6 拭えない警戒心
「おはようございます、ルクレティア様」
メイド長の落ち着いた声に続いて、数名のメイドたちが私に向かい一斉に礼を取る。
「おはよう……」
まだ眠たげな目を指でこすりながら、私はふらりと身を起こした。身体の芯から、重たく疲労がこびりついているような感覚。
昨日は本当に疲れた。全身が筋肉痛で、座っているだけでも辛い。
凱旋式だけでも十分に疲れる行事だったけれど、本当の疲れの原因はその後のこと。
あの後、私は大号泣をかましてしまった。
自分でも制御できないほどに感情があふれてきて、気がつけば彼の腕の中で嗚咽を漏らしていた。
さすがの皇子も慌てていたようだったが、そんなことを気にする暇もなく私は彼に抱きかかえられ、号泣したまま皇宮へ帰った。
案の定、皇宮では皇子妃が居ないことに大騒ぎになっていた。
既に式がしめられていた皇宮には、皇宮内の使用人や騎士だけではなく、最後に顔を合わせたロザリア公爵の姿もあった。
私を抱き抱える皇子に向かって、公爵は何かをごちゃごちゃと叫んでいたような気もするが自分のことで必死だったせいで全く覚えていない。
『ルクレティア様?! アルセイン皇子殿下まで!』
『どうしてお二人が一緒に……』
戦地から凱旋したばかりの帝国の英雄が、大号泣している悪名高い異国の姫を腕に抱きかかえたまま戻ってくるという異様な光景は当然のように瞬く間に噂となって広がった。
しかし、さすがは口達者なアルセイン皇子。彼は「故郷を思い出して涙していた皇子妃を慰めていた」と言ってのけ、その場をうまく丸め込んでいた。
「ルクレティア様……」
「はっきり言ってくれて構わないわ。すっごくブサイクな顔をしてるって、自分でも分かってるから」
そして、昨夜の出来事の名残は噂だけには収まらなった。
私は恥ずかしげもなく、自分はそれなりに整った顔立ちをしていると自負していた。
しかし今、鏡台に映っているのは目元が腫れて真っ赤になったひどい有様の自分。それはもう、なんともブサイクな少女が映っているではないか。
「すぐに冷たい水に浸したタオルをお持ちいたしますね」
気まずそうに視線を泳がせながらも、メイドは慌てて身を翻して部屋を出て行った。
この違和感はなんだろう?
メイドたちの目線が今までより少し優しい気がする。もしかして、アルセイン皇子と私のことを勘違いしているのだろうか?
確かに、昨夜の騒ぎをそのまま見れば、そう思われても仕方がないかもしれない。
故郷を思い出して涙する妃を、皇子が優しく慰めたと聞けば、それはもう随分とロマンティックに思える。
だけど残念ながら、私たちはあなたたちの想像する関係と真逆よ!
昨日の私がどうかしていたことは認めるけれど、あっちだって突然変なことを言い出したのが悪いんじゃない。
「ルクレティア様!」
「わっ! 突然大声を出したりしてどうしたのよ……なにかあったの?」
「そ、それが、皇子殿下が朝食を一緒にとのご連絡がありまして……!」
先ほど目を冷やすためのタオルを取りに行ったメイドが大声を上げながら戻ってくると、頬をわずかに赤らめ、少しだけ浮き立つような声色でそう告げる。
皇子が、私と朝食を……?
面倒なことになる未来しか見えない。けれど、だからといって私にはそれを断る権利などない。
恐らく、昨夜のあれこれについて叱責を受けることになるのだろう。
誰かから叱られるという状況はあまり気が進まないが、面倒なことを後回しにして良かった試しもない。
「わかったわ。準備ができたらすぐに向かうとお伝えして」
「まあ!」
メイドたちの表情が一斉に輝く。誰も何も言わないが、その頬は明らかに赤らみ、目元には喜びとも戸惑いともつかない感情が滲んでいた。
「……どうかしたの?」
「いえっ! すぐにそうお伝えいたしますね」
「まあ大変、ドレスはどれにいたしましょうか!」
「先週に届いたレディー・ポンパディユールのドレスが……」
「ドレスなんて何でもいいわよ」
面倒そうに言い放った私の言葉が全く聞こえていないのか、意気揚々と楽しそうにドレスやらアクセサリーやらを用意し始めるメイドたち。
どんな素敵なドレスだってこのパンパンに腫れた顔に着せれば、馬子にも衣装状態になると思うけどね。
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「帝国の光、アルセイン・ディ・ヴァレンツィア皇子殿下にご挨拶申し上げます」
「君は……誰だ?」
「…………」
顎に手を添えて、こてんっと小さく首を傾げたアルセイン皇子。
あなたは私をバカにするために呼んだの?
