4 人のクセ
戦地から戻った夫を迎えるのは妻の務め。
形式だけの夫婦であろうとも、それは変わらない。
「初めまして、俺の可愛らしい妃」
「……は、はじめまして……アルセイン皇子殿下」
軽やかな声音と、誰もが魅了される微笑み。けれどその瞳だけは――あの夜と同じ、どこか悪戯好きな光を宿していた。
やっぱり、あの夜のことは現実だったのね……。
言葉にならない戸惑いと羞恥が胸を満たし、私は思わず視線を逸らす。
エメラルド庭園にあった抜け穴から抜け出し、街まで遊びに出かけたあの夜から、三日が経った今日。ヴァレンツィア帝国の皇子であり、私の夫、アルセイン皇子殿下が帰還したのだった。
そして今日、私は皇子妃として、夫を迎える妻として、凱旋式に参加していたわけだが……。
「遥々テレジアン王国より来て頂いたのに、長きに渡って一人にしてしまってすまない」
「いえ、お気になさらないでください。私はちっとも気にしていませんから」
「さすがはテレジアンの姫君。お優しいのだな。けれど、正直に言ってくれて構わない。あんなにも君を怒らせてしまったのだから……反省しているよ」
「アハハッ、何のことですか?」
余計なことを言うな、と周囲にバレないようヘラヘラと笑う皇子を睨む。
「良ければこの後、庭園を散歩しながらゆっくり話を――」
「アルセイン! やっと帰ってこれたのね!」
明るい声がアルセイン皇子の声を遮るように響き、次の瞬間には皇子の腕がぐいっと引かれた。振り向いた彼の視線の先には、愛らしく、華やかな少女の姿があった。
「カルロッタ……? どうして君ががここにいるんだ」
「もう、ひどいわねっ! せっかく出迎えに来てあげたっていうのに」
ムスッと愛らしく頬を膨らませたのは、セリフィア侯爵家のカルロッタ・セリフィア嬢。
ウェストのラインが強調された淡いエメラルドカラーのドレスに映える、美しい銀色の髪が揺れる。腰まで伸びたウェーブがかった髪に、パッチリとした目元で輝く紫色の瞳がアメジストのようにキラキラと輝いている。
相変わらず、綺麗な子だ。そんな美しい顔には似合わない怖い顔をチラリと私に向けた彼女。そして、すぐに困ったように眉を下げて笑顔を向けてきた。
あっちに行ってろってこと? はいはい、感動の再会を邪魔してごめんなさいね。
他の令嬢たちに比べれると比較的に敵意を向けてくることのない令嬢。だから、あんなにも悪意を持った一面を見せるとは思わなかった。
まあ、ハッキリと言って私はカルロッタ嬢のことが大嫌いなのだが。
ただし、何をどう嫌っているのかと聞かれるとうまく答えることができない。何か特別な嫌がらせを受けたとか、明確な理由があるわけではない。ただ、彼女とは人間的に合わないのだ。
カルロッタ嬢はいつだって大切に育てられた者しか放つことのできない多幸感を、これでもかというほどに飛ばしている。
暗い影を纏った私には、彼女という存在は眩しくって仕方がない。
「ねえ、アルセイン。あとで少し話せないかしら?」
「話があるなら、今ここで話せばいいだろ」
「もう、それができないから言ってるんでしょ? 昔よく遊んだ、あの場所で――……」
誰も二人の間に割って入ることができない特別な雰囲気。よっぽど親しい関係なのだろうか。もしかして、恋仲とか?
