表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/47

第11話 雨の日に開かない扉

 翌朝、現町役所の資料室は、紙と湿気の匂いでいっぱいだった。


 窓の外では、まだ雨が降っていない。けれど空は低く、商店街の屋根の色がいつもより濃く見えた。遠くの川沿いから吹いてくる風には、水を含んだ土の匂いが混じっている。レトリスは机の上に、旧西入口の管理台帳を三冊並べた。


 一冊目は、表紙が硬い。二冊目は背表紙が裂けている。三冊目は、角が波打つように歪んでいた。


 十年前の水害をくぐった紙は、まっすぐな顔をしていない。


 「旧地下避難施設、通称サブマリン、西入口外扉。閉鎖年月、十年前の九月。理由、設備老朽化および安全確認未了」


 レトリスは読み上げながら、手帳へ写した。


 向かいではアリシャーが、台帳の図面と現在の都市計画図を重ねている。机の端には、ガニーロの手書き地図も置かれていた。紙の端が、何度も折られて柔らかくなっている。雨の日に水が走る向き、足の悪い人が立ち止まる場所、見落としそうな三段の石段。役所の正式な図面より、その手書きの方が、現町の呼吸に近かった。


 「台帳では、外扉は鉄製です」


 アリシャーが言った。


 「ただし、内側に木製の断熱板があります。湿気で膨らむのは、その板かもしれません。枠が歪めば、外側から押しても開きません」


 「避難路の扉が雨で開かない。最悪です」


 「はい。晴れた日の確認だけでは見落とします」


 レトリスは赤ペンを握り直した。


 晴れた日の確認だけでは見落とす。


 昨日、蒼い鞄から出てきた紙にも似たことが書かれていた。雨の日に開かない扉は、晴れの日に直しておく。言えない言葉も、晴れた日に少しだけ。


 あの文を思い出すと、腹が立つ。腹が立つのに、捨てられない。手帳の内側には、昨日の細い紙が挟まっている。見えないように閉じてあるのに、そこだけ紙の厚みが違っていた。


 資料室の扉が控えめに叩かれた。


 「入ってもいいですか」


 ガニーロの声だった。


 「どうぞ。ただし、資料室の電灯は直さないでください」


 「分かりました」


 扉が開き、ガニーロが道具箱を持って入ってきた。


 レトリスは目を細めた。


 「その道具箱は何ですか」


 「扉を見るための道具です」


 「電灯を直すためではありませんね」


 「違います」


 「棚のきしみを直すためでもありませんね」


 ガニーロは資料室の奥にある古い棚を一瞬見た。


 「……今日は、違います」


 「今日は、という言い方がすでに危険です」


 アリシャーが図面から顔を上げずに、少しだけ息を漏らした。笑ったのか、紙をめくる音なのか、判別しにくい。


 その後ろから、エメットが顔を出した。肩から小さな布袋を下げている。袋の口から、懐中電灯の先がのぞいていた。


 「僕も行っていいですか」


 「学校は?」


 レトリスが聞くと、エメットは背筋を伸ばした。


 「今日は午前だけです。先生に、現町の古い避難路を見学しますって言いました」


 「見学ではありません。危険箇所の確認です」


 「危険箇所の確認を、離れて見学します」


 「言い直せばいいものではありません」


 ガニーロがエメットの布袋を見た。


 「ライトを持ってきたの?」


 「はい。昨日、予備の電池も入れました。あと、煙が出ないように見直しました」


 「えらい」


 エメットの口元が少しだけ上がった。


 レトリスはそのやり取りを見て、注意の言葉を飲み込んだ。子どもを危険な場所へ連れていくべきではない。だが、旧西入口の確認には、低い位置から見なければ分からない隙間がある。昨日の調査で、それはすでに分かっていた。


 「扉には近づきすぎないこと。指示を聞くこと。勝手に触らないこと。濡れた場所を走らないこと」


 「はい」


 「返事だけで安心させないこと」


 「はい。……あ、これは返事だけじゃないです」


 オリーンがいれば、そこで手を叩いて笑っただろう。けれど資料室には、湿った紙の匂いと、図面を押さえるアリシャーの指だけがあった。


 午前十時、四人は旧西入口へ向かった。


 商店街の裏通りは、昨日より暗かった。雨はまだ落ちていないのに、側溝にはすでに水が集まり、細い流れを作っている。魚屋の軒下では、発泡スチロール箱が積まれ、店主が空を見上げていた。喫茶ペアカップの前を通ると、オリーンが扉から半身を出した。