「ははっ、ただの冗談だ。謝るからそんなに怖い顔をしないでくれ」
怖い顔ってなによ。私は元からこんな顔よ。
「しかし、どうしてそんなことになったんだ? テレジアンの姫は悪名の高さと同じくらい非常に美しい姫だと聞いていたのだが、昨日の君は幻だったのだろうか」
「それをいうなら、あなただって昨日の方がずっと素敵に見えましたよ」
「それは光栄だな」
相変わらず皮肉じみた爽やかな笑みを浮かべたアルセイン皇子は、私に席に着くように促した。
「突然呼び出してすまない」
「いえ、とんでもございません」
静かに答えながら、私はスカートの裾を整えて椅子に腰を下ろした。
テーブルの向こうにいる彼の顔を真正面から見る勇気はまだない。視線を皿へと落とし、銀食器をそっと手に取る。
……本題には、いつ入るのだろう。
こんなふうに誰かから朝食に誘われたのは生まれて初めてだった。
警戒心は拭えない。心の警告音とでも言おうか? 胸の内で、激しい緊張が絶えず脈打っていた。
とはいえ、目の前の料理は否応なく食欲を刺激してくる。エビと牡蠣をクリームで煮込んだ海鮮料理は、朝食にしては重たそうに見えるが実際に口にしてみると、さっぱりとした白ワインとレモンの風味が効いていて体は自然に受け入れた。
横に添えられたバケットと一緒に食べると、それはもう絶品だった。
「昨夜は随分泣かせてしまったようだし、改めて謝罪をしようと思ったんだ。お詫びに何か贈り物をさせてくれ。欲しいものはあるか?」
謝罪。その言葉が耳に届いた瞬間、思わず手に持っていた食器を落としそうになった。
「謝罪って……まさか、皇子が私に?」
「それ以外にあるのか?」
「……てっきり私は、あなたから謝罪を要求されるかと……」
「謝罪? 君はなにか謝罪が必要なことでも仕出かしたのか」
それを言うなら、あなたは私に何をしたっていうの? ……まさか私のことを試しているの?
優しさに見せかけた罠なのか、それとも本当の気遣いなのか。どちらにしても、その真意を見誤れば私はまた傷つくだけだ。
慎重に、慎重にならなくては……。
「にしても、自ら謝罪に来るような姫が悪女だとは笑わせるな」
「ええ、どうぞ笑ってください。結局私はいつも嘲笑の的なので」
「褒めているんじゃないか」
私には貶しの言葉にしか聞こえないけど?
何が楽しいのか、彼はクスクスと笑いながら黄金色の液体が入ったグラスをぐいっと飲み込した。
しかし、それすらも絵になっているのだから不思議なものだ。
なんだか、不思議な気持ちになる。
誰かとこんなふうに会話をしながら食事をするのは初めてだから、違和感でしかない。
テレジアン王国でも正式な晩餐会以外で誰かと食事をともにしたのは、結婚の話を告げられたあの一度きり。
「私を信じるだなんて、あなたを愛する人々が聞いたらきっと笑うでしょうね」
「笑うものは笑わせておけばいい。俺は何があっても、家族の言葉を信じる」
やけに真剣な眼差しでそう言ったアルセイン皇子。
「そうですか」
皇族という、孤独と計算に満ちた世界に生きる者がこんなにも家族思いなところも意外だが、それ以上に私のことを妻として、家族として認めてくれていることに驚いた。
それは、私にとってあまりにも温かすぎる言葉だった。
思わず指先が震えるのを、スカートをそっと握りしめて隠した。
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朝食後、すぐに仕事に向かったアルセイン皇子を見送り、私は自分の住む皇子妃宮、エメラルド宮へと帰った。
そこで私を待っていたのは、意外な人物だった。
「だから早く連れてきてって言ってるじゃない!」
「皇女様、ですから先程から申し上げているとおりルクレティア様は……」
今朝、私の準備を手伝っていた見慣れた顔のメイドと、豪華なドレスを身にまとった、まだ幼い少女が言い争いをしていた。
「一体何ごとですか?」
「ルクレティア様!」
