグの店は、雨の日に軒下が広い。閉店後でも、非常時は入口の外灯を点けられる。オリーンなら、子どもを三人までなら店内で待たせられると言っていました」


 「……オリーンさんが?」


 「ええ。『五人いけます』と言ったので、三人に直しました。あの子は勢いで店ごと背負おうとするから」


 アリシャーが、ほんの少しだけ目を伏せた。笑いをこらえたように見えた。


 ブルグリンデは次の行を指した。


 「古道具屋の前は段差がありますが、店主が昼間なら木の板を出せるそうです。魚屋は朝が早いから、早朝の大雨なら誰かが気づきやすい。薬局は店内に椅子が二脚あります。豆腐屋は看板灯が強い。靴屋は奥にタオルを置いています」


 レトリスは、ブルグリンデの手元を見た。


 字はきれいだった。だが、急いで書いた場所は線が少し跳ねている。閉店後に回ったのなら、店主たちに頭を下げ、話を聞き、夜道を歩き直したはずだ。


 昨日、危険区域の色を変えることに反対していた人が。


 今朝、店ごとの灯りと椅子の数を持ってきた。


 「これを、どう使ってほしいんですか」


 レトリスが尋ねると、ブルグリンデは初めて口を閉じた。


 すぐに答えない。


 窓の外で、商店街のチャイムが短く鳴った。


 「危険な場所は、危険と書いてください」


 ブルグリンデは言った。


 「ただ、その横に、逃げるために使える場所も書いてください。店が全部、守られる側の荷物みたいに見える地図は嫌です。店主たちも、誰かを助ける側になれると示してください」


 レトリスの胸の中で、何かが静かに落ちた。


 反対。


 その二文字の中に、昨日まで見えていなかったものがあった。


 危険を隠したいだけではない。


 町を、ただ逃げる場所として扱われたくない。


 ここに残って店を開け、掃除をし、朝の挨拶を続けてきた人たちを、赤い斜線だけで塗りつぶされたくない。


 それは、正しい反対だった。


 少なくとも、レトリスが聞くべき反対だった。


 「分かりました」


 レトリスは言った。


 ブルグリンデの眉がわずかに上がる。


 「ずいぶん早い返事ですね」


 「危険区域は変えません」


 「そこは、早く返事しなくてよかったのに」


 「変えません」


 レトリスは青鉛筆を持った。


 「ですが、逃げるために使える場所を、別の色で重ねます。店名も消しません。外灯、椅子、軒下、手すり、段差、夜間に人がいる可能性。全部、分かる範囲で入れます」


 ブルグリンデは視線をそらした。


 「役所の地図に、そんな細かいことを入れられるんですか」


 「入れます」


 「また即答」


 「できない理由は、後でアリシャーさんに叱られながら調べます」


 アリシャーは無表情のまま、資料の束を一つ引き寄せた。


 「叱りはしません。縮尺の問題を説明します」


 「それは叱るより長いです」


 レトリスがそう言うと、ブルグリンデの口元がほんの少しだけ動いた。


 笑ったのか、ため息なのか。


 判断しづらい小さな動きだった。


 扉の向こうが急に騒がしくなった。


 「おはようございまーす! 差し入れでーす! 会議室の空気が硬いと聞いて、柔らかいパンを持ってきました!」


 オリーンの声だった。


 返事を待たずに扉が開き、紙袋を抱えたオリーンが入ってくる。その後ろから、ガニーロが古い折りたたみ式の地図台を抱えて現れた。さらにサポナーラが、なぜか雨合羽を半分だけ着た姿で続いた。


 「なんで半分だけ雨合羽なんですか」


 レトリスが聞くと、サポナーラは胸を張った。


 「説明会用の実演準備だ。右半身は濡れた時の人間、左半身は備えた時の人間」


 「今すぐ全部脱いでください。会議室でその説明は要りません」


 「厳しい!」


 「床が濡れます」


 「そこ! そこがもう防災!」


 サポナーラは言いながら、入口のマットにつまずいた。オリーンが紙袋を抱えたまま片足で支え、ガニーロが地図台を落とさないよう体をひねる。地図台の脚が開きかけ、会議室の空気を横切って、ぎし、と古い音を立てた。


 ブルグリンデが額に手を当てた。


 「この人たちを、誰かを助ける側として地図に載せて大丈夫なのかしら」


 「サポナーラさんだけは、凡例を分けますか」


 アリシャーが真顔で言った。


 「待て。俺だけ危険区域扱いにするな」


 「危険区域ではなく、注意喚起です」


 「もっと傷つく!」


 オリーンが紙袋を机に置き、にこにことパンを配り始めた。


 「ブルグリンデさん、昨日、商店街を回っていたんですね。うちの前も、夜に足音がしました」


 「あなた、窓から見ていたの」


 「はい。差し入れしようか迷ったんですが、ブルグリンデさんがすごく真剣な顔で歩いていたので、パンより地図が勝つ日だと思って」


 「何よ、それ」


 「パンが負ける日、めったにないです」


 オリーンは嬉しそうに言った。


 ブルグリンデは返事に困ったように、配られたパンを見下ろした。


 ガニーロは地図台を会議室の中央に立て、手書き地図を広げた。昨日の雨で少し波打っているが、破れてはいない。彼は地図の端を丁寧に押さえ、持ってきた小さなクリップで留めた。