 「帰りに寄ってね。温かいの用意しとくから」


 「業務中です」


 レトリスが返すと、オリーンは笑顔のまま水筒を差し出した。


 「じゃあ業務用のお茶」


 「そんな分類はありません」


 「ヒルドバーグさんが、冷えたら判断が雑になるって」


 レトリスは反論しようとして、受け取った。水筒は温かかった。手のひらに熱が移る。


 ガニーロが小さく頭を下げた。


 「ありがとうございます」


 「ガニーロくんは、また赤字になる修理を増やさないこと」


 「努力します」


 「努力じゃだめなやつだよ、それ」


 オリーンは言うだけ言って、店へ戻った。扉の奥から、皿の重なる音がした。商店街は、今日も生活を続けている。雨が降りそうでも、扉が開かなくても、コーヒーは落ち、魚は並び、誰かの昼食は必要になる。


 だからこそ、逃げ道がいる。


 レトリスは水筒を鞄に入れようとして、蒼い鞄の内ポケットに指が触れた。


 硬いものがある。


 昨日もあっただろうか。いや、この鞄にはいろいろ入りすぎている。役所の書類、手帳、基板、欠けたペアカップ、母の古い裁縫箱。硬いものなど、いくらでもある。


 けれど、その感触だけは妙に細かった。金属の棒のようで、先が少し広がっている。


 「レトリスさん?」


 ガニーロに呼ばれ、彼女は手を引いた。


 「何でもありません」


 旧西入口の坂へ入ると、空気が一段冷えた。


 坂は、地図で見るより短い。だが、足で歩くと長い。三段の石段には薄い苔がついていて、エメットは言いつけどおり走らず、一段ずつ足を置いた。ガニーロは何も言わず、彼の少し後ろを歩いた。手を出さない。けれど、足が滑ればすぐ届く位置にいる。


 レトリスはその距離を見て、十年前の雨音を思い出しかけた。


 待っていた自分。来なかった少年。胸の中で何度も繰り返した言葉。


 世界で一番嫌いな人。


 唇の裏でその言葉が転がった時、遠くで雷が鳴った。


 「急ぎましょう」


 アリシャーが空を見た。


 旧西入口の鉄扉は、昨日と同じ場所に沈んでいた。灰色の表面に赤茶色の錆が浮き、取っ手には南京錠が下がっている。扉の下には、昨日より濃い泥の線ができていた。湿気を吸った空気のせいか、扉は枠いっぱいに膨らんで見える。


 ガニーロは道具箱を置き、扉に手を触れずに周囲を見た。


 「下側の枠、押されています。内側の板が膨らんでいるか、扉自体が歪んでいるか」


 「開けられますか」


 レトリスが聞いた。


 「許可がないので開けません。けれど、避難路として使える状態ではないです」


 アリシャーが台帳の写しを確認した。


 「正式には閉鎖済みです。ただ、古い地図には残っています。住民の中には、まだ逃げ道として覚えている人がいるかもしれません」


 「閉鎖済みなのに、記憶の中では開いている」


 レトリスは赤ペンのキャップを外した。


 危険箇所。旧西入口外扉。雨天時に膨張、歪み。開閉困難。古い地図との齟齬。住民周知必要。


 書いている途中で、ぽつ、と紙に雨粒が落ちた。


 次の瞬間、雨は一気に音を増した。


 細い雨ではない。坂の上から、白い糸を束ねたように降ってくる。石段の苔が色を濃くし、側溝の水が音を立てた。レトリスはクリップボードを胸に抱き、蒼い鞄を体の前へ寄せた。


 「軒下へ」


 アリシャーが近くの古い倉庫を示した。


 だが、その前にエメットが小さな声を上げた。


 「ここ、見えます」


 「エメット、近づかないで」


 レトリスが言うと、エメットは扉から一歩離れたまま、しゃがんでライトを点けた。


 「触ってません。下の隙間から、中が少し」


 ガニーロがすぐ横にしゃがんだ。エメットの肩に手を置かず、ライトの向きだけを見た。


 「どこ?」


 「右下です。泥で見えにくいけど、奥に丸いのが」


 レトリスも傘を差しながら腰を落とした。扉の下の隙間は指一本分もない。そこへエメットのライトが細い光を差し込む。雨で跳ねた泥が光を遮ったが、たしかに奥に何かが見えた。


