5 ルクレティア
こんなにも時間が経っていれば、私が部屋に戻ってないことにみんな気づき始めたはず。
戻ったとき、どんな顔をして迎えられるのだろう。無言の非難か、好奇の視線か、それとも質問攻めか。
はあ……なんだか疲れたわね。知らない国で、知らない人たちに囲まれて。
いくら皇子妃だとは言っても、所詮は愛のない結婚で結ばれた政略結婚。
この国の人々から見れば、私は問題大アリの異国の姫。
みんなが私を嫌うのは必然的なこと。恨むつもりも咎めるつもりもない。
「姫は追いかけっこが好きなのか? それともこれは、テレジアンの伝統的な挨拶か?」
「そ、そんなわけないでしょ! お願いだから、ついてこないでください!」
それなのに、一体どうしてこんなことになってしまったのか……。
カルロッタ嬢とアルセイン皇子が庭園を去ったのを確認してから、私はそっとエメラルド庭園を後にした。
人目を避けながら急いで部屋へと戻ろうとした。
しかし、不運にも廊下を曲がった先で、アルセイン皇子と鉢合わせてしまった。
今宵の主役である皇子がどうしてこんなところにいるのか。そう疑問が浮かぶ前に、足が無意識のうちに彼から逃げ出していた。
普通なら、頭のおかしい女が走り去って行った。それだけで済む話なのに……。
それなのに、彼は走り去る私を追いかけてきた。
十五分以上もの間……。
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「行き止まりだな。そろそろ諦めたらどうだ?」
「はあっ、はあ……! もう、しつこいです!」
息は乱れて心も体も限界な私に反し、アルセイン皇子は涼しい顔のまま私を見下ろしていた。
「どうして逃げる」
「どうして追いかけるのですか!」
「君に聞きたいことがあるからだ」
先ほどまでどこか愉快そうに吊り上がっていた口元が、すっと真剣なものへ変わる。
「……聞きたいこと、ですか?」
「ああ」
聞きたいこと。それがなんなのか分かっていたから、私はあなたを避けていた。
夜に城を抜け出していたことがバレてしまうのが怖いとか、そんな話ではない。
私みたいな人間が夜に城を抜け出したところで、「ああ、やっぱりか」とさらに呆れられてしまうだけだもの。
「どこへ行っても俺にかけられるのは慰めの言葉ばかり。おかしいと思わないか? せっかく戦地から帰り、姫を妻として迎えたのに。本来なら祝福の言葉をかけられるべきだ」
……ほらね、だから嫌だったのよ。
「陛下にすら励ましの言葉をかけられた始末だ。一体、どうすればそこまで悪名高くなれるんだ?」
「……さあ、ここに来てから誰とも深くかかわっていないので何とも言えませんけど……」
これでも、身の程は弁えているつもりだ。
私がどうしてこんなにも悪名高いか? そんなもの、答えは一つしかない。
「皇子。私はテレジアンの姫です。その意味が分かりますか?」
「……いや」
「そうですか。でも、あなただって噂くらいは聞いたことありますよね?」
現に、あなたの親しい令嬢が親身に教えてくれていたじゃない。
いかに「私」という存在が醜いものなのか。
「最低最悪の悪女。傲慢で、我儘で、とっても捻くれたバカなお姫様。テレジアンの姫と言われて浮かぶのは、そのあたりでしょうか? ああ、そういえば我儘姫なんて異名をつけられたこともありましたね」
いざ自分で口にしてみると、なんとも情けなくて自嘲的な笑みが浮かんでしまう。
「先日の酒場でのこともそうです。私は昔から、権力やお金にものをいわせて勝手気ままに振舞うんです」
アルセイン皇子はただ口を閉ざして、私を見つめていた。
あの時は、あなたの素晴らしい話術の上で踊らされてついつい話してしまった……。
そう、言い訳ができたけれど、今回はそうもいかないわね。
彼の冷たい視線に耐えられなくなり、私はそっと背を向けた。
「あなたには悪いと思ってます。ですがこの結婚は私の父が望んでいることですから、あなたにどれだけ拒まれても離婚することはできません。不満なら私を部屋に閉じ込めてくださっても構いませんし、側室を迎えてくれれば……」
「全く、どうしてそんなにも自分を蔑むのか」
「……はい?」
てっきり罵倒でもされるのかと思っていたのに意外な言葉が飛んできて、驚きのあまり急いで振り返る。
「姫!」
その瞬間、アルセイン皇子が鋭く声を張り上げた。
視界いっぱいに、黒い影が迫る。
「きゃあっ! ……ローブ?」
慌てて受け止めたそれに視線を落とす。
そこにあったのは、手の中にあったのは黒色のローブだった。
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「なぜです?」
そう問いかける私に、アルセイン皇子は穏やかな表情のまま答えた。
「昔からお気に入りの店なんだ。特に、このチョコレートクッキーが美味しい。ほら、食べてみろ」
「あ、はい。ありがとうございま……じゃ、なくて! どうして私をここへ連れてきたのかと聞いているのです!」
思わず伸ばした手を慌てて引っ込め、鋭く皇子を睨みつける。
「急にこれが食べたくなったから」
皮肉なまでに爽やかな笑みを浮かべ、そう返したアルセイン皇子。
全然理由になってないんだけど?