 「ブルグリンデさんの店舗一覧、ここに重ねてもいいですか」


 「勝手にしなさい」


 「ありがとうございます」


 「勝手に、と言っただけです」


 「はい。勝手に助かります」


 「そういうところよ」


 ブルグリンデはそう言いながら、椅子に座った。


 レトリスはその動きを見逃さなかった。


 昨日は立ったまま言い切り、去っていった人が、今日は座った。


 話し合いから逃げない位置に、腰を下ろした。


 ガニーロは、店舗一覧の情報を地図に書き写し始めた。青鉛筆で、喫茶ペアカップの前に小さな丸を描く。


 「ここは、雨宿り」


 薬局に、椅子二脚。


 豆腐屋に、夜間の看板灯。


 古道具屋に、木の板。


 魚屋に、早朝の人の気配。


 靴屋に、タオル。


 一つ一つ書かれるたび、商店街が赤い危険区域だけではなくなっていく。


 逃げる場所。


 休む場所。


 誰かが声をかける場所。


 危険をなくすわけではない。


 危険の中で、人がどう動くかを描き足している。


 レトリスは、胸の中にあった硬い石が少しだけ角を失うのを感じた。


 「ガニーロさん」


 「はい」


 「この地図、午後までに清書できますか」


 「できます」


 即答したガニーロの横で、アリシャーがすぐに首を振った。


 「午後までには無理です」


 「できます」


 「縮尺確認、凡例整理、印刷範囲調整、道路名の確認が必要です」


 「じゃあ、午前中にそこまでやります」


 「午前中という言葉を、便利な箱のように使わないでください」


 オリーンが両手を打った。


 「では、午前中を三つに切りましょう。一つ目は地図、二つ目はパン、三つ目はサポナーラさんの雨合羽を脱がせる時間」


 「俺の扱いが雑だ!」


 「床が濡れるので」


 レトリスが言うと、サポナーラはしぶしぶ雨合羽を脱ぎ始めた。


 場が少し緩んだ。


 その緩みを見計らったように、ブルグリンデが口を開いた。


 「午後の説明会で、先に危険だけを言うのはやめて」


 レトリスは彼女を見た。


 「危険を後回しにはしません」


 「分かっているわ。だから、順番の話です」


 ブルグリンデは、地図の中央を指した。


 「まず、なぜ修正するのかを言う。誰かを責めるためではなく、次に逃げ遅れる人を減らすためだと。それから、赤い場所を示す。最後に、青い場所を示す。店や住民も役に立てると伝える。そうすれば、ただ町を悪く言われたとは受け取られにくい」


 レトリスは黙った。


 言葉の順番。


 彼女はいつも、危険を最初に置いてきた。


 それが一番大切だと思っていた。今も、危険を後ろへ隠すつもりはない。けれど、聞く側が最初に受け取るのが「あなたの町は危険です」という刃だけなら、その刃から身を守ろうとする。


 逃げる話をする前に、心が逃げてしまう。


 ブルグリンデの反対は、そこを見ていたのかもしれない。


 「……言い方は、考えます」


 レトリスが言うと、ブルグリンデは目を細めた。


 「昨日より、少しだけ役所の人らしくない返事ね」


 「褒めていますか」


 「判断は午後にします」


 オリーンが嬉しそうにパンをもう一つ差し出した。


 「では、午後までの仮祝いです」


 「祝いには早いわ」


 「仮なので」


 ブルグリンデはしばらくパンを見ていたが、やがて受け取った。


 その時、机の上に置かれていた蒼い鞄が、ちり、と鳴った。


 レトリスの肩が跳ねる。


 「今、何か」


 サポナーラが身を乗り出した。


 「来たか、心に雨水が入るやつ」


 「その呼び方を広めないでください」


 レトリスは鞄を押さえた。だが、内側の小さな基板は遠慮なく震えた。昨夜から湿気を吸ったのか、留め具の隙間で細い紙が押し出されていく。


 ガニーロが慌てて工具入れからピンセットを出した。


 「止めます」


 「止めてください」


 「もう出ています」


 「読み上げた人は、午後の説明会で雨合羽を着て壇上に立たせます」


 レトリスが言うと、サポナーラが口を閉じた。


 珍しく、すばやい判断だった。


 細い紙には、古いメモの切れ端のような文が印字されていた。文字はところどころかすれ、余白には意味のない点が散っている。


 ガニーロは紙を見て、困ったように眉を下げた。


 「読まないほうが」


 「見せてください」


 レトリスは紙を受け取った。


 そこには、こう書かれていた。


 ――赤だけでは、帰る場所が泣く。


 その下に、続けて印字される。


 ――青だけでは、危ない足元が笑う。


 さらに、少し間を空けて。


 ――だから、両方持って歩け。嫌いな人の傘みたいに。


 会議室が、妙な沈黙に包まれた。


 レトリスは紙を握りしめた。


 「最後の一行、要りません」


 ガニーロが小さく咳払いをした。


 「定型文の組み合わせが、まだ不安定ですね」


 「不安定で済ませないでください」


 「僕の傘の情報を、どこから拾ったのか」


 「そこを真剣に考えるのも腹が立ちます」


 オリーンが両手で口を押さえて震えていた。サポナーラは雨合羽を抱えたまま、笑いたいのを必死にこらえている。アリシャーは紙の文面をちらりと見て、凡例案の横に「赤・青併記」とだけ書き足した。