 錆びた金具。


 外側の南京錠とは別に、内側へ続く古い鍵穴のようなものがあった。丸い穴の横に、小さな切れ込み。縦に長く、先が少しだけ広い。


 「内側の補助錠ですか」


 アリシャーが言った。


 「台帳には、通常錠と補助錠の二系統とあります。ただ、補助鍵の所在は空欄です」


 レトリスは手帳へ書こうとして、指が止まった。


 縦に長い。先が少し広い。小さな切れ込み。


 さっき、蒼い鞄の内ポケットで触れた硬いものの形と似ている。


 いや、偶然だ。


 偶然に決まっている。


 「レトリスさん」


 ガニーロの声が、雨音の中で低く聞こえた。


 彼は扉の隙間を見たまま、動かない。


 「その形、どこかで見たことがある気がします」


 レトリスは、鞄の肩紐を強く握った。


 「古い鍵穴は似たものが多いです」


 「そうですね」


 「断定は危険です」


 「はい」


 ガニーロはうなずいた。けれど、目は扉ではなく、レトリスの蒼い鞄へ向いていた。


 その視線が、鞄の布を通して内ポケットに届くようで、レトリスは半歩下がった。


 雨はさらに強くなった。坂道を流れる水が、扉の下へ向かって集まる。ほんの数分で、泥の線は小さな水たまりになった。もし本当に避難しようとしてここへ来た人がいたら、鍵を探している間にも足元は濡れ、石段は滑り、後ろから水音が迫る。


 レトリスは赤ペンで大きく囲んだ。


 雨天時使用不可。代替経路必須。旧地図回収。周知急務。


 ペン先が、紙を少し破った。


 「戻りましょう」


 アリシャーが言った。


 「この雨では、これ以上の確認は危険です」


 「まだ、鍵穴の寸法が」


 「寸法は後日、許可を取って測ります。今ここにいる全員の足元が悪い」


 その言い方は静かだったが、退かない重さがあった。


 レトリスはクリップボードを閉じた。


 「分かりました。撤収します」


 エメットがライトを消そうとして、ふと手を止めた。


 「ガニーロさん」


 「どうしたの」


 「扉の中、何か貼ってあります。字は読めないけど、青い……鞄みたいな絵」


 ガニーロの肩が、ほんの少し動いた。


 レトリスは再び隙間を覗こうとした。だが雨が泥を跳ね上げ、もう中は見えない。扉の向こうの青い絵は、水の揺れた光の中で消えた。


 青い鞄。


 胸の奥で、古い引き出しが勝手に開きかけた。


 子どもの頃、紙に描いた鞄。光る線。迷子にならないように、音が鳴るように。避難所までの道を、暗くても分かるように。


 誰と描いたのかは、考えなくても分かっている。


 けれど、口に出すには雨が強すぎた。


 四人は坂を引き返した。エメットは濡れた石段を慎重に上がる。ガニーロはその後ろを歩き、アリシャーは水の流れる方向を見ながら、何度も足を止めてメモをした。レトリスは最後尾で、蒼い鞄を胸に抱いた。


 内ポケットの硬いものは、歩くたびに小さく当たる。


 ちり。


 今度は基板の音ではない。金属が布に触れる音だった。


 商店街の軒下へ戻ると、サポナーラが大きな傘を二本抱えて待っていた。一本は普通の傘。もう一本は、骨が一本だけ妙に反り返っている。


 「皆さん、無事ですか。緊急雨具支援です」


 「その曲がった傘は何ですか」


 レトリスが聞くと、サポナーラは胸を張った。


 「風と対話した結果、個性的な形になりました」


 「壊れています」


 「言い方を変えれば、風向き専用です」


 「壊れています」


 エメットが小さく笑った。ガニーロも口元を緩めた。雨に濡れた重い空気が、少しだけ軽くなる。


 その時、蒼い鞄の口元が、かすかに震えた。


 レトリスはすぐに押さえた。


 「出なくていいです」


 「鞄に話しかけましたね」


 サポナーラが言った。


 「気のせいです」


 「私も昔、売れない壺に話しかけたことがあります。翌日も売れませんでした」


 「でしょうね」


 押さえた指の下から、細い紙がにゅっと出てきた。


 レトリスは敗北した気持ちで、それを引き抜いた。


 ――扉は鍵だけでは開かない。押す人、支える人、濡れた足元を照らす人。あと、曲がった傘を自信満々に差し出す人。


 サポナーラが胸に手を当てた。


 「私が入りました」


 「入ってしまいましたね」


 アリシャーが珍しくそう言った。


 レトリスは紙を折った。笑っている場合ではない。旧西入口は危険だ。古い地図とのずれは、住民の命に関わる。内側の補助錠、青い鞄の絵、蒼い鞄の内ポケットにある金属。すべてが、十年前の水音へつながっていく。


