第11話 雨の日に開かない扉
翌朝、現町役所の資料室は、紙と湿気の匂いでいっぱいだった。
窓の外では、まだ雨が降っていない。けれど空は低く、商店街の屋根の色がいつもより濃く見えた。遠くの川沿いから吹いてくる風には、水を含んだ土の匂いが混じっている。レトリスは机の上に、旧西入口の管理台帳を三冊並べた。
一冊目は、表紙が硬い。二冊目は背表紙が裂けている。三冊目は、角が波打つように歪んでいた。
十年前の水害をくぐった紙は、まっすぐな顔をしていない。
「旧地下避難施設、通称サブマリン、西入口外扉。閉鎖年月、十年前の九月。理由、設備老朽化および安全確認未了」
レトリスは読み上げながら、手帳へ写した。
向かいではアリシャーが、台帳の図面と現在の都市計画図を重ねている。机の端には、ガニーロの手書き地図も置かれていた。紙の端が、何度も折られて柔らかくなっている。雨の日に水が走る向き、足の悪い人が立ち止まる場所、見落としそうな三段の石段。役所の正式な図面より、その手書きの方が、現町の呼吸に近かった。
「台帳では、外扉は鉄製です」
アリシャーが言った。
「ただし、内側に木製の断熱板があります。湿気で膨らむのは、その板かもしれません。枠が歪めば、外側から押しても開きません」
「避難路の扉が雨で開かない。最悪です」
「はい。晴れた日の確認だけでは見落とします」
レトリスは赤ペンを握り直した。
晴れた日の確認だけでは見落とす。
昨日、蒼い鞄から出てきた紙にも似たことが書かれていた。雨の日に開かない扉は、晴れの日に直しておく。言えない言葉も、晴れた日に少しだけ。
あの文を思い出すと、腹が立つ。腹が立つのに、捨てられない。手帳の内側には、昨日の細い紙が挟まっている。見えないように閉じてあるのに、そこだけ紙の厚みが違っていた。
資料室の扉が控えめに叩かれた。
「入ってもいいですか」
ガニーロの声だった。
「どうぞ。ただし、資料室の電灯は直さないでください」
「分かりました」
扉が開き、ガニーロが道具箱を持って入ってきた。
レトリスは目を細めた。
「その道具箱は何ですか」
「扉を見るための道具です」
「電灯を直すためではありませんね」
「違います」
「棚のきしみを直すためでもありませんね」
ガニーロは資料室の奥にある古い棚を一瞬見た。
「……今日は、違います」
「今日は、という言い方がすでに危険です」
アリシャーが図面から顔を上げずに、少しだけ息を漏らした。笑ったのか、紙をめくる音なのか、判別しにくい。
その後ろから、エメットが顔を出した。肩から小さな布袋を下げている。袋の口から、懐中電灯の先がのぞいていた。
「僕も行っていいですか」
「学校は?」
レトリスが聞くと、エメットは背筋を伸ばした。
「今日は午前だけです。先生に、現町の古い避難路を見学しますって言いました」
「見学ではありません。危険箇所の確認です」
「危険箇所の確認を、離れて見学します」
「言い直せばいいものではありません」
ガニーロがエメットの布袋を見た。
「ライトを持ってきたの?」
「はい。昨日、予備の電池も入れました。あと、煙が出ないように見直しました」
「えらい」
エメットの口元が少しだけ上がった。
レトリスはそのやり取りを見て、注意の言葉を飲み込んだ。子どもを危険な場所へ連れていくべきではない。だが、旧西入口の確認には、低い位置から見なければ分からない隙間がある。昨日の調査で、それはすでに分かっていた。
「扉には近づきすぎないこと。指示を聞くこと。勝手に触らないこと。濡れた場所を走らないこと」
「はい」
「返事だけで安心させないこと」
「はい。……あ、これは返事だけじゃないです」
オリーンがいれば、そこで手を叩いて笑っただろう。けれど資料室には、湿った紙の匂いと、図面を押さえるアリシャーの指だけがあった。
午前十時、四人は旧西入口へ向かった。