まあ、そんなの私にはどうだっていいことだけど。
アルセイン皇子と、カルロッタ嬢。目の前で親しげに会話をする二人。
……今の私は周囲の人間から見て、随分とマヌケに映っていることでしょうね。
二人の姿を皆が微笑ましそうに見守っている。私がヴァレンツィアに来る前から、当たり前の光景だったのだろう。異色なのが私の方なのであって。
皇子に先日のことを追及されるかもしれないと緊張でバクバクと胸を鳴らしていた自分がバカみたい。
結局、私の居場所などどこにもないというのに。
「おや、皇子妃? どこへ行かれるのですか?」
話に夢中になった二人から離れるため、お得意の気配消しを発動させてそっと会場から出ようとした。すると、扉で鉢合わせたロザリア公爵が声をかけてきた。
「ごきげんよう、ロゼリア公爵。実は、少し体調が優れないので先に部屋に戻ろうと思いまして」
「さ、さようですか……」
明らかに動揺した様子で、冷や汗を浮かべるロザリア公爵。彼の手が、無意識に髭に触れる。
物心を着く前から人の顔色を伺って生きていたせいだろうか? 人のクセに人一倍敏感になった私には、人のクセというものを簡単に見つけることができた。
ロザリア公爵のクセは、人を疑う時や何かを企むときに自身の髭を触ること。
どうせ、私が大切な凱旋式で問題を起こさないか心配なんでしょ? 傲慢で我儘なテレジアンの姫を一人にすることも。
私は問題ごとを起こして目立つ気なんてサラサラないから、放っておいてくれて構わないわ。
いつも私を前にした時にでるそのクセ、分かりやすくって本当にありがたいです。
「大丈夫です、まっすぐ部屋に帰りますから。式ももう終わりましたし、異国から来た姫の私が抜けても、誰も気にされないでしょう? ……なんて、自分で言うと少し悲しいですね。エヘヘッ」
そして、困ったときに笑顔で誤魔化そうとするのは、情けない私のクセだ。
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「ふう……」
溜息が、吐く息と一緒にこぼれた。
私が部屋に戻っていないことが知られたら、また何か言われてしまうだろうか。公爵を騙して、何かを企み、悪事を働こうとしていると。
まあ、別にいいか。今更何を言われようとも、もうどうだっていい。
私のことを信じてくれる人なんて誰もいないのだから。
この結婚でお父様が私のことを少しでも認めてくれていたら、それだけで私は……。
「だーかーら! とんでもないのよ、あなたの妃は!」
よりにもよって、一番聞きたくない人の声が耳に届いた。
ここは皇宮の中でも、私の一番のお気に入りの場所であるエメラルド庭園。静かで、誰にも邪魔されない私の避難所のようなものだった。
皆が凱旋式の余韻に浸っている今なら誰も来ないはずだと思ったのに、よりにもよって……。
「カルロッタ、大切な話だというから何事かと思えば……」
「大切に決まってるじゃない! あなたの妻、つまりこの国の皇子妃がテレジアの姫になっちゃったのよ? 既に皆、彼女から虐められたと言ってるわ」
「一体誰が?」
「誰がって……そりゃあ、皆よ! いい? アルセイン。私はあなたのことが心配なの。テレジアンの姫は妖精みたいな愛くるしさの容姿をしているから、あなたが騙されてしまうんじゃないかって。でもね、テレジアンの姫がどれだけ極悪非道な人間か。これは皆が知ってる周知の事実よ。現に私の友人の――」
必死に耳を押さえる両手のおかげで、それ以上の会話は耳に届くことはなかった。
すぐにその場を去ってしまえばいいものの、一体どんな感情からなのか、足がすくんでその場から動けない。
私はただ、植え込みの陰に身を潜め、しゃがみこんで、耳を押さえて、惨めに震えることしかできなかった。
私は、ルクレティア・フォン・テレジアン。
テレジアン王国の姫。悪名高い、最低最悪の悪女……。
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こんなにも時間が経っていれば、私が部屋に戻ってないことにみんな気づき始めたはず。
戻ったとき、どんな顔をして迎えられるのだろう。無言の非難か、好奇の視線か、それとも質問攻めか。
はあ……なんだか疲れたわね。知らない国で、知らない人たちに囲まれて。
いくら皇子妃だとは言っても、所詮は愛のない結婚で結ばれた政略結婚。
この国の人々から見れば、私は「問題あり」の異国の姫。
みんなが私を嫌うのは必然的なこと。恨むつもりも、とがめるつもりもない。
何を言っても、私を信じてくれる者など誰一人としていないのだから。
「君は追いかけっこが好きなのか? それともこれは、テレジアンの伝統的な挨拶か?」
「そっ、そんなわけないでしょ! ついてこないでください!」
それなのに、一体どうしてこんなことになったのだろうか……。
カルロッタ嬢とアルセイン皇子が庭園を去ったのを確認してから、私はそっとエメラルド庭園を後にした。
ひと目を避けて、急いで部屋に戻るつもりだった。
しかし不運にも廊下を折れた先でアルセイン皇子と鉢合わせてしまったのだった。
今宵の主役である皇子がどうしてこんなところにいるのか。そう疑問が浮かぶ前に、この足は彼から逃げ出していた。
頭のおかしい女が走り去っていった、ほんの少しの制止の言葉をかけた、それだけで済む話なのに。
それなのに彼は私を追いかけた。
それも、二十分以上も……。
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