 それでも、曲がった傘を抱えて誇らしげに立つサポナーラと、濡れた前髪を指で払うエメットを見ていると、胸の中に少しだけ余白ができた。


 怖さを消すためではない。


 怖いまま、次の一歩を踏むための余白だった。


 役所へ戻る途中、商店街振興会の事務所前で、ブルグリンデが待っていた。深い緑の傘を差し、足元には水しぶき一つ許さないような立ち姿だった。


 「旧西入口を見に行ったそうね」


 レトリスは濡れたクリップボードを抱え直した。


 「はい。雨天時に使用できない可能性が高いです。周辺住民への説明と、代替経路の提示が必要です」


 ブルグリンデの眉が動いた。


 「その言い方を、そのまま配るつもり?」


 「事実です」


 「事実でも、出し方があるわ。危険危険と赤く塗れば、商店街に来る人は不安になる。古い避難路の話なんて、噂になれば尾ひれがつく」


 雨音が、傘の上で細かく跳ねた。


 レトリスは、赤ペンの入った胸ポケットへ指を当てた。


 「危険な場所を危険と言わない地図は、地図ではありません」


 「守りたいものがある人間の言葉を、そんなふうに切らないで」


 ブルグリンデの声は、強かった。


 怒りだけではない。恐れも混じっている。店の灯り、商店街の評判、十年前から積み重ねたやり直し。それらを両腕いっぱいに抱えたまま、誰にも落とすなと言っているようだった。


 レトリスはすぐには返せなかった。


 ガニーロが一歩前へ出るかと思ったが、出なかった。彼はただ、濡れた手書き地図を自分の上着の内側へ入れ、紙が破れないように守っている。


 ブルグリンデはそれを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。


 「明日の説明会、私も出ます」


 「分かりました」


 「言い方は、考えて」


 「危険を消す言い方はしません」


 「消せと言っているんじゃないわ」


 ブルグリンデは傘を少し傾けた。


 「怖がらせるだけでは、人は動けないと言っているの」


 その言葉を残して、彼女は事務所へ戻った。


 レトリスは雨の中に立ったまま、閉じた扉を見つめた。今度は鉄扉ではない。商店街振興会の事務所の扉だ。磨かれたガラスに、自分の顔が映っている。濡れた髪。硬い目。胸に抱えたクリップボード。


 危険を言うだけでは足りない。


 では、どう伝えればいいのか。


 蒼い鞄の内ポケットで、金属がまた小さく鳴った。


 ガニーロが、低い声で言った。


 「レトリスさん」


 「何ですか」


 「あの鍵穴に似たもの、僕はたぶん、あなたの鞄で見ています」


 レトリスは、蒼い鞄を抱く腕に力を込めた。


 「見間違いです」


 「そうかもしれません」


 「そうです」


 「でも、明日、晴れたら」


 彼はそこで一度言葉を止めた。


 この話には続きがあって。


 そう言うのではないかと、レトリスは身構えた。


 けれどガニーロは、その言葉を使わなかった。


 「一緒に確かめましょう」


 雨は、まだ降っていた。


 レトリスは返事をしないまま歩き出した。返事をしないのに、ガニーロは隣へ並ばない。半歩後ろを歩く。傘の端から落ちる水が、二人の間に細い線を作った。


 世界で一番嫌いな人。


 その人は、今日も勝手に答えを急がなかった。


 役所の玄関に着く直前、レトリスは蒼い鞄の内ポケットへ指を入れた。金属の先に触れる。細長い軸。少し広がった頭。小さな切れ込み。


 引き抜こうとして、やめた。


 まだ、雨の日だ。


 開かない扉を無理にこじ開ける日ではない。


 レトリスは鞄を閉じた。


 鍵は、蒼い布の奥で黙ったままだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