商店街の裏通りは、昨日より暗かった。雨はまだ落ちていないのに、側溝にはすでに水が集まり、細い流れを作っている。魚屋の軒下では、発泡スチロール箱が積まれ、店主が空を見上げていた。喫茶ペアカップの前を通ると、オリーンが扉から半身を出した。
「帰りに寄ってね。温かいの用意しとくから」
「業務中です」
レトリスが返すと、オリーンは笑顔のまま水筒を差し出した。
「じゃあ業務用のお茶」
「そんな分類はありません」
「ヒルドバーグさんが、冷えたら判断が雑になるって」
レトリスは反論しようとして、受け取った。水筒は温かかった。手のひらに熱が移る。
ガニーロが小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ガニーロくんは、また赤字になる修理を増やさないこと」
「努力します」
「努力じゃだめなやつだよ、それ」
オリーンは言うだけ言って、店へ戻った。扉の奥から、皿の重なる音がした。商店街は、今日も生活を続けている。雨が降りそうでも、扉が開かなくても、コーヒーは落ち、魚は並び、誰かの昼食は必要になる。
だからこそ、逃げ道がいる。
レトリスは水筒を鞄に入れようとして、蒼い鞄の内ポケットに指が触れた。
硬いものがある。
昨日もあっただろうか。いや、この鞄にはいろいろ入りすぎている。役所の書類、手帳、基板、欠けたペアカップ、母の古い裁縫箱。硬いものなど、いくらでもある。
けれど、その感触だけは妙に細かった。金属の棒のようで、先が少し広がっている。
「レトリスさん?」
ガニーロに呼ばれ、彼女は手を引いた。
「何でもありません」
旧西入口の坂へ入ると、空気が一段冷えた。
坂は、地図で見るより短い。だが、足で歩くと長い。三段の石段には薄い苔がついていて、エメットは言いつけどおり走らず、一段ずつ足を置いた。ガニーロは何も言わず、彼の少し後ろを歩いた。手を出さない。けれど、足が滑ればすぐ届く位置にいる。
レトリスはその距離を見て、十年前の雨音を思い出しかけた。
待っていた自分。来なかった少年。胸の中で何度も繰り返した言葉。
世界で一番嫌いな人。
唇の裏でその言葉が転がった時、遠くで雷が鳴った。
「急ぎましょう」
アリシャーが空を見た。
旧西入口の鉄扉は、昨日と同じ場所に沈んでいた。灰色の表面に赤茶色の錆が浮き、取っ手には南京錠が下がっている。扉の下には、昨日より濃い泥の線ができていた。湿気を吸った空気のせいか、扉は枠いっぱいに膨らんで見える。
ガニーロは道具箱を置き、扉に手を触れずに周囲を見た。
「下側の枠、押されています。内側の板が膨らんでいるか、扉自体が歪んでいるか」
「開けられますか」
レトリスが聞いた。
「許可がないので開けません。けれど、避難路として使える状態ではないです」
アリシャーが台帳の写しを確認した。
「正式には閉鎖済みです。ただ、古い地図には残っています。住民の中には、まだ逃げ道として覚えている人がいるかもしれません」
「閉鎖済みなのに、記憶の中では開いている」
レトリスは赤ペンのキャップを外した。
危険箇所。旧西入口外扉。雨天時に膨張、歪み。開閉困難。古い地図との齟齬。住民周知必要。
書いている途中で、ぽつ、と紙に雨粒が落ちた。
次の瞬間、雨は一気に音を増した。
細い雨ではない。坂の上から、白い糸を束ねたように降ってくる。石段の苔が色を濃くし、側溝の水が音を立てた。レトリスはクリップボードを胸に抱き、蒼い鞄を体の前へ寄せた。
「軒下へ」
アリシャーが近くの古い倉庫を示した。
だが、その前にエメットが小さな声を上げた。
「ここ、見えます」
「エメット、近づかないで」
レトリスが言うと、エメットは扉から一歩離れたまま、しゃがんでライトを点けた。
「触ってません。下の隙間から、中が少し」
ガニーロがすぐ横にしゃがんだ。エメットの肩に手を置かず、ライトの向きだけを見た。
「どこ?」
「右下です。泥で見えにくいけど、奥に丸いのが」