 ブルグリンデは、紙を見つめていた。


 笑わない。


 怒りもしない。


 ただ、赤と青の言葉を、ゆっくり胸の中へ入れているようだった。


 「その変な紙」


 彼女は言った。


 「時々、腹が立つほど的を射るのね」


 「本当に時々です」


 レトリスは即答した。


 ガニーロが、少しだけ笑った。


 午前中は、慌ただしく過ぎた。


 アリシャーが縮尺を整え、ガニーロが手書き地図を清書用に写し、レトリスが危険区域の文言を直した。ブルグリンデは店名の確認をし、オリーンはパンを配りながら、喫茶ペアカップの外灯の点灯時間を思い出してメモした。サポナーラは雨合羽を脱いだのに、今度は説明用の懐中電灯を三本も持ち、全部を同時に点けようとしてアリシャーに止められた。


 正午を過ぎるころ、地図台の上には、まだ不完全だが昨日よりずっと町らしい地図が広がっていた。


 赤い通り。


 黄色い段差。


 青い軒下。


 緑の坂道。


 ペアカップの横には、小さく「休憩可、外灯あり」と書かれている。豆腐屋には「夜間目印」。古道具屋には「板あり、要声かけ」。魚屋には「早朝在店多い」。


 レトリスは、地図を見下ろした。


 危険を隠さない。


 けれど、町を赤だけで終わらせない。


 それは、彼女一人ではたどり着けない地図だった。


 ブルグリンデが、椅子から立ち上がった。


 「午後、私が最初に話します」


 「反対意見としてですか」


 レトリスが尋ねると、ブルグリンデは店舗一覧を封筒に戻しながら言った。


 「反対した人間としてです」


 意味は似ているようで、違った。


 「危険区域を広げられるのは怖い。店主たちも不安だと、先に言います。その上で、店も逃げ道の一部になれるなら、話を聞いてほしいと伝えます」


 レトリスは息を吸った。


 「ありがとうございます」


 「お礼は早いわ」


 「では、午後の後にもう一度言います」


 「その頃には、言いたくなくなっているかもしれないわよ」


 「その場合でも、言います」


 ブルグリンデは少しだけ肩をすくめた。


 扉へ向かう前に、彼女はガニーロの手書き地図を一度振り返った。


 「あなた」


 「はい」


 「その地図、濡らさないようにしなさい」


 ガニーロは、昨日と同じように地図の端を押さえた。


 「はい」


 「町の評判より先に、紙が破れそうだもの」


 「そこですか」


 「そこからです」


 ブルグリンデはそう言って、会議室を出ていった。


 廊下へ消える足音は、昨日より少しだけ軽かった。


 レトリスは机の上の蒼い鞄を見た。


 鞄はもう鳴らない。内側の基板も、さきほどの紙を最後に黙っている。


 その代わり、赤鉛筆と青鉛筆が並んでいた。


 どちらか一つでは足りない。


 危険を示す赤。


 帰る場所を消さない青。


 レトリスは二本をまとめて握った。


 午後の説明会で、また言い争いになるかもしれない。住民全員がすぐにうなずくわけではない。危険区域を広げる話は、誰かの暮らしに直接触れる。店の看板、売り上げ、評判、十年前の記憶。簡単なものなど一つもない。


 それでも、聞かなければならない反対がある。


 それを聞いたうえで、引いてはいけない線もある。


 レトリスは地図台の前に立った。


 「午後は、最初に言います」


 ガニーロが顔を上げる。


 「何をですか」


 「この地図は、町を責めるためのものではありません、と」


 彼は、ゆっくりうなずいた。


 「はい」


 「それから、危険な場所を言います」


 「はい」


 「最後に、逃げるために使える場所を言います」


 「はい」


 「あなたは、横で余計なことを言わないでください」


 「分かりました」


 素直な返事だった。


 それがかえって不安で、レトリスは目を細めた。


 「本当に分かっていますか」


 「この話には続きがあって……」


 「今、使わないでください」


 ガニーロは口を閉じた。


 オリーンが吹き出し、サポナーラが机に額をぶつけそうになり、アリシャーが資料の端をそっと直した。


 レトリスはため息をついた。


 午後の説明会は、きっと簡単には終わらない。


 けれど、昨日よりは少しだけ、話す順番を知っている。


 赤だけではない。


 青だけでもない。


 現町の地図は、二色の鉛筆の間で、ようやく人の歩幅を取り戻し始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