一体、どうして私をこんなところに連れてきたりしたのよ。
まあ、流されてついて来ちゃう私も私だけど……。
「ところで、あの抜け穴からはいつも抜け出していたのか?」
「いえ……あなたと会ったあの夜一度きりです」
「それはよかった。夜遅くにレディー一人で出歩くのは危険だ。もし、また外へ行きたいときは今日のように俺も同行しよう」
アルセイン皇子はそう言うと、お気に入りだというチョコレートクッキーを満足げに口へ含んだ。
彼の言っている意味が、私にはまったく理解できなかった。
一体、何を考えているの。私が何か問題ごとを起こさないように監視したいからそんなことを言うの? ううん。ただ監視がしたいだけなら従者を使ったらいいじゃない。
それどころか、わざわざ手間をかけなくとも、あなたが一言「二度と勝手なことをするな」と言うだけで、私は逆らうことができないのに。
「……さっきの」
手元のグラスに視線を落としていたアルセインの水色の瞳が私を捉える。
「私に、どうして自分を蔑むような言い方をするのかと聞きましたよね。どうして、そのようなことを仰ったのですか」
「俺の質問にまだ答えてもらっていないのだが……まあ、いいか。俺には君に流れている噂とやらが、どうも信じられないんだ」
「あなたと顔を合わせたのは、これで二回目のはずです」
私の何を知ってそんなふうに語っているのか。
勝手に印象付けられて知ったかぶり、さも私の全てを知っているかのように語られるのは、もううんざりなのよ。
「カルロッタ嬢がせっかく教えてくれたのに、あなたはひどい人ですね」
「……聞いていたのか」
「別に、盗み聞きをしようとしたわけではありません。偶然聞こえただけです」
「そうか。では、カルロッタ・セリフィアの言ってたことは事実なのか?」
事実かどうか、そんなものは関係ない。
私がどれだけ否定しようと、誰一人として私の言葉を信じる者はいないということを、私はとうの昔に思い知らされている。
『ルクレティア姫が、私を突き飛ばしたのです……!』
『ち、違います! 私は、本当に何も……!』
あの日の悲鳴にも似た自分の声が、不意に脳裏へよみがえる。
何度否定しても、信じてもらえなかった。
弁解すればするほど疑われ、沈黙すれば認めたことにされる。
私がどれだけ否定しようと、誰一人として私の言葉を信じる者はいないということは、とうの昔に学んでいるから。
だけど……。
「……いいえ、私は何もやっていません」
バカなことを言っていると、自分でも思う。
いつもみたいにはぐらかして、言い訳をして、適当に謝っておけばいいものを。
「どうしてこんな噂が流れてしまっているのか、分からないんです。けして信じられないことだとは分かっています。だけど、本当に、私は何も……」
すべて私が悪いのだと。すべて私の責任であり、今後二度とこのような真似はしないと。涙を流して縋り、謝るべきだったのに。
私はどうしてこんなことを口にしているのだろうか。
彼の顔を見るのが途端に怖くなり、慌てて視線を落とし、下唇を噛む。
そして、急いで謝罪の言葉を口にしようとしたそのときだった。
「分かった。ならば、すぐにバカげた噂を流した者を探そう」
彼の声は、真剣だった。
当たり前のようにそう言われて、私は思わず乾いた笑いをこぼす。
「……まさか、私の話を信じるとでもいうのですか?」
「信じてくれというのなら、信じるしかないだろう」
信じる。私のことを信じると、そう言ったのだろうか。
まるで世界から音が消えてしまったかのように、彼の言葉だけが何度も頭の中で反響する。
どれほど信じてくれと縋っても、誰一人私を信じてくれる人はいなかった。
普段、私の味方だと言ってきた側近の者たちだって、誰も私を信じてはくれなかった。
どれほど私が無実だと言おうとも、それを信じる者は誰もいなかったのに。
だから私は、自分を蔑むことで自分を守り続けてきた。
誰かに言われる前に、自分で言っていた方が楽だから。
見放されるよりは、見下されるほうがマシだと思ったから。
これはすべて今に始まったことではないと、そう言い聞かせてきた。
私のことを信じてくれる者などどこにも居ないのだと……。
「俺はこの目で見たものだけを信じる。くだらない噂話を信じるほど、俺は間抜けではない」
アルセイン皇子の淡い水色の瞳が、私のことをまっすぐに見据えている。
今も、あの夜も。
血の繋がった家族ですら、私を視界に入れてはくれなかった。
こんなふうに誰かに見つめられたのは、いつぶりだろうか。……いや、もしかしたら生まれて初めてのことかもしれない。
「なぜ泣くんだ」
「だって……だって、あなたが……」
情けなく涙を流す私の姿を見たアルセイン皇子の瞳が大きく見開かれる。
ワケが分からない。
今までに感じたことのない暖かさを感じたかと思えば、突然心臓を握られたかのように胸が苦しくなり、涙があふれ出した。
泣いてはいけない。こんなにも情けない姿を見せてはいけない。
そう何度もくり返し心の中で唱えようとも、勝手に流れ落ちてくる涙は止まることを知らない。
私は必死になって目元を袖で拭う。
「俺のせいで泣いているのか」
その言葉と同時に、アルセイン皇子の手がそっと私の頬に触れた。
恥ずかしさと戸惑いで、どうにかなってしまいそうだった。
「わ、私はテレジアンの姫です。最低最悪な悪女です。私に優しくしたところで、あなたに何の利益もありません……」
「俺が迎えた妻はお飾りの姫じゃない。ルクレティア、君だろう」
「……どうして」
「姫?」
誰にも望まれず、誰からも必要とされなかった。
お飾りの姫として、ただ在るだけの存在だった私に……どうしてそんなに優しい言葉をかけてくれるの。
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