レトリスも傘を差しながら腰を落とした。扉の下の隙間は指一本分もない。そこへエメットのライトが細い光を差し込む。雨で跳ねた泥が光を遮ったが、たしかに奥に何かが見えた。
錆びた金具。
外側の南京錠とは別に、内側へ続く古い鍵穴のようなものがあった。丸い穴の横に、小さな切れ込み。縦に長く、先が少しだけ広い。
「内側の補助錠ですか」
アリシャーが言った。
「台帳には、通常錠と補助錠の二系統とあります。ただ、補助鍵の所在は空欄です」
レトリスは手帳へ書こうとして、指が止まった。
縦に長い。先が少し広い。小さな切れ込み。
さっき、蒼い鞄の内ポケットで触れた硬いものの形と似ている。
いや、偶然だ。
偶然に決まっている。
「レトリスさん」
ガニーロの声が、雨音の中で低く聞こえた。
彼は扉の隙間を見たまま、動かない。
「その形、どこかで見たことがある気がします」
レトリスは、鞄の肩紐を強く握った。
「古い鍵穴は似たものが多いです」
「そうですね」
「断定は危険です」
「はい」
ガニーロはうなずいた。けれど、目は扉ではなく、レトリスの蒼い鞄へ向いていた。
その視線が、鞄の布を通して内ポケットに届くようで、レトリスは半歩下がった。
雨はさらに強くなった。坂道を流れる水が、扉の下へ向かって集まる。ほんの数分で、泥の線は小さな水たまりになった。もし本当に避難しようとしてここへ来た人がいたら、鍵を探している間にも足元は濡れ、石段は滑り、後ろから水音が迫る。
レトリスは赤ペンで大きく囲んだ。
雨天時使用不可。代替経路必須。旧地図回収。周知急務。
ペン先が、紙を少し破った。
「戻りましょう」
アリシャーが言った。
「この雨では、これ以上の確認は危険です」
「まだ、鍵穴の寸法が」
「寸法は後日、許可を取って測ります。今ここにいる全員の足元が悪い」
その言い方は静かだったが、退かない重さがあった。
レトリスはクリップボードを閉じた。
「分かりました。撤収します」
エメットがライトを消そうとして、ふと手を止めた。
「ガニーロさん」
「どうしたの」
「扉の中、何か貼ってあります。字は読めないけど、青い……鞄みたいな絵」
ガニーロの肩が、ほんの少し動いた。
レトリスは再び隙間を覗こうとした。だが雨が泥を跳ね上げ、もう中は見えない。扉の向こうの青い絵は、水の揺れた光の中で消えた。
青い鞄。
胸の奥で、古い引き出しが勝手に開きかけた。
子どもの頃、紙に描いた鞄。光る線。迷子にならないように、音が鳴るように。避難所までの道を、暗くても分かるように。
誰と描いたのかは、考えなくても分かっている。
けれど、口に出すには雨が強すぎた。
四人は坂を引き返した。エメットは濡れた石段を慎重に上がる。ガニーロはその後ろを歩き、アリシャーは水の流れる方向を見ながら、何度も足を止めてメモをした。レトリスは最後尾で、蒼い鞄を胸に抱いた。
内ポケットの硬いものは、歩くたびに小さく当たる。
ちり。
今度は基板の音ではない。金属が布に触れる音だった。
商店街の軒下へ戻ると、サポナーラが大きな傘を二本抱えて待っていた。一本は普通の傘。もう一本は、骨が一本だけ妙に反り返っている。
「皆さん、無事ですか。緊急雨具支援です」
「その曲がった傘は何ですか」
レトリスが聞くと、サポナーラは胸を張った。
「風と対話した結果、個性的な形になりました」
「壊れています」
「言い方を変えれば、風向き専用です」
「壊れています」
エメットが小さく笑った。ガニーロも口元を緩めた。雨に濡れた重い空気が、少しだけ軽くなる。
その時、蒼い鞄の口元が、かすかに震えた。
レトリスはすぐに押さえた。
「出なくていいです」
「鞄に話しかけましたね」
サポナーラが言った。
「気のせいです」
「私も昔、売れない壺に話しかけたことがあります。翌日も売れませんでした」
「でしょうね」
押さえた指の下から、細い紙がにゅっと出てきた。
レトリスは敗北した気持ちで、それを引き抜いた。