私が声を掛けると、パアッと分かりやすく安心したように顔を明るし、胸を撫で下ろしたメイド。
「……ルクレティア?」
そして、私の名前を小さく復唱した少女。
ふわりと揺れるドレスの裾とともにこちらへ歩み寄る姿には堂々たる威厳すらある。
これは、皇族の人間が持っている特有の重々しいオーラ。
「ごきげんよう、皇子妃。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。ヴァレンツィア帝国第一皇女、アリステア・ディ・ヴァレンツィアです」
淡いピンク色のふわふわとウェーブがかった、腰まで伸びたロングヘアーに、皇子と皇帝よりも少し薄い水色の瞳。
皇女はフリルと薔薇の刺繍があしらわれたイエロードレスの裾を両手で掴み、優雅に一礼してみせる。
まだ若いはずなのに、内に秘めた視線は鋭い。にこやかに見開いた瞳の奥から、こちらを値踏みするような意志がひしひしと伝わってくる。
「まあ、こちらこそご挨拶が遅くなり申し訳ございません皇女殿下。それで、突然どうしてエメラルド宮にいらっしゃったのですか?」
「エメラルド宮の用なんて、あなたに会いに来た以外にないではありませんか。テレジアン王国の姫、ルクレティア姫にどうしてもお会いしたかったのです」
「昨日の凱旋式には体調不良で出席されていなかったと思うのですが、もう体調はよろしいのでしょうか」
「ええ、それはもうすっかりよくなりました。ところで、興味深い噂を耳にしたのですが……昨夜は、皇子殿下と何処かへ行っていたとか?」
愛らしい笑顔のまま、冷ややかな視線とともにそう問いかけてきたアリステア皇女。
分かりやすく悪意を持った視線を向けてくるものだから、てっきりテレジアン王国に居た頃の話やそういう噂の方を聞いてくるかと思えば、まさか昨日の出来事だったとは。
「まさか皇女の耳にまで届いているとは、お恥ずかしい限りです。故郷を思い出してといいますか、エメラルド庭園で泣いているところをアルセイン皇子殿下に見つかり、慰めていただいていたんです」
「へえ……お二人は初対面のはずなのに、随分と仲がよろしいようですね?」
「ただ皇子がお優しい方なだけですよ」
「ええ、まあ、そうでしょうね」
当然のように言い放った皇女に、ピクリと頬が動いた。
まさかこの子、ただお兄様のことが大好きなだけなのでは……? 悪い噂しか聞かない女が大好きなお兄様と仲良くしているのが気に食わないってところかしら?
「アリステア皇女はアルセイン皇子のことをとても慕っていられるのですね」
「そ、そんなことありませんわ!」
案の定、図星だったのか彼女はぱっと顔を真っ赤にして否定してきた。
耳まで赤く染めて否定する姿は、年相応に愛らしく見えなくもない。
「恥ずかしがることありませんよ。お二人はたった二人の兄妹なのですから。羨ましいです。きっと、アルセイン皇子も愛らしい皇女のことを大切に想って……」
「そんなことないって言ってるでしょ!!」
突如、鋭い叫び声が私の言葉を遮った。
廊下に響き渡るほどの大声に、側仕えの者たちが思わず息を呑むのがわかる。
言い放った後に、ハッとした顔をしたアリステア皇女が急いで言葉を続けた。
「コホンッ、すみません。まだ体調が優れないようです。無礼な真似を働いたことをどうかお許しください」
「いえ……こちらこそすみませんでした、皇女」
少し調子に乗ったかもしれない。感情をあまり表に出さない貴族とばかり話しているせいか、コロコロと表情が変わるアリステア皇女が珍しさを覚え、愛らしくってついからかってしまった。
昨日のことといい、今日のことといい、私はどうかしてしまったのだろうか?
いけない、いけない。しっかりしなくては。
「今日は、皇子妃のことをお誘いにきたのです」
「お誘い……ですか?」
「はい。私、アリステア・ディ・ヴァレンツィアの開くお茶会へのお誘いです」
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