――扉は鍵だけでは開かない。押す人、支える人、濡れた足元を照らす人。あと、曲がった傘を自信満々に差し出す人。
サポナーラが胸に手を当てた。
「私が入りました」
「入ってしまいましたね」
アリシャーが珍しくそう言った。
レトリスは紙を折った。笑っている場合ではない。旧西入口は危険だ。古い地図とのずれは、住民の命に関わる。内側の補助錠、青い鞄の絵、蒼い鞄の内ポケットにある金属。すべてが、十年前の水音へつながっていく。
それでも、曲がった傘を抱えて誇らしげに立つサポナーラと、濡れた前髪を指で払うエメットを見ていると、胸の中に少しだけ余白ができた。
怖さを消すためではない。
怖いまま、次の一歩を踏むための余白だった。
役所へ戻る途中、商店街振興会の事務所前で、ブルグリンデが待っていた。深い緑の傘を差し、足元には水しぶき一つ許さないような立ち姿だった。
「旧西入口を見に行ったそうね」
レトリスは濡れたクリップボードを抱え直した。
「はい。雨天時に使用できない可能性が高いです。周辺住民への説明と、代替経路の提示が必要です」
ブルグリンデの眉が動いた。
「その言い方を、そのまま配るつもり?」
「事実です」
「事実でも、出し方があるわ。危険危険と赤く塗れば、商店街に来る人は不安になる。古い避難路の話なんて、噂になれば尾ひれがつく」
雨音が、傘の上で細かく跳ねた。
レトリスは、赤ペンの入った胸ポケットへ指を当てた。
「危険な場所を危険と言わない地図は、地図ではありません」
「守りたいものがある人間の言葉を、そんなふうに切らないで」
ブルグリンデの声は、強かった。
怒りだけではない。恐れも混じっている。店の灯り、商店街の評判、十年前から積み重ねたやり直し。それらを両腕いっぱいに抱えたまま、誰にも落とすなと言っているようだった。
レトリスはすぐには返せなかった。
ガニーロが一歩前へ出るかと思ったが、出なかった。彼はただ、濡れた手書き地図を自分の上着の内側へ入れ、紙が破れないように守っている。
ブルグリンデはそれを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「明日の説明会、私も出ます」
「分かりました」
「言い方は、考えて」
「危険を消す言い方はしません」
「消せと言っているんじゃないわ」
ブルグリンデは傘を少し傾けた。
「怖がらせるだけでは、人は動けないと言っているの」
その言葉を残して、彼女は事務所へ戻った。
レトリスは雨の中に立ったまま、閉じた扉を見つめた。今度は鉄扉ではない。商店街振興会の事務所の扉だ。磨かれたガラスに、自分の顔が映っている。濡れた髪。硬い目。胸に抱えたクリップボード。
危険を言うだけでは足りない。
では、どう伝えればいいのか。
蒼い鞄の内ポケットで、金属がまた小さく鳴った。
ガニーロが、低い声で言った。
「レトリスさん」
「何ですか」
「あの鍵穴に似たもの、僕はたぶん、あなたの鞄で見ています」
レトリスは、蒼い鞄を抱く腕に力を込めた。
「見間違いです」
「そうかもしれません」
「そうです」
「でも、明日、晴れたら」
彼はそこで一度言葉を止めた。
この話には続きがあって。
そう言うのではないかと、レトリスは身構えた。
けれどガニーロは、その言葉を使わなかった。
「一緒に確かめましょう」
雨は、まだ降っていた。
レトリスは返事をしないまま歩き出した。返事をしないのに、ガニーロは隣へ並ばない。半歩後ろを歩く。傘の端から落ちる水が、二人の間に細い線を作った。
世界で一番嫌いな人。
その人は、今日も勝手に答えを急がなかった。
役所の玄関に着く直前、レトリスは蒼い鞄の内ポケットへ指を入れた。金属の先に触れる。細長い軸。少し広がった頭。小さな切れ込み。
引き抜こうとして、やめた。
まだ、雨の日だ。
開かない扉を無理にこじ開ける日ではない。
レトリスは鞄を閉じた。
鍵は、蒼い布の奥で黙ったままだった。




